ウィーンの濃厚な夜 (葵トリオ@ピアノ・トリオ・フェスティバル) [コンサート]
すごいプログラム、すごい演奏、すごい音楽でした。
世紀末から20世紀初頭にかけての成熟しきったウィーンの伝統音楽が産み落とした天才と鬼才たちの音楽。ピアノ三重奏曲という濃密に凝縮された音楽の原子核のような編成だからこそ表現できた《濃密な夜》の音楽。
ツェムリンスキーは、マーラーとシェーンベルクの分岐にいた人。その音楽は、マーラー的な最後期ロマン派の極致のような濃密で官能の音楽。このピアノ三重奏曲は、そういう彼の出発点のような曲だそうだ。本来はクラリネット三重奏曲で、作曲コンクールで入賞した曲をブラームスの推薦で出版された。その際に、ピアノ三重奏曲に変更された。息の長い旋律線はそういうことなのかと納得する。
葵トリオは、濃密な融合と混淆の音楽を創り出す。従来は、三人の個性がぶつかり合う丁々発止の演奏といった印象だったのですが、この夜はそういう上昇感覚とは真逆で、溶融して滴り落ちるような響きの濃厚な味わいが素晴らしい。秋元のピアノは、力強い剛直なピアノでありながら同時に二人の弦楽器に不思議なほど染み込んでしまう。擦弦楽器という自分とは体質の違う音色の陰となり華となり、その響きの矛盾のない一体感が凄い。
だから、のっけからウィーンの闇と光のような音楽にノックアウト。
二曲目のコルンゴルドは、このピアノ三重奏曲を13歳の時に作曲したのだという。信じられないような神童ぶり。天才というのは、前後の脈絡もなく登場するわけではないと思う。やはりそれだけの文化・文明の成熟があってこそ産み落とされるのが天才。この早熟の音楽も、時間軸や空間の座標軸を喪っているかのような音楽。強烈なまでの完成度の部分部分が際限もなく次から次へと繰り出され、それらが見事なまでに構成されていて、…だからこそ居所がつかめないような清潔さと浮遊感がある。
眼前に神童がいるわけではないのに、やはり、何かとんでもなく珍しいものを観ているような高揚感があって、実のところこの夜、一番客席が盛り上がって大喝采となったのはこの13歳のコルンゴルドの曲でした。
さて…
この夜の中核は、やっぱり、シェーンベルク。
「浄夜」は、シェーンベルク初期の傑作。無調音楽以前の様式だがシェ-ンベルク畢竟の傑作。彼はこの曲だけで一生糊口を凌ぐことができたそうで、それだけに様々な編成の版があり編曲版も多い。もちろんピアノ三重奏曲版というのは初めて。
客席は照明が落とされ、ステージだけは深更の月夜の晩のようにほのかに青白く照らし出されている。
ツェムリンスキー、コルンゴルドと聴かされてきた心理的効果は強烈で、ピアノ三重奏という音のカラクリにもすっかり耳が馴染んでいるという効果も抜群。やはり、そういう音響の魔術の中心にいるのが秋元のピアノ。この日の秋元は、まるで人格が変わったかのように凄味がある。弦楽器に溶け込むピアノの帯域と音量のダイナミックが、厚みのある音響となって音楽全体を支え、そこに浮き上がってくる小川のヴァイオリンの琴線が情感にあふれ美しく、伊藤のチェロの甘く艶やかな色が何とも艶めかしい。
弦楽オーケストラでは、霧や靄のかかったようなかすんだものになってしまうが、葵トリオは晩秋のくっきりと冷ややかな月明かりの下、男女の心の葛藤を直截に照らし出す。そのテンションの高さと集中力が凄まじく、それがこれだけ長い時間ずっとそのままに保たれることに凄味を感じる。客席は、終始、静まりかえりしわぶきひとつ聞こえないほど。演奏が終わってもその静寂に圧倒されたかのようで、なかなか拍手が始まりませんでした。
アンコールは、そういう空気の重たさを推し量ったような軽妙なモーツァルト。ウィーンの神童・天才といえば、やはりここに帰って行くのでしょうか。心がほぐれて解放されたような、ほっとした瞬間でした。
ベテランのトリオ・ヴァンダラー、そして気鋭の葵トリオと続いて、シリーズ最後、は金川真弓、佐藤晴真、久末航という若手のオールスタートリオ。このシリーズは目が離せません。
ピアノ・トリオ・フェスティヴァル2024-Ⅱ
葵トリオ
紀尾井レジデント・シリーズ Ⅰ 特別回
秋元孝介(ピアノ)
小川響子(ヴァイオリン)
伊東 裕(チェロ)
2024年10月3日(木)19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階9列9番)
ツェムリンスキー:ピアノ三重奏曲ニ短調 op.3
コルンゴルト:ピアノ三重奏曲ニ長調 op.1
シェーンベルク:浄夜 op.4(ピアノ三重奏版)
エドゥアルト・シュトイアーマン編曲 [シェーンベルク生誕150周年記念]
(アンコール)
モーツァルト:ピアノ三重奏曲ト長調 K.561より第三楽章アレグレット
世紀末から20世紀初頭にかけての成熟しきったウィーンの伝統音楽が産み落とした天才と鬼才たちの音楽。ピアノ三重奏曲という濃密に凝縮された音楽の原子核のような編成だからこそ表現できた《濃密な夜》の音楽。
ツェムリンスキーは、マーラーとシェーンベルクの分岐にいた人。その音楽は、マーラー的な最後期ロマン派の極致のような濃密で官能の音楽。このピアノ三重奏曲は、そういう彼の出発点のような曲だそうだ。本来はクラリネット三重奏曲で、作曲コンクールで入賞した曲をブラームスの推薦で出版された。その際に、ピアノ三重奏曲に変更された。息の長い旋律線はそういうことなのかと納得する。
葵トリオは、濃密な融合と混淆の音楽を創り出す。従来は、三人の個性がぶつかり合う丁々発止の演奏といった印象だったのですが、この夜はそういう上昇感覚とは真逆で、溶融して滴り落ちるような響きの濃厚な味わいが素晴らしい。秋元のピアノは、力強い剛直なピアノでありながら同時に二人の弦楽器に不思議なほど染み込んでしまう。擦弦楽器という自分とは体質の違う音色の陰となり華となり、その響きの矛盾のない一体感が凄い。
だから、のっけからウィーンの闇と光のような音楽にノックアウト。
二曲目のコルンゴルドは、このピアノ三重奏曲を13歳の時に作曲したのだという。信じられないような神童ぶり。天才というのは、前後の脈絡もなく登場するわけではないと思う。やはりそれだけの文化・文明の成熟があってこそ産み落とされるのが天才。この早熟の音楽も、時間軸や空間の座標軸を喪っているかのような音楽。強烈なまでの完成度の部分部分が際限もなく次から次へと繰り出され、それらが見事なまでに構成されていて、…だからこそ居所がつかめないような清潔さと浮遊感がある。
眼前に神童がいるわけではないのに、やはり、何かとんでもなく珍しいものを観ているような高揚感があって、実のところこの夜、一番客席が盛り上がって大喝采となったのはこの13歳のコルンゴルドの曲でした。
さて…
この夜の中核は、やっぱり、シェーンベルク。
「浄夜」は、シェーンベルク初期の傑作。無調音楽以前の様式だがシェ-ンベルク畢竟の傑作。彼はこの曲だけで一生糊口を凌ぐことができたそうで、それだけに様々な編成の版があり編曲版も多い。もちろんピアノ三重奏曲版というのは初めて。
客席は照明が落とされ、ステージだけは深更の月夜の晩のようにほのかに青白く照らし出されている。
ツェムリンスキー、コルンゴルドと聴かされてきた心理的効果は強烈で、ピアノ三重奏という音のカラクリにもすっかり耳が馴染んでいるという効果も抜群。やはり、そういう音響の魔術の中心にいるのが秋元のピアノ。この日の秋元は、まるで人格が変わったかのように凄味がある。弦楽器に溶け込むピアノの帯域と音量のダイナミックが、厚みのある音響となって音楽全体を支え、そこに浮き上がってくる小川のヴァイオリンの琴線が情感にあふれ美しく、伊藤のチェロの甘く艶やかな色が何とも艶めかしい。
弦楽オーケストラでは、霧や靄のかかったようなかすんだものになってしまうが、葵トリオは晩秋のくっきりと冷ややかな月明かりの下、男女の心の葛藤を直截に照らし出す。そのテンションの高さと集中力が凄まじく、それがこれだけ長い時間ずっとそのままに保たれることに凄味を感じる。客席は、終始、静まりかえりしわぶきひとつ聞こえないほど。演奏が終わってもその静寂に圧倒されたかのようで、なかなか拍手が始まりませんでした。
アンコールは、そういう空気の重たさを推し量ったような軽妙なモーツァルト。ウィーンの神童・天才といえば、やはりここに帰って行くのでしょうか。心がほぐれて解放されたような、ほっとした瞬間でした。
ベテランのトリオ・ヴァンダラー、そして気鋭の葵トリオと続いて、シリーズ最後、は金川真弓、佐藤晴真、久末航という若手のオールスタートリオ。このシリーズは目が離せません。
ピアノ・トリオ・フェスティヴァル2024-Ⅱ
葵トリオ
紀尾井レジデント・シリーズ Ⅰ 特別回
秋元孝介(ピアノ)
小川響子(ヴァイオリン)
伊東 裕(チェロ)
2024年10月3日(木)19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階9列9番)
ツェムリンスキー:ピアノ三重奏曲ニ短調 op.3
コルンゴルト:ピアノ三重奏曲ニ長調 op.1
シェーンベルク:浄夜 op.4(ピアノ三重奏版)
エドゥアルト・シュトイアーマン編曲 [シェーンベルク生誕150周年記念]
(アンコール)
モーツァルト:ピアノ三重奏曲ト長調 K.561より第三楽章アレグレット
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