最後の3つのソナタ (アンティ・シーララ) [コンサート]
アンティ・シーララは、ベートーヴェンのスペシャリストなんだそうです。
その剛毅剛直なベートーヴェンに度肝を抜かれる思いがしました。まさに鋼鉄のピアノ。大曲三曲を5分間の小休憩を挟みながら一気に弾ききってしまう。
ベートーヴェンのソナタのなかでも、最後の3つのソナタは、究極的で対比的な二極世界。しかも、3曲が相互に呼応し合うような壮大な内面ドラマを持っています。
そのコントラストがあまりに激しい部分があるので、この曲を聴くときには、思わず居住まいを正して身構えてしまいますし、どのように演奏するのかと固唾を呑んでしまうところがあります。
それだけに、その極端なコントラストを音楽の流れのなかで、どう折り合いをつけてバランスさせ、心情のドラマをどう決着をつけるのかが問われる。
かつては、剛直さと厳粛さというドイツ的な観念論の枠内でこの三部作を捉えていましたが、いつの頃からか、むしろ、フランス的な美学的な造形のなかで受け止めるようになりました――突き進むような高揚感から、一転するように内省的で恍惚と静かな陶酔の高みの世界への昇華。
好きな演奏は、ジャン=ベルナール・ポミエのようなフレンチ・ピアニズム。
むしろモーツァルト的な、天から光がふり注いでくるような音楽。グリモーだってそこは共通していて、透明で芯のある美音。ポリーニだって晩年になるほどそういう方向に向かっていった気がします。あのギレリスでさえもが、突然の死で全ソナタの録音は完成しませんでしたが、とても優しさにみちた美音の連なりを奏でていました――決して鋼鉄のピアノではありません。
シーララの演奏は、その対極。
シーララは、何度も来日を重ねているらしいのですが個人的には初めて聴きました。いったいどんなことになるのかいろいろと妄想をめぐらしていたのですが、その剛直そのもののベートーヴェンにしばらくは呆然としてなかなか言葉が出ませんでした。
聴き終わっても、なかなか心の中で折り合いがつきません。
そこで、聴き直してみたのが「鍵盤の獅子王」と言われたバックハウス。
かつての巨匠姓がもてはやされた時代のヴィルティオーソはどのような演奏をしていたのだろうかと確かめたくなったのです。古びたモノーラルレコードを引っ張り出して、聴いてみました。すると意外なことに、節度のあるダイナミックスです。最後の作品111の冒頭のたたきつけるような強和音も、現代のピアニストと変わらない。当時のヴィルティオージティは、むしろ、後半の速めのテンポの取り方にあったようです。速いパッセージで細やかなリズムと色彩のテンペラメントのアラベスク模様のなかに長大な歌唱やフーガの高揚を紡ぎ出していく。バックハウスは、当時すでに70歳を超えていましたが、大変な技術です。
シーララの演奏は、あまりにも打鍵が強く激しいので、二極世界の均衡感覚を一気に打ち砕いてしまう。後半の叙情世界がなかなかバランスがとれない。どうしても単調になってしまう。
作品109の冒頭も、軽やかで柔和な音楽が強烈な和音で打ち破られる。強い厳しいベートーヴェン。第2楽章も強靱なスケルツォ。フィナーレの第3楽章は、美しい安息の変奏と、そこから覚醒するようなフーガ……闘争からの解脱というような終末感ではなく、もっとロマンチックなバラードの物語世界へと導いていくような演奏解釈と言えるでしょうか。
もしかしたら、過去のピアニズムでは実現し得なかった、未来的な新しい「最後の三つのソナタ」なのかもしれません。未完成という印象はどうしても否めませんが(特に後半の叙情性)、これからの熟成が楽しみ。ベートーヴェン演奏の今後としても、ちょっと目が離せないピアニストなのかもしれません。
第549回日経ミューズサロン
アンティ・シーララ
ピアノ・リサイタル
2024年8月5日(金)18:30~
東京・大手町 日経ホール
(D列24番)
アンティ・シーララ(Antti Siirala)
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
その剛毅剛直なベートーヴェンに度肝を抜かれる思いがしました。まさに鋼鉄のピアノ。大曲三曲を5分間の小休憩を挟みながら一気に弾ききってしまう。
ベートーヴェンのソナタのなかでも、最後の3つのソナタは、究極的で対比的な二極世界。しかも、3曲が相互に呼応し合うような壮大な内面ドラマを持っています。
そのコントラストがあまりに激しい部分があるので、この曲を聴くときには、思わず居住まいを正して身構えてしまいますし、どのように演奏するのかと固唾を呑んでしまうところがあります。
それだけに、その極端なコントラストを音楽の流れのなかで、どう折り合いをつけてバランスさせ、心情のドラマをどう決着をつけるのかが問われる。
かつては、剛直さと厳粛さというドイツ的な観念論の枠内でこの三部作を捉えていましたが、いつの頃からか、むしろ、フランス的な美学的な造形のなかで受け止めるようになりました――突き進むような高揚感から、一転するように内省的で恍惚と静かな陶酔の高みの世界への昇華。
好きな演奏は、ジャン=ベルナール・ポミエのようなフレンチ・ピアニズム。
むしろモーツァルト的な、天から光がふり注いでくるような音楽。グリモーだってそこは共通していて、透明で芯のある美音。ポリーニだって晩年になるほどそういう方向に向かっていった気がします。あのギレリスでさえもが、突然の死で全ソナタの録音は完成しませんでしたが、とても優しさにみちた美音の連なりを奏でていました――決して鋼鉄のピアノではありません。
シーララの演奏は、その対極。
シーララは、何度も来日を重ねているらしいのですが個人的には初めて聴きました。いったいどんなことになるのかいろいろと妄想をめぐらしていたのですが、その剛直そのもののベートーヴェンにしばらくは呆然としてなかなか言葉が出ませんでした。
聴き終わっても、なかなか心の中で折り合いがつきません。
そこで、聴き直してみたのが「鍵盤の獅子王」と言われたバックハウス。
かつての巨匠姓がもてはやされた時代のヴィルティオーソはどのような演奏をしていたのだろうかと確かめたくなったのです。古びたモノーラルレコードを引っ張り出して、聴いてみました。すると意外なことに、節度のあるダイナミックスです。最後の作品111の冒頭のたたきつけるような強和音も、現代のピアニストと変わらない。当時のヴィルティオージティは、むしろ、後半の速めのテンポの取り方にあったようです。速いパッセージで細やかなリズムと色彩のテンペラメントのアラベスク模様のなかに長大な歌唱やフーガの高揚を紡ぎ出していく。バックハウスは、当時すでに70歳を超えていましたが、大変な技術です。
シーララの演奏は、あまりにも打鍵が強く激しいので、二極世界の均衡感覚を一気に打ち砕いてしまう。後半の叙情世界がなかなかバランスがとれない。どうしても単調になってしまう。
作品109の冒頭も、軽やかで柔和な音楽が強烈な和音で打ち破られる。強い厳しいベートーヴェン。第2楽章も強靱なスケルツォ。フィナーレの第3楽章は、美しい安息の変奏と、そこから覚醒するようなフーガ……闘争からの解脱というような終末感ではなく、もっとロマンチックなバラードの物語世界へと導いていくような演奏解釈と言えるでしょうか。
もしかしたら、過去のピアニズムでは実現し得なかった、未来的な新しい「最後の三つのソナタ」なのかもしれません。未完成という印象はどうしても否めませんが(特に後半の叙情性)、これからの熟成が楽しみ。ベートーヴェン演奏の今後としても、ちょっと目が離せないピアニストなのかもしれません。
第549回日経ミューズサロン
アンティ・シーララ
ピアノ・リサイタル
2024年8月5日(金)18:30~
東京・大手町 日経ホール
(D列24番)
アンティ・シーララ(Antti Siirala)
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
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