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ボクの先生は被爆者だった [雑感]

小学校の担任の先生は広島の出身でした。

あの日、爆心地からほど近いところで被爆しました。

女学生だった先生は、学徒勤労動員で工場にいたのです。工場の屋根はつぶれ、そのがれきの下からようやく這い出したのだそうです。そこから自宅をめざす市中で見た光景はまさに地獄絵でした。先生が語り出すと教室は水を打ったようにしんとしました。

後年になって知った丸木夫妻による原爆絵図が先生の話とまったく同じだったことに驚きました。先生が、そのことを教室で語ったころは、まだ、被爆者が自らの体験を語るようなことはほとんどなかったのです

PTAの懇談で自分が被爆者であることを知った母たちが、子供達の前でその被爆体験を語って欲しいともちかけたのがきっかけだったと聞いています。先生は、原爆投下の日のことばかりではなく、直後数日間の市内の様子や終戦直後の混乱のことも折に触れて語ってくれました。がれき野原を市電が走っていて、それが不可解な空虚感でもあり、同時に生きている実感のようでもあり、不思議な光景だったという話しも印象的でした。

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丸木夫妻が埼玉で美術館を作ったというので、母といっしょに見に行ったのは中学生の時。小説「黒い雨」を読んだのは高校生になってからでしたから、それらは私にとっては、先生の語った光景の追体験ということに過ぎません。小説は、被爆の直接体験というよりは、原爆症やヒバクシャへの差別ということがテーマだと言うべきでしょうか。

先生は、乳がんを発症して手術を受けます。

その間、私たちのクラスは他の先生にたらい回しにされ、そのことをうっかり忘れた先生によってほったらかしにされ校内で物議を醸しました。先生は、そのことを聞いて病院のベッドで号泣したそうです。

先生夫妻はともに広島出身で東京の大学で知り合ったのですが、子供ができませんでした。定年になって広島へと戻りましたが、先生はまもなく亡くなりました。

毎年の年賀状交換が続いていましたが、突然のように先生のご主人からの訃報となって戻ってきた時には、あまりに突然のことで言葉を失いました。その暗然たる心に黒いものが拡がったことは確かです。
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