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FMアンテナの更新 [オーディオ]

FMアンテナを新しくしました。

港北ネットワークのC-FT50というFM専用チューナーでエアチェックを楽しんでいます。特にNHKFMの「ベストオブクラシック」は国内外の最新のライブ公演収録音源を放送していて、これをチューナーのデジタル出力から、直接、デジタル録音して楽しんでいます。この音源が、私の音楽鑑賞でけっこうなウェイトを占めるようになっています。

アンテナは、新築以来のものでもう30年以上も経っています。

今回、いったんすべて撤去してもらいました。その残骸。

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残念ながらうっかりビフォーの写真を撮り忘れてしまいましたが、けっこう立派なアンテナで、屋上に高いポールが建っていました。てっぺんに地上波アナログ用、中ほどに地上波デジタル用、そして下方に2素子のFMアンテナがついているという案配でした。

ポールなどはかなり腐食してしまっています。台風などのことを考えれば撤去したほうが安心。FMアンテナも、アンテナ本体以上に引き出すケーブルの端子部や延長接続部などから水が入って相当に劣化が進んでいたようで、これが受信感度低下を招いていたようです。

テレビのほうは、曲折はありましたが、今はCATVサービスを受けているのですべて現役を退いています。TV端子から分配器でFM受信すれば何もアンテナを立てなくとも安上がりで楽しめます。でもアナログ/デジタル変換を繰り返すことや、CATVサービスの音質そのもののことも何だか気持ちが悪くて、アナログ波のアンテナ受信にこだわってしまうのです。

改めて、専用のポールにDXアンテナの5素子アンテナを建ててもらいました。

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アンテナの方向は、結局は古いものと同じ。スカイツリー後も、東京タワーは予備送信所などとして運用が続けられているそうです。実効電力はスカイツリーのおよそ5分の1程度ですが、我が家では十分ですし、TOKYO FMなどは常用送信所のままなのだそうです。

いままで55dB前後だった受信感度がいっきに85dB以上に上がりました。

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聴いてみても、特にTOKYO FMやJWAVEなどの民放の音質が向上したことが耳にも明らか。ベイエリアや横浜方面の信号はさすがに遠いですがそれでも50dB以上は出ています。

これからのエアチェックがさらに楽しみになってきました。

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三浦友理枝 ドビュッシー・ピアノ作品全曲演奏会 第2回 [コンサート]

三浦友理枝さんのピアノは、昨年12月に聴いたばかり。「東京六人組」のアンサンブルでしたが、今回は久々のソロ。

三浦さんは、以前にもフィリアホールでラヴェルの全曲演奏に挑んでいます。あのラヴェルは、同じ頃に聴いた萩原麻未さんの小悪魔的な魅力とはまた違う、透明度の高さと輪郭の鮮烈さ際立つ明解なラヴェルで、すっかり魅了されました。とかく比較対照されるドビュッシーはどう弾くのかととても楽しみにしていました。

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ステージ中央のピアノへと笑みをたたえて歩む三浦さんのワンピースドレスが可愛い。樺色というのでしょうか、あるいは春に芽吹くハゼかしら…赤みがかった黄色がとてもシックな花柄のドレス。

前半と後半とで「映像」の第1集と第2集をそれぞれにメインに据えて、前半には「版画」、後半には「子どもの領分」が合わせられる。いずれもドビュッシーが「印象派」と呼ばれたスタイルを確立した時期の作品で、傑作ばかりです。

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最近は、トークが入るコンサートというスタイルも定着しつつあります。このリサイタルでも三浦さん、曲の合間に簡単な曲紹介があります。簡単な説明ですが要を得て演奏者の気持ちもうかがえるスピーチ。その代わりプログラムのほうは曲名のみと、とても潔い。

三浦さんのドビュッシーは、ハーモニーもリズムも、やはり、とても明解。ドビュッシーの音楽は説明的で絵画的な標題がついていますが、それは洒落た詩文のようなキャッチコピーであって音楽に意味づけとかストーリーを示唆するものではないようです。複雑な拍節の変化と、持続的な鼓動のような律動、意表を突くようなハーモニーや旋法の転回は、光と陰のコントラストをとても明晰に表出していて、私たち聴き手を倦ますところがありません。もちろん、「金色の魚」みたいに錦鯉のジャンプとさざめく水面を想起させイメージ豊かな音楽もありますが、それだって音の感触とか色彩を楽しむもの。そういう知的でなおかつフィジカルな美意識や愉悦が三浦さんのドビュッシー。

意外だったのはピアノが、スタインウェイだったこと。

三浦さんは、本来、ヤマハ弾きだったはず。ラヴェルの時もヤマハでした。休憩時間のほとんどを使って調律師の方が入念にチューニング。思わず席を立つこともなくずっと聴き入ってしまいました。ある音がひっかかったのか、聴いていてもわかるほどにいったん緩めてから調律し直し。休憩終了間際になっていたので、ちょっとはらはらしました。その音色はとても均質でヤマハとよく似ていますが、やや硬質な透明度が引き立つところがハンブルク・スタインウェイらしいところ。単音のうなりもほとんどありません。

ほぼ年代順に機械的に並べられたプログラムですが、最後はちょっとひとひねり。アンコールピースとしてもよく弾かれる「喜びの島」が最後に置かれ大いに盛り上げる。そして最後に、次回のメインとなる前奏曲集と作曲年が重なる「レントより遅く」。アンコールも兼ねた予告編といったところでしょうか。

フィリアホールは、春から耐震化工事のため1年ほど休館となるそうです。だから第3回の具体的な日取りは未定。楽しみは後に取っておきましょう。



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土曜ソワレシリーズ 第298回
三浦友理枝
ドビュッシー・ピアノ作品全曲演奏会 第2回(全4回)
横浜市・青葉台 フィリアホール
2022年1月29日(土) 17:00

ドビュッシー:
仮面
映像 第1集
   1.水の反映
   2.ラモーを讃えて
   3.運動
コンクールのための小品
版画
   1.塔
   2.グラナダの夕べ
   3.雨の庭

小さな黒人
子供の領分
   1.グラドゥス・アド・パルナッスム博士
   2.象の子守歌
   3.人形のセレナード
   4.雪は踊っている
   5.小さな羊飼い
   6.ゴリーウォーグのケークウォーク
映像 第2集
   1.葉ずえを渡る鐘の音
   2.荒れた寺にかかる月
   3.金色の魚
ハイドンを讃えて
喜びの島
レントよりも遅く
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バロック音楽のひととき (鈴木優人&鶴田洋子) [コンサート]

浜離宮朝日ホールのランチタイムコンサート。この日は、鈴木優人さんと鶴田洋子さんご夫妻によるバロック音楽のひととき。

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最近は指揮者でも大活躍と多才ぶりを発揮する鈴木さんですが、この日はチェンバロ。鶴田さんは、バッハ・コレギウム・ジャパンにも参加するフラウト・トラヴェルソの若き第一人者。

バロック期の音楽ばかりなので、ひとつひとつの曲は短め。フローベルガーとC.P.E.バッハを交互に演奏する前半、一転してフランスに目を移す後半と多彩で曲数も多い。

面白かったのは、フローベルガーの組曲からの一曲。

「大きな危険の中、小舟でライン川を渡りながら作曲したアルマンド」という長ったらしいタイトルの一曲ですが、まるでポピュラー音楽かなにかの弾き語りみたいなボーカルマイクがチェンバロの鍵盤上にしつらえられます。果たして何が始まるかと思いきや、鈴木さんが語りを入れながら、曲の細かい一節と交互に演奏していきます。

筆写譜には、タイトルの意味するライン川に泊められていた小舟で起きた事件を詳細に書いてあって、その一節一節に対応する小節に番号が振られているそうです。それを日本語に訳して鈴木さんが語り、弾くという趣向。そういう説明を聞いて納得したところで、もう一度、語り無しで通しで演奏。あまりに短い曲なのでちょっと笑ってしまいましたが、実に細かで巧妙なフレーズに満ちているというのがバロック音楽なのでしょうね。

フラウト・トラヴェルソというのは、バッハ・コレギウム・ジャパンなどの大きなアンサンブルで聴いたことはありますが、こうやってリサイタル形式で聴くのはもしかして初めてかもしれません。ブロックフレーテと同じようにピュアで素朴な音質ですが、音色は暗めで運動性も劣るのでアーティキュレーションの面白みは不足します。一方で、陰影に富んだ繊細さにかえって高雅さを感じるところがあります。

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後半のオトテールでは、手にした楽器を見て、おや?と思いましたが、やはり前半のものとは違っていてフレンチタイプに持ち替えたとのこと。よりニュアンスに富んで優雅です。チェンバロの上蓋はほとんど閉じてしまいます。前半のC.P.E.バッハでは半開でしたが、曲の音域が低めでトラヴェルソの音量も小さいからなのだそうです。

鶴田さんのトラヴェルソは、音程も安定していて、クロスが多そうで難しそうなフィンガリングにもほとんど不確かなところがありません。現代の若手世代の技術には驚かされます。音程の微かな不安定さにかそこき危うさがあってそこに萌えるところがあるのですが、かえって淡泊で生真面目すぎるような印象さえあります。最後の大バッハのソナタなど、チェンバロとの対話の遊びがもう少しあってもよいのではという感じも残りました。

午の前後のバロック音楽。優雅なひとときでした。550席ほどのホールであっても、さすがにこうした曲にはやや大きめで、響きももう少し欲しいと感じますが、充足した気持ちになりました。当時の王侯貴族よりも現代の私たち庶民の方がはるかに贅沢な時間を堪能しているのでしょうね。



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浜離宮ランチタイムコンサートvol.210
鈴木優人(チェンバロ)&鶴田洋子(フラウト・トラヴェルソ)
2022年1月21日(金) 11:30~
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(2階R列10番)

鈴木優人 (チェンバロ)
鶴田洋子 (フラウト・トラヴェルソ)

フローベルガー:トッカータ集第2巻より第1番 イ調
C.P.E. バッハ:フルートとチェンバロのためのソナタ イ短調 Wq.128 H.555
フローベルガー:組曲ホ短調より
       「大きな危険の中、小舟でライン川を渡りながら作曲したアルマンド」
        FbWV-627 解説付き
C.P.E.バッハ:ヴュルテンベルク・ソナタ 第1番 イ短調 Wq. 49 / 1, H.30

オトテール:組曲ト長調 作品2-3
ラモー: 新クラヴサン組曲集 第2番より「めんどり」
クープラン:クラヴサン曲集第2巻第6オルドル神秘的なバリケード No.6-5
J. S. バッハ:フルートとオブリガートチェンバロのためのソナタ BWV 1030 ロ短調

(アンコール)
J.S.バッハ(偽作):フルートのためのソナタ ハ長調よりメヌエット
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「ベルリンに堕ちる闇」(サイモン・スカロウ 著)読了 [読書]

1939年、クリスマスを迎えようとする酷寒に凍てつくベルリンの闇を舞台にした、歴史サスペンスミステリ。

作者は歴史小説家で、これはその初のミステリ小説なんだとか。

ナチ党が権力を掌握し、病的なまでに疑心暗鬼を抱えた暗黒時代のドイツ。ポーランド侵攻後、ドイツと英仏は、妥協による和平か全面戦争かのぎりぎりの交渉を続けている。つまりは、背景となる時代そのものが不安、疑心、危機と緊張に満ちている。歴史の舞台がサスペンスそのもの。

若い女ばかりを狙う凶悪な鉄道連続殺人事件。

ベルリンのSバーンの線路わきで発見された最初の死体はナチ党の最高幹部とかかわった元女優。主人公のシェンケは、警察の刑事だが、ナチ高官からの直接の命令で管轄地域外で起きたこの事件を担当させられる。彼が非党員で、党内組織や派閥に属していない中立的立場だったからだ。捜査は難行するが、犯行から危うく難を逃れた女が現れる。それは亡命した両親から取り残されたユダヤ人の娘。重要な証人と物証を得て捜査は一気に犯人に迫っていく。果たしてこの連続殺人鬼の正体は…?

全体主義は、イデオロギーや政治思想により合一的に運営され、効率的で実行力の高い政治体制だと思われがちだが、そうではない。ナチズムには思想的な一貫性がなく訴求力もなかったから、政権の内情は、実は、派閥に分裂し反目し合っていた。リーダーの機嫌を取るには命令に先んじて意趣に従うことが求められる。恐怖を匕首に、ありとあらゆる特権に群がり、奪いあう。ナチス・ドイツとは、結局、ありとあらゆる腐敗と脅迫により、ばらばらに分断されてきしみをあげる泥棒政治体制だった。

権力掌握後、ナチ党は、あらゆる局面で社会を牛耳るようになる。刑事警察にも、親衛隊(エスエス)傘下に秘密警察(ゲシュタポ)が保安警察の一部局として介入してくる。一介の警察官であろうと入党しなければ、出世はおぼつかないどころか、ナチ批判者だと疑われ、常に監視、服従の圧力を受ける。党を批判をすれば収容所に送られるか、処刑すらされかねない。

主人公のシェンケは入党を拒否しているが、それを表だって露わにはできない。警察の使命に忠実であるという原則で身を守ろうとしても、ナチス高官の専横を避けることは不可能だ。しかも、党組織そのものも、派閥に分断されていて、誰が誰とどう対立しているかもわからない。監視、介入、干渉、盗聴、密告、漏洩、裏切り…。まさに疑心暗鬼の闇というわけだ。

真相の追究と保身の不安が最後までせめぎ合い、まったく息つく暇もない。ネタバレになるので書かないが、最後の最後まで緊迫が続くなかで意表をつくどんでん返しも用意されている。ゲシュタポから派遣されていきた若い軍曹がちょっとほっこりしていて、こういうところが英国人作者のウィットとユーモアなのかなとも思う。

読者までも疑心暗鬼にさいなまれ、先が気になってやめられない。読み応え十分の傑作歴史ミステリ。


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ベルリンに堕ちる闇
サイモン・スカロウ
北野寿美枝 訳
早川書房
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ロマンチック・ピアノ  藤田真央 (芸劇 名曲リサイタル・サロン) [コンサート]

まず驚いたのは、この日の池袋・東京芸術劇場の大コンサートホールが満席だったこと。ホールに向かうあの長いエレベーターの人の列をみて、どこか異様な雰囲気を感じていたのですが、いつもは2階前方がやっとというのに3階まで人がいることに驚きました。このブランチコンサート始まって以来の1999席が完売だとのこと。

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少し遅れ気味で会場内が暗転、飄々とと現れた藤田さんはピアノの前に座って呼吸を整えるとさらりとショパンのノクターンを弾き始めました。その音の美しいこと!

単に音がよいということにとどまらず、濃やかな表情の変化は愛おしいほど。中村紘子さんが「演奏に恋をした」と賞賛したことが胸に落ちます。ほんとうに、もう、あっという間に恋に落ちました。

ご本人もどこかのインタビューに応えて…

『常に「音」のことは意識しています。やっぱり自分はテクニックの前に、音がきれいであるかどうか、音がどれだけ魅力的であるかどうかを考えて弾いています。例えば、次はこういう音を出そうとか。ですので、音を出す前に必ず100%こういう音をというのを作っています。』

…と。

そう、もはや音楽が云々ではないのです。音なんです。そこがもう痛烈なまでに胸を打ちます。満席の会場が静まりかえっている。聴き手の集中度がそのことを何よりも雄弁に語っていると感じました。

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司会の八塩さんが絶妙に話しを振るのですが、その受け答えが最高に面白い。

「ベイスターズのファンだそうですね?」
「はい。ファンになったのは2017年ですが、ずっと不振でついに最下位です」

「恒例の食事質問です。演奏前のメニューとか勝負メシみたいなのありますか?」
「シャーロック・ホームズ先生が集中力を高めるには空腹がよいと言ってました。それで演奏前はできるだけ空腹にしてます。今朝もここまで何も口にしてません」

「このコロナ禍のなかインターネットでの発信が好評ですね」
「ほんとうはやりたくないんです。スイスのボスがやれっていうんで仕方なく…」
「家で撮ってるんですが、母親が2時間以上かけて撮るのでストレスです」

「本日のプログラムについては、どんな思いが?」
「ここのところずっとモーツァルトを弾いてました。今回もほんとうは出したばかりのCDの…その、つまり、キャンペーンというか、モーツァルトかな…と。でも、それじゃボクはモーツァルト弾きだと思われちゃうので、ぜんぜん違うロマン派でと」

映画「蜜蜂と遠雷」では主人公の風間塵のピアノを担当していますが、なるほどその受け答えを聞いていると、天然というのか、世間を超越した天才にふさわしい。会場は、そういう行方定めぬトークをハラハラしながらも思い切り楽しんで笑いが絶えません。

どの曲も見事でした。正直言うと、アイドル型、話題や人気先行ではないかという疑心もないではなかったのですが、そんなものは吹っ飛んでしまいました。しかも、何もかもが新しくて新鮮。

クララ・シューマンには、フェミニンなロマンが満ちあふれる。この女流ピアニストがほとんどシューマンやブラームスのゴーストライター…とまでは言わないまでも、プロデューサーだったことを確信。いやそれ以上の蠱惑的で繊細なロマンス。

ショパンのバラードは独特。既成のヴィルトゥオーゾまがいとはまったく別物で音量もとても小さい。だけど、その音の美しさと千変万化、豊穣の色調で魅了させられます。満席の大ホールの会場も、一音たりとも聴き逃したくないと静まりかえっています。

もっとも感服したのは、最後のリストのバラード。

あの渦巻くような低音の分散和声は、生半可な技術で可能だとは思えません。でも、それを軽々としかも精妙に響かせる。その上に歌うロマンスは自由で伸びやか。おおげさかもしれませんが、この世のものとも思えなかったほど。このひとのリストをもっと聴きたい。

アンコールにも感嘆しました。というより、この短い演奏に知らぬうちに自分の心が心地よく癒やされてもいたことに驚いてしまいました。まるで魔法。

ご一緒した友人ともども興奮がやまず、コンサート後のブック喫茶での感想戦も白熱のあまり時間も経つのを忘れてしまったほど。



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芸劇ブランチコンサート 名曲リサイタル・サロン
第16回 藤田真央
2022年1月12日(水)11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階J列26番)

ショパン:ノクターン 第13番、第14番
クララ・シューマン:3つのロマンス

ショパン:バラード第33番
リスト:バラード 第2番

(アンコール)
モシェコフスキ:練習曲 Op.72-11

ピアノ:藤田真央
ナビゲーター:八塩圭子

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「平成音楽史」(片山杜秀+山崎浩太郎)読了 [読書]

これは面白い。面白すぎる。

現代政治史の泰斗と現代演奏史譚の語り部、ともに博覧強記の音楽評論家のふたりが、平成のクラシック音楽界を語り尽くす。もともとがCSデジタル音声放送の対談番組だから、聞き過ごせばそれでお終いの泡と消える放言ばかり。もちろん切れ味は抜群で、忖度も配慮もない言いっぱなしの暴言もどきの連発。パチパチと言葉がはじける痛快なやりとりが続く。

以下は、ふたりのワンフレーズの数々。なかには相当の暴言・失言も…(?)

(昭和から平成へ)
〇クラシックとは、意外性などがあってはならない宗教的年中行事
〇いまの時代、どこのオケも均質化して独自の音色なんてない
〇昭和はメジャーの時代、平成は多品種と混沌の時代
〇カラヤンの「アダージョ」は資本主義の黄昏

(ジェンダーと“Mee Too”)
〇昭和までは男目線中心、あるいは、旧制高校型教養主義
〇平成は女性目線――それ以前に見過ごされてきた慣行まで遡及して糾弾される
〇女子が作曲家になろうものなら、母親ともども音大教授の「親子どんぶり」の犠牲者に

(宇野功芳なるもの)
〇昭和の吉田秀和的教養と、その良識に反する平成の「宇野チルドレン」
〇宇野功芳の存在は、ある意味で司馬遼太郎と似てる
〇宇野はアンチ・アカデミズムの反主流が大衆の主流になった――それは司馬史観と同じ
〇朝比奈隆/ブルックナー教の熱烈な信者たち――宇野功芳はそのエヴァンゲリスト

(高齢者崇拝)
〇面白みのなかった中堅が、年をとって次の時代にはいい爺さんになる
〇日本人の超高齢マエストロ信仰――その祖はベームやシューリヒト、ワルター

(音楽マネー)
〇小澤征爾は、日本人のなんでもありみたいなところをラディカルに突き詰めた人
〇小澤征爾はおカネを持ってくる、客を集めることができる日本で唯一の人
〇橋下徹が都知事、NHK会長、読売グループ総帥になったら日本のオケは全滅する
〇ゲルギエフ、クルレンツィスはロシア、デュダメルはヴェネズエラのオイルマネー
〇バブル時代の三大テノールで、日本人はようやくオペラに目覚めた
〇マーラー、ブルックナーみたいな大作を好む一億総中流、大衆教養主義のアマオケ世代

(佐村河内事件)
〇平成は、壮大なまがいものの時代
〇まがいものへの感動は、マーラーに始まり、ブルックナーへ、ついに佐村河内へ
〇佐村河内と麻原彰晃に共通するのは、日本人の交響曲信仰

(モダンとピリオド)
〇サントリーホールでヴァイオリン・リサイタルなんて異常な感覚
〇古楽ブームは、アメリカ流グローバリズムに対するアンチ
〇平成になって古典派、シューベルトなどの前期ロマン派が面白くなった
〇ピリオド楽器でやるとスリリングになる――音楽はきわきわでないと楽しくない
〇モダンはある程度のひとがやればある程度になる―― 一億総中流的

(時代遅れの演奏家たち)
〇中村紘子は、いつまでもタテ指がなおらなかった戦後初期のピアノ教育の産物
〇ヨーヨー・マのバッハは「やっぱり僕うまくてすみません」のまま変わらず、悲しい
〇ポリーニは真面目――歳を取ったら相応の美学と弾き方を…ということができない
〇歳をとったいまのポリーニは栄華をしのぶ「荒城の月」の美しさ


きりがないのでこのくらいにしておこう。なお上の一言録は自分の勝手な要約と解釈もあることをことわっておきたい。ファンによっては怒り心頭ということもあるかもしれないが、音楽談義として笑って楽しみたい。


キーワードになっているのは「キッチュ」。

はったり、まがいもの、変わり者、といった意味で使っている。そして、挫折とか出自、血統、あるいは病苦・障害などの克服といった何か壮大な物語がついてくるほど感動するという風潮。それが増長し、ついには佐村河内のようなウソになる。ゴーストライターの新垣隆について、ポストモダンの自己喪失アルチザンだと喝破している。このあたりは、さすがの炯眼だと言わざるを得ない。

しかし、そういうまがいものの大ウソに自分たちも加担していたことに反省、悔悟の気配がない。佐村河内たちが平成の「キッチュ」の頂点だとはしゃぐ結語が、自分たちの大失態への単なる照れ隠しであったらよいのだけれど。


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平成音楽史
片山杜秀+山崎浩太郎 田中美登里[聞き手]
アルテスパブリッシング
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「遊牧の人類史」(松原正毅 著)読了 [読書]

映画「ノマドランド」が話題となり、コロナ感染拡大によってリモートワークが急速に普及し、「定住」「定職・出社」という既成概念が揺らいでいる。その《ノマド"nomad”》とは本来は「遊牧」あるいは「遊牧民」のこと。

本書は、まさにその本来の「遊牧民」の根源的な考察。あるいは農耕・牧畜という形で定住生活を始める以前の人類史を考察したもの。

遊牧というのはそもそも痕跡を残さない。文字といった言語記録もない。だから考古学的検証は困難を極めるし、ヘロドトスや司馬遷など外部者による記録はあるが、内部的伝承もないし古代以前の検証はほぼ不可能。

著者の推論では、現世人類が遊牧の羊の群れと出会ったのは出アフリカを果たして、東地中海や西アジアに達した頃。そこから徐々に黒海沿岸など中央アジアへと拡がっていったいう。狩猟採取は集団を成すが、原始的な遊牧は一家族という小さな集団だったと推定できるという。

トルコ系遊牧民ユルックと生活を共にして詳細なフィールドワークを行い、ユーラシア各地で遊牧社会を研究してきた著者が、そのライフワークとして緻密な推論を繰り広げているのが本書。ほとんど遊牧に接することのない現代人、なかでも日本人にとっては必読のものかもしれない。

遊牧というと家畜とともに牧草地などを求めて流浪するというイメージがあるかもしれないが、これは理解不足であり大きな誤解。遊牧民が共にするのは家畜ではなく《野生》のヤギや羊たち。むしろ、人類が野生の群れに受け入れられて生活している。著者が遊牧民と暮らしていた時も、ヤギなどの群れが一夜にして消えてしまい、後から人間が追いかけるということもしばしば目撃したという。もちろん動物たちが受け入れたのは、彼らにもメリットがあるから。すなわち遊牧とは自然との共生そのものだと言う。

人間の主要な役割は、群れの《管理》ということ。群れをまとめ、はぐれ者をださずに、円滑に移動する。重要な管理は、《性》。野生動物の群れは発情期には激しい抗争を繰り広げる。オスを間引いて群れの秩序を保つ。幼生期や授乳期の子どもを隔離し乳量や生育を管理する。人間は、羊毛や皮、乳などを享受する。食肉は神事などごく希な機会に限られているという。

家畜化への移行の大きなカギとなったのは《去勢》の技術だという。もちろん《性》の管理が目的だった。義和団の乱、日露戦争まで軍馬の去勢を知らなかった日本人にはなじみがないが、ユーラシア大陸では古代からの常識。去勢されたオスは性格が大人しく従順で遊牧の群れを導くリーダーとして活かされたそうだ。

ウマやラクダと出会うのもやはり西アジアでのこと。騎乗技術が発達していくが特にウマは機動力があり、やがて日常的な遊牧管理は女性や子どもに任され男性は騎馬軍団として軍事化する。中世ではモンゴルを典型として遊牧民は強大な軍事力を発揮して歴史を変えていく。遊牧民は、生来、受容性に富み、多民族・多宗教を厭わなかった。モンゴルは世界帝国を成し、次第にイスラム化していったが、各ハン国は民族・言語・宗教を問わず有能な官僚を登用することに躊躇がなかった。それもまた《共生》を根源とするからこそなのだろう。

遊牧民は土地私有とはなじまないから、資本主義、近代国家の形成とともに徹底的に差別され迫害を受けた。けれども行きづまりつつある現代社会の将来を見据えていくうえで、様々に示唆を与えてくれる。それは著者の言うとおりだと思う。

ここかしこに目からウロコが満載で、歴史好きにとっても、人類学、社会学に興味のある向きにとっても示唆に富んだ良著。面白かった。


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遊牧の人類史
 構造とその起源
松原正毅 著
岩波書店
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