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新たな展開の始まり (田部京子ピアノ・リサイタル) [コンサート]

田部さんのこの朝日ホールでのリサイタル・シリーズは、昨年、20周年の区切りをつけました。その折り返しともいうべき新シリーズ。-SHINKA-<進化×深化×新化>の第1回。

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最初のモーツァルトでは、ちょっと、おや?という気がしました。田部さんのモーツァルトはとても平明。翳りや曇りがなくて、軽やかで純真無垢。よく知られた「トルコ行進曲」つきのソナタですが、とても重たい。変奏曲も流れがわずかに滞りがち。

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どうもピアノのせいのように思われます。

前2回のベーゼンドルファーModel275ではなくて、今回は現行生産品のコンサートグランド280VC。奥行きサイズはやや大きめですが、逆に鍵盤数は一般的な88で横幅はわずかに小さい。あくまでも勝手な憶測ですが、そういうモデルの違いというよりも、ピアノが若くて目覚めが悪く、しかも、この日の天候のせいで湿気が重いせいなのではないでしょうか。

そのことは二曲目のブラームスでも引きずっていました。

ただでさえ重たい曲ですが、よけいに重たくてテンポも遅めに聴こえてしまう。鍵盤が重く指にまとわりつくような感じがして、ターン(回転音)がうまく回らない。もともとが思い入れたっぷりの弦楽六重奏曲ですから、こういうターンが回らないとどうしてもピアノの曲に転化しきれないところがあります。期待していた曲の実演だっただけに、正直、あまり楽しめませんでした。

少し調子が上がってきたのは、三曲目のシューベルト。ロザムンデの即興曲ですが、ふっきれたような打鍵で指先の重さが取れてきたようにシューベルトらしい歌が聞こえてきます。

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そういう重力の作用を振り切ったような後半は素晴らしかった。

気迷いを吹き飛ばすようなショパンのバラードの冒頭の左手のユニゾンのハ音がどーんと思い切りよく沈み込みそこから湧き上がるような移調の連続の響きで、さあ、物語が始まり始まり、どうか聴いてほしいというような口上で、たちまちのうちに伝承のロマンスに気持ちを持って行かれました。

続く「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」では、切々と未練と郷愁の気持ちが語られる。冒頭の繰り返しなどは、まるで、ため息のように切ないし、続く、自分の願いを吐露するようなメロディはほんとうに胸を打ちます。

この日の白眉は、最後のシューマン。

喧噪とも取られかねないような自由で奔放な幻想の世界。こういうシューマンを聴くと、ほんとうにその魅力に翻弄されてしまう。田部さんのピアノは、もはや、何も顧みるものがなくなったかのように、そういうシューマンの際限もない情熱の世界の音を紡ぎ出す。それは、躁病の状態。とてつもないほどのロマンチックな高揚感と支離滅裂なまでの自由奔放さがあります。

これはほんとうに、田部さんの新しい展開。

前半は少しもやもやしましたが、最後には田部さんの快心の笑みと沸き立つ聴衆の喝采に包まれて、とても幸福な気持ちになりました。



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田部京子ピアノ・リサイタル
-SHINKA-<進化×深化×新化>Vol.1

2024年6月30日(日) 14:00
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階9列11番)

田部京子(ピアノ)
 使用ピアノ:ベーゼンドルファーコンサートグランド280VC

モーツァルト:ピアノソナタ 第11番 K.331「 トルコ行進曲付」
ブラームス:主題と変奏(弦楽六重奏曲第1番より) op.18b
シューベルト:即興曲 op.142-3

ショパン:バラード第1番 op.23
ショパン:ノクターン第19番 op.72-1
シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化「幻想的情景」 op.26 

(アンコール)
ブラームス :6つの小品 間奏曲 op.118-2
ショパン :ノクターン 第20番 嬰ハ短調 「遺作」
シューマン/リスト : 「献呈」

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円熟の技巧・熟成の味わい (トリオ・ヴァンダラー) [コンサート]

さながら熟成したワインを味わうかのように、馥郁と香り立つ薫りと複雑な味と舌触りを堪能するような感動が拡がりました。

トリオ・ヴァンダラーは、数少ない常設ピアノ三重奏団。しかも1988年のミュンヘン国際コンクールで最高位を獲得して以来、不変のメンバーで活動を続けている古参。

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実は、このトリオのことは何も知りませんでした。

紀尾井ホール主催の「ピアノ・トリオ・フェスティヴァル」。本当のお目当ては、今飛ぶ鳥を落とす勢いの「葵トリオ」。この際だからと、その勢いでシリーズ券を買ったから。恥ずかしながら何の予備知識もなかったのです。

最初のブラームスを聴いて本当に心底から感動しました。

さぐりを入れるような音程のぎこちなさがあったり、自分の耳に豊か過ぎるホール残響が耳についたのはほんの最初だけ。その後は、本当に見事な演奏。

ピアノ三重奏というのは、室内楽の女王。丁々発止のやりとりに興奮させられたり、磨き上げた緻密なアンサンブルに舌を巻いたりと、室内楽アンサンブルの楽しみの全てがあって、それが正三角形の均衡で見事に溶け合っている。そういう要素が全てあって、見事なまでに等距離の均衡が成立しているのが、このトリオ。

特に、ピアノの左手とチェロの低弦が同調した低域の上に重和音を奏で、ヴァイオリンの高域へと抜けていくピラミッド音響は実に胸のすくような交響楽的サウンド。これはなかなか他のトリオでは聴けない、まさに熟成のアンサンブルならではのもの。それが紀尾井ホールの素晴らしいアコースティックで空気を満たしてくれる。まさに至高の味わいでした。

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この日のプログラムは、何のてらいもなくブラームスとシューベルトのこのジャンルを代表する名大曲の二曲を堂々と並べたもの。それはもうフランスに二大銘醸地のワインをどんと並べて味わうような喜びに満ちた時間。

ブラームスの第1番は、作曲者がまだ二十代だった頃の比較的若書きの作品。その若々しい高揚感と上昇志向、才能を認めてくれたシューマン夫妻への尊崇や憧憬といった、整理しきれない複雑な感情がふつふつと音を立ててあふれ出てくるような作品だと受け止められています。そうした未熟で過剰な着想を抑制する気になったのか、かなり短縮改訂された第2稿が一般的にはよく聴かれてきました。今回は、演奏されることが希な初稿のほう。

トリオ・ヴァンダラーの円熟の技巧は、本来、この若いワインを十分に寝かせたボルドーのような味わいで聴かせてくれる。数知れない複雑な成分が攻撃的で整理しきれない雑味を持つからこそ十分な年月をかけて熟成させる。そういうボルドーにふさわしい深みのある真紅の色彩や響き、様々な着想や発想、三つの楽器がせめぎ合うような章句も、交響楽的な多彩さとスケールで、なおかつ、とても見渡しのよい構造で現出させる。この演奏には本当に感動させられたのです。

その真逆にさえ思えるのが後半のシューベルト。

創作の晩期の作品に、ともすれば思い入れが入り込みがちな演奏が多いのに、ヴァンダラーは、むしろすがすがしいまでに突き抜けた自由さと、終わりを求めない若々しい旋律美の移ろいを奏でていく。熟成を求めない一級のブルゴーニュのシャルドネを味わうような喜びに満ちています。

ブラームスが、構造的な全体構築のなかで細部の意匠の着想を競う屏風絵ならば、シューベルトは、感情の赴くままに絵構図がどんどんと遷移していく絵巻物。前者は複雑な薫りと味わいの響き合いを楽しむボルドーの赤ならば、後者は、フルーツの香りや草木の風、蜂蜜の甘さなどが次々と通り過ぎていくことを楽しむブルゴーニュの白。シューベルトには、清流の流れのような、いつ終わるともつかぬ時間軸の息の長い移ろいを感じます。終楽章で、回想されるようによみがえる第二楽章のアンダンテのメロディに涙が止まりませんでした。

意表をつかれると、余計に涙が出るのでしょうか。

ある種のカタルシスに満ちたトリオ・ヴァンダラーの演奏でした。



余談になりますが、譜めくり役を相務めたのは、葵トリオの秋元さん。まるで師に仕える弟子のように終始背筋を伸ばしてかしこまっていました。このトリオをこんなにも間近に見聞きして得るものは計り知れないほど大きなものなのに違いありません。




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ピアノ・トリオ・フェスティヴァル2024-Ⅰ
トリオ・ヴァンダラー
2024年6月28日(金) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階BL1列18番)

トリオ・ヴァンダラー(ピアノ三重奏)Trio Wanderer
 ヴァンサン・コック(ピアノ)
 ジャン=マルク・フィリップ=ヴァルジャベディアン(ヴァイオリン)
 ラファエル・ピドゥ(チェロ)

ブラームス:ピアノ三重奏曲第1番ロ長調 op.8(1854年初版)

シューベルト:ピアノ三重奏曲第2番変ホ長調 op.100, D929

(アンコール)
ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第6番変ホ長調 op.72-2より Allegretto

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ど真ん中 (フルシャ 都響定期) [コンサート]

次期英国ロイヤル・オペラハウス音楽監督のヤクブ・フルシャが、7年ぶりに都響を振る。しかも演目は、彼のご当地のオール・チェコ音楽。都響の首席客演指揮者として日本のファンに評判だったのに聴く機会を逃していたので、これは聴き逃せないと池袋に足を運びました。

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幸い、巷ではこのホールの特等席だという噂の1階最後列センターの席が取れたので、ホール音響の実地検分も兼ねてのコンサート体験となりました。

最初のスメタナの歌劇『リブシェ』序曲は、冒頭のトランペット4台を中心としたファンファーレで始まるとても祝典的な曲。チェコの音楽の歴史というと、オーストリア帝国の支配や第二次大戦にまで至るドイツ民族との確執そのもの。初演が潰えたいきさつや、ようやく初演にこぎつけたのがプラハ国民劇場のこけら落としというのも、まさにその歴史そのもの。祝祭的気分は、民族の誇りそのもの。チェコの民族主義音楽のど真ん中。

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なるほど、この1階最後列のしかも指揮台正面のセンター。その音響の立体バランスはほんとうに素晴らしい。まるで、最上のオーディオセットを独り占めして聴くかのように、左右のバランスや音色、響きのバランスが良くて、まさにど真ん中の音。

もともとあまり好きになれないホール音響でしたが、2011年のリニューアルで相当改善したと感じます。ただ、それでも音色の輝かしさや、響きの豊潤さには少々不満が残ります。都響の渾身のファンファーレがストレートに伝わる反面、プラハのスメタナホールのスケール感やルドルフィヌム(ドヴォルザークホール)の豊かな響きには及びもつきません。官製ホールのど真ん中といったここの音響は、この「最上席」でも大きく違うわけではありませんでした。

二曲目のヤナーチェク『利口な女狐』組曲は、フルシャ自身の編曲なのだとか。従来の編曲が歌劇の一部に限られていたものを、あらためて全体的にまんべんなくカバーするように選び直した、いわば拡張版とのこと。

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フルシャは、指揮姿も流麗円滑でなおかつとてもエネルギッシュ。そのマネジメントの巧みさは、まさに現代の大指揮者にふさわしい。この曲の田園的なファンタジーの世界と、古城や尖塔の美しい街並みの絵図を描くような洗練された音飾りを都響から引き出してとても心地よい。

プラハは長く神聖ローマ帝国の首都であったわけだし、宗教改革の主戦場――まさにヨーロッパの中心。ファンタジーといっても辺境ではなくて、ヨーロッパ近世・近代文化のど真ん中にあったわけです。フルシャの場面の運び、曲間の一息の取り方が実に素晴らしい快演でした。

後半のドヴォルザークの3番の交響曲も初体験。よく聴かれる後期の3曲ではなくてなかなか聴く機会のないこの曲を演奏するところにプルシャの気概のようなものを感じます。実際、歌謡的で土着の雰囲気、近代市民社会の庶民感覚などが満載の後期三部作に較べると、ずいぶんと正統で地味な風貌なのですが、ドヴォルザークらしい曲想がそこかしこに現れ、小気味よい三楽章形式であることもあって爽快な音楽でした。

都響も渾身の演奏。とはいえ表面的な完成度の高さに終わらず、もう少し熱狂的な心からの陶酔感を求めたいという気持ちも残ります。プログラムが初めてだらけでそういう共感までは至らなかったということのような気もします。

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平日昼間にもかかわらずほぼ満席の盛況にも少なからず驚きますが、フルシャを何度も呼び戻す熱気にはさらに圧倒されました。

日本のど真ん中のクラシックはかくも熱い。





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東京都交響楽団
第1002回定期演奏会Cシリーズ
2024年6月21日(金)14:00
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階S列 18番)

指揮:ヤクブ・フルシャ
コンサートマスター:矢部達哉

スメタナ:歌劇『リブシェ』序曲 【スメタナ生誕200年記念】
ヤナーチェク(フルシャ編曲):歌劇『利口な女狐の物語』大組曲 [日本初演]

ドヴォルザーク:交響曲第3番 変ホ長調 op.10

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去る者は日々に疎し(?)(紀尾井ホール室内管・定期演奏会) [コンサート]

ピノックの指揮にはもともとあまり良い印象を持っていなかった。

それが、コロナ禍で遅れていた首席指揮者就任記念コンサートで素晴らしいスタートを切ってくれたとほっとした思いだったのだけど、再び、不安に突き落とされたような気分。

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何よりも音楽が楽しめなかった。

最初のウェーバーでの荒っぽさは、ロマン派の幕開けともいうべき曲の特性もあるし、プログラム冒頭のアンサンブルということもあるだろうと納得してはいた。中間の亡霊のささやきのようなヴァイオリンの8重奏は、やはりこのオーケストラの美質が満開だったし、それなりに楽しんでいたのだけど。

ドヴォルザークのコンチェルトのクリスティーネ・バラナスは、これが日本公式デビュー。

ラトヴィア出身とのことだが、長身の美形。真っ白なパンツスーツでさっそうと登場。演奏は、見かけによらず繊細で人を驚かすような音量でもないし、むしろ細身の音色で、出だしのいきなりのカデンツァでは少し神経質な堅さもあった。延々と続くカデンツァ風の楽想をなんとか無難に過ごすと、そこからが本領発揮というところだっと思う。

けれども、それと同時にウェーバーから引きずっていた不満がいっそう気になってしまった。オーケストラの音の粗さと、どうにもアンバランスな響きのことだ。ドヴォルザークは民謡的な旋律美の宝庫のはず。それが平板で音量が大きいだけのオーケストラにかき消されてしまう。800席のホールでの2管編成でここまで鳴らす必要があるのかと疑問がわいてしまう。とにかくその単調さに聴いていて集中力が続かない。だから、バラナスのヴァイオリンの印象は薄いままに終わってしまった。

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結局、そういう不満は後半のシューマンで一層拡大した。

ただでさえシューマンの管弦楽法は、初期ロマン派の稚拙さがある。二十世紀の指揮者はそれをあれこれいじり回したり、ことさらに美音に仕上げようと不自然なテヌートで装った。それが自然な音律ではどれだけ端正で人間的なハーモニーで鳴るかを証明するのが二十世紀後半から台頭したピリオド派だと思うのだけれど、ピノックは楽員任せの音の強弱でまるで放任主義みたいな指揮をしているように思えてしまう。集中力が続かないのは、ドヴォルザーク以上だった。

一時は、ピノックの首席指揮者就任を受け入れたつもりだったけど、少々、鬱陶しい気分が拡がってきた。

褒めたいのは、木管陣。

相澤政宏のフルートにはほんとうに感じ入った。オーボエの吉村結美は、先日のN響定期で聴いたばかり。若いのに八面六臂の活躍。クラリネットの勝山大輔、亀井良信のお二人も実に息の合ったふくよかな美音。ファゴットの水谷上総はさすがとしか言いようがない。ウェーバーでもドヴォルザークでもこの木管と弦パートの強弱バランスが良ければ、ずっとずっと幸せになれたはず。

コントラバスの池松宏さんが、このコンサート限りで退団するという。池松さんの姿を見るのが楽しみだっただけに、この唐突な知らせに落胆。ピノックが歩み寄って堅い握手をしていたが、花束すらも無い。寂しい限りだ。



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紀尾井ホール室内管弦楽団
第139定期演奏会
2024年6月21日(土)14:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階C席2列13番)

指揮:トレヴァー・ピノック
ヴァイオリン:クリスティーナ・バラナス

紀尾井ホール室内管弦楽団
コンサートマスター:玉井 菜採

ウェーバー:歌劇《オイリアンテ》序曲
ドヴォルジャーク:ヴァイオリン協奏曲イ短調op.53
(アンコール)
バッハ:無伴奏ヴィオリン・ソナタ第3番より《ラルゴ》

シューマン:交響曲第1番変ロ長調《春》op.38

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「大楽必易」(片山杜秀 著)読了 [読書]

音楽評論家・片山杜秀の伊福部への愛はただなるものがある。

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小学生の頃に観た怪獣映画の音楽に魅せられ、大学三年の時に世田谷・尾山台の伊福部邸を初めて訪ねて以来、まるで入り浸るようにして40年以上も作曲者との対話を続けたという。

「自伝」の下書きのまとめ役のつもりでインタビューを重ねた。「自伝」はついに実現しなかったが、本書はいわばそれに代わる評伝エッセイ。膨大なインタビューの聞き書きが引用されている。

クラシック音楽では、作曲家と同じ時代を生きて時空をともにすることなど、まずはあり得ない。本書は、単に特定の作曲家への一方的な偏愛を書き綴るという主観的、独善的なものではない。そこには、昭和という時代と、北アジアの民俗音楽と西欧近代自我との相克がしっかりと書き込まれている。

「大楽必易(たいがくひつい)」とは、司馬遷『楽書』にある言葉。偉大な音楽は平明なものという意味だそうだ。短い音階ともいうべき単純な音型から、コンチェルトやカンタータなどの大曲を紡ぎ上げる作曲者のモットーだったという。

伊福部昭というのは、日本の正統音楽アカデミズムの主流からはおよそ遠かった存在。北海道帝国大学の林業科を卒業し営林署勤務のかたわらに作曲するといういわば「日曜作曲家」。在学中から海外の作曲家に認められ賞まで取ったが、東京の楽壇とはずっと距離を置いた。いや、むしろ東京を敵視していたという。

「外来の盲目的追従はまだ許せるにしても、…髪を脱色してまでも、ブロンドを真似ようとするあの女達」になぞらえて、「西欧の普遍の物真似」をして、そこに「定評」があると信じ、勝ち馬に乗ろうとドタバタしているばかりの日本の多数派の芸術家を揶揄するように語っていたという。

伊福部の原点は、北海道。それもとびきりの辺境で育った。アイヌとの混住で得たものも多いが、札幌などには白系ロシア人も多くいて日常的に北東アジアの音感や楽器の触感に触れて吸収した。伊福部を認めたチェレブニンもロシア人。コーカサスで暮らし、アジアの伝統音楽に触れて、近代西洋音楽の終焉を強く意識していた作曲家のひとり。チェレブニンは、伊福部にリムスキー・コルサコフの管弦楽法を徹底的に学ぶように薦めたという。

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伊福部は、民族派だと言われる。が、それは表向きのこと。むしろ、その楽想は北アジア全体を包摂し、さらにはユーラシアを通じてスラブともつながる。モーツァルトが西欧近代の音楽理論を純化させた「音階の音楽家」と言えるなら、伊福部はその鏡写しのような音楽家。西欧近代が切り捨てた土着的旋法の下降音階と七拍子などの変拍子に徹底してしてこだわった。

「ドシラ、ドシラ、ドシラソラシドシラ」という『ゴジラ』音型が子供に訴えかけたのは偶然ではない。そこには、モーツァルトとは真逆の下降音階と偶数・奇数を組み合わせた九拍子という変拍子がある。伊福部のポスト近代主義が、怪獣映画という純音楽正統の辺境で見事に童心を捉えたというわけだ。

昭和という時代を、北海道や樺太・アムール河畔、シベリア、ロシアという辺境から見た現代文化史としても抜群に面白い。


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大楽必易
わたくしの伊福部昭伝

片山杜秀
新潮社
2024年1月30日刊
タグ:片山杜秀
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朝ドラ「虎に翼」で思い出した中学時代 [雑感]

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朝ドラ「虎に翼」を見ていたら、私が通った中学校のすぐそばにあった児童養護施設のことを思い出してしまいました。

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当然にクラスにもそこから通っている生徒が何人もいたわけです。

施設は、戦後間もなく主に戦災孤児を収容するために設立されました。戦後生まれの私が中学生だったのは、もう、戦後20年近く経っていて戦災孤児はいなかったはずですから、様々な理由で居場所を失った子どもたちだったのでしょう。

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とにかく名うての不良ばかりでした。同クラスには「お客さま」と陰口をたたかれる子がいて、教師からも見捨てられている。むしろ熱心な教師ほど叱る、叩くなどの乱暴をする。それでもニヤニヤ笑うだけ。やがて教室にも姿を現さない。当時流行っていたスロットカーのレーシングコースに入り浸っていて周囲を呆れさせました。なかなかマニアックで様々な細かい改造をしていて、それを自慢する時に歯抜けを丸出しにしてニヤッとする笑い顔が今でも目に浮かびます。発育不全なのかとても小柄でした。

対照的に壮健な体つきの子もいて、こちらは根っからの武闘派で、常に喧嘩沙汰を起こす問題児。周囲は怯えて遠巻きにするばかり。猪ノ爪家のこどもたちが通男に怯えるあの感じそのものです。何かのことでその子と殴る蹴るの喧嘩になりかけたことがあります。やせっぽちの私がかなう相手ではないのですが、すぐカッとなる性分の私は見境もなく歯向かっていった。それを周囲の級友たちが羽交い締めにして私を遠ざけてことを収めてくれました。「やめろ、お前がかなうわけがない。ケガをするぞ。」というわけです。

私には、この子のことが今日の道男にどうしても重なってしまいます。

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当時、私たちの間で鉄棒が流行りました。昼休みに皆で校庭の隅の砂場にある高鉄棒で蹴上りなどを競うわけです。あの問題児はこともなく車輪なんかをやってみせて、そこではちょっとしたヒーローでした。やせっぽちで小学生の時は逆上がりもできなかった私も、そこで蹴上りができるようになりました。そういう場では、みんな何事もないようにわいわいいいながら鉄棒に夢中になっていました。あの子も、この隅っこの砂場では、そういう輪の中になじんでいました。

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以前、音楽サロンに出かけたついでに、懐かしいこの町を散策したことがあります。私の中学校もそのままでした。

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私の頃は「上目黒八丁目」でしたが、いまでは「大橋」と町名を変えています。ちょっと驚いたのですが、愛隣会・駒場若葉寮は、そのままもとの所にありました。近年は、児童虐待のために入寮する子どもがほとんどなのだそうです
タグ:虎に翼
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カデンツァ (Lotus Roots邸訪問オフ会) [オーディオ]

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Lotus Rootsさんのシステムは、とてもシンプルでスマートです。

それでいて、そのサウンドはとても濃厚。

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5年前と、基本的な構成も使用機器もほとんど変わっていません。中核となっているのは、ウィーンアコスティックのスピーカー。今はそれをクラッセの小粋なプリメインアンプでドライブしている。中低音音域が厚めなのは、何と言ってもウーファーが三つのBeethoven Concert Grandのキャラクター。アンプによっては低音が出すぎて悩ましい。それをモニターライクなクラッセでクセのない音に仕上げておられます。

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5年前からのウェルフロート遣いであることはそのまま。さらに進化してウェルデルタをここかしこに重用されています。部屋の調音もいろいろ工夫されておられるのは、やはり低音の過剰とかぶりをいかに抑え込みながら、ウィーンアコスティックの持ち味を活かしていくのかということなのだと思います。

その中低音の滑らかな濃密さは、女性ボーカルを聴かせていただくとあっという間に悩殺されてしまいかねないほど。

オフ会の楽しさのひとつは、やはり、いろいろと自分の知らない音楽ソフトを教えていただけること。同行された、やはりウィーンアコスティック遣いのVafanさんの持参したLPレコードといい、女性ボーカルの魅力に打ちのめされてしまいます。

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オランダの歌姫、トレンチャは以前もLotus Rootsさんに教えていただいたのですが、またまた新たなCDを聴かせてもらって、さっそく購入してしまいました。

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ディエゴのギターとシリルのボーカルは、オーディオ的な生々しさ満点で、びびっと来ます。こちらのCDは到着待ち。

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もうひとつは、ヴェロニカ・エーベルレのベートーヴェンの協奏曲。こちらはその日のうちにネットからダウンロード。

とにかく遅い。第一楽章だけでもフルに26分かかります(ちなみにハイフェッツなら20'40")。全部聴くわけにいかないのでカデンツァを聴かせてもらうと、これがエグい(笑)。

この曲のカデンツァというとアウアー、ヨアヒム版を良く聴きます。最近は、ベートーヴェン自身によるピアノ協奏曲編曲版のカデンツァの逆編曲も大はやりです。こちらは新作のカデンツァで、そのモダンな技巧はぶっ飛びもの。しかも、ピアノ版のようにティンパニが加わり、しかも、コントラバスまで合いの手を入れる。低音でぶいぶい聴かせられて思わずのけぞってしまいました。まさに、Beethoven Concert Grandならばこそ。

大の字がつく名曲中の名曲で、誰が弾いても食傷気味ですが、これは思わず手を出してしまったというわけです。

オフ会後は、懇親会で大いに盛り上がってしまいました。お店には、ちょっとこだわりの銘柄も置いてあって、酔いに任せてついついウンチクを垂れてしまったのはオーディオ界の老害そのものだと、大いに反省です。

タグ:訪問オフ会
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文明の衝突 (沖澤のどか&コジュヒン N響定期) [コンサート]

沖澤のどかのN響初見参。しかもソリストがコジュヒンときては聞き逃す手はありません。今年、二度目のNHKホールです。

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まずは沖澤のどかの手腕に脱帽です。素晴らしいさばき。フランス二十世紀音楽を堪能しました。堪能というか、いろいろな発見があって楽しめたということでしょうか。

沖澤のどかの指揮は、前回の読響の時に感じましたが、とても情景的。そのことが、フランス近現代音楽にぴったり。音楽ですから、動画的と言うべきかもしれません。海の波風など象徴的なパターンが耳に心地よくイメージを喚起させてくれる。

のっけからのイベールが秀逸でした。

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色彩が豊かで明るく、弦の蠱惑的なハーモニーやグリッサンドやテヌートを多用し艶めかしさに波の揺らぎの明暗。そういうビロードを敷き詰めたような響きに、軽妙な管楽器群の美麗な細線が走り出す。パーカッション群のエキゾチシズムやローカリティあふれるリズムや華やぎは軽みと洗練の極み。コンマスの郷古廉と沖澤の組み合わせなればこその新鮮で若々しいフランス感覚。地中海の風景と祭り華やぎやアラブの調べが交錯する。アラビア風の7拍子の調べを、これまた若い吉村結実のオーボエの細身の美音が、蠱惑的に身体をくねらすように奏でる。イベールの洒脱で粋な地中海クルーズを現出させて、しかも清潔極まりない。

こんな音をN響も出せるのだと驚嘆。

デュトワ以来、近代フランス的なサウンドを磨いてきたN響だからこそとも言えるけど、それでもデュトワのサウンドはマチズモの体臭が抜けなかった。沖澤と郷古率いる若いN響は、両性平等の透明でクリーンなモダンフレンチを見事に醸し出す。

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そのことは、最後のドビュッシーでも同じ。

透明度の高い色彩と陰影のうつろいが燦めく背景のなかに、香り立つオリエンタルな音階感覚やハーモニー。自由なリズムや華やぎはとても絵画的。最後の「シレーヌ」でのメゾソプラノの女声合唱の神秘的なヴォカリーズは、イベールの地中海的なエキゾチシズム、両性平等的な透明感と呼応している。

その間に置かれた「左手のコンチェルト」がとても異質。

とはいえ、これもまた見事なまでに、二つの大戦にはさまれたこの時代のフランス音楽なのだとと思います。このラヴェルのコンチェルトにはモダニズムのきな臭さが漂います。まずもって、低弦のざわめきに乗ってコントラファゴットが唸り出す。そこからしてただならぬ不穏な空気が漂う。

コジュヒンは、やはり凄い。

ロシアンピアニズムで超絶技巧といっても、この人のピアノはこれ見よがしのアクロバットやヴァイオレンスではない。千変万化の音色素材とスパイシーな技巧が精緻に取り合わされた音楽情感の万華が繚乱する世界。激烈な躍動やアルペジオで感情を炎上させたかと思うと、安逸な平穏の中に沈潜しようとする。戦争の暴力なのか、機械文明の抑圧なのか、左手一本でこれだけの振れ幅と微妙な呼吸感覚を描き出すのは尋常ではない。

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沖澤は、極めて対立的。まるで喧嘩のような協奏曲。コンサートプログラムの中での異物とも言うべきコジュヒンのピアニズム――それは、孤独でとても身勝手だとさえ言える――には、まるで寄り添おうとせず、煽ったり、そっぽを向いたり。そのやり取りにインタープレー的な呼応は無い。指揮者とソリストと、どちらがボスなのか不明のままに丁々発止の《文明の衝突》を繰り返す。それでいて実にスタイリッシュ。コジュヒン相手に一歩も引かなかった沖澤にこれまた喝采を送りたい。



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NHK交響楽団
第2014回 定期公演Cプログラム
2024年6月15日(日)14:00~
東京・代々木 NHKホール
(1階 C16列 7番)

指揮:沖澤のどか
ピアノ:デニス・コジュヒン
コンサートマスター:郷古廉
NHK交響楽団
東京混声合唱団*

イベール:寄港地
ラヴェル:左手のためのピアノ協奏曲ニ長調
(アンコール/コジュヒン)
シューマン:トロイメライ

ドビュッシー:夜想曲*

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津軽・下北自転車ツアー(番外編) [自転車散策・紀行]

帰りは三々五々。新幹線、青森空港。遠くからの仲間は早くに帰りました。一人は、白神山地に移動し渓流釣りを楽しむのだとか。

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東京組の三人は、ゆっくりできるので大湊散策ということで、海上自衛隊基地内にある北洋館に寄ることにしました。

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大湊は、明治35年の帝国海軍大湊水雷団開庁以来、昔も今も北洋の守りの要でした。戦後、海上自衛隊が発足しますが、他の地方総監部は、横須賀・舞鶴・佐世保・呉といずれも戦前から鎮守府からの継承ですが、この大湊だけは大湊地方隊からの昇格となります。

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北洋館とは、海軍大湊要港部の水交支社(海軍士官の社交場)のこと。大正5年に建てられた建物は、当時はまだ珍しい洋風建築で、日本建築学会の名建築にも登録されています。外装は、大湊港を見下ろす釜臥山から採石された安山岩。

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中には、北洋の衛戍の歴史資料約1000点が展示。歴代の大湊要港部(日米開戦で警備府に昇格)の司令官の肖像を初め、日清日露の戦役から先の大戦、戦後の海上自衛隊まで及びます。

注目は、やはり、終戦間近の樺太・千島へのロシアの侵攻と北方領土問題でしょう。展示は多岐にわたっていて幕末時代から進出南下するロシアと、北洋の開拓へと北進する日本との軋轢を公平、冷静に説いていました。長い歴史で考えると、北方領土問題についても世論とはちょっと違う感慨も湧いてきます。

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その後背地の山裾の森林緑地には、小さな石積みのダムと貯水池があります。日本最古の洋式ダムと水道施設なのだそうで、レトロでとっても可愛い。艦船補給用水を確保することを目的として建設された「旧大湊水源地水道施設」なのだそうです。

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終戦直前には、軍人、軍属、施設要員合わせて7万2千人、人口は8万人に膨れ上がっていたそうです。それが敗戦と軍の解体であっという間に1万人余りに激減したのだとか。そのこともあってか静かで自然豊かな町でありながら、大正ロマンと昭和レトロの雰囲気いっぱい。

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のんびりとした朝の陽光を浴びながら、再び大湊駅へ戻り自転車をたたんで家路につきました。

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津軽・下北自転車ツア 完走 [自転車散策・紀行]

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2日目の思わぬ迂回で走行距離を稼いだので、逆に3日目は軽めにして尻屋埼の寒立馬もあきらめて、北部海岸で折れてそのまま大湊を目指す。最大標高も獲得標高も前2日の半分ほどだけど、それでも繰り返しのアップダウンは老体にはきつかった。

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その北部海岸の8Kmにも及ぶ地層帯は壮観。

下北半島は、隆起と沈降を繰り返してきた。ちょうどこの大湊にかけての低地はほんの12~13万年前は海底でした。海岸沿いの段丘のアップダウンもここの地層帯も、そういう隆起沈降の証しです。それを引き起こすのは海溝外縁の断層。

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そういう地勢のこの地域には、東電・東北電の東通村原発や六ヶ所村の再処理施設など原子力施設が集中しているのも不思議な気がします。この地層帯のすぐそばには核燃料リサイクル貯蔵施設もあります。さらには、むつ科学技術館というのがあって、実はこの施設は原子力船むつの廃炉の密閉管理施設。

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大畑で食べたイカスミラーメンが美味しかった。

大湊は駅近のビジネスホテルだけど二食つき。夕食は近くの食堂で、ホタテずくしの料理が最高。大好きな日本酒「八仙」もあったのでツアー達成で気が緩んだせいか痛飲してしまいました。

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