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「古代の皇位継承」(遠山 美都男 著)読了 [読書]

今上天皇は、天智系だといわれる。

天智天皇が亡くなり壬申の乱が起こって、大海人皇子が勝利し即位して天武天皇となった。

しかし、天武天皇系の聖武天皇には男子が育たなかった。天武系は、女帝である称徳天皇(孝謙天皇重祚)を最後として、100年ほどで絶えたからだ。

聖武天皇の実の娘で女帝となった孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は皇位を天智帝の曾孫である光仁天皇に譲る。光仁天皇は、62歳で立太子してわずか2ヶ月で即位する。

これだけでも異様な継承の経緯だが、あわせて聖武天皇の第一皇女で妃の井上内親王が皇后となりその実子・他戸親王(おさべしんのう)が11歳で立太子する。天武の血統も守られたかに見えた。しかし、わずか1年余りの後、井上内親王が呪詛の罪に連座し皇后を廃され、皇太子の他戸親王も皇太子を廃されてしまう。

代わって山部親王が37歳で皇太子に立てられた。後の桓武天皇である。ここで天智帝の系統が確立する。天武系の井上内親王も他戸親王もいずれも悲惨な末路となったことも考え合わせるとまことに異様な経緯だった。

ここから、両系統の間には対立があり、単なる血統の起点というにとどまらない天武系、天智系という皇統の系譜が語られることになる。あわせて、孝謙天皇について、退位後も上皇として権勢をふるい、あげくには弓削氏の僧・道鏡を寵愛して悪名をはせたこともあって権謀術数の陰湿な女帝というネガティブな印象論がまかり通ることにもなった。

著者は、こうした「天智系・天武系の対立」という見方に疑義を唱える。

確かにそんなものはなかったのだろう。皇位継承はその都度、都合の良いレトリックが提起され、その正統をめぐって争われ、時には権謀術数を駆使してライバルを追い落とした。その背後には相も変わらず有力な豪族の権力争いがあったわけだ。こうした複雑な皇位継承の経緯の解明には、なかなかに説得力がある。なるほど、奈良時代になっても、かくも血生臭い身内同士の血の争いをしていたのかと、尊崇する我が皇統のいささか情けない歴史に感心するやらがっかりするやら。万世一系とは、実はこんなものだったのかとため息交じりにそう思う。

一方で、天皇が、貴族政治の没落、武家政権の確立と戦乱、徳川封建国家から明治まで、一貫して民族の一体統合の超然とした象徴として不可侵の尊崇を受け続けたことも事実。そういう皇統の原理原則がどのようなものであり、それがいつどんな形でどのように確立されていったのかという根本的な疑問は残されてしまう。

また、「女帝」問題ということにもどこか隔靴掻痒の感が残る。本書が書かれた当時には、女性天皇の容認あるは本格的な女系天皇という皇統継承のあり方が論じられていたはず。歴史の俗っぽい論議としても、古代の女性天皇とは定説がいうように「中継ぎ」「時間稼ぎ」「傀儡」だったのか、あるいは、むしろ、在位が長年に及んだ推古、いずれも重祚した孝謙天皇あるいは皇極天皇のように、むしろ、強大な主導的王位者だったと見るべきなのか。疑問は尽きない。

日本の古代史は面白いが、釈然としないことが多すぎる。



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古代の皇位継承
 ―天武系皇統は実在したか
遠山 美都男 (著)
(歴史文化ライブラリー 242) 吉川弘文館
タグ:皇位継承
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モスクワから来たエルザ (東京春祭 「ローエングリン」) [コンサート]

コロナ感染症拡大で2年続きで中止となっていた東京春祭のワーグナー・シリーズ3年ぶりの上演。というよりも、このシリーズにマレク・ヤノフスキが5年ぶりに帰ってきたということの方が、私にとっては大事。

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そのヤノフスキの《演奏会形式ワーグナー》が、従来以上のバージョンアップで炸裂した。

そもそもヤノフスキの指揮は、極めて交響曲的で実直で剛健。そのことで、ともすればその快速テンポや厚みを欠く和声バランスなどの恨みもないではなかった。シリーズの間にN響はヤルヴィの下で進化していったが、5年前にはあとひと息という完成度という印象もあった。その後の5年というブランクがかえって功を奏したのか、凄まじいまでの交響的音響で《演奏会形式》であることの意義が最大限に発揮された。

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今回は席を4階左側バルコニーの最前列にとった。事情通によれば、東京文化会館は、上階のバルコニー席、なかでも4階席で聴くアコースティックが最上だといわれている。直接・間接の音響バランスが最善で、音がよく届いて音響パースペクティブも大きい。安価な4階席が音が良いというのは不思議だが、このことも《演奏会形式ワーグナー》の凄みを堪能できた大きな要因かもしれない。

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歌手陣では、まずもってエルザ役のオオストラムが素晴らしかった。声量もあって透明な美声はよく伸びて純情な王女を熱演。急遽の代役だったが、ウクライナ侵攻開始時にモスクワのボリショイ劇場で同役を演じていて、そのまま駆けつけてきたのだろう。思い込みの強さで自滅していく王女にふさわしい才色兼備の金髪の美貌のソプラノは強い印象を残した。

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オルトルートのアンナ・マリア・キウリも、直前になって急遽代役に立ったが、すでに初台の新国立の舞台には何度も登場していてその実力ぶりはよく知られている。大変な熱唱で妖女を演じていた。

このソプラノとメゾの歌唱の力もあるのか、歌劇場ではどちらかといえば中垂れしがちな第2幕が、今回はがぜん面白かった。第一幕、第三幕に較べると、よく知られた曲もなく見せ場もない。けれどもワーグナーの管弦楽技法の深層にある心理描写が、4階から見下ろすオーケストラにはよく見えた。この歌劇にもワーグナーならではの、室内楽的精妙さと大編成オーケストラの大音響が交錯するが、ことにこの第2幕は聴きどころが多い。舞台裏の大編成のバンダ、あるいはオルガンなどが効果を上げているのも第2幕。こういう立体的な音響を存分に楽しめるのも《演奏会形式》ならではのこと。

大音響という面では、場面転換の間奏やハインリヒ王の登場などで大活躍するバンダのトランペットが強烈な印象を与えた。そればかりでなく、本来の3管編成大オーケストラのトゥッティでもヤノフスキは容赦ないほどまでに鳴らす。このオープンな大音量に合わせて歌う歌手陣も大変なことだと思ったが、何とか第3幕まで声のスタミナを切らさなかった。そういうリスクもとって歌いきったタイトルロールのヴォルフシュタイナーなど、歌手陣の健闘を大いに称えたい。東京オペラシンガーズは、感染症対策のためか間隔を空けての合唱で人数も少なめに見えたが、いつもながらの素晴らしい合唱だった。

従来は、背景に大きな象徴的映像を映し出したり、歌手の配置も舞台後方や客席からの登場など、演出色が強かったが、今回の演奏環境にはそういう企画性の強いけれん味は一切無い。そのことで、かえって無理な演出解釈に煩わされることもなくワーグナーの創作意図をむき出しにできる。こうした質実な環境のおかげで、ヤノフスキも思い通りの演奏ができたのではないだろうか。

N響の演奏も、自信に満ちた若々しさがあった。バイロイトやウィーン、ミュンヘンなどの劇場のワーグナーのような熟達と豊穣さとは違った、若駒のような精気溌剌とした演奏だった。ヤノフスキの指揮とともに、そのバトンさばきに存分に応えたN響に対して最大限の賛辞を送りたい。





東京・春・音楽祭2022
東京春祭ワーグナー・シリーズ vol.13
《ローエングリン》(演奏会形式/字幕付)
2022年3月30日(水)17:00~
東京・上野 東京文化会館大ホール
(4階L1列15番)

指揮:マレク・ヤノフスキ
ローエングリン(テノール):ヴィンセント・ヴォルフシュタイナー
エルザ(ソプラノ):ヨハンニ・フォン・オオストラム※1
テルラムント(バス・バリトン):エギルス・シリンス
オルトルート(メゾ・ソプラノ):アンナ・マリア・キウリ※2
ハインリヒ王(バス):タレク・ナズミ
王の伝令(バリトン):リヴュー・ホレンダー
ブラバントの貴族:大槻孝志、髙梨英次郎、後藤春馬、狩野賢一
小姓:斉藤園子、藤井玲南、郷家暁子、小林紗季子
管弦楽:NHK交響楽団(コンサートマスター:白井圭)
合唱:東京オペラシンガーズ
合唱指揮:エベルハルト・フリードリヒ、西口彰浩
音楽コーチ:トーマス・ラウスマン
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無慚なメモリアル (トリオ・アコード) [コンサート]

衝撃でした。

演奏のことではありません。会場のこと。

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クレジットにはカッコつきで(旧 上野学園 石橋メモリアルホール)とありました。数々の名演を生み、特に室内楽や古楽アンサンブルのファンに愛されてきた名ホールでしたが、もはやその面影はほとんどありません。

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ステージ中央の後方壇上にあった美しいパイプオルガンは跡形もない。ステージ上の三角形に近いアーチ型の天井は、無粋な四角四面のプロセニアムに囲まれ上方には照明装置が吊り下げられて、見る影も無い。

もちろん、アコースティックも無慚。あの深くて美しい残響はすっかり消え去っています。残響の名残はむしろ客席だけに残っていて、ステージ上だけはデッドな直接音が前に出てきて、客が立てる雑音がやたらに目立つ客席は、もやっとした雰囲気に包まれるという奇怪なバランス。周囲の壁はそのままですが、大きなカーテンが設置されています。恐らくこれを拡げればにわか仕立ての吸音対策になるということなのでしょう。今後、子供向けのぬいぐるみミュージカルのシアターとして使用されるとのこと。

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個人的にも、その音響がとても好きで、先代の旧・石橋メモリアルホール以来から、数々の名演の思い出もある場所なので、大きな衝撃を受けました。

演奏が始まっても、その精神的なショックが大きくて気もそぞろ。

プログラムは、チェコの作曲家たちばかり。最初のドヴォルザークはどこか悲しげ。まるでこのホールへの追悼のよう。いかにもこの作曲家らしい旋律美はありますが、かえってそれがむき出しに聞こえてしまいます。

マルティヌーは、チェコの作曲家とはいえ、前後のドヴォルザークやスメタナとは違って、少しも郷土色が無い。無調ではないのですがモダンな尖った和声が多く、この残骸のようなアコースティックでは聴いているのが辛いほど。ピアノ、ヴァイオリン、チェロが各々に我を張り合っていて、何の調和もない喧噪のように聞こえてしまうのが残念でした。

一番楽しめたのは、最後のスメタナだったかもしれません。ボヘミアの民俗的な情感たっぷりな旋律や田園的な雰囲気に溢れているし、パート毎のメロディがソロとして弾かれるので直接音主体の音響がかえってよく通る。終楽章のはしゃぎようは、どこか空虚な喜び。

演奏は、たぶん、非の打ち所の無いものだったのだろうと思います。けれども、クラシック音楽家としてよくもこんな因縁のついたこのホールでの演奏を引き受けたものだと思ってしまいます。

プログラムの解説を後で一瞥してみたら、三曲とも各々に自分の子供とか誰かの死を悼んで作曲されたものだったようです。演奏者なりのメッセージなのでしょうか。そうも思いたい。



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東京・春・音楽祭2022
Trio Accord
―― 白井 圭(ヴァイオリン)、門脇大樹(チェロ)、津田裕也(ピアノ)
2022年3月29日(火)19:00~
東京・上野 飛行船シアター
(1階E列15番)

トリオ・アコード
 ヴァイオリン:白井 圭
 チェロ:門脇大樹
 ピアノ:津田裕也

ドヴォルザーク:ピアノ三重奏曲 第2番 ト短調 op.26
マルティヌー:ピアノ三重奏曲 第3番 ハ長調 H.332

スメタナ:ピアノ三重奏曲 ト短調 op.15

(アンコール)
スメタナ:ポルカ ト短調

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前衛に立つということ (岡本侑也&河村尚子) [コンサート]

始めの一撃で思わずのけぞりました。

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河村尚子の挑みかかるような冒頭和音。

これまで聴いたことのないようなドビュッシーの前衛的内面を露わにした演奏です。巫女の一喝で目覚めた憑依霊のように岡本のチェロが決然と歌い出す。これほどまでに自由で内的な衝動をむき出しにしたピアノの挑発とチェロの奇怪な運動の絡み合いが続くドビュッシーは斬新でした。

このソナタには、〈月と仲違いしたピエロ〉という副題がつけられる予定だったそうです。気鬱と衝動が交錯する即興的な象徴主義的な遊戯的な要素が、二人の演奏には充溢しています。ほとんどアタッカのように続けられた第二楽章冒頭のチェロのピッチカートとピアノの鋭い短音、終楽章の狂気まで…

あっという間の11分間です。

続くブーランジェは、ドビュッシーの前衛性に較べれば、スイーツのような優雅さがあります。それでもひとつ、ふたつと順に曲が進むとなかなか一筋縄でいかない。妹リリーの才能に圧倒され、その夭折によって彼女は挫折してしまいますが、この女性作曲家はいわばその後の二十世紀フランスの鬼才たちの母のような存在になるのですから。そういう音楽。

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前半の最後は、プーランク。

プログラムは、現代の若手チェロ奏者なら必ず通る道のようなレパートリーが並びますが、岡本にとっては自分自身と従来の演奏に対して決然と挑戦するかのような演奏です。

若い岡本には、思わず舌を巻いてしまう技術の高さと、伸びやかで滑らかな技巧、飴色の心地よい中音域、音程の驚くほどの安定性がすでに完璧に具わっています。それでいて身のこなしはとても穏やかで柔らかい。コダーイであっても、ベートーヴェンであっても、何でも優美にしてしまっていた、そういう岡本が、むしろ、武闘派のような戦闘服を着て、機動的なプーランクを弾く。河村が煽るようにはやし立てる。ベルエポックというのは両大戦という硝煙の中のひとこまだったと言わんばかりの音楽は、ふたりにとってのまさに自ら仕掛けた覚醒なのではないでしょうか。

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後半のブラームスも、何やらきな臭い。

晩年の作品にもかかわらず雄渾かつ情熱的だが、ともすれば枯れた心境という固定観念に引っ張られがち。そんなこのソナタをやはり高いテンションと高揚感で弾いている。様式構成面でも音響面でも、前半のフランスとは対照的だけれど、そういう大きなダイナミクスは変わらない。

「チェロソナタ」とか「チェロとピアノのためのソナタ」というよりは、むしろ、《チェロによる内声を伴うピアノソナタ》。

あくまでも、ピアノソナタ。チェロは内声部を強化する従者であって、脳天気に歌っている場合ではない。そういう演奏は、あるようでないもの。ある意味では衝撃的です。

「内声」と言ってもブラームスのそれは特別。ここではボスは明らかに河村だ。彼女は、思う存分に右手と左手をいっぱいに拡げて弾きまくる。そのど真ん中に身体ごと飛び込んでいくのが岡本のチェロ。こんな弾き方、役割は、彼はいままで経験していなかったのではないでしょうか。もちろん内声といっても音量と技巧性は容赦ないほどに強い。高い音域でピアノと歌い交わす対旋律だって、内声部の役割のうちだと思ってしまいます。

音楽的には荒削りで未完成なところはありますが、こういう風に大きく前に一歩を踏み出してきた岡本の将来がとても楽しみ。というか、これまでのイメージを払拭するようなスケールの大きさと頼もしさを感じさせました。そこが河村とのコラボの成果であればなおうれしい。

アンコールは3曲。ここで岡本はようやくゆっくりくつろいで、もともとの貴公子に戻ったようでした。あれほどの、演奏にも少しも息が上がっていない。河村に「声が小さい」とささやかれて岡本が苦笑して「ナディアの妹のリリー・ブーランジェのノクターン」と言い直すシーンには思わず微笑んでしまいました。



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東京・春・音楽祭
岡本侑也(チェロ)&河村尚子(ピアノ)
2022年3月25日 [金] 19:00~
東京・上野 東京文化会館小ホール
(I列24番)
チェロ:岡本侑也
ピアノ:河村尚子

ドビュッシー:チェロ・ソナタ ニ短調
ナディア・ブーランジェ:チェロとピアノのための3つの小品
プーランク:チェロ・ソナタ FP143

ブラームス:チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 op.99

(アンコール)
リリー・ブーランジェ:ノクターン
シューマン:献呈
ドビュッシー:美しい夕暮れ
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河の流れのように (神尾真由子 バッハ パルティータ全曲) [コンサート]

何度聴いても、神尾真由子はすごいヴァイオリニストだと思ってしまいます。しかも、こうして何年かぶりに聴いてみてその進化が著しいとも感じてしまうのです。

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バッハのパルティータも、すでに2年前にこの浜離宮朝日ホールで全曲録音しています。後でじっくりと聴いてみましたが、この日の演奏は録音のそれよりさらにまたバージョンアップしていると感じます。つくづく素晴らしいヴァイオリニストです。

バッハといえども構えたような重たい音楽ではありません。第1番のアルマンド冒頭の重音もとてもさりげなく優雅。付点のついたリズムが静かで軽やか。そして、とにかく音色がとても艶やかで美しい。6年前に河村尚子さんとのデュオで聴いたときは、グァルネリ・デル・ジュスを使用していましたが、今は宗次コレクションより貸与されたストラディヴァリウス(1731年製作「Rubinoff」)を使用しているとのこと。グァルネリの輝くような色彩にも少しも劣ることなく、しかもいかにもストラドらしい深みと繊細さを湛えた美音。今まで聴いた多くのストラディヴァリウスの中でも飛びきりの美音です。

2番目のプレストの《ドゥーブル》は、ほんとうに息も止まるような思いでした。すごい速度でのスケールが鮮やかに、しかも、信じられない滑らかさで疾走していきます。その美麗で優雅なわくわくするようなスリルは格別のもの。この曲に限らず、とにかく一音、一音が明瞭なキレがありながら実に滑らかにつながっている。欧米の演奏家は大なり小なり、ひげ文字(フラクトゥール)のような角張ったドイツ語ですが、神尾さんのはさらさらと美しいひと筆書きのかな文字のように優美で流麗な筆致です。

何よりも蠱惑的なのは、正確な音程の重音。重くならず軽く上に吹き抜けていくビロードのような触感で重なりが着実に大きいハーモニー。すべて楽譜通りに繰り返しをしていますが、音量や音色の変化は目立たせず、それがかえって舞踏曲としての魅力を感じさせます。装飾音や表情のニュアンスの違いは、ほんの少しだけ。その微妙さがとても奥ゆかしい。それでも重音に埋め込まれる装飾音のアルペッジョなどは驚異的な技巧です。そうしたこまやかさが、今回の演奏では特に顕著です。

やはり圧巻は、最後のシャコンヌ。

これもとてもさりげなく開始されますが、ゆっくりと次第に熱を帯びていく。しかも、フレージングは滑らかで滞ることもなく走るところもなく、あくまでも優雅。さながら河の流れのように、絶えることもなくしかも少しも同じところがない。最後に再び戻ってきたテーマも、決して激情に走らず、静かで平穏な余韻が残りました。

いつまでも聴いていたいバッハでした。


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浜離宮ランチタイムコンサートvol.212
神尾真由子ヴァイオリン・リサイタル
2022年3月25日(金) 11:30~
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(2階R列10番)

神尾真由子  (ヴァイオリン )

J.Sバッハ:
 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ
 第1番 ロ短調 BWV1002
 第33番 ホ長調 BWV1006

 第3番 二短調 BWV1004

(アンコール)
 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ
 第1番 ト長調 BWV1001 より第1曲アダージョ
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ドレスデンのフェルメール (中野振一郎 チェンバロ・リサイタル) [コンサート]

東京・春・音楽祭のミュージアム・コンサート。

美術館とのコラボレーションで古楽を楽しむという催しで毎年恒例の企画で楽しみにしています。今回は、「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」とのコラボ。

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ドレスデン国立古典絵画館(アルテ・マイスター絵画館)の自慢のフェルメール。その2点のうち「窓辺で手紙を読む女」が目玉の絵画展。長い間、背景の壁の下にはキューピッドが隠されていることは知られていましたが、それがオリジナルの画中画だということが証明されて修復が行われました。今回はそのお披露目というわけです。

コンサートの方は、その所蔵がドレスデンの美術館だということで、17世紀ドレスデンにまつわる音楽家たちの音楽。「フェルメールとオランダ絵画」とドレスデンというのは、一見、ちぐはぐですが、実はそういう関連付けというわけです。

エルベ川河畔の街、ドレスデンは、18世紀にザクセン選帝侯領の首都として、戦争に明け暮れる一方でその繁栄の頂点にありました。ドイツ諸国のなかでもマイセン陶器を始め最新の文化を誇り、音楽でもイタリアやフランスなどの文化をいち早く取り入れ、やがて独自の古典音楽を生み出しています。まさに疾風怒濤の中心。

まずは、ヘンデルやテレマンなど、その時代に人気を誇った作曲家のけん盤音楽から始まります。面白かったのはペツォールトという作曲家の作品。

大バッハのメヌエットは、実はバッハの作曲ではなかった…ということで有名ですが、その真正の作曲家ということでペツォールトは現代に蘇ったというわけです。そのメヌエットに続いて、組曲が演奏されました。耳障りのとてもよい端整な曲です。

その大バッハの長男フリードリッヒも、ドイツ前古典派時代の作曲家。古典的な風合いではあっても、ちょっと衝動的で多感な音楽。疾風怒濤の先がけとも言うべき作風が印象的でした。

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使用された楽器は、グスタフ・レオンハルトが使用した楽器なのだそうです。ドイツの音楽にふさわしいアーティキュレーションが明解なジャーマンタイプ。中野さんはふだんはフレンチタイプを愛用されているそうで、確かにちょっと弾きにくそうでした。

会場の東京都美術館の講堂は、その用途から残響は短めなのですが、昨年、聴いた印象では、ボーカルの発声や楽器の発音が明瞭で古楽にも意外にマッチしていたのですが、今回はどこか響きに乏しく楽器が鳴らない。ステージ後方に並べられた音響チューニングの衝立のせいなのでしょう。ただでさえデッドな傾向なのに、なぜ、こんなチューニングをするのか疑問です。中野さんが弾きにくそうにしていたことの一因もこれだったのかもしれません。



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東京・春・音楽祭2022
ミュージアム・コンサート
「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」記念コンサート vol.2
 中野振一郎(チェンバロ)
2022年3月24日(木)14:00~
東京・上野 東京都美術館 講堂


チェンバロ:中野振一郎

ザクセン選帝侯と音楽―アウグスト1世&2世の時代
 ヘンデル:組曲 ニ短調 HWV437
 テレマン:《チェンバロのための6つの序曲集》より 第1番 ト短調 TWV32:5
 C.ペツォールト:
  2つのメヌエット ト調
  組曲 変ロ長調 より
 W.F.バッハ:チェンバロ・ソナタ イ長調 Fk.8

(アンコール)
F. クープラン:『クラヴサン曲集第4巻』第23オルドルより「アルルカン」

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この世の雑音と悪意の上に (アンヌ・ケフェレック ピアノ・リサイタル) [コンサート]

本来は別の場所で聴くはずだったこのリサイタル。感染症対策の入国制限で来日が危うくなり、そちらの方は先月初めに公演中止となってしまいました。一方で、このさいたま芸術劇場の公演はスケジュール確認中とのことだったので、あわててそちらのチケットを購入しました。

何としてもこのひとのピアノが聴きたかったのです。

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ウクライナへのロシア侵攻で事態はさらに悪化したのですが、結局、ケフェレックさんは先週の16日に来日を果たします。おそらく航路は変更となっていて、本来よりも3、4時間も余計にかけてのフライトのはず。さぞやお疲れだったと思います。

キャンセルとなったのは、むしろ日程が先の方の公演なのが不思議な気がします。すでに横浜のフィリアホールでの公演を済ませていますが、4月の公演はいずれもキャンセル。むしろ5月、6月の公演は予定されています。それまでどうされるのでしょうか。どのようなスケジュール調整がされたのかは不明です。

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黒地に花柄のシックなドレスで登場。威厳もあって、それでいて柔らかなたたずまいと品のある穏やかな笑顔が素敵。背筋をピンと伸ばし、足元は黒いヒールシューズでしっかりとした足取りも印象的。

予定されていたハイドンのソナタは、バッハのピアノ編曲版の小曲が並ぶプログラムに変更となりました。いまのこの時、どうしてもバッハを聴いて欲しいとの希望で変更となったそうです。前半後半とずらりと小品が並ぶことになりましたが、拍手無しでずっと通して演奏されることが事前に知らされて、そのことは客席にも十分に行き渡っていました。

そのバッハを聴いて、ほんとうに心穏やかな気持ちになりました。

音にしっかりとした芯があって、色彩が濃くて重みがある。しっとりと落ち着いた運びと歌を聴いていると、自然と瞑目し呼吸もゆっくりと深くなっていきます。こういうピアノはほんとうに久しぶりに聴くという思いがします。

拍手の間合いをとって、その次はモーツァルト。

バッハと違ってモーツァルトは朗らかで希望に満ちています。それでも軽薄な楽観や独善ではなくて、長調の明るい曲調であってもとても情が濃くて深みがある。かつてケフェレックさんは、「モーツァルトはこの世の雑音と悪意の上に、人間的行為というハチミツとミルクを注ぐ」と言ったそうです。まさにいまの状況だからこそ、そういうふうに心に響くモーツァルトでした。

後半は、サティの曲をちりばめながら、フレンチピアニズムを逍遥するひととき。

その口開けのサティを聴いて、はっとさせられました。サティは、確かにお洒落な家具のような音楽。いろいろなピアニストの演奏を聴いてきましたが、透明で美しいものかもしれないけど、ともすれば軽くて芯がなく、自動ピアノのように無表情。それこそがサティの洒脱さとも思わせますが、ケフェレックさんの演奏は違う。深刻ぶったところがひとつもないのに、憂いや皮肉も含んでいて、世情に動じない教養と気品がある。

次々と演奏されていくプーランクや、セヴラック、アーン、ケクランの音楽はほんとうにフランスのエスプリが馥郁と匂い立つ。そればかりではなく、自然のさりげないもの音や鳥のさえずりなどといった、平和な日常への切ないまでに思い愛おしむ気持ちがこめられているのです。ドビュッシーの「月の光」なんて、こんなにも平穏で静かな夜を希求する気持ちにさせられたことはありません。ラヴェルの「悲しい鳥たち」がこんな曲だったなんて…思いもよらなかった。最後のフローラン・シュミット「弔いの鐘」には、静かだけれどもこみ上げてくるような悲しみと怒りを感じて呆然とさせられたのです。

アンコールには、ウクライナの人々のことを想い献げたいとショパンの「幻想即興曲」が弾かれました。


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アンヌ・ケフェレック ピアノ・リサイタル
2022年3月14日(春分の日)15:00
埼玉県与野・彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール
(1階 G列17番)


J. S. バッハ:
 いざ来たれ、異教徒の救い主よ BWV 659(ブゾーニ編曲)
 《協奏曲 ニ短調》BWV 974より第2楽章(マルチェロ:オーボエ協奏曲)
 《協奏曲 ニ短調》BWV 596より第4楽章(ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲)
ヘンデル:《組曲 変ロ長調》HWV 434より〈メヌエット〉(ケンプ編曲)
J. S. バッハ:カンタータ「心と口と行いと生活が」BWV147より
           コラール“〉、主よ、人の望みの喜びよ”(ヘス編曲)
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第13番 変ロ長調 KV 333 (315c)

サティ:
 グノシェンヌ 第1番
 ジムノペディ 第1番
プーランク:バレエ音楽《ジャンヌの扇》より〈田園〉
セヴラック:《休暇の日々から 第1集》より 第6曲〈古いオルゴールが聴こえるとき〉
サティ:グノシェンヌ 第3番
アーン:《当惑したナイチンゲール》より
      第52曲〈冬〉
      第49曲〈夢みるベンチ〉
ドビュッシー:《ベルガマスク組曲》より 第3曲〈月の光〉
ラヴェル:《鏡》より 第2曲〈悲しい鳥たち〉
サティ:ジムノペディ 第3番
ケクラン:《陸景と海景》作品63より 第100曲〈漁夫の歌〉
フローラン・シュミット:《秘められた音楽 第2集》作品29より 第6曲〈弔いの鐘〉

(アンコール)
ショパン:幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66

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レジデント・シリーズのスタート (葵トリオ@紀尾井レジデント・シリーズ) [コンサート]

「紀尾井レジデント・シリーズ」は、音楽家あるいはこの葵トリオのような室内楽グループと3年にわたり1年に1回の演奏をじっくりと聴かせるという、紀尾井ホールの新しいシリーズ。

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その第1回が、葵トリオ。

葵トリオは、東京芸大、サントリーホール室内楽アカデミーで出会い2016年に結成されたピアノトリオ。ミュンヘン国際コンクールで優勝という輝かしい栄冠を得ている。「AOI」というのは、要するに三人のイニシャルをそのまま組み合わせたとのこと。なんと単純なんだろうと笑ってしまいました。でも「葵」は、古くから日本で愛されてきたハート型の花で、三つ葉葵のデザインは徳川家「葵の御紋」として親しまれてきました。とても良い名前ではないでしょうか。

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三人は、もちろん、それぞれがトップクラスの演奏家。しかも、とても個性が立っていて、けっこうそれぞれがマイペースのように見えます。ヴァイオリンの小川さんとチェロの伊東さんはもともと芸大の同級生の仲。アンサンブル結成で意気投合したものの、ピアニストをどうしようかということに。二人の意見が一致したのが、室内楽アカデミーで出会ったひとつ年下のピアニストが秋元さんだったという。年下なのに見かけが一番がっちりしていて、しかも、これまたひときわ個性的でマイペース。

凄いというひと言しかないその精密なアンサンブルは、最初のリームを聴いてよくわかります。題名のように音の叙景的、点景的な曖昧な音の印象が並べられているようでいて、どこかとても叙情的な旋律でびっしりと敷き詰められている。つかみどころのない構成なのにアンサンブルが一糸乱れるところがない。

そういう緻密なアンサンブルというのはストリング・クァルテットの持ち味。必ず確固たるリーダーがいて、あるいは、それぞれの持ち場、役割が強固に統合されて、きっちりとした合奏を作り上げる。それに対してピアノ・トリオは、むしろ個性のぶつかり合いでスターたちのスリリングなやり取りこそ面白い。

このトリオは、そのいいとこ取り。アンサンブルの精密さが驚異的なのにもかかわらず、三人がそれぞれに自由にやりたいことをしている。お互いに他をちっとも縛らずに語り合う面白さ。そういうみっしりとした全体造形が基本にあって、しかも、波紋と波紋、刷毛目と刷毛目が自在に連なり重なり、ちがった文様を描くようなところは、二曲目のシューマンに著しい。

一番面白かったのは、やはり聴き慣れたシューベルトでした。

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明らかに女王然と振る舞っているのはヴァイオリンの小川さん。でも、決して支配することもなく、見事なまでに細部のディテールを濃やかな技法で彩り、自分がやりたいように歌い、踊り、跳躍する。その表現の細かさには思わず息を呑んでしまいます。

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童顔の伊東さんの甘い音色のカンタービレは、すでに紀尾井ホール室内管のメンバーとして何度か体験済みですが、ここでも控えめのようでいて出番が来ると実にハンサムで美しい肌合いの色を添える。

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一番、独特なのはピアノの秋元さんで、そっぽを向いているようにやりたい放題という風格でありながら、完全に他の二人をたなごころに乗せて遊んでいる。シューベルトがこんなにも豊穣でまばゆいほどの色彩と愉悦に満ちあふれていると感じたのは初めてです。シューベルトって決して「歌」だけではない。

日本の室内楽の台頭は、クァルテットだけではない。これは、ほんとうに楽しみなトリオです。



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紀尾井レジデント・シリーズ I
葵トリオ(第1回)
2022年3月16日(水) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階 7列12番)

葵トリオ
小川響子(Vn)、伊東 裕(Vc)、秋元孝介(Pf)

リーム:見知らぬ土地の情景 III
シューマン:ピアノ三重奏曲第1番ニ短調 op.63

シューベルト:ピアノ三重奏曲第1番変ロ長調 op.99, D898

(アンコール)
シューベルト:ピアノ三重奏曲変ホ長調 op.148(遺作)D897《ノットゥルノ》

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「風街とデラシネ」(田家 秀樹 著)読了 [読書]

作詞家・松本隆の詩について、その50年について語り尽くす。

評伝というのではない。あくまでも作詞家・松本隆の作詞という業(なりわい)について、その時代と情景、そしてそこで呼吸してきた作詞家の生き様を掘り起こす。それは自然とその50年の音楽業界の青春群像でもあって、彼らが「大人」になってゆくことの物語でもある。そして、松本隆が長期にわたって活躍を続けた偉大な作詞家であることから、それは同時に日本のポップス音楽の50年史ともなっている。

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松本隆の「作詞家」としての始まりは、太田裕美だった。そして、そこからフラッシュバックされたところに、はっぴいえんど「風街ろまん」の伝説がある。それは、日本の歌謡界でのアルバムコンセプトの発祥の地ともなっていて、そして、さらにはロックなどを英語ではなく日本語の詩をのせて歌うという奮闘の始まりともなる。

松本隆と太田裕美のコンビネーションは、フォークミュージックという「こちら側」から歌謡曲(商業音楽)という「あちら側」へと変遷していくことも表象していた。裏切り者とまで言われた吉田拓郎も同走者だし、どこかに挫折や変節の負い目を背負った岡林信康などもいたけれど、ひとつのジャンルとなっていく。それは同世代の若者にとっては「長い髪を切る」「変わっていく私」であり、でも「あの頃の生き方」を忘れたくないという気持ちそのものを代弁していた。

それは「酒場」だとか「港」というような架空の世界で情感を吐き出すものとは違っていて、ありふれた身の回りの日常の延長にあるものであったし、アマチュアからエントリーしてそてスターやアイドルになれる「スター誕生」の飛躍でもあった。ニューミュージックの誕生だ。その最大のアイドルスターが松田聖子だった。

そういうアイドルは、その時々の人気の街や海辺や高原のリゾート、新感覚のファッションやフードスタイルを取り込んだ。そのことは、テレビのドラマ主題歌やコマーシャル音楽とも結びついていく。

ナンバーワンの売れっ子となった松本は、それこそ、分秒に追われながら働きずくめに働き続ける。カリフォルニアやロンドンなど海外録音も夢から現実のものとなり、電話やファックスでスタジオとスタジオをつなぎ、果ては、病床でも詩を書き続ける。そうしたメジャーに生きながら、決して主流に迎合する気もない。松本は休養期間をとったり、その充電期間に学び直した古典教養の世界から、シューベルトの歌曲の和訳詩や日本の伝統芸能、神話の世界にも挑んだりする。

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団塊世代にとっては、こうした松本の50年は自分の50年そのもの。そういう我々にとっては、1964年東京オリンピック以前の幼い自分が駆け回っていた街並みやそれを喫茶店の窓越しからみた幻影こそが「風街」だし、各停の切符で誰に気づかうことなく旅をしたいという願望こそ「デラシネ」なのだ。

けっこう硬派の本で大部だけれど、そこかしこの足元に胸キュンの花が咲いている。いくつもの詞の全文が引用されているのもよい。




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風街とデラシネ
作詞家・松本隆の50年
田家 秀樹 (著)
KADOKAWA


【目次】
第1章 始まりは1969年――エイプリル・フール
第2章 はっぴいえんどのデビュー
第3章 1971年に吹いた風――「風街ろまん」
第4章 はっぴいえんどの解散と転機
第5章 橋を渡る――ミュージックシーンの"こっち側"と"あっち側"
第6章 作詞家・松本隆の始まり――筒美京平と太田裕美
第7章 70年代を代表する1曲「木綿のハンカチーフ」
新8章 コンセプトアルバム――森山良子「日付けのないカレンダー」
新9章 青春の普遍性――岡田奈々と原田真二
新10章 70年代と青春の終わり――吉田拓郎と桑名正博
新11章 怒濤の80年代の幕開け――竹内まりやと大瀧詠一
新12章 男を書ける作家――近藤真彦、南佳孝、寺尾聰、加山雄三
第13章 1981年の出会い、松田聖子
第14章 ちょっと先に石を投げる――20歳の松田聖子に書いた詞
第15章 史上最強の作詞家と歌い手の4年間
第16章 合流地点――大瀧詠一「EACH TIME」と南佳孝「冒険王」
第17章 移りゆく時代に――薬師丸ひろ子「探偵物語」「花図鑑」
第18章 アイドル戦国時代の最終局面――中山美穂と山瀬まみ
第19章 再び、松田聖子と――「瑠璃色の地球」
第20章 活動休止と新たな挑戦――中森明菜、シューベルト、大竹しのぶ
第21章 昭和から平成へ――矢沢永吉と氷室京介
第22章 筒美京平と山下達郎――KinKi Kids「硝子の少年」
第23章 思いがけない物語の始まり――クミコ「AURA」
第24章 2000年代の再評価と次世代への継承――Chappie、藤井隆、中川翔子
第25章 自由な愛の歌として聴き継がれることを――「古事記」と「デラシネ」と「白鳥の歌」
あとがき/参考文献/曲目一覧

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サルビアとショスタコーヴィチ (クァルテット・エクセルシオ) [コンサート]

サルビアホール(音楽ホール)は以前から行ってみたかった音楽会場です。

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100席ほどの小さなホールですが、とても豊かな音響が自慢で室内楽には理想的。弦楽四重奏には最適で、クラシック音楽の演奏会場としてはそこに集中しています。奇しくも東日本大震災の直前に開館しましたが、以来、サルビアホール・クァルテット・シリーズ(SQS)としていくつもの弦楽四重奏団の演奏会が続けられています。毎月1回、3月ずつを1シーズンとして、今回で46シーズン目。

数年前にこの会場のことを知って、一度は行ってみたいと思い続けていましたがなかなか実現しませんでした。そういう敷居を越える機会をいただいたのが友人のコンサートでした。

その初体験が、クァルテット・エクセルシオ。

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このクァルテットは、ペーター・レーゼルや河村尚子との共演など何度かその演奏に接する機会がありましたが、純然たる弦楽四重奏曲の演奏は初めて。しかも、ショスタコーヴィチの厳しい音響。とにかく音量が大きいことに瞠目。大ホールの大空間でステージ上に展開する大編成オーケストラの大音量とは違って、濃密かつ峻厳。とても濃厚な音楽体験となりました。

曲は、いずれも1948年から始まり56年のフルシチョフのスターリン批判まで続いたいわゆる《ジダーノフ批判》の最中に作曲された3曲。プレトークでの梅津紀雄氏の話では、第4番については作曲者はまだ演奏可能であり初演されることを期待していたという。交響曲は無理であっても弦楽四重奏曲なら可能だというわけだ。一方で、第5番ではもはや初演は無理だと思いつつ書いたのだろうとのこと。

聴いてみると、むしろ第4番のほうが外見的な厳しさが勝っていて前衛的な試みを押し出してくる。バルトークばりのシンメトリーなアーチ形式を多用し、緩徐楽章ではヴァイオリン協奏曲のパッサカリアが用いられているし、そこかしこにユダヤ的な要素があって、尖っている。

弦楽四重奏曲というのは、交響曲の原型のような構想も持てるし、一方でとてもプライベートな内向性もある。そのことはベートーヴェンの後期作品でよくわかるが、スターリニズムの下で芸術的自由を奪われ、真情を表現することもままならぬ立場にあったショスタコーヴィチの音楽はとても複雑で一筋縄ではいかないところがあります。

もはや公開演奏は不可能と割り切った第5番では、前衛的な挑戦は大きく後退してむしろ古典的な雰囲気で始まるのに、内的には厳しさを増していて秘められたものも過剰なほどプライベート。ショスタコーヴィチのイニシャル音型を埋め込んだり、当時、作曲者が入れ込んでいた若い女性の弟子への思いが込められたり。前衛というよりは、感情の起伏が激しく俗っぽいまでの変拍子も多出する。楽章が切れ目無く続くだけに、聴き手には高い緊張感を持続することを強いられる。第一楽章と第二楽章との経過部に残るヴァイオリンのフラジオレットの持続音とか、第三楽章の開始を告げるヴィオラなど、目に見える要素も加わって感情が揺すぶられます。爆発するような感情の高ぶりなど凄まじい濃密なトゥッティの高揚感があって、この夜の白眉とも言える演奏でした。

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休憩をはさんでの第6番は、むしろ、雪解けを予感させるような田園的な曲想で少しばかり緊張も緩むような感覚があります。妻を亡くし、子供の養育という現実問題もあって、あの女性弟子に結婚を申し込むもすげなく拒絶され、それで、出会ったばかりの別の女性と再婚という波瀾万丈の私生活だったそうですが、曲そのものは存外、幸福感もほの見えるほどで平穏。第5番で炸裂させた私的感情さえも隠してしまうことに慣れてしまったのか、ほんとうに再婚直後の束の間の幸福感を表しているのか、本心は読み取りにくい。

律儀に作曲の順番通りに演奏されましたが、個人的にはもう少し演奏順に工夫があってもよかったように思えました。

それにしても、エクセルシオの技量の高さ、音量の大きさ、各奏者の感情移入の凄みに圧倒される思いがしました。それも、この弦楽四重奏演奏の隠れた殿堂ともいうべきホールの音響効果があってこそだと思います。サルビアの赤い花とショスタコーヴィチがよく似合うという感じでした。




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ラボ・エクセルシオ ショスタコーヴィチ・シリーズ Vol.2
2022年3月14日(月) 19:00~
横浜市鶴見 サルビアホール
(C列10番)

クァルテット・エクセルシオ
西野 ゆか 北見 春菜  (Vn)
吉田 有紀子 (Va) 大友 肇 (Vc)

ショスタコーヴィチ:
弦楽四重奏曲 第4番 ニ長調 Op.83
弦楽四重奏曲 第5番 変ロ長調 Op.92

弦楽四重奏曲 第6番 ト長調 Op.101
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