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「疫病の精神史」(竹下節子著)読了 [読書]

ユダヤ教が、食前に手を洗う掟や食物のタブーなど衛生観念を厳格な教条として守っていた。その教条主義と偽善を、イエスは、厳しく批判した。イエスは、むしろ、不浄や穢れに触れることを厭わず、病人の身体に直接手を触れ按手することで治癒の奇跡を行ったという。外形的なものを偽善として、清めるべきは内的なものだと説いた。穢れや死の病に対する奇跡の治癒は、隣人への愛という考えを生む。

ローカルな習俗的宗教には、戒律、食のタブー、隔離や棄民など共同体の感染症対策の疎外的な本質が秘められている。キリスト教がそれらに敢然と否を唱えたことこそが、民族宗教だったユダヤ教から脱して支配者ローマや周辺蛮族にも受け入れられ世界宗教となった源泉だという指摘はなるほどと思う。

確かに著者が指摘するように、歴史的にカトリック教会は病者の治癒にことのほか熱心に取り組んできた。思えば日本における布教も、戦乱に明け暮れる戦国時代後期、飢餓や疾病に苦しむ貧者のあいだから広まっていく。病院や孤児院の設立や医学知識の伝承こそが布教の広がりを支えていったという歴史がある。

ところが、本書の啓蒙的な本質はここまで。

中世以降は、むしろ不浄と不衛生を貫いた聖者たちの度を超した清貧の奇矯ぶりや秘跡の事例をえんえんと列挙する。これらは科学的、防疫的な常識や理念に真っ向から反するわけでどうにも文脈が錯綜し矛盾していて文意が読み取りにくい。しかも、えんえんと続くヨーロッパ宗教史の衒学的な執拗さに辟易させられる。

中世には、黒死病(ペスト)やレプラ(ハンセン病)が蔓延した。こうした病に何の知識もない庶民はおののき、呪術や迷信にとりすがったに違いない。けれどもキリスト教会はそれなりの医学知識を持ち医療施設やハンセン病の施療院もあったという。それと聖者たちの奇跡は、どうにも矛盾していて著者の意図が取りにくい。

近代になって牛痘やパスツールの免疫療法、あるいは低温殺菌法が生み出され、医学は大きく進歩したが、それらがキリスト教の思想に結びついているという主張は、論理として無理がある。こういう強引で脈絡のない話しを連発されると、どんどんと読み飽きてくる。

著者のこれまでのネタを総動員して拙速で組み替えたという観が否めず、新型コロナ感染の現状に乗じた便乗本と言われても仕方がないのではないか。


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疫病の精神史 ――ユダヤ・キリスト教の穢れと救い
竹下節子 著
ちくま新書

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