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「海馬を求めて潜水を」(ヒルデ&イルヴァ・オストピー共著)読了 [読書]

海馬というのは、脳の一部で記憶を司ると言われている器官。形がタツノオトシゴ(英:“sea horse”)に似ているので、その分類学名“Hippocampus”がそのまま呼称となっている。

つまりは、本書は人間の「記憶」をめぐるエッセイ。

心理学は科学なのか?

心理学は哲学がルーツで、いまでも多くの大学は文学部に属することが多い。かつてある物理学者は「心理学は科学ではない」と断じた。すでに人間の行動・認知を対象に、実験心理学や行動学など実証的、論知的な探究がもてはやさていた時代だ。今や人工知能などの情報工学、脳神経など病理・生理などの医学からのアプローチもあって、いよいよ「科学」としての自己主張を強めている。科学であってほしい。役だってほしいと思う。

ところが、今の世には、「脳科学者」だとか「認知神経科学者」などと自称する輩がやたらとTVなどのマスメディアにしゃしゃり出て、音楽だとか歴史だとかをしたり顔に論評する。学歴経歴を見てもどこにも人間心理を学としてきたバックグラウンドなどない。ああいう輩を見ると、確かに「科学者ではない」と言いたくなる。

本書も、同様にそういうガッカリ本。

標題は、海中で記憶したものは、地上ではなく海中だと定着しやすくなるということを実証するためにダイバーに海中で無意味な数字を記憶させるという実験を著者が行ったことに由来するようだ。結果は散々。ダジャレにもなっていない。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)には、記憶が大きな要因となる。恐怖となる大きな出来事が記憶となる。消そうとしても消せない強烈な体験の記憶。そのことをスカイダイバーの墜落からの生還者の証言をあげている。けれども一方で、相反する記憶喪失の事例も挙げる。著者は実にあいまいで散文的だ。

一方で、記憶は、実は、取るに足らない体験の集積で《再構成》される場合もあるし、そういうものがあったという《虚偽記憶》もあるという。

記憶が再構成されるということは、すなわち、記憶の乗っ取りとも言える。それに関連して幼児の記憶は何歳ぐらいから定着するのかという問題もある。言語の成長生成がその境界といえるのだろうか。かといって記憶定着の過程を、事後的に再構成して乗っ取るということの事例も少なくない。カッコウの托卵を引き合いに出すまでもなく、幼児の記憶定着にあまり論理性は見いだせない。

刑事手続きにおける記憶証言の虚偽性の問題は、より深刻なはずだ。本書によれば裁判証言にも、集団的な虚偽記憶の形成(誰かが言うとそれが記憶として伝播する)があるという。讒訴誣告のような悪意とは違って、悪意がなくともえん罪を生むこともあるという。ここにおいても著者は、相変わらずあいまいで散文的。どっちつかずでなんらかの問題提起をするわけでもない。

チェスの名手たちの驚異的な記譜記憶力についても同様だ。実際の記譜と、ランダムな指し手で形成した非論理的な駒の配置では、名手たちの記憶定着力は大きく違うという。記憶競技の名人たちも、無意味な数字に事物、風景など当てはめ道順をつけるという方法で、記憶を定着させるという。実際、海馬は記憶のマネジメントだけではなく、空間認識(場所や道順など)にも大きく関わっているという。かといって記憶の謎解きは示されることもない。

短期的記憶と長期的記憶にも大きな謎がある。海馬が短期的記憶を貯蔵するとの推定もあるがそうでもない。そもそも記憶は、コンピューターの記憶装置のように記録が貯蔵されるものなのか。記憶とうらはらの「忘却」とは何なのか。あるいは、記憶とは思考と分別しがたい。過去を想い出すことが、推論や創造という未来を生む。…話しはどんどんととりとめもなくなっていく。

かといって気候変動問題に結びつける終章はいかにもとってつけたようだ。あくまでも散文的で善人ぶった主観は、科学の名を借りた偽善を生む。

本書の救いは、訳が優れること。日本語は流れが自然でわかりやすい。

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海馬を求めて潜水を
 作家と神経心理学者姉妹の記憶をめぐる冒険
(原題:)
ヒルデ・オストビー&イルヴァ・オストビー
中村冬美・羽根 由  訳

みすず書房
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安直安価なルームチューニング2題 [オーディオ]

ずっと天井のコーナー処理に思い悩んでいました。

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四隅のコーナー部はすべて対策しました。ここはかなり効きますので全力を挙げて対策してきました。

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正面の縦コーナーにもちょっとした工夫を凝らしています。

問題は、側面壁の天井との横コーナー。

横コーナー用の拡散パネルは、今やなかなか適当なものがありません。あっても縦コーナーと兼用のものでオーバーサイズなうえに高価です。それでも効果があるのなら試してみようかと迷っていました。

ところが、ぴったりのものを発見。自作に見えるけど、実は、100円ショップのグッズ。何の手も加えずにピン止めしてるだけです。

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これがなかなか良い。室内に自然に融け込んでいて、つけて1ヶ月経ちますがいまだに同居人は気づいていません(爆)。左手側の響きや高域バランスが落ち着いた気がします。

原価といえばまさに@100円。

サーモウールをコーナーに添わせるように充填しているのがベルウッド流の工夫ですが、これとてもデッドストックの流用。あとは固定用のボールヘッドの虫ピンもしくは長めの画鋲。これも手持ちなので、実質的な原価はゼロ。

あまりに安直なので、なるほどCENYAさんも自慢しないわけです。でも、快適かつ効果的。


もうひとつも、負けずに安直です(笑)。

アンプの角のコーナークッション。

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これは回折対策です。ラック内のアンプなどは動かしただけでも音が変わります。要因はいくつかありますが、ばかにならないのが回折効果。特に角が切っ先鋭い筐体デザインのもの。スピーカーや、逆に、リスナーに近いと、けっこう影響があります。

拙宅も、両スピーカーの間に、パワーアンプ、その電源、パッシブデバイダーを平積みしていますので、心ばかりの対策というわけです。

こちらの効果は、まあ、気休め程度ですが、何となく高域のうるささが減じたような…(?)。とにかくこれも100円玉レベルのコストです。

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トリオ・アコード (浜離宮ランチタイムコンサート) [コンサート]

東京芸大在学中の2003年に、同級生3人で結成されたピアノ・トリオ。各自それぞれが自分の道を歩み、それぞれが確かな地歩を得た。

ヴァイオリンの白井圭は、昨年、N響のゲスト・コンサートマスターに就任。
チェロの門脇大樹は、神奈川フィルの首席奏者。
ピアノの津田裕也は、多くの演奏家から厚い信頼を得て共演を重ね、室内楽でも活躍。

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それぞれがそれぞれに多忙を極めるなか、同級の仲間が再びトリオとしての活動を再開する。今やそのメンバーひとりひとりの顔に確固たるアイデンティティがある。そういうアンサンブルが、トリオ・アコード。

ベートーヴェンの「幽霊」は、「大公」ほどには聴かない曲だが、聴いてみると確かにベートーヴェンらしさがある。ニックネームのもととなった第2楽章の幽玄な世界は、傑作の森の時代の佳作というよりは、むしろ後期の作風を先取りしたかのよう。

武満の「ビトゥイーン・タイズ」は、その幽玄さの延長にあって、拍節感というよりは、むしろ緩慢で大きな起伏をともなう浜辺に寄せる波のリズムを感じさせる。そういう波動を繰り返すうちに次第に潮が満ちて、足元を静かに濡らす。そこにこのトリオの世界観のようなものを感じました。

休憩をはさんでのメンデルスゾーン。

個人的にはメンデルスゾーンの曲のなかで一番好き。ピアノ・トリオだけれども、聴いていてもピアノ・トリオとは感じさせないほどの音楽としての躍動がある。どこまでも明朗で湧き上がるような幸福感にあふれていて、しかも、古典派とは完全に画するようにロマンチック。軽やかで弾むようなスケルツォを経て、最後は情熱がほとばしるようなフィナーレ。その熱い高揚感に、会場からは大拍手でした。

ピアノ・トリオというのは、日本のクラシック音楽シーンではまだまだ得がたい存在。常設として活動を継続するのは難しい。在学中からの活動という原点を共有し、互いに気心も知るトップ奏者のアンサンブルとして、レパートリーをどんどん増やして活躍を続けてほしい。切にそう願いました。


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浜離宮ランチタイムコンサートvol.207
トリオ・アコード
2021年10月28日(木) 11:30~
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階15列16番)

トリオ・アコード
白井圭 (ヴァイオリン)
門脇大樹 (チェロ)
津田裕也 (ピアノ)

ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第5番 ニ長調 Op.70-1「幽霊」
武満徹:ビトゥイーン・タイズ

メンデルスゾーン:ピアノ三重奏曲第1番 ニ短調 Op.49

(アンコール)
メンデルスゾーン:歌の翼に

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フランスからの風 (セシリア・トリオ 日経ミューズサロン) [コンサート]

いずれもフランスで生まれ育ったり学んだりという三人組。ピアノとフルート、ファゴットという組み合わせも異色のトリオ。

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ピアノの工藤セシリアさんは、お父さんがフルート奏者でフランス生まれ。そのお父さんとは、言わずと知れたあの工藤重典さん。お父さんはパリ音楽院に学び、リール国立管弦楽団の首席奏者として活躍されたが、つまりはそのリールで生まれたというわけ。

パリジェンヌ…というよりは、ちょっと天然の入ったのんびりとした雰囲気で、いかにもお育ちの良いお嬢様という感じ。ドビュッシーを弾いても、どこか柔らかくてはんなりとした可愛らしさが漂います。

フルートの山内豊瑞(やまうちとよみつ)さんは、高知の生まれ。パリ・エコール・ノルマルに学び、フランス国際ジュンヌフルーティストコンクールで第2位に輝いた。ドップラーのハンガリー田園幻想曲では、曲想もそうなのだろうけど、どこか古武士然とした東洋的な瞑想を感じさせる。実は、土佐藩主・山内家の末裔なのだとか。一豊公以来、男児の名には「豊」の字を必ずつけるのだとか。どうりで(笑)。

ファゴットのスタン・ジャックさんは、もちろんフランス人。フランス国立管弦楽団やラムルー・オーケストラなどの首席奏者を歴任。ところが今や活動の拠点は日本なのだそうで、在日10年ということで日本語はちょっとユーモラスな訛りこそあるけれどぺらぺら。

その楽器は、シュライバー。もともとはドイツのブランドだけれど、今はフランスのビュッフェ・クランポンの傘下。今はドイツ式の《ファゴット》が標準で、フランス式の《バソン》奏者は希少となり製造も絶えているそうですが、ジャックさんの音色にはフランスの品格が馥郁と香り、特にテナー音域はとてもよく歌う。グリンカのソナタは初めて聴きましたが、知性の余裕のようなものさえ感じます。

ハイドンのトリオは、もちろん、ピアノとヴァイオリン、チェロによるピアノ三重奏の名曲ですが、木管のむしろ柔らかく軽ろやかな音色が、まるでオリジナルのようにしっくりときます。ここでもジャックさんの軽妙にしてよく歌うファゴットが縦横無尽に活躍していました。

ピアソラは、アルゼンチンタンゴとしては異端とされたと言われますが、こうやって木管中心のアンサンブルで聴くと、上品で静謐かつ知的な情緒を感じさせます。アンコールのシューベルトのセレナードやアヴェ・マリアという名曲は、決して高い技術を必要とするショーケース的な曲ではありませんが、聴いていてとても気持ちが良い。

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会場の日経ホールは、多目的ホールで決して響きのよさで音楽を聴かせるというわけではなく、人声などの中音域を明晰に聴かせる音響だと思っていましたが、この日はとてもアンサンブルにマッチしていると感じました。

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ここの壁面はオーディオファンにはちょっとおなじみの構造をしています。

600人ほどの大きさに加えて、木の森のような壁面が、木管のソノリティによく合うのでしょうか。とても居心地の良いコンサートでした。



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第515回日経ミューズサロン
セシリア・トリオ フランスからの風

2021年10月22日(金)14:00~
東京・大手町 日経ホール
(G列3番)

工藤セシリア(ピアノ)
スタン・ジャック(ファゴット)
山内豊瑞(フルート)

ドビュッシー/映像第1集(ピアノソロ)
ドビュッシー/ベルガマスク組曲 第3曲 月の光(ピアノソロ)
ドップラー/ハンガリー田園幻想曲 作品26(フルート)

グリンカ/ファゴット・ソナタ ト短調(ファゴット)
ハイドン/ピアノ三重奏曲 第25番 ト長調「ジプシー・トリオ」Op.73-2, Hob.XV-25
ピアソラ/オブリヴィオン(トリオ)

(アンコール)
シューベルト セレナーデ
バッハ/グノー アヴェ・マリア

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コクがあるのに、キレがある (諏訪内晶子 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル) [コンサート]

諏訪内晶子さんの一人旅。

久しぶりの諏訪内さんだけれども、今まではコンチェルトばかりでオーケストラとの協演でしたが、今回はソロ。しかも無伴奏だし、小ホールで間近に聴けます。

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さらにもう一つ大きく違っていたのは楽器でした。

これまで諏訪内さんは、日本音楽財団から貸与されたストラディヴァリウスの「ドルフィン」。ハイフェッツも愛用した名器中の名器で、20年近くこれを使い続けていましたので諏訪内さんといえば「ドルフィン」というほど一体となった音のイメージがありました。

昨年、諏訪内さんはついにこの「ドルフィン」を返却し、新たに日系米人のDr.Ryuji Uenoより長期貸与された1732年製作のグァルネリ・デル・ジェズ「チャールズ・リード」を弾いているそうです。今夜はその音を確かめることになります。

諏訪内さんは、これまでコンチェルトが主体の活動で、ディスコグラフィーを見てもコンチェルトの他はヴィルトゥオーゾ的な名曲がほとんど。ベートーヴェンなどの大作曲家のソナタや室内楽は、これほどの世界的なヴァイオリニストなのにとても少ない。その諏訪内さんが、バッハの無伴奏全曲をリリースするという。すでに録音を終えていますが、今回のツアーはそれに先行するものとなります。

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プログラムの前半は、パルティータの2曲。

3番のパルティータは、軽やかで華やかな曲。バッハの曲のなかでもとびきり親しみやすく、曲集としては最後の曲ですが、この一夜のプログラムの入口としてはとても入りやすい。1番は、それに対して、荘重なアルマンドから始まります。重音奏法がふんだんに取り込まれています。諏訪内さんの重音は、あらゆるヴァイオリニストのなかで特段の響きの美しさがあって、聴くものにとってある種の陶酔を呼びます。

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プログラム前半は、『また再び出会いましたね…』というのか、お互いの近況を確かめるかのような感覚。確かな存在を実感しつつ、知らずに話しが弾みあっという間に時間が過ぎてしまいます。諏訪内さんは、一切の繰り返しをしません。どこかに拘泥したり、滞留することなく、一曲、一曲ではなくて、プログラム全体を構成しその流れを作っていくかのよう。

そのことが、とても成功していると納得したのは、後半になってから。

前半は序段のようなもの。後半は、1番のソナタのとてつもなく大きなフーガの峠道を越え、さらに最終曲としてそびえ立つあのシャコンヌの高揚に到達するのです。そういう毅然とした奏風と華麗にして荘重なバッハの音楽世界にすっかり魅入られてしまいました。

新しく手にされたグァルネリ・デル・ジェズの音は素晴らしかった。以前のストラディヴァリウスには、凜とした光沢があって、それが白熱とでもいうのかちょっと氷のような冷たい透明感もともない、それが私の諏訪内晶子さんのイメージだったのです。ところが新しく手にされたグァルネリは、華やかで薫り高く、しかもその色合いは琥珀のような飴色で艶にもコクがある。それでいて諏訪内さんらしい重音のキレが鮮やか。これこそ本来の諏訪内さんの音楽という印象さえ帯びています。この楽器を手にしたことによって、その音楽にさらに熟成味を深めていくだろうと確信させるものがあります。

これだけの大曲の後なのでアンコールは無しかと思っていましたが、アンコールは2番のソナタのアンダンテ。10年ほど前にゲルギエフ/ロンドン響との協演を聴きましたが、あの時もアンコールはこの曲でした。頂点を極めた後の安堵に満ちた下山道のおぼつかない足元を確かめるような静かな足取りに心打たれました。


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土曜ソワレシリーズ《女神との出逢い》  第296回
諏訪内晶子
無伴奏ヴァイオリン・リサイタル
2021年10月16日(土) 17:00~
横浜市・青葉台 青葉区民文化センター フィリアホール
(2階L列16番)

諏訪内晶子:ヴァイオリン


J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータよい
 パルティータ第3番ホ長調 BWV1006
 パルティータ第1番ロ短調 BWV1002

 ソナタ第1番ト短調 BWV1001
 パルティータ第2番ニ短調 BWV1004

(アンコール)
 ソナタ第2番イ短調 BWV1003より アンダンテ
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「ブックセラーズ・ダイアリー」(ショーン・バイセル著)読了 [読書]

著者は、スコットランドの地方都市ウィグタウンに生まれ、大学進学で町を離れたが帰省中に古本店を買い取らないかと声をかけられ衝動買いしてしまう。

ウィグタウンは、由緒ある歴史はあるが、ご多分に漏れず落ちぶれさびれた地方都市。著者は古書店主となったことをきっかけに書物の町としての「町おこし」にも身を投じる。おかげで、秋のブックフェスティバルは英国で一二を争う規模の大古書市として世界中から観光客を集めるまでとなり、閉鎖されていた醸造所も再開する。自身の店もいまや10万冊の在庫を擁するスコットランド最大の古書店となり、ネットを通じて世界中に知られるようになった。

本書は、そういう古書店の一日を綴った日記帳。その日の、ネット注文数や売上額、顧客数とともにごく短いエッセイが淡々と続くエッセイ集。そこには、陰気臭い教養人の鬱憤とか、高齢化が容赦なく進行するローカルコミュニティ社会、ネット社会となってますます生きづらくなった小売り商店主の毎日の生活が容赦なく活写されているが、いかにもイギリス人らしい辛辣な皮肉やひねくれたユーモアに満ちた人間観察ともなっている。

いくつかの章に分けられていて、短い日記をひとまとめにするような所感が、中エッセイとして挿入されている。その頭に、ジョージ・オーウェルの『本屋の思い出』からの抜粋が挿入されている。オーウェルは、1934年から36年まで執筆のかたわらハムステッドの書店でアルバイトで働いていたという。書店業ということへの愛憎に満ちた皮肉たっぷりのオーウェルの文章もこれまた面白い。

オーウェルの抜粋を読むと、書店の生業というものが今も昔も変わらないという感興とともに、やはり時代は確実に変化しているということにも思い当たる。本屋とか紙の書籍、それを取り巻く教養人というものの疲弊と衰退も着実に感じさせる。けれども、それらが少しも悲しくないのは、「衰退」というのは、時としてコミカルな悲劇でもあってとてつもなく愛おしいものでもあるからだ。

あくまでも気まぐれでつけ始めた備忘録。視点がごく主観的で、いわば独り言みたいなものだから会話描写に乏しい。そのことで、英国映画やBBCのTVドラマのように、具体的な失態や失言とかで笑わせたり、辛辣な皮肉の名ゼリフが丁々発止と飛び交うというわけにはいかないところが残念。

訳文はよくこなれている。

ただし、著者の相方、店員のニッキーの言葉づかいが性別不明なのが気になった。ニッキーという短名称が、男性(Nicholas)にも女性(Nicole)にも共通するのでややこしい。四十代後半で成人した息子二人の母親だということしかわからないが、なかなかのキャラクターで日記でも縦横無尽に活躍する。その言葉づかいがかなり男っぽいので読んでいて少なからず混乱する。訳者に何か意図があるのかは不明だが、正直言ってかなり煩わしくて興趣が半減した。

古書好きにはたまらないのかもしれないが、門外漢にはやや敷居が高い部分が少なからずあることもあらかじめ覚悟しておいた方がよいかも。



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ブックセラーズ・ダイアリー
 スコットランド最大の古書店の一年
(原題:The Diary of a Bookseller)
ショーン・バイセル 著
矢倉尚子 訳
白水社
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ペーター・レーゼル フェアウェル・リサイタル [コンサート]

ドイツ正統を伝えるピアニストとして希有な存在だったペーター・レーゼルの日本での最後の公演。

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もともとレーゼルは知る人ぞ知るという存在でした。

東西分断の時代であっても、日本でも北米でもファンが多くいたのは、ドイツ・シャルプラッテン(クラシックは“エテルナ”レーベル)の数々の名盤があったから。しかし、ベルリンの壁が取り除かれたのもつかの間、東が西に飲み込まれたドイツ統一によって国の庇護を失った旧東ドイツの音楽家は冷遇され、次第に埋もれていってしまいます。

その彼を「再発見」したのが紀尾井シンフォニエッタ東京(現・紀尾井ホール室内管)のドイツ遠征でした。2005年ドレスデン音楽祭に招聘された紀尾井シンフォニエッタが共演したことがきっかけでした。2007年に懇請を受けて30年振りに来日が実現します。ドイツ正統の純粋な精神性を伝えるこんな素晴らしいピアニストがいたのかと音楽ファンを驚喜させたのです。

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その記念すべきリサイタルのプログラムは、ハイドン、ベートーヴェン、そしてシューベルトの最後のピアノ・ソナタばかりを並べたものでした。このフェアウェル公演は、それをそっくりそのまま再演するというもの。

レーゼルの音楽は、誠実そのもの。決して表面的な華やかさや、ことさらに感情を煽りたてたり思わせぶりに振る舞うようなところは微塵もありません。演奏の姿勢も表情も常に冷静で淡々としたもの。ところが、一音一音はとても純粋で芯が強い。その音楽は、まるで石と白砂だけの枯山水の名園を観るようにとても抽象的です。それでいて、確固たる形と感情の色彩があり、なおかつ、幽玄のような宇宙の幻想があるのです。そのことは、この最後の夜も、少しも変わっていません。

第一曲のハイドンは、イギリス・ソナタと呼ばれる3つのソナタの一曲。1794年からのロンドン旅行の時に書かれたと言われていますが、渡英前にはすでに完成されていたという説もあるようです。宮廷楽長の職を解かれた直後のこと。いわば「定年退職後の自由」を満喫しているようなハイドンがまるでそこに居るかのよう。堂々としてベートーヴェンも想わせるところもあるし、ダイナミックスのコントラストも転調も、とても大胆。新しい楽器に触発されたとも、女流ピアニストのテレーゼ・ジェンセンの高い技巧に感じ入ってピアノ技法の限りを尽くしたとも言われます。レーゼルの演奏は、ハイドンのソナタがこんなにも自由闊達で充実した音の響きがあったのだと改めて気づかせるもので、職務の束縛を解かれた自由な解放感を彷彿とさせるようでした。

2曲目のベートーヴェンにも同じようなところがあります。

最後の3つのソナタのなかで、2楽章だけという最もシンプルな構成なのに演奏時間は約26分と最も長い。第一楽章は、ハ短調といういかにもベートーヴェンらしい激しい曲調に対して第二楽章は、ハ長調という無限の調和のような曲調と対照的。闘争に明け暮れた英雄の自己回顧のような第一楽章に対して、第二楽章は無限の未来に啓かれているような無心の境地。それは、実際に聴いていてとても長く感じました。退屈ということではなく、どこまでも続く終わりのない音楽を聴いているというような感覚。まるで日本庭園を回遊しているように、様々な角度から様々に変転していく風景を見ているように…。曲が終わったと気がつくと、すでに晴れ晴れとしたようなレーゼルが立っていました。

こうやってプログラムを見ると、面白いことに三人の巨匠の最後のピアノ・ソナタというのは、いずれも3曲の連作になっているのですね。

シューベルトのD960は、その中でも『最後の…』という死生観のようなことを強く感じさせる曲です。ところがレーゼルのこの夜の演奏は、むしろ、晴れやかな「卒業」というような印象です。第一楽章のあの意味深な低音のトリルも、とても親和的。とても穏和なテーマのメロディに対して、何かやり残したものがあるよと気づかせようとしているような響きがとても優しい。

そして、レーゼルの長く響く低音は、ここでも健在です。それは威圧的なものではなくて、基調が響くような教会で聴くオルガンの静かなペダル音のようなのですが、ここのトリルもそう。楽章は、テーマとこのトリルが一体になって解決するかのように終わります。終わりとか別れがあっても、次への希望とか新しいことを存分にやりたい…というような「卒業気分」は、続く楽章でも同じです。レーゼルはそういうことを淡々と紡いでいく。

これで15年に及ぶ来日公演は終わりかと思うと感無量。体力的な限界との理由だそうですが、この夜の演奏を聴く限りそんな体力的な衰えは感じさせません。どこにも力が入っていないような自然な姿勢で、響きに深みがあって遠くからでもよく映える燦然とした彫琢の音楽を紡ぐところは少しも変わっていません。

アンコールは3つも。最後に聴衆は総立ちのスタンディングオベーション。レーゼルさんは、それでも淡々とした表情を変えることなく、はにかんだような微笑を称えながら静かに拍手に応えていました。



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ペーター・レーゼル フェアウェル・リサイタル
2021年10月13日(水) 19:00~
※2020年5月15日振替公演
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階右バルコニー席1列26番)

ハイドン:ソナタ第52番変ホ長調 Hob.XVI:52
ベートーヴェン:ソナタ第32番ハ短調 op. 111

シューベルト:ソナタ第21番変ロ長調(遺作)D960

(アンコール)
シューベルト:4つの即興曲D935  op.142より第2曲変イ長調
ベートーヴェン:6つのバガテルop.126より第1曲 ト長調
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第10番op.14-2より第2楽章

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「とっておきブラームス」 (芸劇ブランチコンサート) [コンサート]

秋になるとブラームスが恋しくなってきます。

夏にはちょっと暑苦しい…ということの裏返しなのかもしれませんが、かといって春というわけでもない。やっぱりブラームスは秋が一番お似合いなのかも。

それでもハンガリー舞曲というのはちょっと例外なのかもしれません。

この曲、特に第5番は、オーケストラのアンコールピースとしてとても有名です。子供の頃、音楽課外授業ということで区の公会堂でのオーケストラコンサートに行くのが楽しみでしたが、アンコールはたいがいこれだったというのも懐かしい思い出。

ウィーンなどのビアホールでの楽団のライブなんかも連想させますが、そちらはヴァイオリン独奏板でしょうか。実際、この曲集はブラームスが若い頃にジプシー楽団から得た曲想をリメイクしたもの。それを当時、ピアノが普及し始めた富裕な市民家庭で人気があったピアノ連弾用に出版したもの。はじめからウケを狙ったもの。実際に楽譜は大ヒット。そういう意図は大成功だったというわけです。

ピアニストの三原未紗子さんは、桐朋音大を卒業後、ベルリン芸大に学び、その後もザルツブルク・モーツァルテウムでも学び、ともに首席で卒業。2019年のブラームス国際コンクールで優勝したというから、この曲はお手のもの。ところが、ほとんどを第二奏者ばかり演奏してきたそうです。それを清水和音さんが、やっぱり男性が低音側を担当するほうが座りが良いということで、強引に第一奏者をやらされたらしい。弾くこと自体よりも、相方の音や響きが違うことがとても新鮮だったのだとか。

あらためてオリジナルのピアノ連弾版を聴くと、プライベートな楽しさももちろんですが、ブラームスの濃い目のシンフォニックなピアノ作法がよく見えてきてとても楽しい。


この日の池袋・東京芸術劇場の大ホールは、いつもとは違ってオルガンが見えません。

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ここのパイプオルガンは、コンサートホール備え付けのものとして恐らく日本最大。珍しい回転式で、一方は、ルネサンス様式とバロック様式という2台のオルガンがはめ込まれたクラシック・デザインで、もう一方は、ロマン派移行期の5段鍵盤のモダン・デザイン。どちらが見えるかで、ちょっと風景が違います。

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なぜ、この日に限って音響パネルなのかはわかりませんが、オーケストラ公演では音響パネルを使用することが多いようです。

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そのせいなのか、この日はちょっと残響が長く、遠い。一次反射が遅く遠く残るので室内楽としては少し違和感があります。それでもブラームスの厚い響きにはむしろマッチしているとさえ感じるところがブラームスのブラームスたるところなのでしょうか。

そして、二曲目のピアノ四重奏曲が素晴らしかった。

編曲といえば、この曲はシェーンベルグの管弦楽編曲版が有名。私自身は、若い頃にNHKFMからエアチェックしたシェーンベルク版にすっかり馴染んでしまい、頭の響きはむしろそちらのほうなのですが、改めてオリジナルをナマで聴くとその素晴らしさに惚れ込んでしまいました。響きがとてもシンフォニックで、しかも、音調の濃淡や、色彩の遠近が鮮やか。終楽章コーダ直前の擬古的でロマンチックな弦楽器の掛け合いなど、曲調も変幻自在。シェーンベルクが絶賛するのもわかる気がします。

特に松田理奈さんのヴァイオリンにはぞっこん。

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終楽章の主題には装飾音符の前打音(アポジャトゥーラ)がついていますが、それをボーイングのアップダウンでしっかりと弾いている。装飾的というよりしっかりとした後拍に近い強アクセントに感じさせて、それが厚みと力強さを感じさせていかにもブラームスらしい。どんな奏者でもあのように弾くのかはわかりませんが、松田さんの正確なボーイングテクニックとその美音がそこかしこに発揮されていて、とても強く印象に残りました。


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芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第32回「とっておきブラームス」
2021年10月13日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階N列22番)


ブラームス:ハンガリー舞曲 第1番~第6番(ピアノ連弾)
(Pf)三原未紗子、(Pf)清水和音
ブラームス:ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 op.25
(Vn)松田理奈、(Va)佐々木亮、(Vc)佐山裕樹
(Pf)清水和音

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