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「天智朝と東アジア」(中村修也 著)読了 [読書]

中西進「天智伝」再読にあたって、副読本的に読んでみた。

天智朝の時代の東アジアの国際情勢を平明に概説した教養書との期待だったのですが、内容は著しく偏った視点のもので驚いた。

その主張は、すなわち、白村江の敗北以後の古代日本は、唐軍の進駐を受けて「占領統治下」にあったというもの。

『日本は敗戦したが、唐の占領は受けずに、唐と友好関係を保ち、唐の律令を導入して国力の充実をはかった』というのが定説だとして、そういう従来の定説は、敗戦と占領という歴史事実を認めようとしない「書紀」の隠蔽であり、その書紀を盲信する日本の歴史家の不明だとぶった斬る。

トンデモ本だとまでは言わないし、新たな視点で歴史を読み直してみるという姿勢は歴史研究者のみならず必要なことだとは思うけれど、史書の読解解釈の新説というにはあまりに飛躍が過ぎた仮説で科学的な論証や考証に欠ける。

従来の定説は「戦争の常識を覆す論理である。戦勝国が敗戦国になにも要求しないということがまかりとおるという論」だ、と切り捨てるが、終始一貫、こういう思い込みのみを論理に据えている。敗戦の歴史を受けとめようとしないのは戦後の日本と同じだと訓を垂れる。

本書の根幹を成す「朝鮮式山城」についての考証も、著者の主観に終始する。遺跡を見て回っても、迎撃的な構造になっていないという印象論だけであって確たる根拠がない。防衛強化のための築城だったという定説を否定して、駐留・占領行政の施設だという。築城に当たったのが百済の遺臣たちであり天智朝で官職を得て厚遇された渡来人であっても、それは史書の粉飾に過ぎないというだけ。それでは説得力もない。

天智紀末期に、二千人余りを引き連れて来日した郭務?こそ駐留軍の現地リーダーだという。遼東および半島で中国王朝がとった羈縻政策(異民族国家を軍事的職制による従属統制下に置くこと)を敗戦国・日本に対して行ったというが、これもすぐには納得しがたい。二千人の駐留で十分という断定もあまりに説得力がない。

実際には、朝鮮半島においてさえ中国王朝の軍事支配は一時的、名目的なもので、高句麗滅亡後は、統一を果たした新羅が、一転して唐に反攻を開始して、その軍事力を一掃する。以後は冊封体制へと移行していくことになるわけだ。

著者は、そういう時代の軍事のリアリティをひとつも検証していない。従来の定説における記紀の記述解釈の矛盾を指摘するが、著者の反論もそういう同じ土俵の上から一歩も外へ出ないまま想像力をたくましくしているのみ。当時の朝鮮には、別の記述があるのかどうか、朝鮮式山城に果たして日本のものと違った迎撃タイプの城があったのか、朝鮮における羈縻支配は具体的にどうだったのか…そういう新たなエビデンスが何もない。

あとがきで『恥ずかしながら、ハングル・中国語に明るくない筆者はそれら(朝鮮史料・中国史料)を参照して利用することができなかった』とあるが、そのことに尽きるのだと思う。そういう残念な現実は、主に戦後の国際政治がもたらしたものとはいえ、東アジアの古代史を論ずる学術の世界に各国互いに共通して内在する《恥ずべき》未熟さなのだと思う。




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天智朝と東アジア
唐の支配から律令国家へ
中村修也
NHKブックス
タグ:中村修也
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スピーカーベースの見直し (ウェルフロート2階建て) [オーディオ]

ラック足元のウェルデルタ導入に引き続き、スピーカーベースも見直しました。

ウェルデルタ導入はかなりのインパクトでした。その過程でラック内のセッティングについてもあれこれと試行錯誤しましたが、その結果、気づいたことは以下の2点です。


1.ウェルフロート2階建ての優位性
2.黒御影石は独特の響きがのる

特に、2.の御影石はスピーカーのアンダーボードややラック棚板に使用し長年愛用してきただけにいささかショックでした。

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(Before)

石のアンダーボードについては、サンシャインのHPには

『石はあくまで石屋の副業であってオーディオには決して向いた素材ではありません、その根拠として、内部損失がないです、石の音がモロに乗ります、昔ながらの考えだと、振動は重さで制する、というものですが、これは完全なる間違いです』

とまで書いてあります。

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(Before)

実は、御影石を重量のあるアンダーボードとしてその上にウェルフロートを載せるという方法は、スピーカーの足元で長年使用してきた方法です。ウェルフロート底面とローボード天板との干渉を防ぎ圧倒的な安定感とSNの高さを確保していました。

けれども、御影石の弊害、2階建ての優位性に気づいてしまった以上は、見直さざるを得ません。さっそく御影石に換えてウェルフロート2階建ての導入に踏み切りました。

スピーカーの高さを変えたくないので、薄型ボードとすることにしました。ところがメーカーに問い合わせると、現行のサイズ(PROII)では薄型が無くて、特注も底板の薄鋼板の加工ロット制約のため受けられないとのこと。

あくまでもPROIIは、スタジオ向けスモールモニター用モデルであり、薄型ボードはそもそもラック内に機器類を設置するために開発されたもの。用途がマッチしないので無理からぬところ。けれども、薄型ボードというのは、上板と底板の間隔が狭くなったことで共振帯域をはるか可聴帯域外に追いやり、また、底板もスチールの方が剛性が高いこともあって音質が優位だということも体感しています。ここは何とか薄型にこだわりたいところです。

いろいろ机上検討した結果、PROIIの底板をサンシャイン超薄型制振シートに換装することにしました。実はサンシャインの制振シートはサイズがぴったりなのです。換装用の薄型フルコンメカを有償で供給してもらえるので、PROIIのノーマル仕様と薄型フルコンメカを購入しました。

いざメカを手にしてみると、メカそのものも高さが低くシャフトが短いので、その点でもより剛性が高い構造になっているようです。薄型フルコンメカというのは最強のメカなのです。

あとはサンシャイン制振シートをそろえて、穴開け作業です。

アルミ板や銅板などで使っていた手持ちのドリルビットでは、文字通り、歯が立ちません。あわててホームセンターにスチール用のドリルビットを買いに走りました。さらに、薄型では底面に、ネジ山が出ないように皿ザグリを入れる必要があります。初めてでしたが、ドリルで穴を開けたあとで面取りカッターを電動ドリルに付け替えてやるだけで意外に簡単でした。

最近は、バッテリーの発達のおかげで高性能の電動ドリル一丁で穴開けにせよ、ネジ止めにせよ作業が楽になりました。薄板に貫通穴を開けるだけのことなので作業はスムーズでしたが、ネジ外し、穴開け、ザグリ、換装メカのネジ止めとこれを4ユニット、4枚ですから手間と時間は大変でした。心配した穴の位置精度もまったく問題ありませんでした。換装したノーマルメカはメーカーに返送しました。

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(After)


石とウェルフロートとの間にはコルクシートを挟んでいましたが、ウェルフロート2階建ての場合は何も挟まずダイレクトに重ねる方が音がストレートでよい。このことは、ラックのCDPの足元で散々検証しました。スピーカーの場合も同じ結果となりました。

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(after)
(何が違うんじゃ…というぐらい外見は変わりません)

試聴してみると…効果は歴然。

ラック足元へのウェルデルタでもSNの向上が顕著でしたが、スピーカー足元のウェルフロート2段化でもさらにSN向上の上乗せがあります。ラックでは、どちらかと言えば中高域、対して、スピーカでは低域への効果が顕著。特にキックドラム、コントラバスの質感・量感が上がって思わずニンマリ。カネも労力もかかっていますが、アクセサリーの違いで、まるでひとつもふたつもクラスが上の機器にグレードアップしたかのよう。まさにアクセサリーの凄みです。ローボード上のモニターサイズで、フロア型を凌駕する、これだけのリアルな低音が量感たっぷりに聴けることに快哉を叫ばずにはいられません。

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(After)

ウェルフロートの薄型フルコンメカとサンシャインの超薄型制振シートという最強のコラボ。

大正解でした。

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日本の歌曲 (砂川涼子 ソプラノ・リサイタル)) [コンサート]

浜離宮朝日ホールのランチタイムコンサート。この日は、ソプラノの砂川涼子による歌曲リサイタル。

前半には、ベッリーニ、ロッシーニ、ドニゼッティといったイタリア・オペラの作曲家のアリア、後半は日本の歌曲という構成。

実は、この日、事情があってホールに大幅に遅参。後半だけを聴くということになって、図らずも私にとってはオール日本歌曲のプログラムということになりました。日本の歌曲というのは、アンコールで聴くことはあってもプログラムの主役ということにはなりません。私も、プログラムすべてが日本歌曲というのは、川口聖歌さんの武満徹の歌曲全曲というのが唯一の体験。

多くの日本人にとって懐かしいほどの親しみを感じさせる名曲の数々が、日本でのリサイタル・ステージの主役になりにくいというのは、ある意味では不思議なことだと思います。それは、どこか文部省唱歌という「官製」の古臭さと庶民的に過ぎる通俗性が、やや食傷気味という気分にさせてしまう。合唱曲は盛んですが、これとて学校対抗コンクールの課題曲的イメージが免れません。また、オペラがまだまだ自国文化として根付いていないというクラシック音楽に顕著な西欧中心主義もあるのだと思います。

そういうものを吹き飛ばすような砂川涼子の歌唱が素晴らしかった。

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砂川は、昨秋の新国立劇場「カルメン」でのミカエラの印象がまだまだ鮮烈に残っています。素朴で純情な田舎娘といった役柄でも美貌と姿の良さが引き立ち、ホセを何とかこちらにたぐり寄せようとする健気な引力を歌い上げていました。

選曲にもセンスを感じます。

導入の山田耕筰《中国地方の子守歌》はともかくも、ほとんどがあまり知られていない曲。中田喜直といったポピュラーな作曲家であっても、決して有名な曲ではありません。もちろん私は初めて聴く曲がほとんど。それでも日本歌曲の創造性豊かな独自性と格調の高さを存分に楽しめました。砂川のみなぎるようなパワーに溢れた歌唱がホールいっぱいに充溢すると、あらためて日本語の語感の美しさにほっとさせられる。三木露風、北原白秋といった詩人たちの詩の日本的情緒がかえって新鮮に感じられるほど。

表_砂川涼子 (c) Yoshinobu Fukaya -HP-thumb-250xauto-3848.jpg

三木稔の歌劇《静と義経》では、中世日本の今様を模した歌唱技巧が実に雄弁に歌われていて大感激。このオペラの台本が、あのなかにし礼だと知って軽い驚きもあります。歌い込まれた和歌の歌詞「しづやしづ しずのおだまきくりかえし むかしをいまに なすよしもがな」も真っ直ぐに聴き手のところにまで届いてくるのです。

最後の團伊玖磨の歌劇《夕鶴》は、日本人作曲家のオペラの先鞭をつけたもの。確かにこれは何度も上演されています。もともとは木下順二が《鶴の恩返し》を題材にした戯曲は民俗劇として一世を風靡して、山本安英の《つう》は超ロングランを続けました。私も中学生の時に学校の課外授業として区の公会堂で観たことをよく覚えています。團伊玖磨がすぐに曲をつけてオペラにして、実演は観たことはないのですがTVなどで度々目にしてきました。《私の大事な与ひょう》はリサイタルの掉尾を飾る見事な絶唱でした。

裏_Ryuichiro SONODA - (c)Fabio Parenzan 6 -HP-thumb-200xauto-3847.jpg

献身的に寄り添う園田のピアノも、とてもよく歌っていました。さすが堂に入ったものでした。

日本の歌曲はもっと歌われてよい…それが、率直な感想です。何ともいえない不思議な充実感がありました。


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浜離宮ランチタイムコンサートvol.211
砂川涼子ソプラノ・リサイタル
2022年2月22日(金) 11:30~
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(2階R列10番)

砂川涼子 (ソプラノ)
園田隆一郎 (ピアノ)

ヴィンチェンツォ・ベッリーニ:3つのアリエッタ
               1.熱烈な願い
               2.私のフィッレの悲しげなおもかげ
               3.銀色の淡い月よ
G.ロッシーニ:黙って嘆こう「非難」「古風なアリエッタ」「アラゴネーズ」
G.ドニゼッティ:歌劇「アンナ・ボレーナ」より
        "あの方は泣いているの?~私の生まれたあのお城"

山田耕筰:「中国地方の子守歌」「野薔薇」「曼珠沙華」
中田 喜直:「霧と話した」「髪」「サルビア」
三木稔 : 歌劇「静と義経」より "賤のおだまき"
團 伊玖磨:歌劇「夕鶴」より"私の大事な与ひょう "

(アンコール)
沼尻竜典:歌劇『竹取物語』より「ひめの出題~どなたの愛が一番深いか~」

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時期はずれのミレニアム (小林壱成 ヴァイオリン・リサイタル) [コンサート]

この紀尾井ホール主催の「明日への扉」シリーズについては、公演の時点ではすでに新人ではなく大活躍で名の知れた若手になっていたということを何度も申し上げてきました。

昨年、一昨年とコロナ禍のせいで、公演休止や延期が相次ぎましたが、この「明日への扉」も例外ではありません。そのせいで公演時にはすでに大物ということがよけいに顕著になってきました。前回のフォルテピアノの川口成彦もそうでした。

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今回の小林壱成は、もともとは昨年春に予定されていたもの。その間に小林は東京交響楽団のコンサートマスターに就任してしまいました。在京のトップオケのひとつのコンマスですから、もうすでに明日への扉を開けて立派なキャリアへと歩み出してしまっているというわけです。

プログラムも、サン=サーンスは没後、ピアソラは生誕と、ともにミレニアムを意識しての選択だったのですが、それも今やわざわざそのことを言い訳しなければならないという次第。

一方で、シマノフスキもショーソンも、今どきの新人がデビューリサイタルやCDでよく取り上げる曲。まずはお手並み拝見というところですが、小林はもうすでに卒業という雰囲気がないでもなく、終始、そつの無い演奏。

面白かったのはサン=サーンスのソナタ。

サン=サーンスは、元天才が長じて超保守的な権威になったというところもあって、私も若い頃は退屈なものに感じてしまい敬遠していました。かつて吉田秀和は「なんという安っぽさ、俗っぽさ」「常套手段ばかり」「百貨店の包み紙」(『LP300選』)と散々に言っていて、私も多分に影響されていたのでしょう。それが近年、ちょっとしたブームのような感じで、よい演奏に接することが多くなってきました。まさにミレニアムの作曲家です。

緊密な構成と堅牢な演奏技術とその効果が、小林の持ち味にもマッチしていて、ロマンチシズムの啓蒙思想とクラシシズムの均整美が結びついた、いかにも近代フランスらしい教養を感じさせます。

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ピアノの小澤は、ぴったりと小林の持ち味に合わせて、なおかつ、この多彩なプログラムから、何でもござれと言わんばかりに、それぞれのピアノ・パートの面白さを引き出していて、その何気ない上手さに舌を巻いてしまいます。

後半は、同じミレニアムのピアソラですが、決して場面が大きく転換した感じがなくて、サン=サーンスに通ずる通俗と教養の融和を感じさせます。小林の手にかかると、俗っぽく演奏されがちなピアソラもその根底にある教養が滲み出てくる。あの頃の吉田秀和は、結局、そういう通俗と教養が互いに混ざり合えないと信じていた時代にとどまっていたということでしょうか。

最後のプロコフィエフもそういう小林の特質が出ていたように感じます。プロコフィエフをデビュー間もない新人が盛んにプログラムに掲げる時代になったということに感無量の気分もありますが、同時に聴き手にとってもプロコフィエフがそれほどの聴きづらさを感じさせない時代にもなったのだと気づきます。

「戦後」は遠くなりにけり…というところでしょうか。



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紀尾井 明日への扉30
小林壱成(ヴァイオリン)
2022年2月16日(水) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階 15列18番)

小林壱成(ヴァイオリン)
小澤佳永(ピアノ)

シマノフスキ:ノクターンとタランテラ op.28
ショーソン:詩曲 op.25
サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ第1番ニ短調 op.75

ピアソラ:ル・グラン・タンゴ(グバイドゥーリナ編)
プロコフィエフ:ヴァイオリン・ソナタ第1番ヘ短調 op.80

(アンコール)
ピアソラ:タンゴの歴史より「ナイトクラブ1960」

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「大人気カルテット現る!」 (芸劇ブランチコンサート) [コンサート]

清水和音の名曲ラウンジに、いま、大人気のクァルテット・アマービレが登場。

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クァルテット・アマービレは、2015年に桐朋学園大学在籍中に結成、2016年に難関の第65回ARDミュンヘン国際音楽コンクール弦楽四重奏部門で第3位に入賞、19年にはニューヨークのヤングコンサートアティスト国際オーディションでも第一位を獲得。その他内外のコンクールで第一位を獲得している。

20年よりハクジュホール“BRAHMS Plus”シリーズでは清水氏とも共演。このシリーズでの収録映像・音声がNHKで放映・放送されています。ここでは彼らの師ともいうべきチェロの堤剛、ヴィオラの磯村和英とシェーンベルク「浄夜」などを共演。鮮烈な印象を受けました。

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いよいよ生アマービレが聴けると期待を持っていました。

女性3人の衣装は、デザインはそれぞれですが、色を統一するというのが流儀のようで、この日はひときわ鮮烈な真紅。男性ひとりのチェロ笹沼樹だけが長身、他の女性3人はほぼ同じ背丈ということもあって、これもまたアンサンブルの一糸乱れぬ隊列感を醸し出します。

1曲目は、ヴィオラの佐々木亮が加わってのモーツァルトの弦楽五重奏曲。

ヴィオラ2本という特異な編成で、弦楽四重奏曲とは違った雰囲気の響きで、音の綾が複雑。モーツァルトらしい明るい稚気に富んだ活気もあるし、塗り込まれた油絵のような厚みもある。その分、ヴァイオリンが引き立ちにくいところがありました。ヴァイオリンが主役のところはもっと華やかに活気づいてほしいという不満が残りました。

2曲目のドヴォルザークでは、そういう主役不在の様相が一変。

ピアノと弦楽四重奏という構成は、ロマン派の時代になって一気に開花したアンサンブル形式です。さすがすでに共演を重ねてきた清水とアマービレは息もぴったり。ピアノはもちろんのこと、四重奏でも、2人のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが対等に渡り合い、そこかしこソリスティックな持ち場もあり、互いの粋なやり取りや、裏に回ったときの洒落た居ずまいも満載です。聴いていて一気に目が覚めました。

どうもそれとなく見ていると、司令塔としてのリーダーシップは中央のヴィオラの中さんが握っているようです。第1楽章はチェロの長いソロで始まるのに、メンバーの準備を確認してからピアノの清水さんに目でキューを送ったのは中さんです。アンサンブルのただ中でもそういう細かい仕草がつい目に止まるのです。モーツァルトでは、先生の佐々木さんの横でやりにくかったのかもしれません。四人が解き放たれたように自由闊達に動き出しました。これはもうさすがというしかないアンサブル。

スピーチでは、清水さんと佐々木さんが「弦楽四重奏団の活動は続けることが難しい。是非4人を応援してあげてほしい」と応援演説。

確かに、独立した小規模の室内楽は、常設のアンサンブルとして活動を続けるのは、興行収入面でも練習場所の確保という面でも困難です。ロンドンのウィグモアホールのように“レジデント(Artists in Residence)”として、一定期間の客演者として指名し、公演とリハーサルの場を保証するレジデント制を日本のホールもどんどん取り入れて欲しいと思います。

日本の若手アンサンブルがどんどんと活躍を始めています。クラシックファンも室内楽にどんどんと目を向けて楽しむようになってきました。企画ものではない、名実ともに充実した世界レベルの常設アンサンブルの先頭ランナーとしてクァルテット・アマービレは応援しがいのある期待の若手スターグループです。

夢のふくらむ素晴らしい演奏でした。


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芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第34回「大人気カルテット現る!」
2022年2月16日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階N列12番)


モーツァルト:弦楽五重奏曲 第6番 変ホ長調 K.614
クァルテット・アマービレ
【篠原悠那 北田 千尋(Vn)中 恵菜(Va)笹沼 樹(vc)】
佐々木 亮(Va)

ドヴォルザーク:ピアノ五重奏曲 第2番 イ長調 op.81
クァルテット・アマービレ
【篠原 悠那 北田 千尋(Vn)中 恵菜(Va)笹 沼樹(vc)】
清水 和音(Pf)

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チョコレートの滴り (金子亜未 紀尾井ホール管弦楽団定期) [コンサート]

紀尾井ホール管弦楽団のこの日の定期は、もともとは首席指揮者ライナー・ホーネックの最終公演の予定でした。ソリストもロンドン交響楽団オーボエ首席のオリヴィエ・スタンキエーヴィチを予定していましたが、いずれも今の政府のいわゆる『水際対策』にために来日できなくなりました。

2年ぶりの有観客開催となったウィーン・フィル恒例のニューイヤーコンサートの画像にバレンボイムとともに写っているホーネックの姿を見ると残念感が増しますが、新型コロナ感染はクラシック音楽界に多大な影響を及ぼし続けています。

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スタンキエーヴィチの所属するロンドン交響楽団は、ラトルの指揮、ツィメルマンのピアノで、素晴らしいベートーヴェンの協奏曲全曲をリリースしています。この収録は、一昨年末のコロナ感染対策下で行われています。

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リハーサル会場(セントルーク教会)でのセッション収録ですが、各奏者の間隔を空けてホールいっぱいに拡げての配置にもかかわらず、素晴らしい空間音響での集中度の高い演奏となっています。

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ピンチヒッターを務めたのが阪哲朗。

今回で4度目の紀尾井への客演というのも、改めて驚きですが、ウィーンやドイツ各地などヨーロッパ各地の劇場でキャリアを積んできただけあって、いつも正統かつフレッシュな演奏で瞠目させられ続けてきました。ウィーン古典派を指揮すると、ちょうどラトル指揮ロンドン響のベートーヴェンを彷彿とさせるところがあります。

ちょっとサイズの大きい序曲といった一曲目の「リンツ」が終わると、いよいよオーボエのピンチヒッター金子亜未の登場です。

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金子は、現在、読響の首席。先日のアンサンブル・シリーズでは、デュティユーの曲で凄い演奏を目の当たりにしたばかり。オーボエのソロというのはどこか巫女的な憑依がつきもの。その金子は、今回の代演となったスタンキエーヴィチとは2012年に軽井沢で開催された国際オーボエコンクールで競い、彼に次いで二位になったというのも何かの縁でしょうか。

そのシュトラウスが素晴らしかった。

この協奏曲を初めて聴いたのは、はるか昔のこと。N響の定期に登場したハインツ・ホリガーの演奏に衝撃を受けたことを今でも鮮烈に思い出します。それまでのバロック的なオーボエ協奏曲のイメージを打ち破る新鮮極まりない演奏でした。確かにモーツァルトへのオマージュ的なロココ的な雰囲気もあるのでしょうけれど、あの当時の私には前衛とはまた違った20世紀モダニズムの真実を教示されたような気がしたのです。

金子のオーボエは、最初こそちょっとだけ硬いところがありましたが、すぐにまろやかなレガートの果てしない音列の滑らかな艶と甘味に満ちたもの。まさに磨きに磨いた生チョコレートがすーっと伸びやかに滴るかのように甘美そのもの。それは戦争で壊滅したドイツへの哀切極まりない心情というよりは、モーツァルトなどのドイツ・オーストリアの古典への憧憬そのもの。金子はそういう歴史と伝統の積層したチョコレートケーキを焼き上げるようなパティシエそのもの。

後半のベートーヴェンも秀逸でした。

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この日の編成配置は一貫して8-7-6-4-2の両翼対抗左低弦型。紀尾井ホール管では珍しい配置なのですが、阪はこれまでもこの配置に徹しています。聴いてみるとこの配置だと左右の音響の重心のバランスがとてもよい。低域の響きが不思議と右手にも充溢して基盤の拡がりがどっしりと安定している。ベートーヴェンの2番の交響曲というのは、まだまだハイドンやモーツァルトの残影が色濃いのですが、1曲目のリンツなんかよりもはるかに覇気に富んでいて意匠意欲も積極的。久々にこの曲の面白さを堪能させてもらったのは、もしかしたら、かえってホーネックよりも阪のタクトのおかげなのかもしれないとさえ思いました。

コロナ禍の逆風を吹き飛ばすような爽快なコンサートでした。





紀尾井ホール室内管弦楽団 第129回定期演奏会
2022年2月12日(土) 14:00
東京・四谷 紀尾井ホール
(2階センター 2列13番)

阪哲朗 指揮
金子亜未 (オーボエ・ソロ)
玉井 菜採 コンサートマスター
紀尾井ホール室内管弦楽団

モーツァルト:交響曲第36番ハ長調《リンツ》K.425
R. シュトラウス:オーボエ協奏曲ニ長調 AV144, TrV292

ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 op.36

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富田心 東京・オーケストラデビュー (都響 プロムナードコンサート) [コンサート]

先日の、東京デビューリサイタルにすっかり魅せられて、サントリーホールまで追っかけしました。

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そのグラズノフの協奏曲が素晴らしかった。

そもそもこの曲は滅多に演奏されない。私もナマは初めて。いざ聴いてみると、オーケストラも充実した響きでいかにもグラズノフらしい充実した音色が聴ける。しかも、ヴァイオリンの独奏も、難技巧が地味にちりばめられているのがナマでこそ分かるとことがあって、やっぱり名曲だなぁと実感したり、演奏されたがらないことにも納得するやら。

富田心は、その難曲を何事もないように端然と弾き進める。

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祝祭日のプロムナードコンサートのせいか、あんなタイミングだったにもかかわらずよい席が取れました。自分としてはこのホールベストのLBブロック。右か左か多少迷いましたが、かえってヴァイオリン独奏の指がよく見えて正解。オーソドックスな右低弦配置なので低域もたっぷりと届きます。

甘美なほどに流麗な第一楽章もたっぷりと聴かせてくれます。ソロの出だしの低域もよく鳴っていて中高音も豊か。先日のリサイタルとは、やはりホールの残響の長さの違いを感じます。やっぱり凄みを感じさせるのは中間のカデンツァ。派手な振りは何一つないのに重音奏法の技巧の限りが尽くされている。特に終盤の十六分音符のトレモロ音型を重ねるところは、こうやってこの目で指遣いを見てみると凄い。民族色がたっぷりの終楽章も華やか。

富田心は、二十歳前とは思えないほどステージマナーも堂々たるもの。ほんとうにこれから目を離せない若手だと思いました。楽器は、サイタルの時と同じという印象。ホールの響きの違いはあっても、低域がややリッチさに不足するところや高域のクセなどが同じだと感じたからです。でも、若さがあってよい楽器です。とにかく、若い奏者と若い楽器の、そういうしなやかな感性を心から楽しませてもらいました。

この日の指揮者は、代演のアクセルロッド。11月半ばに来日。その後の政府の外国人締め出し政策のおかげで代演に引っ張りだこ。ビザの3ヶ月をフルに使って、なんと5つのオーケストラと21公演の指揮台に上ったのだとか。ひと呼んで《国境封鎖の指揮者》。

最初の「ポロネーズ」はノリノリ。

この曲は、チャイコフスキーの歌劇「エフゲニー・オネーギン」第3幕冒頭に演奏される曲。それまでの晩秋の田舎貴族の邸宅、凍てつく厳冬の原野の決闘という場面から、一転して華やかなペテルブルクの大舞踏会の場面に転換する曲。だから、この曲の演奏は華麗であればあるほど映える。都響の面々も身体をポロネーズのリズムに任せて弾きまくる。さすが都響ならではの頭からのフルスロットルは気持ちがよいほど。

後半の交響曲4番も、大変な熱演でした。

冒頭の運命のファンファーレからして壮麗。アクセルロッドの指揮は、聴かせどころは盛大に聴かせる。ホルン5台、トランペット4台と、それぞれ1台が補強されていて全奏の場面では全員参加で目一杯強奏させる。各楽章のテンポも緩急がエキスパンドされていて、加速、減速、ギヤシフトが小気味よいほどにスポーティ。

アクセルロッドは、指揮者を志す前は、カリフォルニアのワイナリーで働いていたという異色の経歴だそうです。なるほどいかにもアメリカ的な曲想のとらえ方で、運命とか陰鬱なロシアなどはお構いなしで、さながらサンタモニカかナパのワインディングロードを、大排気量のオープンカーで疾走するかのようなチャイコフスキー。これに応えて、吹き上げる金管セクションも、ノンブレスのオーボエソロも、疾走するピッツィカートの弦セクションも、最後の怒濤の行進とドスの効いたグランカッサもやれるだけやりきってしまうのが、さすが都響といえばさすがでした。

グラズノフがそうならなかったのは幸い。想像だけどソリストとオーケストラは、予定されていたオスモ・ヴァンスカと事前にこの演奏をよくよく打ち合わせていたのではないでしょうか。アクセルロッドは、この曲だけは大人しくソリストとオーケストラに従っていたという気がします。

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終演後は、大熱狂の拍手喝采。アクセルロッドは、この公演を最後に3ヶ月に及んだ日本滞在を終えてアメリカへと帰国するのだそうです。






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東京都交響楽団
プロムナードコンサートNo.395
2022年2月11日 14:00~
東京・赤坂 サントリーホール
(2階 LB4列 9番)

指揮/ジョン・アクセルロッド
ヴァイオリン・ソロ/富田 心
管弦楽/東京都交響楽団
コンサートマスター/矢部達哉

チャイコフスキー:歌劇『エフゲニー・オネーギン』より「ポロネーズ」
グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲 イ短調 op.82
エネスク:「幼き日の印象」より I.辻音楽師 op.28-1

チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 op.36
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「天智伝」(中西 進 著)再読 [読書]

まさに激動の時代に生き、その生涯は血なまぐさい陰謀と殺戮に彩られ、民衆の誹謗にさらされ続けた一方で、叡智英明の王ともたたえられる天智天皇。その人間像に迫る評伝。

著されたのは今から50年前のこと。

古代史には謎が多く、書紀の記述にも矛盾が多く、その足跡にも諸説が交錯する。著者の中西進は、今では「令和」の考案者として知られる。その出典が万葉集であったことが話題となったが、中西は万葉集の研究者であって歴史学者ではない。そういう著者が、丹念に記紀をたどりつつも歴史解釈に拘泥することなく万葉の詩情を汲み上げながら人間味に溢れた天智像を描いている。

天智天皇の時代は、まさに内憂外患。むしろ、国際的には危機的な状況にあったと言ってもよい。

隣接する朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の三国が興亡をかけた戦乱の渦中にあった。中国と高句麗は、長年、遼東でせめぎ合いを繰り広げてきたが、やがて中華帝国は支配拡張の野心を隠さないようになった。遼東南方の百済を支配下に置き軍事支配の根拠としようと企てる。常に他の二国から圧迫される立場にあった新羅は、ようやく半島南部を平定し、その中国と結び百済を滅ぼそうとする。

日本は、華北、山東への海路にあたる百済と長く親交を結び、先端の文化、知識、技術を導入し多くの渡来人を迎え入れていた。そこから得た知識から新たな国家の理想像が芽生えていく。経済的にも軍事的にも中央集権化をはかる必要があり、従来の有力豪族の合議制から脱して、確固たる王権の法的な支配のもとに有能な人材を登用し官僚国家を確立する――すなわち律令体制の実現こそが国家的課題だという覚醒が生まれる。

若き中大兄皇子は、そうした理想に燃え、中臣鎌足に共感し手を組み、まず、蘇我蝦夷・入鹿の父子を誅殺し蘇我氏の専横を排除した。鎌足の助言に従い、あえて王位にはつかず実権を掌握し続けたが、改革は遅々として進まなかった。鎌足も内大臣にとどまり、二人は一歩下がった地位のまま王統主導で改革を進めようとするが、その間も血なまぐさい陰謀、殺戮は続いた。

中大兄皇子は、そういう鬱屈にさいなまれ続ける憂愁の皇子。

盟友であるはずの鎌足に対しても、その冷徹な姿勢に時として畏怖の念を抱き、常に孤独であり続けた。その皇子が、あえて鎌足の冷視を押し切って進めたのが百済救済の援軍派遣だった。長年、人質として日本に滞在し親交も深めてきた百済の太子・豊璋を帰還させ百済再興をはかるという正義に皇子は高揚を覚える。

しかし、そこまでして進めた百済再興の救援は、白村江で壊滅的な大敗に帰する。

この敗北と、その後の危ういまでのバランス外交は、さらに中大兄を苦しめたに違いない。そういう苦境のなかで曖昧な形で王位につかざるを得なかったというのは天智天皇をさらに追い詰めていったのだろう。唐からは強圧的な軍使がたびたび来訪し、北方の高句麗攻略に組みする新羅は後背をつかれたくないために唐の威圧を利用しながら善隣友好を求めてくる。もちろん高句麗も援助を求めてくる。天智帝の晩年は、そのいずれにも莫大な貢物を差し出して軟弱友好を装わざるを得なかった。白村江で主力が壊滅した西国は、軍事的にも統治的にもほぼ丸裸だったからだ。

天智天皇は、そういう憂愁の皇子だった。

50年前に本書を読んだときは、日本の古代史にこれほどの朝鮮との関わりがあったことに驚いたという記憶があります。50年たった今、再読してみると、改めて現代の国際政治の現状との相似におののくばかりです。


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天智伝
中西 進 著
中公叢書
(昭和50年6月20日初版 昭和51年2月5日3版)

タグ:中西 進
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バッハと紡ぐ未来 (大塚直哉レクチャー・コンサート) [コンサート]

大塚直哉さんが、2018年以来続けているレクチャー・コンサート「オルガンとチェンバロで聴き比べるバッハの“平均律”」の最終回。

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第2巻から、最後の6曲をオルガンとチェンバロで聴き較べ、そこに秘められたバッハの思いについて語る。バッハの音楽をめぐって、しばしば登場するのが「自筆譜」です。“平均律”第1巻は、その自筆譜が存在しますが、第2巻には最終稿が残っていません。自筆稿として唯一、現存するのが《ロンドン写本》。

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その自筆稿を所蔵している大英図書館(The British Library)のあるロンドン在住の作曲家・武智由香さんがゲスト出演。現在の状況から、ご自宅からのリモート出演ということになりました。そのご自宅は、ロンドンの中心にあってバッキンガム宮殿のすぐ近くだそうです。

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バッハの平均律は、オクターブを12等分した「十二平均律」というように音律のことが言われますが、むしろ、バッハの本意は、その平均律の鍵盤によって24の調性すべてを網羅するということだったといいます。それは、19世紀のロマン派の調性音楽の多彩な世界の扉を開き、やがてはワーグナーの“トリスタン”に象徴される調性の崩壊へと続き、ついにはシェーンベルクらの無調、十二音技法へとつながっていくというお話し。

「音階」というのは、全音と半音とで構成され、ヨーロッパ近代音階はミとファ、シとドの間に半音があります。その半音がどこにあるかで調性が決まる。バッハは、その音階を駆使している。それは連続した音符として頻繁に登場し、あるいは小節の拍節を飛び石のように登場させたりもします。そういう音階をずらしたり呼応させたり、あるいは鏡の像のように上下を反転させたりと秘術の限りを尽くす。それが、この最後の曲では顕著であり、特にそのフーガは極めて技巧的。

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それは楽譜を視覚的に見るととても構造的によくわかるのですが、演奏家や作曲家からすれば、そこに情感の多彩さを編み出す技術としても、指先の快感としても、単なる造形的な技巧を超えたものがあるというお話しです。自筆譜には、それを作曲家自身が楽しみ表現の一部として自身の筆致そのものがあるとさえ言えるほど。そのことは、現代音楽の譜面(すなわちそれは自筆で書かれているわけですが)にも共通するそうです。

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(武智さんの自筆譜)

最後の6曲は、イ長調・イ短調から変ロ、ロ調へと続きます。変ロ短調では♭が5つにまで増えて、それがロ長調になると5つの♭が♯へと突然に転換するのも面白い。ロ長調というのは、半音が多くて目が眩惑されますが実は奏者にとっては黒鍵と白鍵がちょうど指の長さになじむので弾きやすいのだそうです。

その音階に頻繁に半音を登場させるバッハ。

半音は、転調、移調のきっかけにもなるのですが、臨時記号が頻発すると次第に自分がどんな調性に位置しているのかが判然としなくなってくる。そういう調性崩壊をすでにバッハの作曲技法は見通していたというのです。第20番のイ短調でも頻繁にその臨時記号が登場します。ただでさえ調性そのものの半音記号の多い第22番の変ロ短調ではそういう調性崩壊の先がけのような複雑な意匠があって重厚さが増していき、特にフーガではそれが見事です。

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これら最後の6曲の調性の主音は、A→B→Hとなります。これは調性主音の根源であるCからは一番遠ざかり、そして最も近接していくということでもあります。本来、BでありB♭であるべき音名がなぜドイツ語では、Hであり、Bなのかは諸説あるようですが、いずれにせよ、ここにはBACHというバッハの名前が埋め込まれているのも何やら因縁めいています。

最後のロ短調にはどこか、未来へと拓けているような拡がりを感じると大塚さんは言います。確かに、ロ短調はバッハの大作によく登場しバッハが何かを訴えているような調性なのかもしれません。

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武智さんの新作は、そういうどこか前方へと視界を拡げるような曲調のバッハへのオマージュ。プレリュードにはフーガが続くはず…との大塚さんの問いかけに、武智さんは肯きながらさらに「BACH」の音名テーマの曲もぜひいつか手がけたいと応えていました。

次回は、バッハの若い時代の作品とともに楽譜に使われた“紙”をテーマに企画するというとのこと。これもまた楽しみです。



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大塚直哉レクチャー・コンサート
 オルガンとチェンバロで聴き比べるバッハの“平均律”
Vol.7 バッハと紡ぐ未来
2022年2月6日(日)14:00~
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール
(1階 B列9番)

大塚直哉(演奏・お話し) チェンバロ、ポジティブオルガン
武智由香(作曲家・対談 ロンドンからリモート出演)


J. S. バッハ:《平均律クラヴィーア曲集第2巻》より
 第19番イ長調BWV888
 第20番イ短調BWV889
 第21番変ロ長調BWV890
 
【対談1】バッハの魅力―作曲家と演奏家の視点から 武智由香&大塚直哉

 第22番変ロ短調BWV891
 第23番ロ長調BWV892
 第24番ロ短調BWV893

【対談2】バッハと紡ぐ未来 武智由香&大塚直哉

【彩の国さいたま芸術劇場委嘱・初演】
武智由香:Bach Homaggio ― Prelude I(2022)
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ラックの見直し (ウェルデルタ導入記) [オーディオ]

長い間、ほとんど手を入れたことがなかったラックの見直しでびっくりするほどの成果がありました。

きっかけは、昨年末のMさん宅訪問のこと。
https://bellwood-3524.blog.ss-blog.jp/2021-12-22?1647135459

マジコ(MAGICO S1 Mk2)の足元のウェルデルタを見ていてふとひらめいたのです。Mさんはマジコの純正スパイクを特注のチタン製に換えるなどすさまじい追い込みをされていましたが、それ以上にウェルデルタとスパイクとのなじみの良さが印象的でした。

思い出したのが、この記事です。
https://community.phileweb.com/mypage/entry/3111/20211003/68530/
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ラックの足元にウェルフロートを入れるという振動対策で、大きな成果を得たというレポートです。特に私の目を引いたのが、重量のある真空管アンプのラックをキャスターごとウェルデルタに載せてしまっている写真。

なるほど…としか言いようがありません。最近では、コンサートピアノの足元用のウェルフロートが導入されて評判になっています。ラックのキャスターを載せるのはピアノ用と全く同じ発想ですね。ラックに、ウェルデルタがこんなにも馴染むとは…。ちょっと目からウロコでした。

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以前からウェルデルタに注目していましたが、実際の導入にはためらっていました。かっこうのセッティングが想像できなかったからです。Harubaruさんの真空管アンプ用ラックは私の鋼製フレーム・ラック(FAPS製 生産終了)とよく似ています。荷重重量が大きいことも共通です。足元は、j1projectのICP 大型ハイブリッドのスパイク/ベースを使用しています。導入当時はこれ以上のものは考えられないと思ったほどしっかりしたものです。これをそっくりウェルデルタに換装することも頭の中ではシミュレーションしましたが、いまひとつしっくりこなかったのです。

それがMさんのマジコの足元でひらめきました。j1プロジェクトをそっくり換装するのではなく、スパイクをそのままにしてベースだけをウェルデルタに換えるという方案です。しかもHarubaruさんによれば、ラックの足元でも効果が大きいという。それで一気に気持ちが動き出しました。

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やってみると、まるであつらえたようにぴったりです。

その成果には、目を瞠るものがありました。ラックでこんなにも効果があるとは想像もできなかったことです。ある程度はあると思いつつも半信半疑というところが正直なところでした。しかし、その効果はそういう予想をはるかに超えるものです。まるで、機器そのものを最上級の最新モデルにグレードアップしたかのような違いがあります。

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しかし…

すんなりこれで喜んでいればよいものを、つい、いつもの悪いクセが出て、いろいろと余計なことをやってしまい散々苦労しました。

結論を先に言ってしまえば、単純に入れ換えるだけで良かったのです。

どんな余計なことをしたかと言えば…

1.御影石の導入
2.ウェルフロート2階建ての簡略化(2階建て→1階建て→ウェルフロート撤去)
3.サンシャイン/オールマグネシウムボードの導入


いずれも、最下段に設置しているGRANDIOSO K1の足元の見直しです。ウェルデルタをラック全体の足元に導入するならば、個々の機器に入れているウェルフロートをリセットできるのではないかと考えたのです。御影石は、重量があってその重量で制振効果を得るもので、リジッドなベースとしてこれまで使い込んできたものです。

失敗だったことをくどくどと詳しく書くことは止めますが、1.の御影石が特有の響きがあって音を阻害していました。中高音帯域、およそ女性ボーカルとかヴァイオリンの中域にあたるところで音を濁らせます。そのことがラック足元のウェルデルタ導入で恐ろしいほどによくわかるのです。

もちろんすぐにわかったわけではなく、1.と2.とで重いラックを何度も外しては組み上げる作業が延々と続きました。最後は、御影石を撤去することが最適とわかりました。2の2階建ての簡略化の試みも全く徒労でした。2階建ての効果も顕著です。音の静かさ、鮮度、濃厚なアナログ的臨場感、バックの音楽的解像度が明らかに違います。

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3.のマグネシウムボードは、バズケロさんが使用していてよい音がしていたので、やもたてもたまらず導入しました。しかし、確かにハイファイ調になるのですが、例によってマグネシウムのハイ上がりの金属臭さが載ってしまいました。マグネシウム嫌いの私としては、またやってしまったと思いました。

いろいろ工夫してみましたが、結局、外してしまいました。これで音がぐっと自然になり落ち着きが出ました。

しかし、しかし…です。

外してしばらくすると、どうしてもあの高域の線の美しさ、シンバルの抜けや力強さが忘れられないのです。解像度アップの確かな手応えとともに、ああいう音が出たということは確かにマグネシウムボードの良さなのです。これもまた、ツィターを換えたりスーパーツィターを加えたりといった効果を超えるものがあります。そのことが、別れた女のようにどうしても忘れられない。

それでまたよりを戻すことに。どうもマグネシウムのインシュレータ―などでは、接面の接触歪みが問題のようです。いろいろ試しました。最終的にはウェルフロートとの間にコルクシートを敷き、さらに、GRANDIOSO K1のインシュレータ―の底面にもコルクをかませることで、マグネシウム独特のハイ上がりの聴感や白濁感がようやく解消し質感のバランスもよくなりました。けれども、コルクやフェルトなどの材質やその厚みでも音がころころ変わります。実験検証のたびに半日がかりでラックと機器を組み直すので、時間と労力が大変でした。結局、材質としてはコルクが最良で、しかも薄いほどよい。厚いと音が鈍く緩くなって、せっかくのマグネシウムボードの効果が相殺されてしまう。1㎜厚という最も薄いシートがベストというのが結論です。

それにしても、ラックでこれほど音の違いに振り回されるとは思いもよりませんでした。それだけウェルデルタがもたらした音の純度の高さがすごいということです。

特に印象的なのはピアノの音です。背景の静かさ…というのか、空間そのものの透明度というのか…、その音の純度の高まりと音色のリアリティが半端ではなくて、ピアノの弦の打音、弦の共鳴、鋼製フレームや筐体の響き、録音現場のステージフロアやアンビエンスなどがたまらないほどの臨場感とともに聴きとれるようになります。録音の良さ、ハイフォーマットの優位性が遺憾なく発揮される。

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最近、入手したこの素晴らしい演奏との出逢いはタイムリーでした。

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