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「愚者の階梯」(松井今朝子 著)読了 [読書]

松井今朝子の歌舞伎ミステリー最新作。

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歌舞伎といっても、時代は戦前の昭和。生活感覚も現代人に身近で共通する部分が多い。近現代の歴史小説とミステリー仕立てとが相互作用で、日常的なリアリティを互いに高めあっていて、先へ先へとよどみなく読み進むことができる。

舞台は、いよいよ日本が戦争へと突き進む昭和10年のこと。その年に、満州国皇帝が日本に招かれ大歓待を受け、歌舞伎座で奉迎式典が催される。同じ年、憲法学者の美濃部達吉の学説が、前年に起こった国体明徴運動の攻撃の的となり貴族院議員の座を追われる。いわゆる「天皇機関説事件」である。

歌舞伎座といえば、今でこそ伝統演劇「歌舞伎」の確固たる殿堂だけれど、実のところは松竹という関西から東京に進出してきた民間興行会社の所有。大方の歌舞伎役者もそこに属している。そこに至るまでには紆余曲折がある。焼失再建途上にあった歌舞伎座は、建物躯体が完成したところで関東大震災によって再び灰燼に帰する。復興した豪華な施設は東京の新名所となるが、明治座や新富座など他の劇場の経営を圧迫する。昭和6年にこれらが合併して松竹興行株式会社となる。

この時代は、第一次大戦後の好景気、震災、その復興景気も間もなく世界大恐慌に見舞われるという激しい経済変動のなかで経営の浮沈が大きかった。破産、首切り、減俸などが広がり、労働争議や小作争議が頻発し、共産主義などの左翼思想に染まった労働運動も活発で、ストライキも頻発する。

歌舞伎界も例外ではなく、劇場従業員も含めた人員淘汰と減俸で、幹部俳優も含めて、下々に至るまで不安と動揺を与えた。こうした動きと呼応するように、中村翫右衛門や、一時、松竹を飛び出した二代目・猿之助のように、旧態依然とした歌舞伎の因習に反発して、新しい演劇運動に身を投ずる俳優たちもいた。この頃に設立された前進座もそのひとつだった。

歌舞伎界や新演劇運動と密接な関係にあったのが映画界。映画俳優は、歌舞伎出身やその縁者たちであり、新演劇運動のかたわらに映画俳優に身を投じたものが多い。時代は、ちょうど無声映画からトーキー映画への変遷期で、廃業の憂き目にさらされたのが活動弁士だ。日本には浄瑠璃など話芸の伝統があったから、こうした活弁士たちも伝統演劇とは親密な縁があった。

こうした時代の歴史とフィクションを巧みに虚実取り混ぜながら、三人の連続不審死をめぐって疑惑の謎解きが進行する。

『天皇機関説の排撃で憲法の解釈が改められた今年、ひょっとしたら日本は踏み板から一段足を滑らせたようなものなのかもしれない。そしてさらに一段、また一段と階梯を転がり落ちて、奈落に沈んでしまう日もそう遠くはないのではないか…』

そう主人公は感慨にふける。「愚者の階梯」との標題は、そのことを指しているようだ。

ミステリー解決の後10年、その感慨が予言したかのように、日本は、誰が企図し、誰が命令したのか、実行者はその確信もないままに、一段、一段と足を滑らせていくように自滅戦争の奈落に落ちていった。

その壊滅について、犯人らしい犯人が見当たらない。誰も責任の自覚もないし、誰も自分が主犯だと思っていない。誰もがただただ悔悟改悛の念にかられるだけなのだ。


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「愚者の階梯」
松井今朝子 著
集英社
2022年9月10日 新刊

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