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「ボストン美術館 富田幸次郎の五〇年」(橘しづゑ 著)読了 [読書]

浮世絵をはじめとする日本美術のコレクションが充実していることでよく知られるボストン美術館。戦前、戦中、戦後の長きにわたっ、てそのアジア部の中枢を担ってきた富田幸次郎。日米関係の緊張が高まる中で買い求めた『吉備大臣入唐絵詞』が、国宝級の海外流出と反感を買い「国賊」とまで呼ばれた。その富田幸次郎の、渡米から戦後の復興までの50年の足跡をたどる。

著者は、長年、茶道と華道の研鑽を続けてきたが、50歳を過ぎて一念発起、東京女子大の門を叩き社会人学生となった。夫の赴任に伴い1年間、家族とともにボストンに在住。そこで目の当たりにしたボストン美術館の絢爛豪華な日本コレクションに驚き、学部の卒論で富田幸次郎を取り上げた。

著述はいたって実直。幸次郎の渡米のいきさつから、その当時、ボストン美術館中国・日本美術部に迎えられていた岡倉天心と出会い、以来、美術館の東洋美術の発展・充実に尽くし、日本美術を欧米に広く深く知らしめたその功績を、ほぼ経時的にたどっていく。

その実直な筆致がかえって、明治以来の日本美術の興隆を俯瞰してよどみがない。

東京遷都の後、抜け殻のようになった古都に廃仏毀釈が追い打ちをかける。明治初期の京都の荒廃ぶりはすさまじかったという。漆工芸職人の家系にあった富田は、欧米でジャポニズムがもてはやされ、そこに活路を見いだそうとする政府が公募した実業練習生として渡米する。後援したのが文部省ではなく農商務省だったということに、西洋文明導入と殖産振興に明け暮れていた当時の日本の姿が映し出される。

ボストンに滞在して次第に富田は、塗材・艶出しなどの技術習得に限界を覚え、工芸製造や商業貿易といったビジネスへの動機が薄れ、一方で「学問方の学者にあらざる学者」「大審美学者」になりたいとの希望に目覚める。まだキュレーターとか学芸員といった考え方がなかった時代のこと。

その伏線として、フェノロサやモースらの「お雇い」、岡倉天心など、日本の伝統美術の「再発見」に尽くした人々との連なりや、彼らとの出会いが鮮やかに描かれる。また、ウィリアム・スタージス・ビゲローやエドワード・ジャクソン・ホームズ、イザベラ・スチュワート・ガードナー夫人など芸術支援を通じて、当時のボストン社会の親日的で誇り高い富裕層の実相も見えてくる。

富田は、「源氏物語」の翻訳で有名なアーサー・ウェーリと司馬江漢の落款をめぐって論争している。司馬江漢は、鈴木春信門下として浮世絵から出発し西洋絵画・版画画家、科学者へと転身した人だが、春信の代作者としてその落款には真偽混同が多い。「源氏物語」翻訳者といえども外国人には漢字など文字の判読には限界があった。こういったところに「学問方にあらざる学者」としての立ち位置や役割、あるいは文献学者と、審美学者、美術蒐集・保存の実務者、それぞれの交流協同の重要性が見えてくる。

富田を「国賊」と非難したのは東京帝大教授の瀧精一だった。日米関係が悪化の一途をたどり軍国主義化する日本の国粋的な論調に大いに押されたこともあったが、瀧はもともと美術品の海外流出対策として「重美保存法」の成立に熱心だった。かえってこの事件でそれが立法制定され、美術品を一般の鑑賞も受けずに隠匿され、人知れず売買されるということへの危機意識が表に浮かび上がりもした。それが戦後の文化財保護法につながっていったという。

戦争中の富田は、旅行制限などの差別は受けたが、本国送還されることもなくボストン美術館は引き続き幹部職員として遇した。その彼が、日本の古都を空襲から救ったということはあまり知られていない。共に天心に仕えた親友のラングドン・ウォーナーがロバーツ委員会の日本部主任を務めていて、日本における美術歴史遺跡の保護のためのリスト作成にあたり富田もこれに協力した。いわゆるウォーナー・リストである。京都が爆撃されなかった経緯は諸説あるが、このリストが実在することは事実だ。富田は戦中のことは一切語らなかったというが、本書は周囲の証言などを丁寧にたどっている。

日本美術も美術館も今やゴールデンエイジとも言うべき隆盛にある。今日の私たちはそれをあたりまえののように享受してるが、そのことに内包されている歴史やそれに尽くした人々のことが、本書を読むととてもよく見えてくる。誠実な著述は、平易でありながら、決して俗受けも狙わない。

美術に少しでも興味がある方なら、ぜひ一読をおすすめしたい。目立たない好著。




富田幸次郎_1.jpg


ボストン美術館 富田幸次郎の五〇年
 たとえ国賊と呼ばれても

橘しづゑ 著
彩流社


はじめに
第一部 ボストン美術館アジア部キュレーターへの道のり
第一章 父親、蒔絵師富田幸七──漆の近代を見つめて(1854~1910)
第二章 幸次郎の生い立ちと米国留学(1890~1907)
第三章 ボストン美術館──めぐり合う人々(1908~1915)
第四章 目覚め──美術史家として(1916~1930)
──アーサー・ウエーリと司馬江漢の落款をめぐる論争考
第二部 富田幸次郎の文化交流──日米戦争のはざまを米国で生きる
第五章 祖国に国賊と呼ばれて(1931~1935)
──『吉備大臣入唐絵詞』の購入
第六章 1936年「ボストン日本古美術展覧会」の試み(1936~1940)
──戦間期における日米文化交流の一事例として
終 章 太平洋戦争とその後(194 ~1976)
富田孝次郎年譜
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