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『生命の谺 川端康成と「特攻」』(多胡吉郎 著)読了 [読書]

「美しい日本の私」の川端康成と「特攻」というのは容易には結びつかない。

川端が、戦争末期、沖縄戦の最中に鹿児島県鹿屋の特攻出撃基地を訪れていた。同じく海軍報道班員として同道した山岡荘八が、戦後、ここでのことを能弁に語り、記念碑に揮毫までしているのとは対照的に、川端は黙して語らなかった。ノーベル賞作家の戦中の戦争協力は、触れたくない触れられたくない過去として、川端文学を論ずる文脈のうえでは無視されてきたというのが現実だった。

著者は、元NHKのプロデューサー。これまでも漱石の足跡をたどるルポ的な著書を出している。本書も同じスタイルなのだろうが、ドキュメンタリーとしては弱い。もちろん本格的な文学論ではない。川端の著作と「特攻」体験を結びつける論理もかなり強引なところがある。そのことは著者も半ば承知のうえでのこと。それでも川端文学への思い入れは強く、秀逸な文学エッセイになっている。

川端が「特攻」を書かなかったわけではない。けれども、こうした小品は他の傑作の陰に隠れてあまり表には出てこなかった。「特攻」は、反戦平和であっても国粋主義であっても強烈に政治的硝煙が立ちこめ、川端文学の透徹した感性や美意識はかき消されてしまう。しかし、川端が特攻基地で見た情景は、川端の死生観に深く暗く重い影を落とし、深い地下水脈となってそのいくつもの作品に痕跡を残しているという。その生命(いのち)の谺(こだま)は、即ち「美しい日本の私」へと昇華されていく。

『敗戦のころ』(1955)で描かれた特攻隊員の面影は、その原点となっている。

――私は特攻隊員を忘れることが出来ない。あなたはこんなところへ来てはいけないという隊員も、早く帰った方がいいという隊員もあった。出撃の直前まで武者小路氏を読んでいたり、出撃の直前に安倍先生(能成氏、当時一高校長。)によろしくとことづけたりする隊員もあった。――

ここから著者は、ひとつひとつ解明していく。早く帰れと言ったのは誰だったのか。武者小路の著書とは、死に方を諭す哲学書のことだったのか。安倍一高校長によろしくと言った東大出身の隊員とは誰か。そのメッセージにこめられた本意は何だったのか。

隊員たちは、決して「神風」による救国を信じていたわけではない。

「学鷲(予備学生出身の搭乗員)は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…」(山岡荘八「最後の従軍」)

「…すしを喰った。あと三時間か四時間で死ぬとは思えぬ。皆元気なり。――」(搭乗員の遺書)

川端らが到着した当日、隊員のひとりからいきなり封筒を渡される。処理を託された封筒を開けてみると現金が入っていた。渡した隊員はそのまま隊列に戻り出撃していってしまう。その24歳の少尉は「…明日どうもこの体が木っ端微塵になるとは思われない」との遺書も遺している。地下壕の通信所でその最後の信号が途絶えるまで身じろぎもしなかった川端は、その後でその遺書を開いたらしい。

死の淵にいる特攻隊員たちとともに日々を重ねるなかで、いつしか川端自身も闇に迷い込み憔悴していく。予定を早めて逃げ帰るように帰還するが、その帰路の川端は顔面蒼白で歩くのもやっとだったという。5月の鹿屋の美しい自然は、そういう死の淵で燃え尽きる生命として川端の心象に焼き付いた。同時に川端自身ももはや自分が明日も生きているとは思えなかったのだという。

こうした川端の「特攻」体験の痕跡や影を、著者は執拗に戦後の川端文学からあぶり出していく。それは根拠に乏しく、いささか牽強付会とさえ思うのだけど、読み進めるうちにどんどんと引き込まれてしまう。確かに、川端文学のエロスは異様で、底知れぬ虚無があって、どこか冷静さと合理性を欠いている。その謎めいた生の深淵には「特攻」があるに違いないと思えてくる。

本書は、当然のように三島由紀夫にも触れている。いわゆる三島事件の翌年、川端も自死する。そのあっけない死から今年はちょうど50年にあたる。

ノーベル賞受賞の知らせに、三島はさっそく祝福に川端邸を訪れる。そのまま庭先での鼎談となって収録され流れた白黒のTV画像は、今でも私の目に焼き付いている。妙に熱く語る三島に対して、川端は目をぎょろぎょろさせるだけで不機嫌そうだった。川端が受賞したことで、もはや三島は自分に順番が回ることはないと嘆いたという裏話がまことしやかに流れていた。

しかし、それ以前からふたりの間には埋めがたい深い溝が生まれていたという。その亀裂をもたらしたものは、ほかでもない「特攻」だった。国粋主義的な論理にどんどんとのめり込んでいく三島が、特攻隊の基地に暮らしていてどんなお気持ちでしたかと川端に尋ねると、「――楽しかったですよ、食事がおいしくって。――」とぶっきらぼうに答えたという。

川端が寡黙で、しばしば周辺を戸惑わせたというのはよく知られている。晩年、しばしば赤く染まる落日を「なんて美しい」とつぶやいたままあたりが暗くなるまでずっと動こうとせず取り付く島もないということがしばしばあったという。鹿屋の基地でも、そういう夕焼けを見たに違いない。逗子の仕事部屋のマンションでガス自殺した日の夕刻、とりわけ夕焼けが美しかったという。

川端文学と「特攻」というまったく新しい切り口は、すこぶる斬新ではあるが、同時に心を揺すぶるものがある。川端の未亡人の手には鹿屋基地訪問時のメモが遺されていて、乱筆でいまだ誰も解読しようとしたことがないという。本書は、軍国主義とは無縁だったはずの川端文学の謎を解き明かしていくきっかけになるだろう。深い感慨とともに、そういう確かな予感を持つ。





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生命の谺(いのちのこだま) 川端康成と「特攻」
多胡吉郎 著
現代書館

タグ:川端康成
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