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感情の泉 (田部京子 ピアノリサイタル) [コンサート]

田部京子さんの「シューベルトプラス」は、「シューマンプラス」を引き継いで2016年に始まっていますので足かけ6年ということになります。年末に予定されている10回目の節目で最終回ということだそうです。

田部さんは、若い頃にすでにシューベルト弾きとしての名声を得ていて、個人的にもそのシューベルトは大好きです。その美点は、なんといっても、わかりやすいこと。シューベルトの弾き手には、ともすればシューベルトをことさらに深遠に気難しく弾きがちなひとが少なくない。田部さんにはそういうところがない。「易しい」は「優しい」に通じます。自由で形式にとらわれず感情が浮遊するように移ろいゆく。そこには、シューベルト独特の哀切がただようのですが、田部さんのピアノはメロディが美しくとても柔らかい。

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この日は、そういうシューベルトの作品のなかでも「即興曲」と同じか、それ以上に好きなD946。かつてのピアノの大家たちは、30分近い大作のように立派に弾く。田部さんにかかると、それが一変して繊細で細やかなニュアンスに富んだ音楽になる。そういうことは、最初の1曲目、両手での三連符に導かれてfzの和音が鳴り響くところで、さっそくその違いが出る。大家たちの演奏はここで威儀をただすことを強いるが、田部さんだとまるで一陣の風が吹くよう。郊外の森で心軽やかに手を広げると、一陣の風が吹く。爽やかなようでいてかすかに不吉さを感じさせるその刹那に、自らの命の存在に気づく。そのわずかな余白に、かすかな哀切がある。

シューベルトのこの曲をプログラムの中央に置いて、ブラームスとシューマンをプラスさせて弾く。

共通するのは、内から湧き出てくる感情の泉。

その音楽は、指先から触発されて感情が心の内奥から揺り起こされてくる。気持ちのままにメロディが浮かび上がり、そのメロディが言葉のない歌となって感情が湧き出て、たゆたうように静かに漂っていく。その感情には、なお言い尽くせぬものがあって、時に地を踏み跳ねて踊り、あるいは長く曳いて詠嘆のような余白を残す。

そのことは最初のブラームスも同じ。田部さんのブラームスは優しい。共通するのは憧憬のような想い。言い尽くせないものは、直接に触れられない、会えない、どうにも達成できないもの…への焦がれ。それを「恋」といってもよいかもしれないのですが、老年のブラームスにとってはそれは過ぎたことかもしれない。だからその隔てられた憧憬は単に空間的な距離ということにとどまらず、時間的な距離もあるのだと想います。過去と現在を往来し、空間の隔たりを飛翔する。インシデントの音楽。

そして、そのことは後半のシューマンのピアノ・ソナタの演奏にも通じていきます。

シューマンの憧憬は、本来、もっと具体的で直接的。つまりは、父親によって断じられているクララへの想い。シューマンはもともと古典的形式が苦手で、感情の抑制がきかずに何でもファンタジーになってしまう。そのシューマンがソナタ形式と格闘していた頃の作品。気難しく時に感情を爆発させて崩壊しがちなシューマンが、なんとか外形枠に収めていこうとする抑制的エネルギーを効かせている。田部さんは、それをレヴァレッジにして、外的なシューマンではなくて内奥から湧噴する豊かな感情の音楽として聴かせてくれる。だからこそ、終楽章の情熱のロンドが、達成の成就として活きてくる。

このハッピーで劇的なフィナーレは、シューマンだけのものではなく、前半のブラームスとシューベルトのフィナーレ、プログラム全体の成就のようにも聞こえてきます。歴史的な事実は、シューマンのクララとの恋の成就はそれだけで納まらなかったわけで、それを知っている私たちには、そういうフィナーレは逆説的で多層的な余白をも残すのですが…。


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シューベルト・プラス 第9回
田部京子ピアノ・リサイタル
2022年6月26日(日) 14:00
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階 9列9番)

ブラームス:3つの間奏曲 Op.117
シューベルト:3つの小品 D.946

シューマン:ピアノ・ソナタ 第1番 Op.11 

(アンコール)
シューマンの「交響的練習曲」Op.13 変奏4(遺作)
シューマン:リスト編曲の「献呈」

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