SSブログ

「樋口一葉赤貧日記」(伊藤 氏貴 著)読了 [読書]

2004年以来、20年にわたっておなじみだった5千円札の樋口一葉の肖像。来年から津田梅子にとって代わられるという。

五千円紙幣.jpg

その一葉の短い生涯はとにかく貧乏で借金まみれだったというから何とも皮肉なことだ。「一葉」という筆名は、一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡ったとされる達磨大師の故事にならったという。つまり、「お足(銭)がない」ということ。川面に浮かび流される落ち葉のごとくはかない人生だった。

一葉の赤貧ぶりは、もともとよく知れ渡っていた話しだ。「一葉日記」には、そういう窮乏と借金の経緯が詳述されている。死後の発刊であり、実名をあげての容赦ない本音の記述はプライバシーの機微にも触れるだけに何かと取り沙汰された日記だが、本書は、徹底的に金銭貸借の実態を追って、一葉の文学的成長と明治の世相を映し出そうという試み。

何でもかんでも金銭に換算し、夭折の作家の貧乏まみれの軌跡を読み取ろうという試みは「一葉日記」の解読としては一面的だと思わないでもないが、そこはともかく、ここは一葉の赤貧ぶりに大いに呆れるしかないのかもしれない。そこは、読んでいて歯がゆいばかりだが、実のところ、ともかく面白い。

章ごとに年表を整理してあることもわかりやすい。「日記」を読み解く研究書、評伝の類いは、巻末の《参考文献》に挙げられているように良書が多いが、無教養な私たちにはいまひとハードルが高い。こうやって時系列的に簡便に見通せることができるのはありがたい。

とにかく金銭感覚に置き換えることが、本書の真骨頂。

巡査の初任給とか、かけそばの値段とかで、いちいち現在価値に置き換えることをいとわない。そういうところはテレビに人気番組《有吉のお金発見 突撃!カネオくん》みたいで、文学論にしては俗っぽいのかもしれないが、こうも堂々とやられるとそれなりの説得力も持つ。維新当初はかけ離れていた労働賃金のような「生産価値」と、いわゆる物価に相当する「消費価値」とが、年とともに次第に一致していくのも面白い。

それにしても、一葉とその一家の困窮ぶりと金銭感覚とのちぐはぐさには呆れかえってしまう。明治政府が打ち出した「秩禄処分」というものがいかに急進的かつ苛烈なものだったかを実感できる。もともと士分を金で買い取った樋口家は決して貧乏ではなかった。幼少時代の一葉の家族は、現在の東大赤門の真向かいの広大な屋敷に住み、頼母子講を営むほどで羽振りはよかった。支配層であるはずだった士族が一気に定収入という既得権を失ってしまう。そのどさくさの成り上がりと没落の果てに遺されたのは《士族》というプライドのみ。

そういうギャップが生んだものが、借金と日銭の浪費を繰り返す一葉一家の暮らしぶりだったというわけだ。訪問した客に鰻を馳走し、その足で追いかけるようにして借金の懇請をする。着物を質入れしたその日に、姉妹で寄席にでかけて女浄瑠璃に興ずる。そういうことの繰り返し。

それは同時に、日本の社会が地縁、血縁による互助というセーフティネットが崩れていく過程でもあり、一方でそれに取って代わるべき金融メカニズムが未整備だっとというギャップがあったからなのだろう。筆者は、『縁から円へ』と言うが、一葉の時代はまだまだ円が手につかなかった。借金を借金で返すというやり繰りや質屋通いのタケノコ生活のあげくに丸裸になっていくという下層士族の生活は、お江戸の時代を引きずったままだった。

筆者は、『古典に毒されすぎていた』と一葉を断ずる。あの《奇跡の十四ヶ月》と呼ばれる最晩年の傑作は、吉原近くで小間物屋を営んだ数ヶ月の間に社会の底辺のリアリティに触れたからこそだという。確かに説得力はあるが、その言説はどこか味気ない。




一葉赤貧日記_1.jpg

樋口一葉赤貧日記
伊藤 氏貴 (著)
中央公論新社
2022年11月25日初版


















「樋口一葉赤貧日記」(伊藤 氏貴 著)読了


2004年以来、20年にわたっておなじみだった5千円札の樋口一葉の肖像。来年から津田梅子にとって変わられるという。

「一葉」という筆名は、一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡ったとされる達磨大師の故事にならったという。つまり、「お足(銭)がない」ということ。一葉の短い生涯はとにかく貧乏で借金まみれだった。

一葉の赤貧ぶりは、閨秀作家として名を成したと同時に世間に知れ渡っていた話しだ。その夭逝後に発刊された「日記」には、そういう窮乏と借金の経緯が詳述されている。死後の発刊であり、生活の周辺と交友などプライバシーの機微にも触れる日記だけに何かと取り沙汰された日記だが、本書は、徹底的に金銭貸借の実態を追って、一葉の文学的成長と明治の世相を映し出そうという試み。

当時の貨幣価値を巡査の初任給とか、かけそばの値段とかで、現在価値に置き換えることをしきりに記述する。そういうところはテレビに人気番組《有吉のお金発見 突撃!カネオくん》みたいで、文学論にしては一見味気ないようだが、こうも堂々とやられるとそれなりの説得力も持つ。維新当初は、かけ離れていた労働賃金のような「生産価値」と、いわゆる物価に相当する「消費価値」とが、明治の経済社会の成熟とともに次第に一致していくのも面白い。

章ごとに年表を整理してあることもわかりやすい。「日記」を読み解く研究書、評伝の類いは、巻末の《参考文献》に挙げられているようにいくらでもあるが、こうやって時系列的に一葉の短い生涯の事象を整理してくれることはとてもわかりやすい。

それにしても、一葉とその一家の困窮ぶりと金銭感覚とのちぐはぐさには呆れかえってしまう。そこには「秩禄処分」というものがいかに急進的な改革で衝撃的なものだったかがわかる。支配層であるはずだった士族が一気に定収入という既得権を失ってしまう。遺されたのは《士族》というプライドのみ。空虚なプライドと無収入というギャップが生んだものが、借金と日銭の浪費を繰り返す一葉一家の暮らしぶり。

それは同時に、日本の社会が地縁、血縁による互助というセーフティネットが崩れていく過程でもあり、一方でそれに取って代わるべき金融メカニズムが未だ整備普及の中途にあったというギャップがあったということなのだろう。筆者は、『縁から円へ』と言うが、円の方がまだ未成熟だった。庶民が銀行に預金するということはまだあり得なかったし、質屋通いのタケノコ生活のあげくに丸裸になっていくというのは、お江戸のままだった。

筆者は、『一葉の恋愛は古典に毒されすぎていた』と断ずる。あの《奇跡の十四ヶ月》と呼ばれる最晩年の傑作は、糊口をしのぐため吉原近くで小間物屋を開き社会の最下層に沈潜しリアリティのある題材を得たからこそ成り立ったという。近代文学のリアリズムは、花鳥風月の古典教養から脱した私小説でこそ成り立つと言わんばかりの言説は、確かに説得力はあるが、どこか味気ない。「一葉日記」の解読としては一面的だと思わないでもないが、そこはともかく、ここは一葉の赤貧ぶりに大いに呆れ、面白がるしかないのかもしれない。



一葉赤貧日記_1.jpg


樋口一葉赤貧日記
伊藤 氏貴 (著)
中央公論新社
2022年11月25日初版
タグ:樋口一葉
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

花の盛りの美女にかぶりつき (タレイア・クァルテット) [コンサート]

東京・春・音楽祭。今年も上野公園の桜は満開です。天候には恵まれなくて、この日もどんよりと曇った空ですが、それでも雨模様ではないのが幸いとばかりの大変な人出です。

IMG_6581_1.JPG

ミュージアム・コンサートは、いつもはなかなか聴く機会のない古楽や小さな編成の室内楽などが聴けるのが楽しみ。もうひとつは、そのついでにちゃっかりと美術館も楽しもうということ。ところが、この日が月曜日ということをうっかりしていて、「エゴン・シーレ展」はお預け。「記念コンサート」という看板にちょっと騙された気分です。

IMG_6592_1.JPG

この日は、若手クァルテットの演奏。

Thaleia Quartet.jpg

タレイア・クァルテットは、2014年に東京芸大在学中に結成されました。2018年には宗次ホール弦楽四重奏コンクールでカルテット・アマービレとともに第1位受賞。第2ヴァイオリンが海外留学などの事情で入れ代わっているが、他の3人は創設メンバー。2016年から18年にメンバーだった大澤里菜子は現在は読響に在籍。

ともかく若く、今を盛りに花開くミューズ。

会場は美術館の講堂で、とても響きがデッド。必ずしもクラシック音楽のコンサート会場には向いていませんが、時として意外にマッチすることがあります。この日は、果たしてどうなのか。期待をこめて、前から2列目というかぶりつきの席を確保しました。

曲目は、弦楽四重奏のレパートリーとしてはとびきりのご馳走ともいうべき2曲。ともに濃厚なロマンチックな薫りが馥郁と匂い立つような、花弁がこぼれ落ちるかのような華麗豊穣な音楽。

そういう音楽が、生々しく響く。直接音が主体で残響は極小。しかも、個々の音律線がクリアに浮き出てくる。和声を響かせるパートや拍節を刻むパートと、ソロとして旋律を艶やかに歌う楽器が、組み合わせも換えながら頻繁に交代する。そういうアンサンブルの構造が実に明瞭。

IMG_6594_1.JPG

とにかくメンバーの顔立ちがはっきり。

一曲目のウェーベルンでは、第一Vnの山田香子さんが恍惚の刹那を歌い上げ、他のメンバーがうねうねと艶やかな対位法的な旋律でねっとりと絡みついていく。それはもう桜吹雪のなかで物狂おしい舞を舞う娘のようにエロチック。

IMG_6595_1.JPG

「死と乙女」の変奏曲は、四重奏の深々とした和声のテーマから始まり、そのテーマは次々と楽器を換えて引き継がれていく。メンバーのひとりひとりがとても積極的に歌い上げ、変奏の綾なすタッチに関わっていく。そのことがこのクァルテットのキャラクターとして、とても印象的。

アンサンブルというよりは、一人ひとりがプレーヤーであること。マルチマイクの録音のようにその時々にソロにスポットをあてて音量を上げるというのではなくて、どんなに音が重なりあっていてもそれぞれの音が聴けるということ。それでいて、「死と乙女」の冒頭のユニゾンは鮮烈で強烈。

正直に言って、響きの心地よさ、音色の滑らかさのようなものは乏しいのですが、片時も目を離せないようなスリルに満ちています。

タレイア・クァルテットは、遅まきながらこの12月の紀尾井ホール「明日への扉」に出演が予定されているようです。本格的な音楽専用ホールではどのような響きになるのか、それまでの進化はどのようなものなのか、今からとても楽しみです。





Thaleia Quartet_02.jpg


東京・春・音楽祭2023
ミュージアム・コンサート
「エゴン・シーレ展」記念コンサート vol.3
タレイア・クァルテット

2023年3月27日(木)14:00
東京・上野 東京都美術館講堂
(B列10番)

タレイア・クァルテット
 ヴァイオリン:山田香子、二村裕美
 ヴィオラ:渡部咲耶
 チェロ:石崎美雨

ウェーベルン:弦楽四重奏のための緩徐楽章
シューベルト:弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 D810《死と乙女》
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

リゲティの秘密 (都響第971回定期Bシリーズ) [コンサート]

まさに驚愕ともいうべきコパチンスカヤのパフォーマンス。

QOMZJoXO3gMzOCdVt2zrPbWxtbm6h0lgeL9TqYAU.jpg

いつもながらの血が沸き立ち、たぎるような興奮をもたらす彼女のパフォーマンスはますます進化していてとどまるところを知らない。それはヴァイオリンだけではなく近年はヴォイス・パフォーマンスも加えていて、その超絶的エンターテイメントがリゲティの内面・外面のミステリーに果敢に挑んでいく。その様は、満開の桜の下の饗宴に大玉の打ち上げ花火の炸裂が加わったかのような狂瀾ぶり。

IMG_6609_1.JPG

20世紀の現代作曲家リゲティの生誕100年を記念するというのが今回の都響のプログラム。いかにも大野和士ならではのプログラムに、コパチンスカヤが協奏曲のソロと、もう1曲、ヴォーカルと振りのパフォーマンスで参加するのだから、これは見逃せない。

一曲目は、リゲティの練習曲の編曲版。

ピアノ版の「練習曲集」で聴くと、複雑な超絶技巧が炸裂するのがリゲティの練習曲集。そのなかでは比較的穏やかな曲ですが、その不思議さが一層際立つ曲。編成はオーケストラというよりも多種多様な楽器による室内楽的編成となっています。穏やかで美しい曲という印象はそのままですが、不思議な雰囲気の中に潜んでいた複雑なリズムのずれた感覚や、多彩多色の対位法の織り目が綾なすさざめきからは、人間の音感の奥底にある多様性への受容感覚が見事に浮き出てきます。

IMG_6614_1.JPG

二曲目のヴァイオリン協奏曲が素晴らしかった。

楽器を頭上に高々と掲げ、ふわっとしたドレスの裾を持ち上げて、彼女のトレードマークともいうべき裸足で登場。もうそれだけで客席には高揚感が湧き上がります。

擦弦楽器というものが持つ、気まぐれさ、不安定で神経質な面と、土俗的な高揚感。それらが上り詰めてもたらされる憑依状態まで、実に果てしないまでの多様多彩さ。最初は超絶技巧を披露するアヴァンギャルドなソロ協奏曲のように始まりますが、次第にその音調は、正統と俗調、モダンと古楽、深刻さと諧謔とを往ったり来たりを繰り返し果てしがなくなります。オーケストラが次第にソロとの対等性を増していき複リズムや対位法的に絡んで壮絶さを増していくところはスリリング。同意反復の繰り返しが崩壊するパッサカリアはとてもシリアス。苛立ちと扇情の果ての最後の最後に現れるカデンツァは、コパチンスカヤならではの凄絶なもので、肉声も重ねて、まさにトランス状態。最後はオーケストラが割ってい入るような一撃で終結となりました。

休憩後の一曲目だけが、バルトーク。

コパチンスカヤの準備や衣装替えのためにプログラムに挿入されたかの見えますが、これがまた合唱とパイプオルガンまでが参加する都響の動員力を見せつける見事な全曲ヴァージョンでした。バルトークの見せるエロ・グロのモダニズム――暴力的、差別的なジェンダーの果てにたどりつく人間主義のようなものを全身に浴びせかけてくるような見事なパフォーマンス。

最後の「マカーブルの秘密("Mysteries of the Macabre")」でのコパチンスカヤはもう圧倒的というしかありません。

コンチェルトでの衣装にいっぱい長い飾りひもが垂れているのを不思議に思っていましたが、これがとんでもない仕掛け。ピエロ風の隈取りをしたメーキャップともども、新聞紙や風船のように膨らましたプラスチック袋で満艦飾。まるでゴミ屋敷から出てきた巫女のよう。

姿を現したコパチンスカヤは、何やらわけのわからないことを口走っています。登場した時点ですでに演奏と演技が始まっていると気づいたのは、後を追うように現れた大野和士が彼女を追い越して指揮台に駆け上ってさっとタクトを振り下ろした瞬間でした。間髪を入れずオーケストラがコパチンスカヤに呼応し合流する。全てがハプニングと即興のようでいて、実は譜面通り。忙しく立ち回るコパチンスカヤが、素早く手を伸ばしてパサッと譜面をめくるのがなんだか笑えます。もちろん大野和士や四方恭子の台詞もアドリブなのですが、実は譜面の指示通り。

無題-スキャンされた画像-01_1_1.jpg

原曲のオペラ《ル・グラン・マカーブル》は、2009年の日本初演を観ました。その後、再演されたとは聞いていません。エロ・グロのところはバルトークに通じていて、そこに人間の真相をえぐり出す以上にナンセンスな不条理ぶりで深刻ぶった人間や社会の偽善を笑いのめす。相当に下品な台詞や所作を含んでいて、上演のたびにそれはスキャンダルの様相を呈しているのも無理もないところです。

《マカーブルの秘密》は、そのオペラの登場人物ゲポポのアリアから取られた。ゲポポは、ゲシュタポの秘密警察官のパロディ。威圧的な言動は意味不明の言語に聞こえ、それがかえって滑稽極まりない。そこには、ユダヤ系ハンガリー人であるリゲッティが生まれたトランシルヴァニア地方は、現在はルーマニア領。ナチズムやスターリニズムまでが錯綜し民族と権力の交錯は、幼少時のリゲティには不明な発語の恐怖体験があったに違いありません。大野や四方のアドリブが日本語だから、聴いている私たちにとって、いっそうにその意味不明の言語の不条理性が引き立つのです。

ゲシュタポ役をコロラトゥーラの高音の超絶技巧にしてしまうところに、リゲティの持つ差別やジェンダーに対する痛烈な皮肉と諧謔があるわけです。オペラだけに技巧自慢のソプラノが歌うことが期待されるところですが、コパチンスカヤはシュプレヒゲザング風にシャウトする。そこにはベルカント的な歌唱は皆無ですが、そのことがかえって音の高低やリズムの正確さをクリアに浮かび上がらせていました。しばしば手にしているヴァイオリンも重ねての大熱演。

IMG_6614trm_1.jpg

マイクを使っての演技ですが、会場の左右、頭上に設置された巨大な線上配置型のPAスピーカーがよく効いていて、実に自然な音声となっていて、聴いているほうはほとんどそれと気づかない。このPA技術は実に見事で、この日の裏方の最大の立役者と言ってよいのではないでしょうか。

IMG_6623_1.JPG

コパチンスカヤはこれ以上ないというほどノリノリだったし、都響メンバーも超絶技巧の曲でありながら、余裕さえ感じさせる遊び心満点の対応ぶり。これほどの盛り上がりは、現代音楽プログラムとしては珍しい。都響の実力の高さを堪能しました。

15010b01389f5ca2f40b8c3d9db85805.jpg

コパチンスカヤのサービス精神もフルスロットルで、アンコールでは、この公演で退団するコンミスの四方恭子とデュエット。ふたりの音色のコントラストにはっとさせらるし、これまでの都響における四方の存在の深みを思い知らされて、とても愛おしい思いにさせられる瞬間にもなったのです。

すごい公演でした。そして極上のエンターテイメントを堪能できたコンサートでもありました。





flyer_trm.jpg

東京都交響楽団
第971回定期演奏会Bシリーズ
【リゲティの秘密-生誕100年記念-】

2023年3月27日(月)19:00
東京・赤坂 サントリーホール
(2階 LB 5列 9番)

指揮/大野和士
コンサートマスター/四方恭子
ヴァイオリン&声/パトリツィア・コパチンスカヤ
合唱/栗友会合唱団


リゲティ(アブラハムセン編曲):虹~ピアノのための練習曲集第1巻より
リゲティ:ヴァイオリン協奏曲

(アンコール)
リゲティ : バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)
 (ヴァイオリン/パトリツィア・コパチンスカヤ、四方恭子)


バルトーク:《中国の不思議な役人》op.19 Sz.73(全曲)
リゲティ:マカーブルの秘密



リゲティ : バラードとダンス(2つのヴァイオリン編)
 (ヴァイオリン/パトリツィア・コパチンスカヤ、四方恭子)


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

大地に根ざすバッハ (周防亮介 東博でバッハ vol.60 東京春祭) [コンサート]

素晴らしいバッハの無伴奏でした。

周防亮介.jpg

久しぶりに聴く周防亮介さん。振り返ってみると前回聴いたのはちょうど10年前。新進若手というか、まだ、東京音大付属に通う高校生でした。今や新人登竜門として知られる紀尾井ホールでの『明日への扉』の記念すべきシリーズ第1回のコンサートでした。それから立て続けに、朝日カルチャーセンターや東京音大の公開レッスンなどに通ったのは、やはり、その才能にぞっこんだったからです。

ryosuke_suou.jpg

当時は、中性的な不思議な雰囲気の青年という感じでしたが、その後、ずんずんと女性らしくなっていきます。その一方で、ヴァイオリン奏者としての堂々たる風格はさらに深みがつき演奏の力強さが増していったという気がしていました。

その力強さを改めて実感したのがこの夜のバッハの無伴奏。

IMG_6551_1.JPG

法隆寺宝物館エンタランスホールで聴くのも久しぶり。もちろん音楽ホールではないので電車の走行音など外部のノイズも入り込む。堅い壁とガラスに反響する残響の長さは特筆すべきもので、天井の高さ、長手方向が極端な長さは、まるで教会のよう。そこに100席ほどの折りたたみのパイプチェアが並べられているだけ。バッハだからこその会場です。

IMG_6569_1.JPG

最初のプレリュードの激しい下降音型の開始。その途端に、隣の我がパートナー殿が居住まいを正す気配を感じました。普段は何かと辛口で斜に構えたことを言ううるさ型ですが、この夜は久々に上気した様子。それほどに鮮烈な出だしで、それは会場の響きというよりも急速なパッセージの左指と右手のボーイングがともにパワフル。音量は大きく、音色は輝かしい。そのことにも驚きます。

休憩時に、パートナー殿がいささかうわずった声で「楽器は何かしら?」と聞くので、あわててググッてみると、1678年製ニコロ・アマティとのこと。ストラディバリより一世代前のオールドの名器がこれだけの音量と輝かしさでもって鳴るのを目の当たりにしたのは初めてで、そのモダンな音色が意外にさえ思えたほどです。

IMG_6555_1.JPG

この会場でのコンサートのもうひとつの楽しみは、休憩時に1階の展示物も見学できること。飛鳥時代の仏像は小さいながらも鋳造の鮮やかさとその数の多さに目を瞠る思いがします。はるかに遠い時代に遡る朝鮮半島との深い縁も感じさせる。

最後のシャコンヌは、ほんとうに圧巻でした。

10年前の公開レッスンでは、その厳しいことで有名なアナ・チュマチェンコ女史から、

「大地に直接つながっているような音がしないといけない」
「土の底から根がはっているように。上からではなく大地から来るように」
「そうすれば弱音(ソットヴォーチェ)がもっと違って聞こえるはず」

と、何度も叱咤の声を浴びていましたが、このシャコンヌは単に情熱的ということを超えた、まさに大地に根ざすバッハ。久々に熱い感銘を受けたソロ/リサイタルでした。


IMG_6562_1.JPG

東京・春・音楽祭2023
ミュージアム・コンサート
東博でバッハ vol.60 周防亮介(ヴァイオリン)
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ 全曲演奏会 第二夜

2023年3月23日(木) 19:00
東京国立博物館 法隆寺宝物館エントランスホール
(5列目中央通路右 自由席)

J.S.バッハ:
 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006
 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第2番 イ短調 BWV1003
 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004

(アンコール)
 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005 より III. Largo

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

「トーキョー・キル」(バリー・ランセット 著)読了 [読書]

著者はカリフォルニア大学を卒業後、講談社インターナショナルに入社。25年にわたって美術・工芸、歴史書などの編集に携わったという日本通。

歌舞伎町ゴールデン街や横浜中華街など東京(大首都圏)を舞台に、ラストエンペラー溥儀の財宝を巡って暗躍する、おどろおどろしいまでの反社会的勢力を相手に大活劇を展開するアメリカ人私立探偵の活躍を描く。

ストーリーは、中国マフィアの復しゅうによる連続殺人におびえる旧満州国の日本軍残兵の老人から警護依頼を引き受けるところから始まる。略奪隠匿された財宝が少しずつ姿を現してくる。それは仙厓義梵の知られざる禅画であったり、天下の名碗あるいは満州皇室で常用された茶碗など。誰かが隠匿財宝を取り戻し世間に流出している。やがて財宝には、正宗などの名刀や試し斬りの生き血を吸った日本刀が含まれていることがわかり、話しはどんどんと血生臭くなっていく。

謎は謎を呼び、どんでん返しのジェットコースターは、まさにノンストップなサスペンス・ミステリー。次から次へとおどろおどろしく疑わしい人物が登場するが、怪しげな人物も謎めいた伏線も全て回収されることはなくほとんどが使い捨て。実際のところはミステリーというほどの筋立てはなくて,
もっぱらエキゾチックなアジアン・テーストを暴力的に描いたハードボイルド小説。

描かれた東京も、驚くほど地理的にはリアルだが、色彩はけばけばしいほどにエキゾチック。東洋美術の真相や旧日本軍兵の残虐行為などの歴史告発のようなリアルを期待すると、かなりガッカリ。あくまでも登場するのは、寿司ではなく《カリフォルニアロール》、東京ではなく《トーキョー》。カンフーやチャンバラ的暴力の活写を大いに楽しべきなのだろう。

訳文はいささか雑で、ところどころに校正見逃しのような怪しげな文章や表記が散見される。原文では小気味のよさを狙ったものがスタイルとしてあるのだろうが、訳された日本文はぎこちなくわざとらしい。こんな翻訳ならいずれはAIでも可能になるだろう。



Tokyo Kill.jpg

トーキョー・キル
バリー・ランセット (著)
白石 朗 (訳)
集英社
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

塀の中の桜並木 [自転車散策・紀行]

《さくらトラム》こと都営荒川線沿線の桜の名所巡り。

IMG_6509_1.JPG

ここは荒川二丁目停留場。開業したのは大正2年(1913年)と古い。開業当時は三河島停留場だったそうです。都電(当時“市電”)になったのは戦争中の昭和17年(1942年)のこと。

IMG_6501_1.JPG

そのすぐそばにある立派な桜並木。人っ子ひとり歩いていません。この桜の道は、実は塀の中。というのもこの桜は下水道処理施設内にあるからで、そこはふだんは人は入れません。

IMG_6526_1.JPG

この三河島水再生センターは、荒川区・台東区の全域、文京区・豊島区の大部分、千代田区・新宿区・北区の一部の下水処理を一手に担っている。敷地総面積は、197,878平方メートル。東京ドーム4個分という広大なもの。

日本で最初の近代的下水処理施設であり、今は使われなくなったポンプ場施設の遺構が国の重要文化財に指定されています。桜の道は、その施設周辺にある。処理場施設上部には荒川自然公園があるが、なぜか、ここには桜の木は一本もありません。

IMG_6545trm_1.jpg

重要文化財なのでもちろん公開されているけれど、すべて事前の見学予約が必要。この日は祝日で、人っ子ひとり見かけないのはそのせいかもしれません。ポンプ室はレトロな赤煉瓦の建物で、中に入れないのはほんとうにもったいない。

創業当初は、現代のような活性汚泥法ではなく散水式だったし、糞尿を積んだ車両が出入りしていて悪臭紛々だったはずですが、今はほんの微かに下水臭がする程度。周りにはぎっしりと家々が軒をつらねていて、ひとなつこい下町の雰囲気の住宅街。

IMG_6530_1.JPG

都電の停留場の周囲や、そこから長い緩やかな坂道を上がった自然公園は都民の散策場所になっています。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

「八年後のたけくらべ」(領家 高子 著)再読 [読書]

20年にわたっておなじみだった5千円札の樋口一葉の肖像。来年から津田梅子にとって代わられるという。その20年前に、話題になっていた本書を、いまもう一度読み直してみました。

東京向島に生まれた作者が、樋口一葉の描いた明治の青春の日々に捧げた哀切極まりないオマージュ。一葉の書いた小説や日記を借りて、《その後》であったり、一葉に寄り添うように生きた妹・邦子の目線に移し換えるなどした短編の五作はいずれも一葉文学に対する愛着や共感が込められています。

その根幹を成すのは、明治という時代に生きた市井の人々の青春の日々と痛々しいまでの喪失感。

この短編集の標題作「八年後のたけくらべ」は、一葉の名作「たけくらべ」の文字通り八年後の再会を模作したもの。十五歳で町を去った信如が比叡山での修行勉学を終えて帰ってくると、心密かに憧れていた初恋の美登利は吉原遊郭の揚巻太夫となっていた。相思相愛ながら互いに素直に心を打ち明けないままにそれぞれの道に旅立ったふたりの八年後。それはそのままに折り合うことのない大人の世界。

「お力のにごりえ」は、同じように名作「にごりえ」をモンダージュしたもの。その切片に新たに幼なじみの義太郎を登場させる。時代は日清日露と続く、戦争の勃発前夜。国家の大事に男子の本懐ありと、果てぬ野心と不運にまみれて没落していく義太郎。誰だって「出世を望む」のが当然という時代の虚偽に背を向けるお力の虚無の影の暗さを、作者はあえて明治という時代や社会の裏面、底辺としてほのめかしている。

「葬列」「日記」「一葉、夏の日々」の三作は、一葉の「日記」に想を得て、そこに取材したものなのでしょう。そこには、一葉(本名・夏子)に寄り添い支え続け、その死後も遺作の刊行に尽くした妹・国子がいます。その回想は、一葉の霊と向き合い対峙して問いかけるようであって、そのこと自体が作者の一葉文学論にもなっています。「一葉、夏の日々」では、さらに作者の私小説的な個人事情の露出があって、それは一葉文学への共感の濃厚な告白・吐露となっています。

一葉は、明治というものに投じられた江戸古典の残影だったような気がします。明治という新時代との相克とその懸崖に咲いた奇跡の花は、一葉が夭逝したことで未完になってしまう。そのことが一葉文学の魅力でもあると同時に、現代人にとっては古風な和文体にとどまっているということで敷居が高い…。

その敷居を越える、補助線のような役割をしてくれるのが領家の筆力。20年前は、紙幣の肖像に登場という話題性につられて読んだけれど、20年後に再び読んでみてもそいう本書の魅力、役割は、今も変わっていないということを確認した再読でした。


八年後のたけくらべ_1.jpg

八年後のたけくらべ
領家 高子 (著)
講談社
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

開花宣言 (小林沙羅。三浦友理枝-名曲リサイタル・サロン)

前日の14日には、東京は全国に先駆けて開花宣言。

IMG_6346_1.JPG

この日も、まだ空気に冷たさを感じましたが陽光あふれる春の陽気。池袋グローバルリンクの噴水では、卒業式の帰りなのでしょうか子供たちがびしょ濡れになってはしゃいでいました。

小林沙羅&三浦友理枝.jpg

その陽気にふさわしい小林沙羅さんのソプラノの今日のテーマは、まさに「春」づくし。ピアノの三浦友理枝さんとはずっとコンビを組んでいる大の仲良しなのに、コロナ禍で公演が中止となって以来の久しぶりの共演なのだとか。まさに春が来たという気分がステージ上から薫りたつようです。

ステージににこやかに登場した小林さんのドレスは爽やかな桜色。さっそく滝廉太郎の「花」。そして、同じ加藤周一の詩に中田喜直、別宮貞雄の二人が曲をつけたそれぞれの「さくら横町」。

日本の《春》は、やっぱり桜。それも、うららかな陽光あふれるの中で爛漫と咲き乱れる桜。日本の四季が一番輝くひととき。

blunch concert.jpg

ステージには司会役の八塩圭子さんも加わって、とてもにぎやか。インタビューに答える小林さんは、すっかりおきゃんぶりを発揮。おしゃべりにはいささかの屈託もなく、八塩さんもひと言ふたことフリをつけるだけで、後は小林さんのほとばしるようなお話しにニコニコとうなずくばかり。

日本のしっとりとした春と違って、ヨーロッパの春は、長く冷たい冬のあとに一瞬にして訪れる。そういう小林さんのお話はまったくその通り。イタリア人のティリンディッリは、その春を崇め奉るように歌い上げる。パリのサロンで活躍したハーンは一瞬の春の輝きを歌い上げ、ドイツのシューマンは長い冬に閉ざされた子供たちの屈託を思いやることで春を歌う。ロシア人のラフマニノフは雪解けの微かな水音から感情を抑えきれないという風な爆発的な春。そういうお国柄豊かな「春」の歌がとってもチャーミング。

三浦さんが、北欧の春ということで澄んだ響きのグリークをソロでご披露すると、その数分の間に衣装替えをした小林さんが、こんどは淡い明るい緑青色のドレスで再登場。そう、欧米の春は、むしろ、新緑の緑がイメージでしたね。

八塩さんの恒例の質問――「コンサート前の食べ物は?」に対して、小林さんの答えはなんと「納豆ご飯」。ヨーロッパ公演でも炊飯器を持ち歩き、イタリアのお米もけっこう美味しいとかで、納豆は冷凍も入手できるし、最近は現地産もあるのだとか。これに卵があればサイコーで、生の卵がご法度の海外から帰国するとさっそくTKGということになるのだとか。

そういう話題の後は、小林さんの歌唱はいっそうパワーをつけててきます。ドビュッシーに続いてグノーの「ファウスト」からの有名なアリアで最後を盛り上げてくれました。やっぱり、歌というのにはオペラのアリアを聴いてほしい…とは小林さんの気持ちなんだそうです。





flyer.jpg


芸劇ブランチコンサート
名曲リサイタル・サロン
第23回 小林沙羅(ソプラノ)
2023年3月15日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階M列18番)

小林沙羅(ソプラノ)
三浦友理枝(ピアノ)

八塩圭子(ナビゲーター)

滝廉太郎:花
中田喜直:さくら横ちょう
別宮貞雄:さくら横ちょう
ティリンディッリ:おお、春よ!
R.アーン:春
シューマン:春が来た!
ラフマニノフ:春の流れ
ドビュッシー:リラ グリーン 美しい夕暮れ 星の夜
グノー :「ファウスト」より 宝石の歌

(アンコール)
R.アーン:「クローリスへ」
フォーレ:「夢のあとに」
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

柿の木坂シックス (東京六人組 めぐろパーシモンホール開館20周年) [コンサート]

東京六人組は、楽しい。だから、また聴きたくなる。

その東京六人組の公演が、前から一度行ってみたかった《めぐろパーシモンホール》であるという。たまらず出かけてみました。

IMG_6312_1.JPG

《めぐろパーシモンホール》の存在が気になりだしたのはずいぶんと前のこと。それでも20周年とは知りませんでした。行ってみると、開館20周年記念公演の最終日とのことです。

目黒区は、自分の育った町。小学生から大学生までずっとここで育ち、大学も区内のキャンパスに通いました。クラシック音楽の生に触れたのも、課外授業で行った区主催のコンサート。どこのオケかは忘れましたが、ボレロを熱演。危なっかしいところがあったのもよく覚えています。演劇会で舞台に立ったこともあります。当時の目黒公会堂は別の場所にありましたが、でも、とても懐かしい気がします。

《パーシモン》の由来は、柿の木坂なのでしょうね。目黒駅から目黒川めがけて権之助坂の急坂を駆け下りて橋を渡り、そのまま目黒通りをずっと行くと、環七の陸橋に行き当たる。そこを過ぎてからの登り坂が《柿の木坂》。私にはとびきりの高級住宅街というイメージがありました。《パーシモンホール》はその坂を登り切ったところからすぐそば。この辺りは、目黒区の中心で、一帯は「目黒のサンマ」で有名な将軍の鷹狩り地でした。周囲は閑静な住宅街で、よくぞこんなところに公有地があったものだと思いましたが、要するにここは《都立大学》の跡地。最寄り駅は東急東横線の《都立大学駅》で徒歩7~8分程度。大学移転後も、駅名だけはそのままになっているというわけです。

IMG_6311_1.JPG

会場は小ホールのほう。

客席は、たった200席。しかも客席間がとてもゆったりとしているし、5列目と6列目との間の通路がとても広いので、とても贅沢。中央通路がちょうど舞台と同じ高さ。おそらく前方席は可動で平土間にも出来るという設計なのだと思います。いずれにせよ、舞台と客席がほとんど同じ高さなので親近感にあふれています。音響は、長田音響設計。天井は低め、多目的ホールなので音響はデッドですが、かえって直接音がクリーンで木壁の反射音も柔らかで暖かみがあります。とにかく、木管5重奏+ピアノという編成を聴くには贅沢すぎるほど贅沢です。

IMG_6314_1.JPG

まずは、ハンガリー舞曲。一曲目で思わず拍手してしまいましたが、ホルンの福川さんが笑顔で軽く会釈して拍手を受け流し、三曲続けての演奏。プログラム二曲目は、この編成オリジナルの曲で、フランセの《恋人たちのたそがれ》。いかにもフランスらしい、おしゃれで洒脱、ユーモアのセンスあふれる曲。前半最後の曲は、ガーシュイン。これが六人組の新しいレパートリーのご披露とのこと。現在、制作中のCDに入れようと張り切っているのだそうです。

曲の合間に、2人ずつのトークがあるのも楽しい。トーク上手なのは、福川さん、上野さん、三浦さんあたり。クラシックのコンサートもこういうおしゃべりが増えて楽しい親しみのある雰囲気になりましたね。

20180731_tokyosix.jpg

後半では、お得意のレパートリーが続きますが、六人それぞれに主役が割り振られるようにバランスされているのがよくわかります。《魔法使いの弟子》では福士さんのファゴットも大奮闘。《亡き王女のためのパヴァーヌ》では福川さんの見事なホルンのソロを披瀝。最後の《ラ・ヴァルス》では、最後列のピアノの三浦さんもド派手に立ち回り、まさに全員プレイの大饗宴。この日は、小さなホールならではの熱気に煽られるのか、プログラム一曲目からテンポが走りがちでしたが、《ラ・ヴァルス》は聴いていてもハラハラするぐらいのスリリングな展開で爆発。

小さなホールならではの、客席とのコミュニケーションを感じさせる楽しいコンサートでした。次回も楽しみです。



flyer.jpg


東京六人組
めぐろパーシモンホール開館20周年記念
2023年3月9日(木) 19:00~
東京・目黒 パーシモンホール・小ホール
(7列9番)

東京六人組(Tokyo Sextet)
上野由恵(フルート)
荒 絵理子(オーボエ)
金子 平 (クラリネット)
福士マリ子(ファゴット)
福川伸陽(ホルン)
三浦友理枝(ピアノ)


ブラームス(岩岡一志 編曲):ハンガリー舞曲 第1番/第5番/第6番
フランセ:恋人たちのたそがれ
ガーシュウィン(Lisa Portus 編曲):パリのアメリカ人

デュカス(浦壁信二 編曲):魔法使いの弟子
ラヴェル(磯部周平 編曲):亡き王女のためのパヴァーヌ
ラヴェル(浦壁信二 編曲):ラ・ヴァルス

(アンコール)
ハチャトゥリアン(竹島悟史 編):レズギンカ(バレエ音楽「ガイーヌ」より)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

赤と黒 (キヴェリ・デュルケン&實川 風 ピアノ・デュオ 日経ミューズサロン) [コンサート]

ピアノ・デュオが続いたのは、たまたまのこと。

それにしても、一見、同じ楽器であるピアノ2台の連弾という没個性のデュオであっても、演奏者たちの取り合わせといい、取り上げられる演奏される曲といい、こんなにもヴァラエティがあるとは…!というのが率直な感想でした。

ピアノ・デュオといえば、例えば、バレンボイムとアルゲリッチみたいな両巨匠のようなタイプや、デュオ・クロムランクを頂点とする、夫婦、姉妹兄弟による融合一体タイプもあって、多士済々。

曲の方も、ブラームスやドヴォルザークの「ハンガリー舞曲」のようにもともと4手連弾として出版されて大ヒットして管弦楽曲に編曲したものもあるし、逆に管弦楽曲を4手や2台ピアノに編曲したものもあります。もともと、作曲家による試演とか、オペラやバレエのリハーサル、小規模な公演のためにしばしばピアノ版が伴奏に使われ、連弾かどうかはともかくピアノと管弦楽とは密接な関係になっているわけです。

今回は、特に大規模な管弦楽をピアノ・デュオに編曲したもの。ともにとびきりド派手なヴィルティオーソ性を発揮するような曲が2曲。

Doerken.jpg

キヴェリ・デュルケンは、真っ赤なワンピースパンツドレスで颯爽と登場。ハイヒールとボディコンのパンツドレス、体格も立派なので実にかっこいい。パートナーの實川風は、知的な好青年。こちらは実直な黒に近い暗灰色のスーツ。

前半は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。

もともとスキャンダラスな野趣あふれるバレエ曲ですが、作曲者自身の編曲によるピアノ連弾版は、リズムや打楽器的性格がむき出しになって迫ってきて大迫力。二番ピアノ側に回ったデュルケンが大活躍。こういうリズムの打撃感は、弾き手にとっても聴き手にとっても快感で、そこに一種の一体感が生ずるのは、どこか和太鼓集団の演奏に通じます。

後半は、ブルーノ・ワルターが編曲したマーラーの「巨人」。

こちらは、デュルケンは一番ピアノで、實川は二番ピアノに回り実直に基音や音響の下支えを響かせます。もちろん、低音部側や和声にも聴かせどころはあるのですが、目立つのはデュルケン。あの葬送楽章でもずっと實川が物憂い卑属なテーマを虚ろに奏でている(原曲:コントラバス独奏)が、そこにデュルケンが突然に被るように旋律線が闖入する(原曲:オーボエ)。そういうコントラストがむしろ際立つピアノ・デュオ。

jitsukawa.jpg

とにかくデュルケンは積極的で果敢。多少のミスタッチや頭のずれはものともせず、所狭しと立ち回る。一方の實川のテクニックは実に正確で乱れが無い。縦横無尽に引っかき回すデュルケンに対し、實川は見事に受けに回り丁々発止の打ち込みをものの見事にやり返す。嵐のような終楽章は、まさにそういう疲れを知らぬ二人の大熱演。客席ものけぞり返るような迫力の熱量を浴びて大いに盛り上がりました。

アンコールは、二人並んでの4手連弾。グリークの「ペールギュント」は、やはり管弦楽からの編曲。独奏曲は有名で、腕の立つピアニストがよく取り上げていますが、連弾曲があることは知りませんでした。これまでの興奮を鎮めるような「朝」のメロディがとても綺麗でした。

Program_1.jpg

第532回日経ミューズサロン
キヴェリ・デュルケン&實川 風
 ピアノ・デュオ・リサイタル

2023年3月6日(金)18:30~
東京・大手町 日経ホール
(E列24番)

キヴェリ・デュルケン(Kiveli Doerken)
實川 風(Kaoru Jitsukawa)

ストラヴィンスキー/春の祭典

マーラー(ブルーノ・ワルター編)/交響曲第1番「巨人」(2台ピアノ編曲版)

(アンコール)
グリーグ/ペール・ギュント 第1組曲 より 第1曲「朝」作品46-1

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽