「楽器の科学」(フランソワ・デュボワ 著)読了 [読書]
音楽ファンとしては、なかなか面白そうだと思って手に取ってみた。
なるほど、楽器の構造、発音機構に着目した「分類」、「倍音」「共鳴」と、楽器のキモともいうべき項目が並ぶ。西洋音楽理論の根底にある整数論をふまえた説明も平明でわかりやすい。けれども、平易であるだけに浅い。「科学」というほどには、実証的ではない。例えば、取り上げられる楽器の数も限られているし図版も少なく具体性に乏しい。
著者は、マリンバ奏者にして作曲者だそうだが、それだけに実のところ「科学」からは遠いからだろう。せいぜいが数理に強い音楽家といったところ。「倍音」などは、ウィキペディアよりも易しく説明している…という程度でツッコミ不足。音楽ファンには不満。
むしろ面白かったのは、コンサートホールについてのお話し。ホールも楽器のひとつというわけだろう。しかし、これとても、取り上げられたホールは、ウィーン楽友協会大ホールなどごくわずかな有名ホールに限られる。日本在住の著者なら日本に限って、もっとたくさんのヴェニューを取り上げてもよかったのでは。直接反射と回折の指摘などはグッジョブなんだけど、結局、「音響技術者のセンスも主観的」というのでは「科学」にならない。
最終章のプロ演奏家たちの体験談や楽器論議も面白い。それは単なる楽器談義には終わらない。やはり、演奏家の生の体験とか感じていることは興味深い。むしろこうした生のトリヴィアルな話しをテーマとしてひとつひとつ掘り下げたほうが面白かったんじゃないかな。
やっぱり「科学」ってのは、やってみることなんだと思う。
楽器の科学
美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」
フランソワ・デュボワ 著
木村 彩 訳
ブルーバックス
楽器の個性を生み出す「倍音」とは?
音色を美しくする「共鳴」とは?
バイオリンの最重要パーツ「魂柱」とは?
楽器の素晴らしさを引き出すコンサートホールの条件は?
そして、プロが考える「最高の楽器」とは?
フランスで最も栄誉ある音楽勲章を最年少受章した著者が楽器の秘密を解き明かす!
プレリュード──音楽は「五線譜上のサイエンス」
第1楽章 作曲の「かけ算」を支える楽器たち──楽器には5種類ある
第2楽章 楽器の個性は「倍音」で決まる──楽器が奏でる「音」の科学1
第3楽章 楽器の音色は「共鳴」が美しくする──楽器が奏でる「音」の科学2
第4楽章 「楽器の最高性能」を引き出す空間とは?──コンサートホールの音響科学
第5楽章 演奏の極意──世界的ソリスト10人が教えるプロの楽器論
なるほど、楽器の構造、発音機構に着目した「分類」、「倍音」「共鳴」と、楽器のキモともいうべき項目が並ぶ。西洋音楽理論の根底にある整数論をふまえた説明も平明でわかりやすい。けれども、平易であるだけに浅い。「科学」というほどには、実証的ではない。例えば、取り上げられる楽器の数も限られているし図版も少なく具体性に乏しい。
著者は、マリンバ奏者にして作曲者だそうだが、それだけに実のところ「科学」からは遠いからだろう。せいぜいが数理に強い音楽家といったところ。「倍音」などは、ウィキペディアよりも易しく説明している…という程度でツッコミ不足。音楽ファンには不満。
むしろ面白かったのは、コンサートホールについてのお話し。ホールも楽器のひとつというわけだろう。しかし、これとても、取り上げられたホールは、ウィーン楽友協会大ホールなどごくわずかな有名ホールに限られる。日本在住の著者なら日本に限って、もっとたくさんのヴェニューを取り上げてもよかったのでは。直接反射と回折の指摘などはグッジョブなんだけど、結局、「音響技術者のセンスも主観的」というのでは「科学」にならない。
最終章のプロ演奏家たちの体験談や楽器論議も面白い。それは単なる楽器談義には終わらない。やはり、演奏家の生の体験とか感じていることは興味深い。むしろこうした生のトリヴィアルな話しをテーマとしてひとつひとつ掘り下げたほうが面白かったんじゃないかな。
やっぱり「科学」ってのは、やってみることなんだと思う。
楽器の科学
美しい音色を生み出す「構造」と「しくみ」
フランソワ・デュボワ 著
木村 彩 訳
ブルーバックス
楽器の個性を生み出す「倍音」とは?
音色を美しくする「共鳴」とは?
バイオリンの最重要パーツ「魂柱」とは?
楽器の素晴らしさを引き出すコンサートホールの条件は?
そして、プロが考える「最高の楽器」とは?
フランスで最も栄誉ある音楽勲章を最年少受章した著者が楽器の秘密を解き明かす!
プレリュード──音楽は「五線譜上のサイエンス」
第1楽章 作曲の「かけ算」を支える楽器たち──楽器には5種類ある
第2楽章 楽器の個性は「倍音」で決まる──楽器が奏でる「音」の科学1
第3楽章 楽器の音色は「共鳴」が美しくする──楽器が奏でる「音」の科学2
第4楽章 「楽器の最高性能」を引き出す空間とは?──コンサートホールの音響科学
第5楽章 演奏の極意──世界的ソリスト10人が教えるプロの楽器論
タグ:楽器
フランス現代の清新な香り (クァルテット・アマービレ) [コンサート]
この小さくて響きの素晴らしいホールで弦楽四重奏曲を聴くことには病みつきになりそう。
そのホールで聴く、いま、大人気のクァルテット・アマービレは格別。
曲目は、二十世紀フランスの傑作がそろい踏みという、この上なく贅沢なもの。アマービレにとっても、フランスものに正面から向き合うのはほとんど初めてのことだそうですが、演奏は素晴らしいものでした。
最初のデュティユーは、弦楽器の特殊技巧をまるでおもちゃ箱をひっくり返したかのように炸裂散乱する。「夜」といっても、決して月を愛でるとかいった優雅なものではなくて、魑魅魍魎が跋扈するダークな闇の世界。その暗闇を背景にうごめく気配のようなものが、時に激しく、時に敏捷に、右左に遷移旋回する。闇と精気との対照が鮮やか。いかにも二十世紀中央の音楽だけれども、不思議なほどに背景の闇を感じさせ嫋嫋と美しい。とにかくアマービレの技巧のキレと絢爛豪華さに圧倒されました。
ドビュッシーは、まだ若くて、存分に尖っていた時代の傑作。フランク以来の循環形式を踏まえながらも、意図的にドイツ的な「ロマン派」を排除している。エキゾチックな和声は、理論や慣習を容赦なく剥ぎ取ってしまい、ひたすら感覚的にコラージュしていく。
この日のアマービレも、対向型配置。
左から、第一ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第二ヴァイオリンと並ぶ。そういう配置のせいか、名前の通り中央からアンサンブルを睥睨する中 惠菜のヴィオラが印象的。深みのある内声部を担いながらも、要所要所で前に出てくる。時に妖しく艶やかな音色に蠱惑される。そのことでドビュッシーの和声や色彩のエロチシズムが華やかに匂い乱舞する。ドビュッシーは、名曲とされるわりには実演されることが稀で、ちょっとこれは希有の体感でした。
休憩後は、ラヴェル。フランス派の弦楽四重奏曲の看板メニューともいうべき曲だけに、実演やライブ録音などでもよく耳にします。それだけにそれぞれの演奏団体の個性も楽しめる名曲だと思います。アマービレは、格別のフランス近現代の雰囲気で絶品でした。ラヴェルのレシピを存分に読み込んで、食彩を鮮やかにさばいて極上のソースで仕上げながら、楽章ごとにバラエティ豊かな味わいを醸し出す。弱音器も小さめなものを使って繊細に仕上げる。アンサンブルの凄み以上に、個々の楽器の個性が香り立つすばらしい演奏。
日本人の味覚からすると、濃厚な味のフレンチかもしれません。聴いていると、ウェーベルンのあの甘美極まりない「緩徐楽章(Langsamer Satz)」を思い出してしまいました。アマービレにかかると、フランス近現代の四重奏曲のいずれもが、それぞれに新ウィーン楽派の三人の作曲家の都会的洗練の濃厚さに通じているとどうしても感じてしまうのです。
そのことを強く感じたのは、アンコールのプッチーニの「菊」。
プッチーニのパトロンだったスペイン王の薨去に際して追悼のために一夜で作曲したそうです。菊は東洋のもの。西洋人にとってエキゾチックな高貴さを持つ大輪の花ですが、19世紀になって日本の菊が伝えられて大流行したとのこと。その時に、葬祭の献花という慣習もそのまま伝えられたそうです。歌劇「マノン・レスコー」にそのまま流用された曲は、終末の香華でありながら濃厚な音楽でした。
サルビアホール クァルテット・シリーズ146
2022年6月29日(水) 14:00~
横浜市鶴見 サルビアホール
(F列9番)
クァルテット・アマービレ
篠原 悠那 北田 千尋 (Vn)
中 惠菜 (Va) 笹沼 樹 (Vc)
デュティユー:弦楽四重奏曲 「夜はかくのごとし」
ドビュッシー:弦楽四重奏曲 ト短調 作品10
ラヴェル:弦楽四重奏曲 ヘ長調
(アンコール)
プッチーニ:弦楽四重奏曲『菊』嬰ハ短調
そのホールで聴く、いま、大人気のクァルテット・アマービレは格別。
曲目は、二十世紀フランスの傑作がそろい踏みという、この上なく贅沢なもの。アマービレにとっても、フランスものに正面から向き合うのはほとんど初めてのことだそうですが、演奏は素晴らしいものでした。
最初のデュティユーは、弦楽器の特殊技巧をまるでおもちゃ箱をひっくり返したかのように炸裂散乱する。「夜」といっても、決して月を愛でるとかいった優雅なものではなくて、魑魅魍魎が跋扈するダークな闇の世界。その暗闇を背景にうごめく気配のようなものが、時に激しく、時に敏捷に、右左に遷移旋回する。闇と精気との対照が鮮やか。いかにも二十世紀中央の音楽だけれども、不思議なほどに背景の闇を感じさせ嫋嫋と美しい。とにかくアマービレの技巧のキレと絢爛豪華さに圧倒されました。
ドビュッシーは、まだ若くて、存分に尖っていた時代の傑作。フランク以来の循環形式を踏まえながらも、意図的にドイツ的な「ロマン派」を排除している。エキゾチックな和声は、理論や慣習を容赦なく剥ぎ取ってしまい、ひたすら感覚的にコラージュしていく。
この日のアマービレも、対向型配置。
左から、第一ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第二ヴァイオリンと並ぶ。そういう配置のせいか、名前の通り中央からアンサンブルを睥睨する中 惠菜のヴィオラが印象的。深みのある内声部を担いながらも、要所要所で前に出てくる。時に妖しく艶やかな音色に蠱惑される。そのことでドビュッシーの和声や色彩のエロチシズムが華やかに匂い乱舞する。ドビュッシーは、名曲とされるわりには実演されることが稀で、ちょっとこれは希有の体感でした。
休憩後は、ラヴェル。フランス派の弦楽四重奏曲の看板メニューともいうべき曲だけに、実演やライブ録音などでもよく耳にします。それだけにそれぞれの演奏団体の個性も楽しめる名曲だと思います。アマービレは、格別のフランス近現代の雰囲気で絶品でした。ラヴェルのレシピを存分に読み込んで、食彩を鮮やかにさばいて極上のソースで仕上げながら、楽章ごとにバラエティ豊かな味わいを醸し出す。弱音器も小さめなものを使って繊細に仕上げる。アンサンブルの凄み以上に、個々の楽器の個性が香り立つすばらしい演奏。
日本人の味覚からすると、濃厚な味のフレンチかもしれません。聴いていると、ウェーベルンのあの甘美極まりない「緩徐楽章(Langsamer Satz)」を思い出してしまいました。アマービレにかかると、フランス近現代の四重奏曲のいずれもが、それぞれに新ウィーン楽派の三人の作曲家の都会的洗練の濃厚さに通じているとどうしても感じてしまうのです。
そのことを強く感じたのは、アンコールのプッチーニの「菊」。
プッチーニのパトロンだったスペイン王の薨去に際して追悼のために一夜で作曲したそうです。菊は東洋のもの。西洋人にとってエキゾチックな高貴さを持つ大輪の花ですが、19世紀になって日本の菊が伝えられて大流行したとのこと。その時に、葬祭の献花という慣習もそのまま伝えられたそうです。歌劇「マノン・レスコー」にそのまま流用された曲は、終末の香華でありながら濃厚な音楽でした。
サルビアホール クァルテット・シリーズ146
2022年6月29日(水) 14:00~
横浜市鶴見 サルビアホール
(F列9番)
クァルテット・アマービレ
篠原 悠那 北田 千尋 (Vn)
中 惠菜 (Va) 笹沼 樹 (Vc)
デュティユー:弦楽四重奏曲 「夜はかくのごとし」
ドビュッシー:弦楽四重奏曲 ト短調 作品10
ラヴェル:弦楽四重奏曲 ヘ長調
(アンコール)
プッチーニ:弦楽四重奏曲『菊』嬰ハ短調
感情の泉 (田部京子 ピアノリサイタル) [コンサート]
田部京子さんの「シューベルトプラス」は、「シューマンプラス」を引き継いで2016年に始まっていますので足かけ6年ということになります。年末に予定されている10回目の節目で最終回ということだそうです。
田部さんは、若い頃にすでにシューベルト弾きとしての名声を得ていて、個人的にもそのシューベルトは大好きです。その美点は、なんといっても、わかりやすいこと。シューベルトの弾き手には、ともすればシューベルトをことさらに深遠に気難しく弾きがちなひとが少なくない。田部さんにはそういうところがない。「易しい」は「優しい」に通じます。自由で形式にとらわれず感情が浮遊するように移ろいゆく。そこには、シューベルト独特の哀切がただようのですが、田部さんのピアノはメロディが美しくとても柔らかい。
この日は、そういうシューベルトの作品のなかでも「即興曲」と同じか、それ以上に好きなD946。かつてのピアノの大家たちは、30分近い大作のように立派に弾く。田部さんにかかると、それが一変して繊細で細やかなニュアンスに富んだ音楽になる。そういうことは、最初の1曲目、両手での三連符に導かれてfzの和音が鳴り響くところで、さっそくその違いが出る。大家たちの演奏はここで威儀をただすことを強いるが、田部さんだとまるで一陣の風が吹くよう。郊外の森で心軽やかに手を広げると、一陣の風が吹く。爽やかなようでいてかすかに不吉さを感じさせるその刹那に、自らの命の存在に気づく。そのわずかな余白に、かすかな哀切がある。
シューベルトのこの曲をプログラムの中央に置いて、ブラームスとシューマンをプラスさせて弾く。
共通するのは、内から湧き出てくる感情の泉。
その音楽は、指先から触発されて感情が心の内奥から揺り起こされてくる。気持ちのままにメロディが浮かび上がり、そのメロディが言葉のない歌となって感情が湧き出て、たゆたうように静かに漂っていく。その感情には、なお言い尽くせぬものがあって、時に地を踏み跳ねて踊り、あるいは長く曳いて詠嘆のような余白を残す。
そのことは最初のブラームスも同じ。田部さんのブラームスは優しい。共通するのは憧憬のような想い。言い尽くせないものは、直接に触れられない、会えない、どうにも達成できないもの…への焦がれ。それを「恋」といってもよいかもしれないのですが、老年のブラームスにとってはそれは過ぎたことかもしれない。だからその隔てられた憧憬は単に空間的な距離ということにとどまらず、時間的な距離もあるのだと想います。過去と現在を往来し、空間の隔たりを飛翔する。インシデントの音楽。
そして、そのことは後半のシューマンのピアノ・ソナタの演奏にも通じていきます。
シューマンの憧憬は、本来、もっと具体的で直接的。つまりは、父親によって断じられているクララへの想い。シューマンはもともと古典的形式が苦手で、感情の抑制がきかずに何でもファンタジーになってしまう。そのシューマンがソナタ形式と格闘していた頃の作品。気難しく時に感情を爆発させて崩壊しがちなシューマンが、なんとか外形枠に収めていこうとする抑制的エネルギーを効かせている。田部さんは、それをレヴァレッジにして、外的なシューマンではなくて内奥から湧噴する豊かな感情の音楽として聴かせてくれる。だからこそ、終楽章の情熱のロンドが、達成の成就として活きてくる。
このハッピーで劇的なフィナーレは、シューマンだけのものではなく、前半のブラームスとシューベルトのフィナーレ、プログラム全体の成就のようにも聞こえてきます。歴史的な事実は、シューマンのクララとの恋の成就はそれだけで納まらなかったわけで、それを知っている私たちには、そういうフィナーレは逆説的で多層的な余白をも残すのですが…。
シューベルト・プラス 第9回
田部京子ピアノ・リサイタル
2022年6月26日(日) 14:00
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階 9列9番)
ブラームス:3つの間奏曲 Op.117
シューベルト:3つの小品 D.946
シューマン:ピアノ・ソナタ 第1番 Op.11
(アンコール)
シューマンの「交響的練習曲」Op.13 変奏4(遺作)
シューマン:リスト編曲の「献呈」
田部さんは、若い頃にすでにシューベルト弾きとしての名声を得ていて、個人的にもそのシューベルトは大好きです。その美点は、なんといっても、わかりやすいこと。シューベルトの弾き手には、ともすればシューベルトをことさらに深遠に気難しく弾きがちなひとが少なくない。田部さんにはそういうところがない。「易しい」は「優しい」に通じます。自由で形式にとらわれず感情が浮遊するように移ろいゆく。そこには、シューベルト独特の哀切がただようのですが、田部さんのピアノはメロディが美しくとても柔らかい。
この日は、そういうシューベルトの作品のなかでも「即興曲」と同じか、それ以上に好きなD946。かつてのピアノの大家たちは、30分近い大作のように立派に弾く。田部さんにかかると、それが一変して繊細で細やかなニュアンスに富んだ音楽になる。そういうことは、最初の1曲目、両手での三連符に導かれてfzの和音が鳴り響くところで、さっそくその違いが出る。大家たちの演奏はここで威儀をただすことを強いるが、田部さんだとまるで一陣の風が吹くよう。郊外の森で心軽やかに手を広げると、一陣の風が吹く。爽やかなようでいてかすかに不吉さを感じさせるその刹那に、自らの命の存在に気づく。そのわずかな余白に、かすかな哀切がある。
シューベルトのこの曲をプログラムの中央に置いて、ブラームスとシューマンをプラスさせて弾く。
共通するのは、内から湧き出てくる感情の泉。
その音楽は、指先から触発されて感情が心の内奥から揺り起こされてくる。気持ちのままにメロディが浮かび上がり、そのメロディが言葉のない歌となって感情が湧き出て、たゆたうように静かに漂っていく。その感情には、なお言い尽くせぬものがあって、時に地を踏み跳ねて踊り、あるいは長く曳いて詠嘆のような余白を残す。
そのことは最初のブラームスも同じ。田部さんのブラームスは優しい。共通するのは憧憬のような想い。言い尽くせないものは、直接に触れられない、会えない、どうにも達成できないもの…への焦がれ。それを「恋」といってもよいかもしれないのですが、老年のブラームスにとってはそれは過ぎたことかもしれない。だからその隔てられた憧憬は単に空間的な距離ということにとどまらず、時間的な距離もあるのだと想います。過去と現在を往来し、空間の隔たりを飛翔する。インシデントの音楽。
そして、そのことは後半のシューマンのピアノ・ソナタの演奏にも通じていきます。
シューマンの憧憬は、本来、もっと具体的で直接的。つまりは、父親によって断じられているクララへの想い。シューマンはもともと古典的形式が苦手で、感情の抑制がきかずに何でもファンタジーになってしまう。そのシューマンがソナタ形式と格闘していた頃の作品。気難しく時に感情を爆発させて崩壊しがちなシューマンが、なんとか外形枠に収めていこうとする抑制的エネルギーを効かせている。田部さんは、それをレヴァレッジにして、外的なシューマンではなくて内奥から湧噴する豊かな感情の音楽として聴かせてくれる。だからこそ、終楽章の情熱のロンドが、達成の成就として活きてくる。
このハッピーで劇的なフィナーレは、シューマンだけのものではなく、前半のブラームスとシューベルトのフィナーレ、プログラム全体の成就のようにも聞こえてきます。歴史的な事実は、シューマンのクララとの恋の成就はそれだけで納まらなかったわけで、それを知っている私たちには、そういうフィナーレは逆説的で多層的な余白をも残すのですが…。
シューベルト・プラス 第9回
田部京子ピアノ・リサイタル
2022年6月26日(日) 14:00
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階 9列9番)
ブラームス:3つの間奏曲 Op.117
シューベルト:3つの小品 D.946
シューマン:ピアノ・ソナタ 第1番 Op.11
(アンコール)
シューマンの「交響的練習曲」Op.13 変奏4(遺作)
シューマン:リスト編曲の「献呈」
ロシアへ愛をこめて (福間洸太朗 ピアノ・リサイタル)
前から気になっていた佐川文庫のサロンコンサートに初めて行きました。
佐川文庫は、1984年から93年まで水戸市長をつとめた故佐川一信のメモリアルとしての私設図書館。佐川氏は、水戸市長在任中に市制100年記念として水戸芸術館の創設に尽くされたひと。
サロンコンサートの会場「木城館」は、その庫舎に隣接して増設された200席ほどの音楽サロンです。客席両側の壁面には、佐川の熱心な招聘に応え水戸芸術館の館長に就任し長くその運営に携わってきた故吉田秀和の蔵書とレコードやCDが収納されています。
こちらはいわば吉田メモリアルとしての音楽サロンでもあるわけです。
そういうゆかりのサロンは、写真で見る以上に素敵な建物。八ヶ岳の音楽堂とよく似ていて、木の肌合いと響きがすっぽりと六角形の空間に納まり、大きな窓には周囲の青々とした緑が目に鮮やか。小さいながら本格的な音楽専用ホール。天井が高いし、ステージも客席の空間も開放的なので、演奏が間近に感じられる直接的なバランスの音響です。
地域に名指したアットホームな雰囲気も、私設の家族経営的なコンサートならでは。
福間洸太朗さんは、ちょうど1年前にサントリーホールで、〈バッハへの道〉と題したリサイタルですっかり気に入ったピアニスト。映画「蜜蜂と遠雷」でピアノ演奏を担った四人のピアニストのひとり。技巧が立ち、しかもなかなかハンサムで、女性の人気を集めているのは当然なのですが、そんなことはどこ吹く風といったマイペースなところがあって、若手作曲家に新作を委嘱したり、そのプログラムは懲りにこったこだわりのもの。
この日も、前半はスクリャービン、後半はラフマニノフと、二十世紀のロシアのピアノの巨人二人のみ。特にスクリャービンは、神秘主義、象徴主義への傾倒を強め現代音楽の先駆者ともいうべき和声の難解さがあって敬遠されがち。これだけスクリャービンを並べたプログラムは珍しいと思いました。
聴いてみると、比較的初期の作品を中心に選択しているせいか、むしろ親しみやすさが前面に出てきていて、後半のラフマニノフに負けない甘美で濃厚なロマンチシズムが魅了します。後半のラフマニノフまで一貫させているのは「幻想」というキーワード。いわゆる自由形式というのが音楽史の定義ですが、二人のロマンチストにかかると、文字通り「幻想」的でほとんど忘我没頭の非現実的な幻影を観る耽溺と恍惚の音楽。ピアノならではの抽象と具象が両立する多層的な幻想の音世界は、やはり二人がロシア人だからだと思えてきます。
左手のためのノクターンは特に見事。これが左手一本というのが信じがたいのですが、確かに福間さんは右手を膝の上に置いたまま。そういえば一年前のバッハでも、ブラームス編曲の左手の「シャコンヌ」が痛切な印象を与えて鮮やかでした。
二人の作曲家に共通するのは、冒頭が低く深い低音の響き。それは左手の打感にも共通するピアニストの強い思いが隠されているのかもしれません。そう感じたのは、後半のラフマニノフの「鐘」。
ロシア・ピアニズムの神髄には、「ロシアの鐘撞き男は、100通りの音色を撞き分ける」ということがあるのだそうですが、左手による低音弦の一撃にはそういうロシア・ピアニズムのある種のこだわりがあって、それがまた聴き手の魂を揺さぶる。
福間さんのこだわりかたは、アンコールの解題にも。福間さんのトークは気さくでありながら、そういうこだわりを熱っぽく軽妙に語っていて面白い。最後の締めとなった、レヴィツキーの「魅惑の妖精」も余韻があった。福間さんは、この作曲家がウクライナ人であることしか語らなかったが、後で調べてみると数年前の上野で開催された『「怖い絵」展』のBGMに使われたことが話題になった曲でした。
BGMが使われたのは、チャールズ・シムズの『そして妖精たちは服をもって逃げた』。
妖精画家として知られたシムズは、第一次大戦で長男を戦死させ、自身も戦地の惨状を目にしてトラウマとなり、後に自死している。絵の左下の「小さな妖精たちが散りぢりに逃げる」という場面は、長男の命が戦争で奪われるという現実の投影だというわけだ。
美しい曲でしたが、そこには爽やかな光に満ちた現実の下で、残酷な狂気に翻弄される小さな妖精たちの恐怖という幻視があった…。
締めくくりの曲だから、あえてそこまでくどくどと語らなかったのか…というのは深読みに過ぎるのでしょうか。
佐川文庫サロンコンサート
福間洸太朗 ピアノ・リサイタル
〈スクリャービン VS ラフマニノフ ~幻想を求めて〉
2022年6月25日(土) 15:00
水戸市 佐川文庫
スクリャービン:
3つの小品op.2
第1番 練習曲、第2番 前奏曲、第3番 マズルカ風即興曲
練習曲op.8より
第11番 アンダンテ・カンタービレ 変ロ長調
第12番 悲愴 嬰ニ短調
幻想ソナタ 嬰ト短調
ピアノ・ソナタ第2番 嬰ト短調 Op.19 『幻想』
左手のためのノクターンop.9-2
幻想曲 op.28
ラフマニノフ:
幻想的小品集op.3
第1番 エレジー、第2番 前奏曲『鐘』
第3番 メロティー、第4番 道化役者、第5番セレナーデ
幻想的小品 ト短調
ノクターン第3番 ハ短調
楽興の時op.16より
第5番 アダージョ・ソステヌート 変ニ長調
第4番 プレスト ホ短調
(アンコール)
バッハ:『主よ、人の望みの喜びよ』BWV147より
ショパン:ノクターン第2番 Op.9-2 変ホ長調
ショパン:練習曲ハ短調 Op.10-12 『革命』
ミッシャ・レヴィツキ:魅惑の妖精
佐川文庫は、1984年から93年まで水戸市長をつとめた故佐川一信のメモリアルとしての私設図書館。佐川氏は、水戸市長在任中に市制100年記念として水戸芸術館の創設に尽くされたひと。
サロンコンサートの会場「木城館」は、その庫舎に隣接して増設された200席ほどの音楽サロンです。客席両側の壁面には、佐川の熱心な招聘に応え水戸芸術館の館長に就任し長くその運営に携わってきた故吉田秀和の蔵書とレコードやCDが収納されています。
こちらはいわば吉田メモリアルとしての音楽サロンでもあるわけです。
そういうゆかりのサロンは、写真で見る以上に素敵な建物。八ヶ岳の音楽堂とよく似ていて、木の肌合いと響きがすっぽりと六角形の空間に納まり、大きな窓には周囲の青々とした緑が目に鮮やか。小さいながら本格的な音楽専用ホール。天井が高いし、ステージも客席の空間も開放的なので、演奏が間近に感じられる直接的なバランスの音響です。
地域に名指したアットホームな雰囲気も、私設の家族経営的なコンサートならでは。
福間洸太朗さんは、ちょうど1年前にサントリーホールで、〈バッハへの道〉と題したリサイタルですっかり気に入ったピアニスト。映画「蜜蜂と遠雷」でピアノ演奏を担った四人のピアニストのひとり。技巧が立ち、しかもなかなかハンサムで、女性の人気を集めているのは当然なのですが、そんなことはどこ吹く風といったマイペースなところがあって、若手作曲家に新作を委嘱したり、そのプログラムは懲りにこったこだわりのもの。
この日も、前半はスクリャービン、後半はラフマニノフと、二十世紀のロシアのピアノの巨人二人のみ。特にスクリャービンは、神秘主義、象徴主義への傾倒を強め現代音楽の先駆者ともいうべき和声の難解さがあって敬遠されがち。これだけスクリャービンを並べたプログラムは珍しいと思いました。
聴いてみると、比較的初期の作品を中心に選択しているせいか、むしろ親しみやすさが前面に出てきていて、後半のラフマニノフに負けない甘美で濃厚なロマンチシズムが魅了します。後半のラフマニノフまで一貫させているのは「幻想」というキーワード。いわゆる自由形式というのが音楽史の定義ですが、二人のロマンチストにかかると、文字通り「幻想」的でほとんど忘我没頭の非現実的な幻影を観る耽溺と恍惚の音楽。ピアノならではの抽象と具象が両立する多層的な幻想の音世界は、やはり二人がロシア人だからだと思えてきます。
左手のためのノクターンは特に見事。これが左手一本というのが信じがたいのですが、確かに福間さんは右手を膝の上に置いたまま。そういえば一年前のバッハでも、ブラームス編曲の左手の「シャコンヌ」が痛切な印象を与えて鮮やかでした。
二人の作曲家に共通するのは、冒頭が低く深い低音の響き。それは左手の打感にも共通するピアニストの強い思いが隠されているのかもしれません。そう感じたのは、後半のラフマニノフの「鐘」。
ロシア・ピアニズムの神髄には、「ロシアの鐘撞き男は、100通りの音色を撞き分ける」ということがあるのだそうですが、左手による低音弦の一撃にはそういうロシア・ピアニズムのある種のこだわりがあって、それがまた聴き手の魂を揺さぶる。
福間さんのこだわりかたは、アンコールの解題にも。福間さんのトークは気さくでありながら、そういうこだわりを熱っぽく軽妙に語っていて面白い。最後の締めとなった、レヴィツキーの「魅惑の妖精」も余韻があった。福間さんは、この作曲家がウクライナ人であることしか語らなかったが、後で調べてみると数年前の上野で開催された『「怖い絵」展』のBGMに使われたことが話題になった曲でした。
BGMが使われたのは、チャールズ・シムズの『そして妖精たちは服をもって逃げた』。
妖精画家として知られたシムズは、第一次大戦で長男を戦死させ、自身も戦地の惨状を目にしてトラウマとなり、後に自死している。絵の左下の「小さな妖精たちが散りぢりに逃げる」という場面は、長男の命が戦争で奪われるという現実の投影だというわけだ。
美しい曲でしたが、そこには爽やかな光に満ちた現実の下で、残酷な狂気に翻弄される小さな妖精たちの恐怖という幻視があった…。
締めくくりの曲だから、あえてそこまでくどくどと語らなかったのか…というのは深読みに過ぎるのでしょうか。
佐川文庫サロンコンサート
福間洸太朗 ピアノ・リサイタル
〈スクリャービン VS ラフマニノフ ~幻想を求めて〉
2022年6月25日(土) 15:00
水戸市 佐川文庫
スクリャービン:
3つの小品op.2
第1番 練習曲、第2番 前奏曲、第3番 マズルカ風即興曲
練習曲op.8より
第11番 アンダンテ・カンタービレ 変ロ長調
第12番 悲愴 嬰ニ短調
幻想ソナタ 嬰ト短調
ピアノ・ソナタ第2番 嬰ト短調 Op.19 『幻想』
左手のためのノクターンop.9-2
幻想曲 op.28
ラフマニノフ:
幻想的小品集op.3
第1番 エレジー、第2番 前奏曲『鐘』
第3番 メロティー、第4番 道化役者、第5番セレナーデ
幻想的小品 ト短調
ノクターン第3番 ハ短調
楽興の時op.16より
第5番 アダージョ・ソステヌート 変ニ長調
第4番 プレスト ホ短調
(アンコール)
バッハ:『主よ、人の望みの喜びよ』BWV147より
ショパン:ノクターン第2番 Op.9-2 変ホ長調
ショパン:練習曲ハ短調 Op.10-12 『革命』
ミッシャ・レヴィツキ:魅惑の妖精
「mRNAワクチンの衝撃」読了
ファイザーワクチンを、わずか11ヶ月で実用化させたドイツの小さなバイオ・ベンチャーのビオンテック社に密着した迫真のドキュメンタリー。
とにかく面白い。
ファイザーワクチンの実体が、実はこの小さなベンチャー企業だということにも驚いたが、その会社を率いる夫妻が、トルコ系移民のイスラム教徒だということにも驚く。その二人が最先端の医療分野をひたむきに走りながらも、新型コロナウィルスの世界規模の大感染のわずかな予兆を逃さず開発に賭けた医学的信念にも感動を覚える。
mRNAワクチンの衝撃は、なんと言ってもその開発スピードにあったと思う。エズレムとウールの夫妻がそのことに確信を持ち、強い使命感につき動かされて邁進した成果だ。驚異的な開発スピードにもかかわらず、安全性や効果を証明するための段階を踏んだ臨床試験や実用化に向けた手続きをいささかも省略していない。政治な思惑や圧力を利用するどころか、常にそうした俗物たちの干渉を遠ざけていたという経緯を知ると、これは単なるサクセスストーリーでもない。
そもそもmRNAワクチンとは何か?
解説書に堕することなく、あくまでもドキュメンタリーに徹しているので、かえって遺伝子工学の難解さに阻まれることなく、その「医療のゲームチェンジ」の衝撃がストレートに伝わってくる。
ビオンテックは、そもそも、ガン治療としての免疫療法としてmRNAワクチンに取り組んでいたという。
ガン患部を切除したり、増殖を阻む化学医薬や放射線療法ではなくて、身体の免疫力をガン細胞に向けて動員しそれを撃滅していこうというのがmRNAによる免疫療法。mRNAは、体内に入るとガン細胞と同じ構造のタンパク質に形成し、それに対する免疫反応を起こさせる。いわば攻撃目標の手配書(人相書)を体内免疫の攻撃部隊に伝えるメッセンジャーの役割を果たす。病原体を弱化した従来のワクチンとはちがってそれ自体には感染力は無いし、役割を済ませば消えてしまうの遺伝子組み換えが体内細胞に影響を与えるといった心配はない。
ガン細胞というのは、同じ病気であっても人それぞれによって構造が違っている。免疫療法といえども、それぞれの身体のガン細胞を抽出し特定して正確な手配書を作る必要がある。患者それぞれにワクチンを作る必要がある。それはガン進行との時間の戦い。mRNAワクチンの開発はそもそもそういうスピードとの勝負だった。ビオンテックは、そういう適性に着目し、急速かつ大規模な感染症に対してもmRNAは大いなる武器となると確信したのだという。しかも、無症状者による感染拡大の規模と速度の怖ろしさを最初から見逃さなかった。
ワクチンそのものの量産の難しさや、その具体的なボトルネック、あるいは流通配送に立ちはだかる冷凍保存の問題など、それをめぐっての政治的な迷走など、読者にとってもまだ生々しい記憶だが、その背景がよくわかる。そうだったのかと膝をたたくこと数え切れない。
登場人物とその日常に間近に寄り添ったドキュメンタリーはオンタイムでリアル。登場する人々の多様性は、人種、国籍のみならず学術の境界を越えて広がる。そのライフスタイルも新鮮。まさに開発は昼夜を分かたずの「光速(ライトスピード)」だったのに、そこに貢献した人々はブラック企業の抑圧とは正反対のところで生きている。
サクセスストーリーは、読後が爽やかであることは間違いないが、ともすれば現実とのギャップに読後感は嫌な気分も尾を引きがち。本書には、感染症の災厄が残した深刻さにかかわらずそのようなものが無い。医療進化への確かな希望を抱かせる。
本書自体も、大変スピーディな発刊だ。しかも、訳もこなれていて、分業とは思えないほど統一性が取れている。さすが早川書房の翻訳陣だと感心した。
mRNAワクチンの衝撃
コロナ制圧と医療の未来
原題=THE VACCINE
ジョー・ミラー with エズレム・テュレジ、ウール・シャヒン (著)
柴田 さとみ、山田 文、山田 美明 (訳)
石井 健 (監修)
早川書房
とにかく面白い。
ファイザーワクチンの実体が、実はこの小さなベンチャー企業だということにも驚いたが、その会社を率いる夫妻が、トルコ系移民のイスラム教徒だということにも驚く。その二人が最先端の医療分野をひたむきに走りながらも、新型コロナウィルスの世界規模の大感染のわずかな予兆を逃さず開発に賭けた医学的信念にも感動を覚える。
mRNAワクチンの衝撃は、なんと言ってもその開発スピードにあったと思う。エズレムとウールの夫妻がそのことに確信を持ち、強い使命感につき動かされて邁進した成果だ。驚異的な開発スピードにもかかわらず、安全性や効果を証明するための段階を踏んだ臨床試験や実用化に向けた手続きをいささかも省略していない。政治な思惑や圧力を利用するどころか、常にそうした俗物たちの干渉を遠ざけていたという経緯を知ると、これは単なるサクセスストーリーでもない。
そもそもmRNAワクチンとは何か?
解説書に堕することなく、あくまでもドキュメンタリーに徹しているので、かえって遺伝子工学の難解さに阻まれることなく、その「医療のゲームチェンジ」の衝撃がストレートに伝わってくる。
ビオンテックは、そもそも、ガン治療としての免疫療法としてmRNAワクチンに取り組んでいたという。
ガン患部を切除したり、増殖を阻む化学医薬や放射線療法ではなくて、身体の免疫力をガン細胞に向けて動員しそれを撃滅していこうというのがmRNAによる免疫療法。mRNAは、体内に入るとガン細胞と同じ構造のタンパク質に形成し、それに対する免疫反応を起こさせる。いわば攻撃目標の手配書(人相書)を体内免疫の攻撃部隊に伝えるメッセンジャーの役割を果たす。病原体を弱化した従来のワクチンとはちがってそれ自体には感染力は無いし、役割を済ませば消えてしまうの遺伝子組み換えが体内細胞に影響を与えるといった心配はない。
ガン細胞というのは、同じ病気であっても人それぞれによって構造が違っている。免疫療法といえども、それぞれの身体のガン細胞を抽出し特定して正確な手配書を作る必要がある。患者それぞれにワクチンを作る必要がある。それはガン進行との時間の戦い。mRNAワクチンの開発はそもそもそういうスピードとの勝負だった。ビオンテックは、そういう適性に着目し、急速かつ大規模な感染症に対してもmRNAは大いなる武器となると確信したのだという。しかも、無症状者による感染拡大の規模と速度の怖ろしさを最初から見逃さなかった。
ワクチンそのものの量産の難しさや、その具体的なボトルネック、あるいは流通配送に立ちはだかる冷凍保存の問題など、それをめぐっての政治的な迷走など、読者にとってもまだ生々しい記憶だが、その背景がよくわかる。そうだったのかと膝をたたくこと数え切れない。
登場人物とその日常に間近に寄り添ったドキュメンタリーはオンタイムでリアル。登場する人々の多様性は、人種、国籍のみならず学術の境界を越えて広がる。そのライフスタイルも新鮮。まさに開発は昼夜を分かたずの「光速(ライトスピード)」だったのに、そこに貢献した人々はブラック企業の抑圧とは正反対のところで生きている。
サクセスストーリーは、読後が爽やかであることは間違いないが、ともすれば現実とのギャップに読後感は嫌な気分も尾を引きがち。本書には、感染症の災厄が残した深刻さにかかわらずそのようなものが無い。医療進化への確かな希望を抱かせる。
本書自体も、大変スピーディな発刊だ。しかも、訳もこなれていて、分業とは思えないほど統一性が取れている。さすが早川書房の翻訳陣だと感心した。
mRNAワクチンの衝撃
コロナ制圧と医療の未来
原題=THE VACCINE
ジョー・ミラー with エズレム・テュレジ、ウール・シャヒン (著)
柴田 さとみ、山田 文、山田 美明 (訳)
石井 健 (監修)
早川書房
サンクスコンサート (アートスペース・オー) [コンサート]
町田市の小さなコンサートサロン、〈アートスペース・オー〉が今年いっぱいで閉店することになりました。
1989年に開設。陶器の店や陶芸教室が1階に、その上の2階のスペースで音楽会を開催するという音楽と美術が一体となったスペース。1990年2月の漆原朝子さんのヴィオリンリサイタルを皮切りに、以来、234回の公演を重ねてこられました。
私がこの場所を知ったのは、ヴァイオリニストの南紫音さんの追っかけがきっかけでした。忘れもしないあの大震災の時のことです。
南紫音さんは、ちょうど二十歳(はたち)。まだ桐朋学園在学中でしたが、西南女子学院の高校生の時にロン=ティボー国際コンクールで第二位という輝かしい実績をひっさげて公演を重ねていたとき。トッパンホールでのリサイタルに魅了され、もう一度公演を聴きたいと探索していて、この場所を知ったのです。
当日は、震災の恐怖がまだ醒めやらぬ翌々日の日曜日でした。ピアニストの菊池洋子さんとのデュオは、そういう震災の動揺から抜け出せていない気持ちを奮い立たせてくれるような素晴らしい演奏。お二人の小さな空間をも容赦しない渾身の演奏はまさに奇跡のよう。その日に「計画停電」が発表され、首都圏でのコンサート中止や延期が相次ぎました。
その後、すっかりこの空間が気に入ってしまいずっと通い続けてきました。この小さなサロンに名だたる音楽家が登場することにも驚きでした。天井も低く、遮音も十分ではないし、響きもデッド。正直言って、必ずしも理想の音響スペースというわけではないのですが、そういう超一流の演奏がこの小さな空間で目と鼻の先で聞けるというのは、ほかのどんな場所でも得られない希有の経験。
残り少ない限られた時間を惜しむように、サンクスコンサートと称して、今までこのサロンに出演した演奏家の皆さんがかけつけて来られます。
この日はそうした古くからの常連さんとしてチェロの安田謙一郎さんも登場。ヴァイオリンの鈴木理恵子さんとのラヴェルのデュオはちょっと感動しました。正直言ってちょっと不安定なところはありましたが、ご高齢にもかかわらずラヴェルの難曲に挑む気持ちの若さと屈強なまでの気丈夫さは圧倒的でした。
鈴木さんのご夫君である若林顕さんの強く鮮明な音は、この小さな空間をも容赦しません。この日はヴィオラを受け持った豊嶋泰嗣とのデュオでは、そのことでかえっていかにもシューマンらしい情感の優しい繊細さが表出されていたし、どっしりと構えた池松宏さんのコントラバスとのデュオでは、ピアソラの意外な複雑な内向性が池松さんの美しいテナーときれいなコンビネーションになっていました。
全員そろってのシューベルトのピアノ五重奏「鱒」は、まさに室内楽の極み。このサロンでは、おそらく最大の編成ではないでしょうか。古参の皆さんがこぞってのアンサンブルは、ほんとうにシューベルティアーデとはかくのごとしとでも言うような仲間内の楽しさが満開でした。
Thanks Concert IV-I
Piano Quintet
若林顕(P)、鈴木理恵子(Vn)、豊嶋泰嗣(Va)
安田謙一郎(Vc)、池松宏(Cb)
2022年6月12日(日) 19:00
東京・町田 アートスペース・オー
R.シューマン:おとぎの絵本 Op.113(Va&P)
A.ピアソラ:キーチョ(Cb&P)
J.M.ラベル:ヴァイオリンとチェロのためのソナタ(Vn&Vc)
F.P.シューベルト:ピアノ五重奏曲イ長調 D667(Op.114)「鱒」
1989年に開設。陶器の店や陶芸教室が1階に、その上の2階のスペースで音楽会を開催するという音楽と美術が一体となったスペース。1990年2月の漆原朝子さんのヴィオリンリサイタルを皮切りに、以来、234回の公演を重ねてこられました。
私がこの場所を知ったのは、ヴァイオリニストの南紫音さんの追っかけがきっかけでした。忘れもしないあの大震災の時のことです。
南紫音さんは、ちょうど二十歳(はたち)。まだ桐朋学園在学中でしたが、西南女子学院の高校生の時にロン=ティボー国際コンクールで第二位という輝かしい実績をひっさげて公演を重ねていたとき。トッパンホールでのリサイタルに魅了され、もう一度公演を聴きたいと探索していて、この場所を知ったのです。
当日は、震災の恐怖がまだ醒めやらぬ翌々日の日曜日でした。ピアニストの菊池洋子さんとのデュオは、そういう震災の動揺から抜け出せていない気持ちを奮い立たせてくれるような素晴らしい演奏。お二人の小さな空間をも容赦しない渾身の演奏はまさに奇跡のよう。その日に「計画停電」が発表され、首都圏でのコンサート中止や延期が相次ぎました。
その後、すっかりこの空間が気に入ってしまいずっと通い続けてきました。この小さなサロンに名だたる音楽家が登場することにも驚きでした。天井も低く、遮音も十分ではないし、響きもデッド。正直言って、必ずしも理想の音響スペースというわけではないのですが、そういう超一流の演奏がこの小さな空間で目と鼻の先で聞けるというのは、ほかのどんな場所でも得られない希有の経験。
残り少ない限られた時間を惜しむように、サンクスコンサートと称して、今までこのサロンに出演した演奏家の皆さんがかけつけて来られます。
この日はそうした古くからの常連さんとしてチェロの安田謙一郎さんも登場。ヴァイオリンの鈴木理恵子さんとのラヴェルのデュオはちょっと感動しました。正直言ってちょっと不安定なところはありましたが、ご高齢にもかかわらずラヴェルの難曲に挑む気持ちの若さと屈強なまでの気丈夫さは圧倒的でした。
鈴木さんのご夫君である若林顕さんの強く鮮明な音は、この小さな空間をも容赦しません。この日はヴィオラを受け持った豊嶋泰嗣とのデュオでは、そのことでかえっていかにもシューマンらしい情感の優しい繊細さが表出されていたし、どっしりと構えた池松宏さんのコントラバスとのデュオでは、ピアソラの意外な複雑な内向性が池松さんの美しいテナーときれいなコンビネーションになっていました。
全員そろってのシューベルトのピアノ五重奏「鱒」は、まさに室内楽の極み。このサロンでは、おそらく最大の編成ではないでしょうか。古参の皆さんがこぞってのアンサンブルは、ほんとうにシューベルティアーデとはかくのごとしとでも言うような仲間内の楽しさが満開でした。
Thanks Concert IV-I
Piano Quintet
若林顕(P)、鈴木理恵子(Vn)、豊嶋泰嗣(Va)
安田謙一郎(Vc)、池松宏(Cb)
2022年6月12日(日) 19:00
東京・町田 アートスペース・オー
R.シューマン:おとぎの絵本 Op.113(Va&P)
A.ピアソラ:キーチョ(Cb&P)
J.M.ラベル:ヴァイオリンとチェロのためのソナタ(Vn&Vc)
F.P.シューベルト:ピアノ五重奏曲イ長調 D667(Op.114)「鱒」
タグ:アートスペース・オー
フォーミュラPCの衝撃 [オーディオ]
MFさんをお招きして、我が家でフォーミュラPCを比較試聴させていただきました。
久々の自宅オフ会です。
MFさんのハイエンドマザー導入以降の大変動は、何度かお宅にお伺いして実体験してきたところです。その改造進化はその後も止むことがないようなのです。どこが終着になるのかもわからない勢い。
お宅で聴いてもその違いは確かですが、やはり、我が家のシステムで実際に聴いてみたいという気持ちは抑えきれません。もちろん現在のminiDESKの分散型システムとどれほど違うのかということにも興味がありますし、現在使用中のDAC(GRANDIOSO K1)の限界がどこの辺りなのだろうということを確かめてみたい気持ちがあります。
年初来、ウェルデルタの導入やウェルフロート二階建て、あるいは貸出バシリスの効果を取り入れようと試行錯誤していましたが、ようやく最終的な多段多層セッティングが決まり、そのサウンドが落ち着き満足の域に達しました。お忙しいMFさんとの日程調整がようやく整い、自宅比較試聴が実現したという次第です。
https://bellwood-3524.blog.ss-blog.jp/archive/20220504
さっそく、我がお茶の間に運んでセッティングです。以前はハイエンドマザーもハインドグラフィックボードも一体に納まっていましたが、今回は、電源部の強化にともなって、2台の電源が外出し。改めてその拡張に驚きました。コアもさらにパワーアップしたとのことですが、こういうことに疎い私にはちんぷんかんぷんです。
とにかく、電源こそオーディオ専用分電盤からですが、ごく一般的なテーブルタップで、ごく一般的な電源ケーブル。DACに接続するUSBケーブルも持ち合わせのオーディオ用の某製品をひっぱり出してきたら、もっとフツーのほうがよいとのご託宣です。ということで、引き出しに転がっていたプリンター接続用の余りのコードを使用。もう、とにかくコード類には一切無頓着です。
まずは、既存のminiDESKシステムでひと通り定盤ソフトを聴いてから、接続を切り替えての視聴です。
正直言って、さほどの大きな違いは無いだろうと多少たかをくくっていたのですが、いざ出音を聴いてみると、そのグレードアップ感は明らかです。そのことは聴けば聴くほどに確信のようなものになっていきます。
MFさんは、何が違うと言ってそれは「情報量」の違いに尽きると言います。
「情報量」というのはオーディオではアナログ時代からもよく使われてきた用語ですが、実のところ具体的にどういうことなのか実体もその定義も不明です。ところが、今回の視聴ではなるほどと膝を打つものがありました。
その違いに驚いたのは、ムターのチャイコン。
MFさん宅での試聴にもよく使ったもの。知り尽くしたつもりでいた演奏ですが、また、改めてムターの微妙な強弱や揺らぎ、精妙なボーイングの弾き分けでの音色のグラデーションの素晴らしさを痛感し、新しい発見も続々。これこそ《情報量》の違いなんだと思います。ピンフォーカスとか解像度とはまた違う感覚です。
送り出しの進化のたびに感じるのが低音の沈み込み。低音といっても、弦楽器のコントラバスもあるし、グランカッサのような低音楽器もあり、しかも、ソロあり合奏ありと様々。様々。そういう低音の個性やエネルギー感もしっかり描出するリアリティがまた一段と増しました。低音といっても情報量なんだと痛感します。
これはいったいディスク再生ではどうだったんだろうと、リッピング元となったはずのディスクを持ち出してK1にかけてみました。これはK1のモードスイッチで一発の切り替えです。
聴いて唖然としました。
まるで別の音源のようです。それまで背後の壁面全体に立体的に広がっていたウィーン楽友協会大ホールの音響が、ディスク再生だとせいぜい両スピーカーの外側ぐらいのちんまりとした丸いステージに縮まってしまったのです。これには、一同、愕然としてしまったというわけです。
ビリー・ジョエルの「ピアノマン」。
アナログ音源であっても、いかにもアナログらしい力感とか、ボーカルの腹腔に響くシャウト感も満開。ビリー・ジョエルは必ずしも高音質録音とは言われませんが、それがこんなに魅力いっぱいに聴ける。しかも、このアルバムは、ロシア…といっても、なんとソ連時代でのツアー・ライブ録音です。これもちょっとした胸のすくような驚愕体験でした。
よくアナログの方が音がよいと絶対比較のように言われますが、一面で正しいところもありますが、一方でデジタル再生が十分なクォリティに達していないという面もあるのだと改めて思ってしまいます。
カーペンターズの「シング」もかけてみました。音色のなめらかさ、子どものコーラスのハーモニーの調和と透明感という矛盾する美質がうまく再現できるかを試したかったのです。
後半になって、ベルの澄んだ音が明瞭に聞こえてきてちょっと意表をつかれました。少し前にグロッケンシュピールのような分散音がありますが、それを単音で連打しているのかもしれません。でも、いままでは全く気がつかなかったのです。そう言ったら、MFさんが音響のベテランの人がMFさん宅でこのソフトを聴いてまったく同じことを言ったそうです。これには一同、爆笑していまいました。
「情報量」の違いというのはこういうことなのです。
そのことが、DAC以降は全く同じシステムなのに、データ送り出しだけのプレーヤー部分の違いでこれほど顕著に出てくるのです。
これはどうにも衝撃的なオフ会となりました。
久々の自宅オフ会です。
MFさんのハイエンドマザー導入以降の大変動は、何度かお宅にお伺いして実体験してきたところです。その改造進化はその後も止むことがないようなのです。どこが終着になるのかもわからない勢い。
お宅で聴いてもその違いは確かですが、やはり、我が家のシステムで実際に聴いてみたいという気持ちは抑えきれません。もちろん現在のminiDESKの分散型システムとどれほど違うのかということにも興味がありますし、現在使用中のDAC(GRANDIOSO K1)の限界がどこの辺りなのだろうということを確かめてみたい気持ちがあります。
年初来、ウェルデルタの導入やウェルフロート二階建て、あるいは貸出バシリスの効果を取り入れようと試行錯誤していましたが、ようやく最終的な多段多層セッティングが決まり、そのサウンドが落ち着き満足の域に達しました。お忙しいMFさんとの日程調整がようやく整い、自宅比較試聴が実現したという次第です。
https://bellwood-3524.blog.ss-blog.jp/archive/20220504
さっそく、我がお茶の間に運んでセッティングです。以前はハイエンドマザーもハインドグラフィックボードも一体に納まっていましたが、今回は、電源部の強化にともなって、2台の電源が外出し。改めてその拡張に驚きました。コアもさらにパワーアップしたとのことですが、こういうことに疎い私にはちんぷんかんぷんです。
とにかく、電源こそオーディオ専用分電盤からですが、ごく一般的なテーブルタップで、ごく一般的な電源ケーブル。DACに接続するUSBケーブルも持ち合わせのオーディオ用の某製品をひっぱり出してきたら、もっとフツーのほうがよいとのご託宣です。ということで、引き出しに転がっていたプリンター接続用の余りのコードを使用。もう、とにかくコード類には一切無頓着です。
まずは、既存のminiDESKシステムでひと通り定盤ソフトを聴いてから、接続を切り替えての視聴です。
正直言って、さほどの大きな違いは無いだろうと多少たかをくくっていたのですが、いざ出音を聴いてみると、そのグレードアップ感は明らかです。そのことは聴けば聴くほどに確信のようなものになっていきます。
MFさんは、何が違うと言ってそれは「情報量」の違いに尽きると言います。
「情報量」というのはオーディオではアナログ時代からもよく使われてきた用語ですが、実のところ具体的にどういうことなのか実体もその定義も不明です。ところが、今回の視聴ではなるほどと膝を打つものがありました。
その違いに驚いたのは、ムターのチャイコン。
MFさん宅での試聴にもよく使ったもの。知り尽くしたつもりでいた演奏ですが、また、改めてムターの微妙な強弱や揺らぎ、精妙なボーイングの弾き分けでの音色のグラデーションの素晴らしさを痛感し、新しい発見も続々。これこそ《情報量》の違いなんだと思います。ピンフォーカスとか解像度とはまた違う感覚です。
送り出しの進化のたびに感じるのが低音の沈み込み。低音といっても、弦楽器のコントラバスもあるし、グランカッサのような低音楽器もあり、しかも、ソロあり合奏ありと様々。様々。そういう低音の個性やエネルギー感もしっかり描出するリアリティがまた一段と増しました。低音といっても情報量なんだと痛感します。
これはいったいディスク再生ではどうだったんだろうと、リッピング元となったはずのディスクを持ち出してK1にかけてみました。これはK1のモードスイッチで一発の切り替えです。
聴いて唖然としました。
まるで別の音源のようです。それまで背後の壁面全体に立体的に広がっていたウィーン楽友協会大ホールの音響が、ディスク再生だとせいぜい両スピーカーの外側ぐらいのちんまりとした丸いステージに縮まってしまったのです。これには、一同、愕然としてしまったというわけです。
ビリー・ジョエルの「ピアノマン」。
アナログ音源であっても、いかにもアナログらしい力感とか、ボーカルの腹腔に響くシャウト感も満開。ビリー・ジョエルは必ずしも高音質録音とは言われませんが、それがこんなに魅力いっぱいに聴ける。しかも、このアルバムは、ロシア…といっても、なんとソ連時代でのツアー・ライブ録音です。これもちょっとした胸のすくような驚愕体験でした。
よくアナログの方が音がよいと絶対比較のように言われますが、一面で正しいところもありますが、一方でデジタル再生が十分なクォリティに達していないという面もあるのだと改めて思ってしまいます。
カーペンターズの「シング」もかけてみました。音色のなめらかさ、子どものコーラスのハーモニーの調和と透明感という矛盾する美質がうまく再現できるかを試したかったのです。
後半になって、ベルの澄んだ音が明瞭に聞こえてきてちょっと意表をつかれました。少し前にグロッケンシュピールのような分散音がありますが、それを単音で連打しているのかもしれません。でも、いままでは全く気がつかなかったのです。そう言ったら、MFさんが音響のベテランの人がMFさん宅でこのソフトを聴いてまったく同じことを言ったそうです。これには一同、爆笑していまいました。
「情報量」の違いというのはこういうことなのです。
そのことが、DAC以降は全く同じシステムなのに、データ送り出しだけのプレーヤー部分の違いでこれほど顕著に出てくるのです。
これはどうにも衝撃的なオフ会となりました。
タグ:MFPC
「倭・倭人・倭国」(井上秀雄 著)読了 [読書]
私たちは、「倭」といえば日本のことだと当たり前のように思い込んでいる。
けれども、日本人の「倭」と中国や朝鮮が見ている「倭」とは別のものだ。
日本書紀に「倭」とあれば、ほとんどが今の奈良県(大和国)を指している地名のこと。けれども、それは「やまと」と読む。文字としての漢字を受容する以前から、奈良盆地南東部をヤマトと呼んでいた。和語の地名(ヤマト)を、「倭」に当てたのだろうという。
だから中国や朝鮮でいう「倭(わ)」とは、必ずしも同じではない。ところが、古来、日本の歴史家は、そういう思い違いを自明のこととして歴史を論じてきたのではないかという。
「倭の五王」など「日本書紀」には一言も書いていないのに、これらの「倭王」を天皇に当てるという画一的な学説で見事に統一されている。「倭」=日本=大和朝廷との考えにしばられているから、邪馬台国の北九州説と近畿説の対立にしても、戦前の学説からさしたる進展を見せていないと嘆く。
4世紀以降、朝鮮半島と日本との関係は活発になるが、そこでも「倭」は必ずしも日本を指すとは限らないという。「倭」=日本国/大和朝廷と一体とみるべきではないと説く。中でも興味深いのは、大和朝廷が日本を唯一代表し外交や交易、人的交流を直轄していたとは限らないという視点だ。
ましてや、律令国家成立以前には、「王」=「天皇」とは限らないだろう。朝鮮半島南部と北九州の主権支配がどのように入り組んでいたかは、十分に解明できているわけではない。地勢的には海の存在が鍵を握るが、半島内であっても陸路よりも海路が主であった時代、現代の地図をみて「海を渡る」=「日本海を渡る」とする根拠は薄いというのは納得的だ。
「倭」の語が、中国や朝鮮の古典にどう現れているか、記紀の本文や分注(分註)の記述や引用とも対比させながら詳細に検討している。地名としての「倭」、民族としての「倭人」、天皇や渡来系氏族など人名に現れる「倭」、国としての「倭国」「大倭国」などへの切り口はなかなか興味深い。
著者の井上秀雄は、日本では数少ない古代朝鮮史が専門の歴史学者。東北大名誉教授。
その立場から、日本の視点からのみ中国や朝鮮の文献を見る日本の古代史学者の姿勢を批判してきた。日本の文献史学は、いまだに鎖国状態が続いていると嘆く。日本人は、中国の歴史については自国に関係のないことまでよく知っているが、韓国・朝鮮の歴史には目もくれない。一方の中国は自国中心の相変わらずの大中華主義だし、韓国・朝鮮でも自国史中心であることに変わりない。
本書は、1991年にまとめられたものだが、30年経ってもこういう東アジアの古代史研究の現状はほとんど変わっていない。こういうことは、何も古代史研究に限らないような気がする。それが東アジアの現実なんだろうと思う。
倭・倭人・倭国
東アジア古代史再検討
井上秀雄 著
人文書院
けれども、日本人の「倭」と中国や朝鮮が見ている「倭」とは別のものだ。
日本書紀に「倭」とあれば、ほとんどが今の奈良県(大和国)を指している地名のこと。けれども、それは「やまと」と読む。文字としての漢字を受容する以前から、奈良盆地南東部をヤマトと呼んでいた。和語の地名(ヤマト)を、「倭」に当てたのだろうという。
だから中国や朝鮮でいう「倭(わ)」とは、必ずしも同じではない。ところが、古来、日本の歴史家は、そういう思い違いを自明のこととして歴史を論じてきたのではないかという。
「倭の五王」など「日本書紀」には一言も書いていないのに、これらの「倭王」を天皇に当てるという画一的な学説で見事に統一されている。「倭」=日本=大和朝廷との考えにしばられているから、邪馬台国の北九州説と近畿説の対立にしても、戦前の学説からさしたる進展を見せていないと嘆く。
4世紀以降、朝鮮半島と日本との関係は活発になるが、そこでも「倭」は必ずしも日本を指すとは限らないという。「倭」=日本国/大和朝廷と一体とみるべきではないと説く。中でも興味深いのは、大和朝廷が日本を唯一代表し外交や交易、人的交流を直轄していたとは限らないという視点だ。
ましてや、律令国家成立以前には、「王」=「天皇」とは限らないだろう。朝鮮半島南部と北九州の主権支配がどのように入り組んでいたかは、十分に解明できているわけではない。地勢的には海の存在が鍵を握るが、半島内であっても陸路よりも海路が主であった時代、現代の地図をみて「海を渡る」=「日本海を渡る」とする根拠は薄いというのは納得的だ。
「倭」の語が、中国や朝鮮の古典にどう現れているか、記紀の本文や分注(分註)の記述や引用とも対比させながら詳細に検討している。地名としての「倭」、民族としての「倭人」、天皇や渡来系氏族など人名に現れる「倭」、国としての「倭国」「大倭国」などへの切り口はなかなか興味深い。
著者の井上秀雄は、日本では数少ない古代朝鮮史が専門の歴史学者。東北大名誉教授。
その立場から、日本の視点からのみ中国や朝鮮の文献を見る日本の古代史学者の姿勢を批判してきた。日本の文献史学は、いまだに鎖国状態が続いていると嘆く。日本人は、中国の歴史については自国に関係のないことまでよく知っているが、韓国・朝鮮の歴史には目もくれない。一方の中国は自国中心の相変わらずの大中華主義だし、韓国・朝鮮でも自国史中心であることに変わりない。
本書は、1991年にまとめられたものだが、30年経ってもこういう東アジアの古代史研究の現状はほとんど変わっていない。こういうことは、何も古代史研究に限らないような気がする。それが東アジアの現実なんだろうと思う。
倭・倭人・倭国
東アジア古代史再検討
井上秀雄 著
人文書院