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駒場から大橋 [自転車散策・紀行]

さて、猛暑の中の東京散策の続きです。

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代々木八幡から富ヶ谷交差点を経てさらに行くと、「東大裏」のY字路に行き当たります。

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かつては、それなりにちゃんとした裏門があったはずですが見当たりません。東北沢方面に少しだけ行くとグラウンドの裏に通用門のようなものがありましたが、時節柄、クローズされています。駒場は本郷と違って何も厳めしいものはなくて、子供の頃は、大学のキャンパスはあちこちに出入り口があって、自由に通り抜けができました。もはやそうはなっていないようです。

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もう少し行くと、旧前田侯爵邸があります。

ここは旧加賀藩主の前田家のお屋敷でした。もともと加賀藩の屋敷があったわけではなく、東大の農学部と交換するかたちで移転してきたのです。つまり、今の本郷(文京区弥生)にある東大農学部が前田家のお屋敷だったというわけです。

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洋館は、一時、東京都近代文学館となっていましたが、この公園の一角に新しい建物が出来て、洋館は本来の旧前田邸となりました。その裏手には和館もあり、今ではこちらも公開されています。

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洋館の方は、2013年に重要文化財に指定され、この建物だけは都が管理しています。

公園全体は駒場公園と称して目黒区の管理になっています。残念なことに、そのためなのか公園内は草ぼうぼうで管理がよくありません。文化価値の高い建物にふさわしい管理にしてほしいと思います。

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ここから、高級住宅街を通り抜けて井の頭線・駒場東大前駅に抜ける途中には、日本民藝館があります。

かつては、民芸運動にふさわしい小さな古民家風の建物だったという記憶がありますが、今、見てみるとその場所とは通りをはさんだ反対側に大きな鉄筋コンクリートの建物が増設されていました。

今回は中には入りませんでしたが、民藝館創設者の柳宋悦は棟方志功の支援者としても知られ棟方の逸品が多く所蔵され、また、柳は早くから朝鮮半島の美術工芸の価値を称揚していてその所蔵も豊富多岐にわたります。

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東大のグラウンドに隣接する駒場小学校も健在で、こじんまりとした印象になりましたが昔の面影を色濃く残しています。私はここの卒業ではないのですが、中学校は同じ学区でしたので遊び仲間の半分はこの小学校から巣立ったのです。

駒場東大前駅は、私が高校生の時、1965年(昭和40年)に東大前駅と駒場駅が統合されてひとつの駅になりました。それまでは、駅間距離が日本最短だとか言われていて面白がられていました。

その西口は、駒場駅だった側になります。ここは、東大とは線路を隔てて教育大の農学部があった場所です。日本の農学発祥となった駒場農学校は、前述のように東大農学部として本郷に移転しましたが、一部が残って東京教育大学に引き継がれたのです。

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(写真は昔のもので、あるブログから無断拝借しています)

今は見る影もありませんが、線路端には、かつて、稲作実習用の田んぼが拡がっていて、実際に稲作が行われていました。すぐ近くにある教育大付属駒場中・高校(現・筑波大付属)は、受験エリート校として有名ですが、実は農学校付属の学校でした。生徒たちは、この「ケルネル田んぼ」で毎年6月に田植え、10月に稲刈りをするのが習わしだったのだとか。「ケルネル」というのは、明治のお雇い外国人のオスカル・ケルネルのことで、帝大で教鞭を執り日本の農芸化学の礎を築いたひとです。

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淡島通りを越えて都立駒場高校の横を大橋に向かうと、警視庁第三機動隊があります。ここは陸軍輜重連隊跡地で、特に春先には土埃がひどく「ほこり」と「誇り」をかけて「ほこりの三機」と今も自称しています。機動隊は白バイの交通機動隊も併設していたので、子供の頃はメグロの大型バイクを触りによく遊びに行きました。

同じく連隊跡地にあるのが都立駒場高校です。もともとは麻布にあった府立第三高女で、浅草の第一(白鴎)、小石川の第二(竹早)と並ぶ高等女子教育の御三家でした。それだけに卒業生には、桐島洋子や大宅映子、岸朝子、加藤登紀子などそうそうたる女丈夫たちが居並びます。吉永小百合も途中転校になりましたが在学生のひとり。

私の通った中学校は隣接していて、高校の屋上から女子高生たちが「お兄ちゃん、カワイイねぇ。遊ばない?キャハハハ」などとよくからかわれることがあって、駒高生のコワイお姐さんに恐怖していました。

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連隊跡地を継承しただけに、大橋側には陸上トラックとテニスコートを備えた立派なグラウンドがあります。それを見下ろす高台の一角には天覧台の石碑が建っています。明治25年(1892年)の明治天皇がここにあった陸軍騎兵学校の卒業馬術を天覧して以来、明治・大正天皇が来臨、たびたびお立ちになった場所です。

実は、私の子供の頃は、こんなに立派なものではなく、ただの石板のようなものでした。終戦時に碑文を抹消して放置していたのを、近年になって復元したとのことです。子供の頃、母からは「あれは、何か"お天ちゃん"が来て見物したとかの場所らしいわよ」と聞かされてはいたような気がしますが、そんなものとは知らず、ちょうど今頃の季節には夜な夜なここに悪ガキが集まって花火遊びをしていました。

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山手通りと玉川通りのT字交差点に面してある氷川神社は今もそのままに健在です。この階段下の交番前の横断歩道を渡って、毎日、小学校に通っていました。

私は、小学校、中学校も地元の公立で、そして、あわよくば高校もというところでしたが、いずれにせよ、ずっとこの一帯を駆け回っていました。昔の面影をところどころに見つけて懐かしい気持ちになりました。
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