津軽・下北自転車ツアー(番外編) [自転車散策・紀行]
帰りは三々五々。新幹線、青森空港。遠くからの仲間は早くに帰りました。一人は、白神山地に移動し渓流釣りを楽しむのだとか。
東京組の三人は、ゆっくりできるので大湊散策ということで、海上自衛隊基地内にある北洋館に寄ることにしました。
大湊は、明治35年の帝国海軍大湊水雷団開庁以来、昔も今も北洋の守りの要でした。戦後、海上自衛隊が発足しますが、他の地方総監部は、横須賀・舞鶴・佐世保・呉といずれも戦前から鎮守府からの継承ですが、この大湊だけは大湊地方隊からの昇格となります。
北洋館とは、海軍大湊要港部の水交支社(海軍士官の社交場)のこと。大正5年に建てられた建物は、当時はまだ珍しい洋風建築で、日本建築学会の名建築にも登録されています。外装は、大湊港を見下ろす釜臥山から採石された安山岩。
中には、北洋の衛戍の歴史資料約1000点が展示。歴代の大湊要港部(日米開戦で警備府に昇格)の司令官の肖像を初め、日清日露の戦役から先の大戦、戦後の海上自衛隊まで及びます。
注目は、やはり、終戦間近の樺太・千島へのロシアの侵攻と北方領土問題でしょう。展示は多岐にわたっていて幕末時代から進出南下するロシアと、北洋の開拓へと北進する日本との軋轢を公平、冷静に説いていました。長い歴史で考えると、北方領土問題についても世論とはちょっと違う感慨も湧いてきます。
その後背地の山裾の森林緑地には、小さな石積みのダムと貯水池があります。日本最古の洋式ダムと水道施設なのだそうで、レトロでとっても可愛い。艦船補給用水を確保することを目的として建設された「旧大湊水源地水道施設」なのだそうです。
終戦直前には、軍人、軍属、施設要員合わせて7万2千人、人口は8万人に膨れ上がっていたそうです。それが敗戦と軍の解体であっという間に1万人余りに激減したのだとか。そのこともあってか静かで自然豊かな町でありながら、大正ロマンと昭和レトロの雰囲気いっぱい。
のんびりとした朝の陽光を浴びながら、再び大湊駅へ戻り自転車をたたんで家路につきました。
東京組の三人は、ゆっくりできるので大湊散策ということで、海上自衛隊基地内にある北洋館に寄ることにしました。
大湊は、明治35年の帝国海軍大湊水雷団開庁以来、昔も今も北洋の守りの要でした。戦後、海上自衛隊が発足しますが、他の地方総監部は、横須賀・舞鶴・佐世保・呉といずれも戦前から鎮守府からの継承ですが、この大湊だけは大湊地方隊からの昇格となります。
北洋館とは、海軍大湊要港部の水交支社(海軍士官の社交場)のこと。大正5年に建てられた建物は、当時はまだ珍しい洋風建築で、日本建築学会の名建築にも登録されています。外装は、大湊港を見下ろす釜臥山から採石された安山岩。
中には、北洋の衛戍の歴史資料約1000点が展示。歴代の大湊要港部(日米開戦で警備府に昇格)の司令官の肖像を初め、日清日露の戦役から先の大戦、戦後の海上自衛隊まで及びます。
注目は、やはり、終戦間近の樺太・千島へのロシアの侵攻と北方領土問題でしょう。展示は多岐にわたっていて幕末時代から進出南下するロシアと、北洋の開拓へと北進する日本との軋轢を公平、冷静に説いていました。長い歴史で考えると、北方領土問題についても世論とはちょっと違う感慨も湧いてきます。
その後背地の山裾の森林緑地には、小さな石積みのダムと貯水池があります。日本最古の洋式ダムと水道施設なのだそうで、レトロでとっても可愛い。艦船補給用水を確保することを目的として建設された「旧大湊水源地水道施設」なのだそうです。
終戦直前には、軍人、軍属、施設要員合わせて7万2千人、人口は8万人に膨れ上がっていたそうです。それが敗戦と軍の解体であっという間に1万人余りに激減したのだとか。そのこともあってか静かで自然豊かな町でありながら、大正ロマンと昭和レトロの雰囲気いっぱい。
のんびりとした朝の陽光を浴びながら、再び大湊駅へ戻り自転車をたたんで家路につきました。
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