倚松庵 [旅日記]
倚松庵は、文豪谷崎潤一郎の旧居。
庵号は、谷崎夫人の松子にちなむ。石銘碑は、松子夫人の揮毫による。
ここで名作「細雪」が執筆された。……というよりも、その舞台そのもの。
家主の後藤靱雄は関西学院のサッカー選手。父がベルギー人で背が高くハンサムだったらしい。和風木造建築なのに、天井が高く暖炉がある洋間などはモダンな雰囲気があります。
松子夫人は、後年、「細雪」をまるで日記のようだと言ったそうです。ここで起こったことそのものが仔細に描写されている。小説は、大阪船場の旧家の四人姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子の物語。第二次世界大戦前の、崩壊寸前の阪神間モダニズム時代を背景に大阪(船場)文化の崩壊を描く。三島由紀夫も絶賛した《滅びの美》の世界。
その幸子が松子夫人。その松子夫人には、重子、信子の二人の妹がいてずっと姉と同居。松子が谷崎と再婚してもずっと同じ家に同居していたという。「細雪」が、この姉妹がこの倚松庵で過ごした日常をそのまま映した『日記』だという由縁です。
小説が、ほんとうに日常そのものだったのかは証明できませんが、この倚松庵の造りや間取りは、まさに小説で描かれた寓居の通りであることに驚かされます。谷崎は、実際は四畳半の一階の日本間を『六畳の……」としたりしていて、少し膨らませている。訪問当初に意外につつましい家だという印象を持つのはそのせいかもしれません。それでも、小説で描かれる具体的な導線や叙景が見事なまでに一致するのです。
映画(1983)で、古手川祐子が姉の吉永小百合の足の爪を切っている場面が、1階の四畳半。廊下を隔てて風呂場があって湯上がりの涼みや着替えによく使われたとのこと。対照的な性格の二人が内面では結びついていることを象徴するような部屋。縁側があって庭木の緑が濃くそういうふたりの姉妹の睦まじさとくつろぎを映し出しています。
あまりに映画のセットが見事な写実なので、監督の市川崑に、この庵を尋ねたことがあるのかと聞いそうです。その返事は「一度もない」との意外なもの。それほどに、市川は原作を読み込み、その谷崎の叙述は、現実を精確に描写していたということになります。
この日は猛暑でしたので、上記のような説明はすべてクーラーが効いている一階の洋間(谷崎が描いた『食堂と応接間と二た間つづきになった部屋』)で行われました。
その説明はとても絶妙なもので、並みの案内をはるかに超える内容の濃いもの。妙齢の女性の口舌はとても心地よく、(僭越ながら)これはただの案内係ではないなと……。あとで知ったことですが、武庫川女子大学名誉教授のたつみ都志さん。
倚松庵は、もともとは、いまの場所より150メートルほど南にあったそうです。1985年六甲ライナー開通時に、取り壊しになる予定であったのを、付近の住民と保存運動を行い、ようやく市が動いて移設保存が実現したもの。たつみさんはその市民運動のリーダーでもあったようです。
見学は、予約制。グループは10名ほどでしたが、私たちともう一組の老夫婦以外はみな若い人たちばかりでした。高校生のグループもうっすらと汗をかきながら熱心に説明に聞き入る。
印象的だったのは、ひとりの二十歳そこそこの中国人留学生の青年。
たつみさんとは既知の間柄のようで、見学が終わったあとも熱心なやりとりをつづけていました。漏れ聞こえてきた会話は、日本語の助詞の使い方。「が」が主語を示す格助詞ばかりではなく、古語的用法で《体言の代用》として用いられることもあるということ。中国人青年が「ああ、そういうことだったんですね。それでわかりました。」と、汗だらけの額を上下に揺らしての喜色満面の笑顔がとても印象に残りました。
谷崎文学の普遍性を強烈に印象づける建物ツアーになりました。
庵号は、谷崎夫人の松子にちなむ。石銘碑は、松子夫人の揮毫による。
ここで名作「細雪」が執筆された。……というよりも、その舞台そのもの。
家主の後藤靱雄は関西学院のサッカー選手。父がベルギー人で背が高くハンサムだったらしい。和風木造建築なのに、天井が高く暖炉がある洋間などはモダンな雰囲気があります。
松子夫人は、後年、「細雪」をまるで日記のようだと言ったそうです。ここで起こったことそのものが仔細に描写されている。小説は、大阪船場の旧家の四人姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子の物語。第二次世界大戦前の、崩壊寸前の阪神間モダニズム時代を背景に大阪(船場)文化の崩壊を描く。三島由紀夫も絶賛した《滅びの美》の世界。
その幸子が松子夫人。その松子夫人には、重子、信子の二人の妹がいてずっと姉と同居。松子が谷崎と再婚してもずっと同じ家に同居していたという。「細雪」が、この姉妹がこの倚松庵で過ごした日常をそのまま映した『日記』だという由縁です。
小説が、ほんとうに日常そのものだったのかは証明できませんが、この倚松庵の造りや間取りは、まさに小説で描かれた寓居の通りであることに驚かされます。谷崎は、実際は四畳半の一階の日本間を『六畳の……」としたりしていて、少し膨らませている。訪問当初に意外につつましい家だという印象を持つのはそのせいかもしれません。それでも、小説で描かれる具体的な導線や叙景が見事なまでに一致するのです。
映画(1983)で、古手川祐子が姉の吉永小百合の足の爪を切っている場面が、1階の四畳半。廊下を隔てて風呂場があって湯上がりの涼みや着替えによく使われたとのこと。対照的な性格の二人が内面では結びついていることを象徴するような部屋。縁側があって庭木の緑が濃くそういうふたりの姉妹の睦まじさとくつろぎを映し出しています。
あまりに映画のセットが見事な写実なので、監督の市川崑に、この庵を尋ねたことがあるのかと聞いそうです。その返事は「一度もない」との意外なもの。それほどに、市川は原作を読み込み、その谷崎の叙述は、現実を精確に描写していたということになります。
この日は猛暑でしたので、上記のような説明はすべてクーラーが効いている一階の洋間(谷崎が描いた『食堂と応接間と二た間つづきになった部屋』)で行われました。
その説明はとても絶妙なもので、並みの案内をはるかに超える内容の濃いもの。妙齢の女性の口舌はとても心地よく、(僭越ながら)これはただの案内係ではないなと……。あとで知ったことですが、武庫川女子大学名誉教授のたつみ都志さん。
倚松庵は、もともとは、いまの場所より150メートルほど南にあったそうです。1985年六甲ライナー開通時に、取り壊しになる予定であったのを、付近の住民と保存運動を行い、ようやく市が動いて移設保存が実現したもの。たつみさんはその市民運動のリーダーでもあったようです。
見学は、予約制。グループは10名ほどでしたが、私たちともう一組の老夫婦以外はみな若い人たちばかりでした。高校生のグループもうっすらと汗をかきながら熱心に説明に聞き入る。
印象的だったのは、ひとりの二十歳そこそこの中国人留学生の青年。
たつみさんとは既知の間柄のようで、見学が終わったあとも熱心なやりとりをつづけていました。漏れ聞こえてきた会話は、日本語の助詞の使い方。「が」が主語を示す格助詞ばかりではなく、古語的用法で《体言の代用》として用いられることもあるということ。中国人青年が「ああ、そういうことだったんですね。それでわかりました。」と、汗だらけの額を上下に揺らしての喜色満面の笑顔がとても印象に残りました。
谷崎文学の普遍性を強烈に印象づける建物ツアーになりました。
タグ:京阪神旅行
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