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響きと色彩の重ね塗り (クァルテット・インテグラ) [コンサート]

サルビアホールで聴く四重奏は至高の世界。

今回は、サルビアホールのクァルテット・シリーズ二度目の体験となりますが、心の底からそう思いました。無二の陶酔感があります。

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クァルテット・インテグラは、やはり若いアンサンブルですが、日本の弦楽四重奏団の花盛りといった層の厚みを感じさせてくれます。昨年秋には、バルトーク国際コンクール弦楽四重奏部門で満場一致の圧倒的な第1位を獲得しています。2015年に桐朋の在校生で結成、サントリーホール室内楽アカデミーフェローを経て、いきなり飛び出してきた超新星という感じがします。

1曲目のブラームスが、見事なまでの音の重ね塗り。

正確なアンサンブルはもうそれだけで見事なのですが、誰かがリードしているというわけではなく、各自が自分の持ち味で実に自由で奔放に振る舞っている。

四人が最初にステージに登場したときに、「お?」と思ったのが、両翼対向型の配置。ヴァイオリンが左右に位置するこの配置は今でこそオーケストラでは珍しくありませんが、弦楽四重奏で目の当たりにするのは初めて。

そのことで一気に響きが大きく拡がり、サルビアホールの音響もあいまって響きに包み込まれるような感覚が快感。このホールの響きはとても豊かで立体的な深みがありますが、決して残響時間は長くないので音色の色彩の重なりが鮮やかで多彩。

対向型配置のおかげで、アンサンブル面でも自由度が高まり、特に第2ヴァイオリンの菊野凛太郎が自在に立ち回り、ブラームスの音楽の情感のほとばしりがとても劇的になります。そのおかげで、ヴィオラやチェロの内声の自由度も上がり、もっともっと豊かな歌になって全体の響きの厚みと色彩のグラデーションを立体的に彩っていく。連作となった第1番に較べて、柔和でくつろいだ表情とも言われますが、どうしてどうして感情の起伏、天を衝くような高揚感にしびれました。

この日のプログラム構成と演奏の意図を解き明かすヒントのように思えたのが、武満徹の「ア・ウェイ・アローン」でした。

ブラームスやシューベルトのような「洋画」と違って、こちらはまるで「墨絵」。単色なのに、その濃淡、筆致の運びで、「流水」の感覚を喚起していくような音作りを感じます。だからこそよけいに「重なり」というものが強く意識される。単色だけれども、音程の線幅や曲直濃淡だけでなく、運弓から来る触感の違い、運動感覚、透明度の違いによる遠近感などを見事に重ねていく。精密なハーモニーが和紙のような「下地」を作る場面もあるし、筆先や刷毛が作るような繊細さも感じさせ、あるいは時にグリッサンドの技法を用いて聴き手の運動感覚を呼び覚ますのです。

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そういう四重奏の重ね塗り的技法の原点を見事なまでに知らしめてくれたのが、最後のシューベルト。

心が震えるほど繊細な微細な動きや躍動的な音高の飛躍、天上に駆け上るような伸びやかな高域、ピチカートなどあらゆる音の感覚が交錯して幻想的で痛ましいまでの情感の起伏を描いていて、40分間があっという間に過ぎてしまう。シューベルトが「重ね塗り」ということに、驚くほど大胆に挑んでいたということに驚きます。

この曲では、三浦響果の倍音豊かな高域の魅力が炸裂。なるほど彼女が第1ヴァイオリンを受け持つ理由はこうことだったのかと納得します。この曲のかしこで炸裂する、極上の陶然とするような高域の快感と魅力でわくわくしてしまいます。菊地杏里のチェロがこれまたハンサムなテノールでよく歌うし、山本一輝のヴィオラが自在に立ち回り、ヴァイオリンの二人が丁々発止と繰り広げる重ね塗りに色と深みを添え、あるいは時に割って入る。

このシューベルトは、まさにロマン派を飛び越えて二十世紀音楽に達していた――そう思わせるほどの濃厚濃密かつ痛烈な甘美な色彩豊かな音楽世界をこの四重奏団が満喫させてくれました。

サルビアホールで聴くクァルテットに当分は病みつきになりそうです。

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サルビアホール クァルテット・シリーズ 138
2022年4月27日(水) 19:00~
横浜市鶴見 サルビアホール
(C列10番)

クァルテット・インテグラ
三浦 響果 菊野 凛太郎  (Vn)
山本 一輝 (Va) 築地 杏里 (Vc)

ブラームス:弦楽四重奏曲 第2番 Op.51-2
武満徹:ア・ウェイ・アローン

シューベルト:弦楽四重奏曲 第15番 D.887
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イギリスの叡智 (青木尚佳 紀尾井ホール管弦楽団定期) [コンサート]

紀尾井ホール室内管弦楽団(KCO)新しいシーズンの開幕、そして、新しい首席指揮者トレヴァー・ピノック氏の就任記念…となるはずでした。

ところがピノックが病気のために来日を断念。急遽、ジョナサン・コーエンが指揮者として起用された。プログラムも、オール・モーツァルト・シンフォニーのはずだったけど、変更されて青木尚佳をソリストに立てたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が取り入れられた。唯一そのまま生かされたのは39番の交響曲だけ。

というわけで、一転してコーエンと青木尚佳のKCOダブル・デビュー、それも鮮烈なデビューとなりました。

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まずは、《ドン・ジョヴァンニ》序曲。

いきなりニ短調の主和音が鳴り響き、この歌劇がただならぬ内容を持つことを暗示します。続いて石像の騎士長歩み迫る足取りとか、それにおののいて後ずさりする16分音符や半音階の上行下降とおどろおどろしい緊迫感が曲を覆い尽くす。一転して快活になってどんどんと展開していくかに見えますが次第に翳りを帯びて、それに気づいたとたんにあっという間に終わってしまう。一夜漬けで書かれたといわれるこの序曲のコンパクトに凝縮された劇性を、コーエンは鮮やかに描き出しました。ちょっとこれにはあっと息を飲み込まされてしまいました。

続いてのベートーヴェン。

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青木さんは、先月、ミュンヘン・フィルのコンミスに1年間の使用期間を経て正式に就任したばかり。ヨーロッパからの航路変更のごたごたでちょっと日本への渡航は大変だったようですが、とにかく聴き手にとっては祝賀気分もあります。

外見的な技巧よりも、繊細極まりない音色や質感の変容、細かいフレージングの揺らぎなどに本領があって、音色の滑らかで美しい伸びやかさ、色彩と触感の豊富さには凄味さえ感じます。ベートーヴェンというと、とかく激情や英雄的な高揚感、あるいは悠然とした哲学的逍遥といった雰囲気を期待されがちですが、青木さんのベートーヴェンは、ヴァイオリンという楽器のほんとうの魅力を感じさせて、聴いているとふと多幸感に包まれます。カデンツァは、クライスラー版だと思いますが、ちょっとした独自の工夫があるのか青木さんの持ち味が前面に出てくる。第三楽章のカデンツァもじっくりと聴かせる充実したもの。コンチェルトの華はやはりソリストのこうしたカデンツァだと思います。アンコールのバッハも、そういう青木さんの持ち味を確認させるダメ押しのような無伴奏ソロ。

協奏曲では、明らかに青木さんの曲想に任されていた様子。しっかりと指揮者やコンミスの玉井菜採さんとアイコンタクトをとってリードしていました。プログラム全体の演奏スタイルを掌中に入れて、なおかつソロとのコミュニケーションを取って反応していくKCOもいつもながらさすがでした。青木さんもコーエンさんもロンドンで研さんを積んできました。そういうイギリスの緩急と柔軟性に富んだインテリジェンスを感じます。

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最後の39番のシンフォニーは、いささか手持ち無沙汰に見えた指揮者のコーエンの手に再び戻されます。

果たしてピノックが振ったらどうだったのか?という興味を湧かせるところもありますが、最初の《ドン・ジョヴァンニ》に共通する劇性が前面に押し出された変ホ長調。その分、ウィーン風の喜遊的な雰囲気は、どこか吹き飛んでしまう。メヌエット楽章のクラリネットのトリオでさえ直進的。アインザッツの明快さや、休符のキレの良さは、もはやピリオド奏法風というよりは明らかにそういうドラマチックで英雄的な音響意匠となって活気に溢れかえる。

アンコールは、案の定、モーツァルトの劇音楽から。

このひとが指揮するバロック・オペラをぜひ聴いてみたいと思いました。


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紀尾井ホール室内管弦楽団 第130回定期演奏会
2022年4月22日(金) 19:00
東京・四谷 紀尾井ホール
(2階センター 3列13番)

ジョナサン・コーエン 指揮
青木尚佳 (ヴァイオリン・ソロ)
玉井 菜採 コンサートマスター
紀尾井ホール室内管弦楽団

モーツァルト:歌劇《ドン・ジョヴァンニ》序曲 K.527
ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61
(アンコール)
バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番BWV1005から第3楽章ラルゴ

モーツァルト:交響曲第39番変ホ長調 K.543
(アンコール)
モーツァルト:英雄劇「エジプトの王ターモス」K.345(336a)から
       第2幕への幕間音楽:第3曲アンダンテ変ホ長調
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白と黒と (小川典子 ピアノ・リサイタル) [コンサート]

小川典子さんは、ロンドンを拠点に活動しているが頻繁に日本とも往復しているのだとか。それは何と昨年の1年間だけで12回にも及ぶ。それで通算120日間(?!)もの隔離時間を体験。指定ホテルの部屋から一歩も出られず、食事もドアでやり取りする弁当だけ。そんななかでロンドンの街で転んで指の骨を折ってしまった。ピアニストとして一大事と思う一方で、そんな生活からしばし解放されるとほっとする気持ちがあったそうです。幸い、今はまったく支障もなくラフマニノフの3番も弾ききったのだとか。

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そんなお話しをにこにこしながらお話しされていた。本当に真っ直ぐな飾り気のないお人柄を感じさせ、それでいて窮屈さが少しも無くてほんのりとした暖かみがある。その演奏スタイルも、確かな技術で禁欲的とも言えるほどの即物主義のスタイル。直線的で構成的、手触りの堅いモノクロームなリアリズム感覚。それでいて音楽としての伸びやかさ、しなやかさを感じさせる。

前半のモーツァルトやベートーヴェンがまさにそういう音楽。正統的で、新奇をてらうことは一切無い。ただ、それだけにピアノの響きや音色にもう少し透明感が欲しかった。

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がぜん面白かったのは、やっぱり後半のドビュッシーです。

楽器のチューニングはもしかしたら後半に合わせていたのかもしれません。最低域の響きの緩みがドビュッシーの左手のたっぷりとした長音にぴったり。低・中・高のテンペラメントの弾き分けもそのままに聞こえてきます。フレンチ・ピアニズムといえば、真珠のような粒立ちと美音というのがイメージですが、小川さんのそれはモノクロームの鉛筆画のように精密でリアルな描写的。楽譜をそのままにピアノを鳴らしている。それがかえってドビュッシーの筆致を実に鮮やかに浮き彫りにさせる。その触感や音の凹凸、エキゾチックな和声、調性の持つ色彩感が面白いほどに浮かび上がってきます。

ミンストレルの俗っぽいパリの雰囲気を引き継ぐように、最後にサティでプログラムを締める。そして、アンコールでは、食事を終えた夜の休息のようなドビュッシーの瞑想をいただく。一見、白と黒のような前半後半の対比なのに、聴き終えてみると白と黒との鍵盤の面白さを存分に味わえた充足感があって、午後はゆっくりと銀座を散策することにしました。


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浜離宮ランチタイムコンサートvol.213
小川典子 ピアノ・リサイタル
2022年4月21日(木) 11:30~
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階13列11番)

小川典子 (ピアノ)

モーツァルト:ロンド イ短調 K.511
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」 ハ短調 Op.13

ドビュッシー:前奏曲集 第1集
        第1曲 デルフィの舞姫たち
        第2曲 帆
        第3曲 野を渡る風
        第4曲 音と香りは夕べの大気の中に漂う
        第5曲 アナカプリの丘
        第6曲 雪の上の足あと
        第7曲 西風の見たもの
        第8曲 亜麻色の髪の乙女
        第9曲 とだえたセレナード
       第10曲 沈める寺
       第11曲 パックの踊り
       第12曲 ミンストレル
サティ:ジュ・トゥ・ヴ(あなたが欲しい)

(アンコール)
ドビュッシー:月の光

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電源バッテリー撤去 [オーディオ]

ファイル再生PC(MFPC)から電源バッテリーを完全撤廃しました。

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撤廃のきっかけは、バッテリーのへたり(経年劣化)でした。

特に寿命の点で問題のあったのが大容量(60000mAh)バッテリーです。今までは音質面での劣化は感じなかったのに、今回はバッテリー自体の経年劣化で容量が減少しフル充電できなくなる症状とともに、残量減少とともに音質劣化が起こることに気づいてしまいました。

BridgePCに使用していた大容量バッテリーを、問題のTargetPCの方に回すことで音質はもとに復帰しました。BridgePCも消費電力は大きくないのでこのままでも問題はありません。けれども、すでにこのバッテリーはディスコン。寿命が尽きればいずれは手持ちは足らなくなってしまいます。

そこで、窒化ガリウム(GaN)充電器を試してみることにしました。

このGaN充電器は、MFさんのアドバイスですでにミニデスクトップPCに導入して問題なく使用できています。オリオスペックからは、充電器ではなく専用のACアダプターが販売されていていまではこれをフルに導入しています。

問題は、5V給電なのでUSB-A出力が必要です。そもそもGaNは高出力なのでType-Cこそが本領発揮なのでこちらが標準。USB-Aは今や時代遅れなのでほとんどが従来のシリコン素子のスイッチング回路によるもの。USB-Aは、狭間に取り残された感じ。

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けれども探せばまだあるもので、USB-AポートもつけたGaN充電器を見つけました。

先ずは、問題のTargetPCに試用してみました。聴感上はバッテリーとまったく差がありません。もちろんバッテリーに較べると圧倒的な安定感があります。後述のように3Aというフルスペック以上のメリットもあるのだと思います。

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それならば、もうこの際だからということで、全面的にバッテリーを撤去。すべての電源をGaN給電に切り換えました。

従来は、こうした機器の最大のネックと思われてきたスイッチング電源です。しかも、こんな小型な汎用の充電器で、バッテリーと同等のSNとパワーが得られるなんてほんとうに不思議な気がします。

以下は推測ですが、そのメリットを考えてみると、その高出力と高周波性能という2点に尽きるようです。

従来のシリコン素子のスイッチング電源はすでに技術的限界。一方で光エレクトロニクスに応用されてきた窒化ガリウムの技術進化により、その高耐圧・高密度の特性が着目されパワーデバイスとしても実用化されてきたというわけです。

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オーディオの視点からは、とにかくスイッチング周波数が高くできることでノイズははるかMHz領域まで追いやることができること。まさにデジタルオーディオ待望の特性です。もうひとつは高効率を生かして高出力が可能なこと。熱伝導性にも優れるので小型化も可能。手のひらサイズで100W超えの給電器も登場。本来なら、3台同時充電が可能というのがウリになるわけですが、オーディオでは大電流がけっこう音質に効くようです。Type-Aでは5V3Aが最大定格ですからそこまで必要はないはずですが、内部インピーダンスの帯域特性が極めて広く優秀なことがデジタル機器へのDC給電でも大きなメリットになるようです。

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すっきりしました。

PCオーディオというのは、すぐに置いてけぼりになってしまうところがありますが、一方で次々と有用なものも出てくるので、その分、絶えず発想も転換していければ進化が楽しめます。

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「誤解しないための日韓関係講義」(木村 幹 著)読了 [読書]

読むと違和感を覚える。それが次第に苛立ちに変わり、やがて怒りにまで成長する。

著者は、日韓関係の悪化の原因は、日本人の誤解、認識不足によるものだと言いたいようだ。あるいは日韓関係を良くするためには日本人はもっと韓国を知るべきだと言いたいのか。多少、ひいき目に見たとしても、日韓関係を気にするのは日本が韓国の現実を知らないからだということだろうか。

特に違和感を覚えるのは、第3章の「植民地」をめぐる話しだ。

著者は、植民地の定義を「他民族支配型植民地」と「移住型植民地」に分けて議論し、「日本は韓国を植民地支配していない」という言説はそういう定義をわきまえない理解不足に基づく主張であり、戦前の日本に文献上「植民地」の文字が無いのは、日本が植民地を「外地」と読み替えたからに過ぎないという。

実際のところは、保守派の主張は、日本の韓国統治は両国間の合意協約に基づく合法的な「併合」であったからだというもの。さらに日本は明治以来の基本的な考え方として欧米列強によるアジア植民支配に反対する立場を持っていた。だから自らの植民地を「外地」と読み替えた。台湾、旧・韓国は、そういう西欧の収奪型ではなく、両国とも日本統治下で教育などインフラ整備や経済発展が得られたではないかというのが保守派の主張だ。

安倍首相(当時)が侵略・戦争を否定し「植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決が尊重される世界にしなければならない」と発言したことをもって、安倍ですら植民地支配が「悪しきこと」であったと認めているではないかとの指摘には呆れるしかない。安倍は、《日本の戦争はアジアを欧米植民地支配から解放するものだった》という戦前のレトリックを用いているに過ぎない。安倍は、日本の過去の植民地を植民地と思っていない根っからの植民地主義者だ。著者の引用はまさに噴飯ものだ。

そもそも著者は、日韓関係を良くしようとは微塵も思っていないのではないか。

私自身はかねてから日韓関係はもはや重要ではないと思っている。両国間のあいだにはもう大した課題は残っていない。経済面、安全保障面で互いに利を認める範囲で地域連携を深めればよい。複雑な東アジアの現実の中で、日韓が無条件で親密であることなどあり得ない。むしろ互いに民主主義国家であればあるほど、近ければ近いほど、今以上の連携は難しい。もはや両国関係はさほど重要ではない。

だからこそ「歴史認識」問題への配慮など必要はない。反日感情は、そう簡単には解消しないだろう。しかし、日本人もその理非曲直については、大いにはばかることなく声をあげて反論するべき。だからといって、今の日韓の経済交流、文化交流、ひとりひとりの友情はびくともしないだろう。「配慮外交」はもうやめようということ。

本書にはそういう考えに近い示唆が多い。ならば、そのように明確に言えばよい。ところがなぜかそうならない。

むしろ本書では、管政権時の韓国への半導体材料の輸出規制強化について元徴用工問題への報復処置であると決めつけるような記述を一度ならず繰り返している。それはまさに韓国側の主張そのものだ。しかし問題の本質は、安全保障面での信頼関係にあった。自衛隊機へのレーダー照射問題がきっかけであり、何より対象品目の第三国への横流しのようなコンプライアンス上の深刻な問題もあって事前に何度も改善要請をした上での処置だった。規制強化といっても特別待遇のホワイト国を外す処置であって、即ち普通の手続きを求めるという《格下げ》に過ぎない。本書は、そのことに触れず「報復処置」「規制強化」と繰り返す。日本側の不当な対応と言わんばかり。そういう過剰な反応を招いたのはマスコミのバイアスだと言いつのる。実態は真逆ではないか。

何やら無知な学生に正学を垂れるみたいな形式を取っているが、日韓関係への無知にさらに誤解を吹き込むようなもの。だから苛立ちと怒りが募るばかり。


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誤解しないための日韓関係講義
木村 幹 著
PHP新書

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「つくられた桂離宮神話」(井上章一 著)読了 [読書]

桂離宮は、簡素な日本美を象徴する建築・庭園であり、それはブルーノ・タウトによって再発見された。

多くの日本人は、今でもそう信じている。

それをバッサリ。

何とも「いけず」でそれだけに痛快。面白すぎる。日本美を代表する建築にケチがついて面白くない人間がいないはずはない。だから本書が世に問われたときには物議をかもしたらしい。「あんなことを言わせていてよいのか」――それで建築史学会に無視された。著者は、その冷遇に対して大いに憤慨したらしい。そのことは「文庫版あとがき」に詳しいが、これがまた笑うに笑えない。

断っておくが、本文はまことに学術的で生真面目。その考証の追求ぶりという点では文献考証の手本と言ってもよいほど。実に執拗で忖度がない。まさに「いけず」なのだ。

それまでは桂離宮は、人々の関心を集めることもなく忘れられ、半ばうち捨てられていた。それが1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトが絶賛、一転して、簡素で機能美に徹した日本建築の素晴らしさに気づかされた日本人の称賛を集めることになる。対照的なのは日光東照宮で、それまでは絢爛豪華で精緻な意匠工芸と、長い間、もてはやされてきたのに、とたんに俗悪で過剰だと貶められてしまうことになる。

そういう誰でも知っている「桂離宮神話」は、実は、すべて虚構だったという。

過剰な意匠を嫌い、機能に優れるものは外観的にも美しい…というのは、まさにモダニズム派の主張。当時勃興期にあったモダニズムは、その喧伝のためにタウトを利用したのだという。柱や屋根といった構造材がそのまま美的意匠となっているという機能美の徹底こそ日本美の特質だという文化論も、折からのナショナリズムの高揚に乗じて作られた。そもそもタウトは、モダニズム建築の信奉者ですらなかったという。

著者はそういう虚構の足跡を、執拗かつ詳細な文献解析で明かしていく。おびだたしい数の観光ガイドを時系列的に解析して、桂離宮の観光資源としての人気がタウトによるものではないことも解き明かす。それは教養人、専門家などのエリートが言挙げした文化論、審美信仰が観光宣伝のキャッチに取り込まれ、それをそのまま鵜呑みにした大衆へと拡がっていく。そんな過程をも露わにする。

著者自身は、桂離宮そのものについては「自分にはその良さはわからない」といっさい語らない。その言いようがまたまた「いけず」。そのことで、反感を呼び、建築史学会から無視冷遇されわけだが、社会学者など埒外の学者は面白がった。ところが面白いと評されても、「大きなお世話だ」と喜ばないところがこれまた著者の面目躍如というわけだ。

桂離宮の名声は、虚構や誤解によって高まった。誤解がとけ、評価や解釈のありようが年月とともに変わっても、いったん高まった価値認識だけは動かない。それが古典芸術というもののありようなのだという。

そのことは、他の芸術でも同じ。私は、クラシック音楽のファンだが、本書が論じていることと通じるものがあると思える。何だかちょっと身につまされる。

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つくられた桂離宮神話
井上 章一 (著)
講談社学術文庫
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エラールで弾く「展覧会の絵」 (川口成彦@紀尾井レジデント・シリーズ) [コンサート]

先日、葵トリオで幕をあけた紀尾井ホール主催の新シリーズ、レジデント・シリーズのもう一本のシリーズも始まりました。

川口成彦さんは、いま大注目のピアノフォルテ奏者。このシリーズでは『これはピリオド楽器でやったらどうなるだろう』『この作品をあえてこの楽器で演奏してみたい』というプログラムに挑戦するという。

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その第1回は、あのムソルグスキーの名曲「展覧会の絵」を1890年製のエラールで弾いてみようというもの。

まず前口上はバッハ。

《主よ、人の望みの喜びを》は、おなじみのピアノ版バッハですが、その編曲は、このエラールと同じ年に生まれたイギリスの女流ピアニスト、マイラ・ヘス。この有名な原題の英訳は、この編曲版がオリジナルなのだそうです。

バッハから、間髪を入れずにグリーグの組曲《ホルベアの時代から》へ。

これがエラールとは不思議なほどにマッチしていました。《ホルベア》とはノルウェーの近代文学の父と言われるルズヴィ・ホルベアのことで、バッハと同時代のひと。こうやってエラールで弾かれると、その擬古的な味わいが鮮明に浮き出てきて目からウロコ。ピアノ版も作曲者自身によるオーケストラ版もどちらも好きでよく聴いているのに、それがバッハと同時代の作家へのオマージュであったということにうかつにも気がついていませんでした。

一方でソナタのほうは、ちょっと勝手が違っていました。

確かに初期のナイーブさはあるのですが、とてもドイツ的で杓子定規。だからエラールにはちょっと荷の重い響きも頻発して聴きづらいところもあるし、全体に平板で退屈。

ところが、前半最後の小品《君を愛す》ではまたその様相が一変。

こういうロマンチックなメロディの美しさにはエラールは抜群に相性がよい。古楽器の魅力は、楽器そのものの多様な個性と時代性なんだと思います。特にピアノが得意な作曲家は、楽器の特性や特有の奏法や技巧に沿って物心一体となって創作していた。ピアノは歴史的に進化のテンポが大きかったから、そういう楽器の多様性がとても豊か。

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さて、後半はいよいよ『展覧会の絵』です。その前座に、同じロシアのチャイコフスキーのピアノ小品。

これもまたよい相性を示しました。やはり、エラールというのはロマン派の楽器。その中でもとびきり感性豊かなロマンチックな楽器なんだなぁと得心します。

それではムソルグスキーはどうなのか?

《展覧会の絵》は、どうしてもラベル編曲版のスケールと音色の多彩さ、豊穣な響きが頭の中で鳴ってしまいます。一方でピアノ原曲は、譜面づらはとてもナイーブで、単純な和音やオクターブでつかむユニゾンの単旋律が続きます。一方で全音符のフェルマータに平然とクレッシェンド記号がついていたりする。かと思うと、突然、進歩的な三段譜も登場したりする。弾き手にとっても難曲だし、聴き手にとってもなかなか難物です。

ヴィルトゥオーゾ風のスペクタクルとか低域のオルガンのような深い響きとかを期待するとピリオド楽器には荷が重いかもしれないと思ってしまうし、ロマンチシズムの流麗さとか歌の雅やかさとは正反対の無骨で土臭いムソルグスキーとの相性も心配してしまいます。

ところが聴いていくと、これがまた素晴らしい。

この曲は、まさにエラールで作曲されていたのではないかと思うほどに、ムソルグスキーの意図とか求めているものが見えてくるような気になってきます。

ロシア正教は器楽禁制なので聖歌はすべてアカペラ。川口さんによれば、最初の《プロムナード》はその正教会聖歌を模倣しているとのこと。独唱による詠唱がリードしそれに被るように合唱が続く、それを繰り返す。なるほど、と思いました。あの愚直なまでのシンプルな響き、オクターブ奏法の単純でいて筆太の旋律線、むき出しの音色、残響の余韻に任せる長音など、この曲の様々な素朴な個性がとてもわかりやすく聴き手に届いてきます。とても不思議。

この日のプログラムは、一年前から準備していたとのこと。ウクライナでの戦争と激しいロシア音楽へのバッシングもあって、川口さんも思い悩んだそうです。けれどもそういったことにはあえて距離を置いてそのままのプログラミングを貫くことにしたのだとか。

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終曲の《キエフの大門》とは、画家のガルトマンが描いた設計構想画、つまりポンチ絵のようなもので、復元のためのコンペに応募したもの。実在する建築物ではありません。この《展覧会の絵》全体が、動脈瘤で突然に夭逝した親友のための鎮魂歌。その掉尾を飾る《キエフの大門》こそ、親友の画業への称賛と二人が分かち合ったロシア芸術礼賛とがないまぜになった、死への鎮魂と慟哭の歌なんだと、まさにそう聴こえてくる。《大門》はロシア帝国栄光の黄金の門なんかじゃない。そういう今までにない感覚が呼び覚まされてくる。同時にウクライナでの戦争と犠牲への悲嘆、平和への祈願とが心の中でわぁーっと共鳴してしまう感覚がある。そういう深い感動で胸がいっぱいになりました。

アンコールで、ウクライナの作曲家グリエールの曲を取り上げたのは川口さんの心優しい気持ちの印。これからはウクライナ読みでフリイェールとでも呼ばれるのでしょうか。ジョージア人の血を引くボロディンとともに、いずれもこれまではロシア民族主義を代表する作曲家といわれてきました。

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会場には、小さなお子さん連れがいままでになく多くいらっしゃいました。紀尾井にも新しくて若い風が吹き始めているのかも知れません。


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紀尾井レジデント・シリーズ Ⅱ
川口成彦(フォルテピアノ)(第1回)
2022年4月6日(水) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階BR 1列6番)

川口成彦(フォルテピアノ)
使用楽器:エラール(1890年)(楽器提供ナトリピアノ社)

バッハ:主よ、人の望みの喜びよ(マイラ・ヘス編曲)
グリーグ:ホルベルク組曲 op.40
グリーグ:君を愛す op.41-3
グリーグ:ピアノ・ソナタ ホ短調 op.7

チャイコフスキー:《哀歌》変ニ長調 op.72-14
ムソルグスキー:組曲《展覧会の絵》

(アンコール)
グリエール:子供のための12の小品op.31より第4曲「夢」
ボロディン:小組曲より第6曲「セレナード」

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オーディオの不調 天気のせいかも!? [オーディオ]

先日のNHK『クローズアップ現代』《体の不調 天気のせいかも!? 最新研究で分かる対処法》がなかなか面白かった。

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雨が降ると頭が痛くなる…、台風前はだるい…天気のせいで体に不調をきたす。こういう原因不明の不調に悩む人々は、推計1千万人もいるそうです。そのメカニズムや対策が最新研究でわかってきて、さらに、一見普通の天気でも不調を引き起こすケースがあるということも判明したというのです。

例えば、台風が近づくと体調を崩す人がいるという。最近の研究によって、遠い南方洋上にある段階でも気圧の細かい変動(微細動のような気圧の波動)が伝わってきて体調不良の原因となることがわかったそうだ。

こういうことは体質的なことで、誰もが反応するわけではない。気のせいだとか思い過ごしだとか、しばらくすれば治るとか、ひどい場合は仮病扱いにされて言い分を信じてもらえないことも。アレルギーもよく似ている。食品アレルギーなんか、昔は好き嫌いとかわがままのような扱いを受けました。私はソバアレルギーだから身につまされます。

オーディオにも似たようなことがあります。

昔からよく言われることは…

●湿気が多い夏は音が悪くなる
●雨が降ると音が悪くなる
●冬場の乾燥時期は、静電気のせいで音が悪くなる
●気温の上下で音が悪くなったり、良くなったり
●昼間は微騒音で音が不調になる
●昼間は近隣の電力消費で電源のノイズが多くなる(正月三が日は最高音質)
●太陽黒点の活動が活発になると音が悪くなる
●地震前には地磁気が歪み音が悪くなる

まだまだ他にもあるかもしれませんが、真偽のほどはともかく、思いつくだけ挙げてもこれだけあります。こういうことがひとつひとつ科学的に実証され、検知法や対処法があるとありがたい。けれどもオーディオの話しなんて、研究はおろか世間一般、誰も相手にしてくれません。オーディオ内輪のオカルトと見下されるのがオチというわけです。

さて…

ごく最近悩まされていたのは、Roonのバージョンアップ後の不調でした。

しばらく経つと、落ち着いてきましたが、気になることは気になる。DOCONOさんによれば、アルバムアートが表示されない症状もあるとのことなので、ネットワークに関連しているのではないかと推測。試しにWANを切ってみると、音が拡がり音もしっかりします。今まではWANの接続有り無しでは差がなかったので、これはやはりバグの一種でしょう。WANでメタデータをしきりに参照するとかでリソースを圧迫しているとか…?

これは次のバージョンアップを待つしかないかなと思っていたところ、先日、アップされました。Roon 1.8 (Build 931)です。案の定、音は元に戻ったのか、各段に良くなりました。音質を気にしたり、WANを外したりすることはもうなくなりました。

いよいよ、ここからが、本題です。

ここしばらく悩まされていた、不調の波の本当の原因がわかりました。この不調の波は、ラックへのウェルデルタ導入後に感じだしたので、およそ2ヶ月以上も悩んでいました。この間、アンプへの振動対策なども試みていたのでなかなか要因の切り分けができなかったのです。

それは、MFPCのバッテリー電源のへたり(経年劣化)でした。
https://community.phileweb.com/mypage/entry/2408/20200511/65038/

Diretta Target PCのバッテリーが、放電が進むと音が悪くなる。症状は日に日に進んでいたようで、次第に残量が50%を切る程度でも症状が出るようになってきました。気がついた時には、相当に音の劣化が進んでいたようです。

バッテリーとは、日本トラストテクノロジーの携帯バッテリー(MobilePowerBank)のことです。容量が大きく電圧切り換え式で19V給電も可能で重宝していました。特に60000mAhの大容量型が寿命が短く、これまでもすでに2台ほどが潰れてしまいました。小容量型に換えたところ症状がほぼ解消しました。

先だって、ベテランお二人をお迎えしたときも、アナログは良いのにPC再生では空気感や空間表現がイマイチとの評がありました。試験中の振動対策が主な原因だと判明してはいますが、すでのその時点でバッテリーによる音質の劣化はあったのかもしれません。

以前は、こうしたバッテリーのへたりがあっても、放電の途中では音質の不調は感じませんでした。要するに放電時間が短くなる。気持ちよく聴いていると、放電してしまってプッツンするだけの話し。ウェルデルタ導入によるレベルアップで、バッテリー寿命そのものによる音質劣化も気になりだしたのでしょう。

もう4年ほど使用していたので文句を言うつもりはありませんが、それにしても値段のわりに寿命が短い。しかももはやディスコンです。予備品に余裕を持たせてローテーションでしのいできましたが、早晩、立ちゆかなくなりそうです。消費電力が大きめのTargetPCだけではなく、スイッチングハブやSSDの電源も考えなくてはならないとただいま思案中です。

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「戒厳」(四方田犬彦 著)読了 [読書]

大学を卒業したばかりの主人公の瀬能は、ひょんなことから日本語教師として韓国・ソウルの大学に赴任する。そうやって考えもしなかった韓国社会に放り込まれ、自分と歳の違わない学生たちと濃厚な日々を過ごす。半年が過ぎ、ようやくかたことの会話はできるようになり、ハングルも街の看板ぐらいは読めるようになってきた瀬能は、突然のように朴正煕大統領暗殺という大事件に遭遇する。戒厳令下のソウルをあてどもなくさまよい歩いた瀬能が見たり感じたりしたことは…。

これは瀬能の「回想(メモワール)」だが、著者自身のそれでもある。記憶や感慨は時を経るにつれて過熱し冷却されて変成していく。些末なことで記述の真偽正誤に煩わされたくないだろうし、関係者を実名で記述することも厭われる。そういうことでフィクションの体裁をとったのだろう。けれども、これは作者の生の実体験であることに間違いない。

ここで描かれる韓国社会は、今の若い世代からすれば隔絶の観があるだろう。「1980年代の韓国はめまぐるしく変貌した。一つの事件に驚いていると、次にそれを転覆させる事件が起きるといった風」だったからだ。政治の担い手も、保守・革新の立ち位置も、「民主化」の意味も、若者の感性も、それこそ白と黒とが入れ替わるほどに違う。

それを承知で作者は、自分の記憶と感慨を回想として掘り起こす。そこには、時の経過が断層崖面のようにくっきりと現れている。その地質と地質の断絶と反転は、韓国という社会の変貌というだけではなく、そこには韓国社会の根深い二重性がむき出しになっている。それはまた、日韓関係に執拗につきまとう二重性や意識の断絶とか矛盾のようなものをも映し出している。だからこそ、作者はあえていま「回想」している。

主人公の瀬能が教える学生がポツリと言う。これほど忌み嫌う軍事独裁の朴正煕だけれども、その朴のおかげで日本語教育が始まった。その日本語教育を受ければ、就職のあてのないはずの女子の大学卒だって中学・高校の日本語教師になれる。男子学生だって就職は狭き門で難しい。日本語を学べば日本企業など就職にも少しは有利になる…と。

エピローグでは、瀬能(作者自身)が、後年、韓国を再訪し、池明観(チ・ミョングァン)を訪ねたことが語られる。池とは、かつて雑誌『世界』に連載された『韓国からの通信』で朴の強圧独裁政治をこう然と批判し続けた「T・K生」その人のこと。池は帰国して、かつての国内民主化運動家たちとの不幸な齟齬に直面する。独裁の下にとどまりあらゆる恐怖に耐えた人士たちに対して、安全地帯にとどまり続けたことへの罪障意識にも苦しんだ。

「もう昔の友情とか信頼そいうものがなくなってしまったのです」「わたしが東アジア全域の未来について考えようと提言しても、彼らはナショナリズムに凝り固まってしまい、韓国と日本とを対立関係の下にしか認識しようとしなくなってしまった」

そう嘆いた池は、「でもね、」と別れ際に付言する。「いいこともあったのです」と。

「わたしの書いた『通信』を読みたいという理由だけから、何人かの学生が獄中で日本語を学ぶことを決意したと、後でいってくれたのです。」

二重三重、幾層にも反転、ねじ曲げられて折り重なる地層は、いつか逆転して隠れていた下の地層が現れる。地層と地層の間には、年月をかけて磨かれようやく地表に現れる伏流水も流れている。それが日韓の歴史だということではないだろうか。

著者の真摯な気持ちがこめられた渾身の書だと思う。


戒厳_1.jpg

戒厳
四方田 犬彦 (著)
講談社

タグ:四方田犬彦
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「天皇と日本の起源」(遠山 美都男 著)読了 [読書]

このところ立て続けにこの著者の本を読んでいる。

本書は、「天皇」という称号や日本独自の元号、国名としての「日本」が成立した飛鳥時代から奈良時代にかけての国家形成の軌跡を描く。それは、即ち、推古・厩戸から天武・持統まで、王家の人々の足跡とその継承をめぐる権謀と動乱の過程でもある。

著者は、その中心に「飛鳥」という土地と王宮、王都の建設を置く。上代期は、即位のたびにその住居、執務場所を新設・遷移した。その意味は何だったのか。そして、それはやがて時代を経るにつれて本格的な王宮、あるいは、さらには大規模な都城の建設へと進化していき恒常的な王都建設へと発展していく。それは、すなわち国家観の形成そのものに直結している。

この時代には女性君主を多く輩出しているという点でも特異な時代。著者は、特に、推古、皇極(重祚して斉明)、孝謙(重祚して称徳)という三人の女帝に着目する。それは、この三人の在位が長かったというにとどまらず、何よりも都城建設に大きな力を注いでいたと強調する。言い換えれば、これらの女性天皇たちこそが国家形成の主役だったという言うわけだ。

そういう着目はとても面白い。女性君主は、時間稼ぎの暫定傀儡だったという定説にも真っ向から挑む。斉明天皇は、蝦夷平定により日本統一国家を確立し、その勢いを借りて朝鮮半島にも野望を抱き軍事介入する。中大兄皇子は、母帝の遠征に筑紫まで付き随い、その客死後、未即位(称制)のままその失敗の後始末に追われることになる。あるいは天武天皇は飛鳥京を制圧確保することで壬申の乱を勝ち抜き、諸豪族を超越することで「天皇」を号することになるが、その「倭京」から本格的な都城建設に邁進したのは、孝徳天皇だったという。女帝の政治的野心はすべからく都城建設を動機としていたという。

着目は面白いが、説得力には欠ける。

従来の定説を批判するが、根拠が無いと否定するものの反論にもさしたる根拠がなく、あくまでも解釈の問題だから。状況証拠からどう読み取るかということでは従来説を否定したところで、別の読み取り方をしているに過ぎない。本当に専制君主だったのか、あるいは神輿に担がれていただけなのか、後付けの歴史観に粉飾された文献から判断するのは難しい。女性軽視の偏見だと切り込んでみても、今様のフェミニズムの主張だと言い返されればお互い様としか言い様がない。要するに新しい物的証拠も、覆すような新証言も無いのだ。

平成になって様々な発掘もあり、あらたな科学的解析技術も考古学に導入されている。木簡など、同時代の文献・記録の発見もあった。日本の上代史も、そろそろ歴史観批判の時代ではないのではないかとも思う。啓蒙書というにもあたらず、かといって発想の転換を促すほどの刺激がある本でもない。



天皇と日本の起源.jpg

天皇と日本の起源
「飛鳥の大王」の謎を解く
遠山 美都男 (著)
講談社(現代新書)

タグ:皇位継承
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