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「ソ連が満洲に侵攻した夏」(半藤 一利 著)読了 [読書]

日本軍首脳の無能無策ぶりと米英ソの戦後を見通した国際政治の冷酷さを苛烈なまでに描いていて戦慄を覚えるほどである。

戦争を終わらせたのは、原爆投下とソ連の侵攻だと言われる。

本書は、その原爆の実験が成功した場面から始まる。実験成功の報は、ロスアラモス研究所に張り巡らされたスパイ網によって、即日、スターリンに伝えられた。ポツダムに向かう豪華列車の車中にあったスターリンは、到着すると、すぐに満州国境にあった極東総司令部に電話して日本への攻撃開始予定を10日間繰り上げることを厳命する。

もちろん日本は、そんなことは一切知らなかった。その半年ほど前のヤルタ会談での米英ソ首脳による密約すらも知らなかった。知らないどころか、ソ連に対英米和平の仲介を懇請し続ける。中立協定延長を拒絶されてもなおソ連を頼り続ける。

そればかりではない。満州防衛は、どんどんと弱体化しほとんどがら空きになる。南方や本土へ関東軍への戦力を移転せざるを得ないからだ。守備の空白は、現地徴集で埋められる。経験のない中年男子が主体で装備も貧弱。開拓民は成年男子がいなくなり、老人や婦女子がソ連国境近くに何の情報もないままにそのまま取り残される。

参謀本部や現地軍幹部も、中立協定をやみくもに信じていたわけではない。事実、細菌部隊の731部隊はいち早く解散退去となり、施設も破壊される。「丸太も焼却せよ」との指示もあったという。「丸太」とはいったい何を指すのだろう?

戦前は仮想敵国と見なし、最大の脅威と見なしていたのに、南進策、英米開戦と南方戦線がエスカレートするうちに、対ソ前線にはひたすら静謐静穏を厳命した。そうしていればソ連が協定を遵守するだろうという楽観から、やがては願望となり、無策と不作為の原因となる。

その満州に、無理やり欧州から移送され猛り狂ったソ連軍兵士が国境を越えて殺到する。その惨状はこれまでも少なからず伝え語られてきた。本書は、その悲劇を引き起こした政府首脳や軍幹部の混乱を詳述する。

停戦命令の発出が混乱し伝達が遅滞したことは無理からぬところがある。しかし、その間、わずかに準備が整った後方への運搬手段は、ほとんどが軍と軍属、満鉄職員とその家族に優先して充てられたという事実は、棄民ともいうべき権力の犯罪と批難されても仕方がない。

多くの日本人は、今でも終戦は8月15日だと思い込んでいる。しかし、現実は違う。

日露戦争の復讐だと民意を煽り、戦後の占領区域確保に貪欲なスターリンは、8月15日を迎えても全軍にあくまでも前進すること命じた。停戦を申し入れてもポツダム宣言にはソ連は名を連ねていないとうそぶいた。宣戦布告には日本のポツダム宣言受諾拒絶が理由だとしていたではないかと反論しても取り合わなかった。

慌てた政府は、連合軍司令部に懇請したが、ソ連軍は管轄外として相手にされない。トルーマンは、スターリンの歓心を買うために千島列島を奪取することを黙認し続けた。スターリンは北海道分割を提案するが、さすがにトルーマンはやんわりと拒否した。停戦のすべもないままに前線に取り残された兵たちは文字通りの死闘を続けた。結局、ソ連の侵攻は8月末まで止むことはなかった。

米英は、復讐心を煽りナチの台頭を招いた第一次大戦後の領地拡大と戦争賠償への反省から、その放棄に早くから合意していたが、スターリンは承服していなかった。満州の工場施設や資材を根こそぎ簒奪したことだけでは飽き足らず、捕虜をシベリアに連れて行き酷使したことは欧州戦線と同じだった。

当時の日本の指導者がこれほどに暗愚だったのかと悄然とする。しかも、どこまで事態が悪化しても、その現実を直視できず、既成の施策を止められもせず転換もできない体質には、どうにも既視感を覚えてくる。

これらの経緯を詳しく知ると、北方四島の返還など何ら現実味がないと思えてくる。ロシアという国は、帝政から社会主義革命を経て、さらには民主化されたはずだが、その帝国主義的体質と思考は一貫している。四島返還交渉とやらは、かつての日本がスターリンから見くびられ弄ばれたことの繰り返しに過ぎないのではないか。


ソ連が満州に侵攻した夏_1.jpg

ソ連が満洲に侵攻した夏
半藤 一利 著
文藝春秋社
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