不滅のフォルテピアノ (川口成彦 & V.シェレポフ) [コンサート]
フォルテピアノの連弾――しかも、フォルテピアノは、スクエアピアノも加えて2台、さらにモダンピアノも加えて3台を弾き分けるという、ちょっと豪華なコンサート。
ピアニストは、目下、大活躍中の川口成彦さん。その川口さんと同世代で、ブルージュ国際古楽コンクールやローマ・フォルテピアノ国際コンクールなどで最高位を受賞しているヴィアチェスラフ・シェレポフさんとのデュオ。シェレポフさんは初来日。
連弾というのは、とても家庭的。ふたりの奏者が体を寄せ合ってひとつの鍵盤に向き合って弾く光景はとても微笑ましい。最初に演奏されたのは、モーツァルトの「4手のためのソナタ」。使用楽器は、1814年製のスクエアピアノ。だからより家庭的な雰囲気でいっぱい。
続けて、川口の独奏でヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのソナタ。使用楽器は、ウィーンで活躍した製作者アントン・ヴァルターの1795年頃のピアノの復元楽器。いかにもウィーンの古典派前期を思わせる雅でロマンチックな音色です。
ここからは、モダンピアノでの演奏が続きます。
先ずは川口のソロで、モンポウ。続いては、連弾でロドリーゴ。スペイン好きを自認する川口らしい選曲ですが、モンポウの「子供の情景」には家庭愛とか親密なくつろぎの中に、どこかまがまがしい暗部が隠されているのは、第一次世界大戦の陰を落としているからでしょうか。一方のロドリーゴには、この作曲家独自の哀愁が漂う素晴らしい連弾曲でした。
休憩をはさんで、シェレポフの独奏で、グリンカ。
これがこの日の白眉だったかな。シェレポフさんはモダンピアノの大変な名手。そのせいなのか、調律が良かったのか、このスタインウェイが素晴らしい音色でした。特に低域が重く、しかも、少しも滲むことなく強く沈むように長く響く。いかにもロシア。フォルテピアノと聴き合わせることで、かえって、モダンピアノの良さも浮かび上がってくる。ロドリーゴもグリンカも、もっとピアノ曲を聴いてみたいと思いました。
続いては、土臭いロマンスがたっぷりのドゥシークを川口が弾く。ヴァルターのフォルテピアノの音色も相まってウィーン情緒たっぷりです。そしてクレメンティの4手のソナタから、シューベルトの幻想曲D940と素晴らしい音楽史の流れです。
アンコールでは、再びスクエアピアノでの連弾でモーツァルト。今度は、上蓋を閉じての変奏。家庭用だったからアップライトと同様に蓋を閉じるのが通常。音量は小さくなるけど、不思議なことに音の粒立ちが明瞭でより繊細な感じがします。ヴァルターのフォルテピアノとの個性の対比がより際立って浮かび上がってきます。
3台のピアノを弾き分けてのソロや連弾。18~19世紀に急激な進化を遂げたピアノは、いかにも近代工業技術がもたらした楽器のようであって、ひとつも同じ楽器がない。決して規格品なんかじゃない。そういう楽器の個性の豊かさを俯瞰できる素晴らしく楽しい一夜でした。
川口成彦 & V.シェレポフ 不滅のフォルテピアノ
2024年7月29日(月) 19:00
東京・北区王子 北とぴあ さくらホール
(1階 L列 21番)
フォルテピアノ/ピアノ 独奏・連弾:
川口成彦
ヴィアチェスラフ・シェレポフ
◎モーツァルト:4手のためのソナタ 変ロ長調 K.358
○W. F. バッハ:ラメント(『ソナタ F.7』より) ソナタ ホ短調 BR A9
●モンポウ:子供の情景
◎ロドリーゴ:黄昏
○グリンカ:舟歌
アリャビエフの歌曲「ナイチンゲール」の主題による変奏曲
●ドゥシーク:「ロスライン城」の主題による変奏曲
◎クレメンティ:4手のためのソナタ ハ長調 op.6-1
◎シューベルト:幻想曲 ヘ短調 D940
(アンコール)
モーツァルト:メヌエット K.15
4手のためのソナタ 変ロ長調 K.358より 第3楽章
【使用楽器】
フォルテピアノ(A.ヴァルター:1795年頃/太田垣至復元)
J.ブロードウッド&サンズのスクエアピアノ:1814年/太田垣至修復)
モダンピアノ(スタインウェイ)
【奏者】
●川口成彦
○ヴィアチェスラフ・シェレポフ
◎連弾
ピアニストは、目下、大活躍中の川口成彦さん。その川口さんと同世代で、ブルージュ国際古楽コンクールやローマ・フォルテピアノ国際コンクールなどで最高位を受賞しているヴィアチェスラフ・シェレポフさんとのデュオ。シェレポフさんは初来日。
連弾というのは、とても家庭的。ふたりの奏者が体を寄せ合ってひとつの鍵盤に向き合って弾く光景はとても微笑ましい。最初に演奏されたのは、モーツァルトの「4手のためのソナタ」。使用楽器は、1814年製のスクエアピアノ。だからより家庭的な雰囲気でいっぱい。
続けて、川口の独奏でヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのソナタ。使用楽器は、ウィーンで活躍した製作者アントン・ヴァルターの1795年頃のピアノの復元楽器。いかにもウィーンの古典派前期を思わせる雅でロマンチックな音色です。
ここからは、モダンピアノでの演奏が続きます。
先ずは川口のソロで、モンポウ。続いては、連弾でロドリーゴ。スペイン好きを自認する川口らしい選曲ですが、モンポウの「子供の情景」には家庭愛とか親密なくつろぎの中に、どこかまがまがしい暗部が隠されているのは、第一次世界大戦の陰を落としているからでしょうか。一方のロドリーゴには、この作曲家独自の哀愁が漂う素晴らしい連弾曲でした。
休憩をはさんで、シェレポフの独奏で、グリンカ。
これがこの日の白眉だったかな。シェレポフさんはモダンピアノの大変な名手。そのせいなのか、調律が良かったのか、このスタインウェイが素晴らしい音色でした。特に低域が重く、しかも、少しも滲むことなく強く沈むように長く響く。いかにもロシア。フォルテピアノと聴き合わせることで、かえって、モダンピアノの良さも浮かび上がってくる。ロドリーゴもグリンカも、もっとピアノ曲を聴いてみたいと思いました。
続いては、土臭いロマンスがたっぷりのドゥシークを川口が弾く。ヴァルターのフォルテピアノの音色も相まってウィーン情緒たっぷりです。そしてクレメンティの4手のソナタから、シューベルトの幻想曲D940と素晴らしい音楽史の流れです。
アンコールでは、再びスクエアピアノでの連弾でモーツァルト。今度は、上蓋を閉じての変奏。家庭用だったからアップライトと同様に蓋を閉じるのが通常。音量は小さくなるけど、不思議なことに音の粒立ちが明瞭でより繊細な感じがします。ヴァルターのフォルテピアノとの個性の対比がより際立って浮かび上がってきます。
3台のピアノを弾き分けてのソロや連弾。18~19世紀に急激な進化を遂げたピアノは、いかにも近代工業技術がもたらした楽器のようであって、ひとつも同じ楽器がない。決して規格品なんかじゃない。そういう楽器の個性の豊かさを俯瞰できる素晴らしく楽しい一夜でした。
川口成彦 & V.シェレポフ 不滅のフォルテピアノ
2024年7月29日(月) 19:00
東京・北区王子 北とぴあ さくらホール
(1階 L列 21番)
フォルテピアノ/ピアノ 独奏・連弾:
川口成彦
ヴィアチェスラフ・シェレポフ
◎モーツァルト:4手のためのソナタ 変ロ長調 K.358
○W. F. バッハ:ラメント(『ソナタ F.7』より) ソナタ ホ短調 BR A9
●モンポウ:子供の情景
◎ロドリーゴ:黄昏
○グリンカ:舟歌
アリャビエフの歌曲「ナイチンゲール」の主題による変奏曲
●ドゥシーク:「ロスライン城」の主題による変奏曲
◎クレメンティ:4手のためのソナタ ハ長調 op.6-1
◎シューベルト:幻想曲 ヘ短調 D940
(アンコール)
モーツァルト:メヌエット K.15
4手のためのソナタ 変ロ長調 K.358より 第3楽章
【使用楽器】
フォルテピアノ(A.ヴァルター:1795年頃/太田垣至復元)
J.ブロードウッド&サンズのスクエアピアノ:1814年/太田垣至修復)
モダンピアノ(スタインウェイ)
【奏者】
●川口成彦
○ヴィアチェスラフ・シェレポフ
◎連弾
倚松庵 [旅日記]
倚松庵は、文豪谷崎潤一郎の旧居。
庵号は、谷崎夫人の松子にちなむ。石銘碑は、松子夫人の揮毫による。
ここで名作「細雪」が執筆された。……というよりも、その舞台そのもの。
家主の後藤靱雄は関西学院のサッカー選手。父がベルギー人で背が高くハンサムだったらしい。和風木造建築なのに、天井が高く暖炉がある洋間などはモダンな雰囲気があります。
松子夫人は、後年、「細雪」をまるで日記のようだと言ったそうです。ここで起こったことそのものが仔細に描写されている。小説は、大阪船場の旧家の四人姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子の物語。第二次世界大戦前の、崩壊寸前の阪神間モダニズム時代を背景に大阪(船場)文化の崩壊を描く。三島由紀夫も絶賛した《滅びの美》の世界。
その幸子が松子夫人。その松子夫人には、重子、信子の二人の妹がいてずっと姉と同居。松子が谷崎と再婚してもずっと同じ家に同居していたという。「細雪」が、この姉妹がこの倚松庵で過ごした日常をそのまま映した『日記』だという由縁です。
小説が、ほんとうに日常そのものだったのかは証明できませんが、この倚松庵の造りや間取りは、まさに小説で描かれた寓居の通りであることに驚かされます。谷崎は、実際は四畳半の一階の日本間を『六畳の……」としたりしていて、少し膨らませている。訪問当初に意外につつましい家だという印象を持つのはそのせいかもしれません。それでも、小説で描かれる具体的な導線や叙景が見事なまでに一致するのです。
映画(1983)で、古手川祐子が姉の吉永小百合の足の爪を切っている場面が、1階の四畳半。廊下を隔てて風呂場があって湯上がりの涼みや着替えによく使われたとのこと。対照的な性格の二人が内面では結びついていることを象徴するような部屋。縁側があって庭木の緑が濃くそういうふたりの姉妹の睦まじさとくつろぎを映し出しています。
あまりに映画のセットが見事な写実なので、監督の市川崑に、この庵を尋ねたことがあるのかと聞いそうです。その返事は「一度もない」との意外なもの。それほどに、市川は原作を読み込み、その谷崎の叙述は、現実を精確に描写していたということになります。
この日は猛暑でしたので、上記のような説明はすべてクーラーが効いている一階の洋間(谷崎が描いた『食堂と応接間と二た間つづきになった部屋』)で行われました。
その説明はとても絶妙なもので、並みの案内をはるかに超える内容の濃いもの。妙齢の女性の口舌はとても心地よく、(僭越ながら)これはただの案内係ではないなと……。あとで知ったことですが、武庫川女子大学名誉教授のたつみ都志さん。
倚松庵は、もともとは、いまの場所より150メートルほど南にあったそうです。1985年六甲ライナー開通時に、取り壊しになる予定であったのを、付近の住民と保存運動を行い、ようやく市が動いて移設保存が実現したもの。たつみさんはその市民運動のリーダーでもあったようです。
見学は、予約制。グループは10名ほどでしたが、私たちともう一組の老夫婦以外はみな若い人たちばかりでした。高校生のグループもうっすらと汗をかきながら熱心に説明に聞き入る。
印象的だったのは、ひとりの二十歳そこそこの中国人留学生の青年。
たつみさんとは既知の間柄のようで、見学が終わったあとも熱心なやりとりをつづけていました。漏れ聞こえてきた会話は、日本語の助詞の使い方。「が」が主語を示す格助詞ばかりではなく、古語的用法で《体言の代用》として用いられることもあるということ。中国人青年が「ああ、そういうことだったんですね。それでわかりました。」と、汗だらけの額を上下に揺らしての喜色満面の笑顔がとても印象に残りました。
谷崎文学の普遍性を強烈に印象づける建物ツアーになりました。
庵号は、谷崎夫人の松子にちなむ。石銘碑は、松子夫人の揮毫による。
ここで名作「細雪」が執筆された。……というよりも、その舞台そのもの。
家主の後藤靱雄は関西学院のサッカー選手。父がベルギー人で背が高くハンサムだったらしい。和風木造建築なのに、天井が高く暖炉がある洋間などはモダンな雰囲気があります。
松子夫人は、後年、「細雪」をまるで日記のようだと言ったそうです。ここで起こったことそのものが仔細に描写されている。小説は、大阪船場の旧家の四人姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子の物語。第二次世界大戦前の、崩壊寸前の阪神間モダニズム時代を背景に大阪(船場)文化の崩壊を描く。三島由紀夫も絶賛した《滅びの美》の世界。
その幸子が松子夫人。その松子夫人には、重子、信子の二人の妹がいてずっと姉と同居。松子が谷崎と再婚してもずっと同じ家に同居していたという。「細雪」が、この姉妹がこの倚松庵で過ごした日常をそのまま映した『日記』だという由縁です。
小説が、ほんとうに日常そのものだったのかは証明できませんが、この倚松庵の造りや間取りは、まさに小説で描かれた寓居の通りであることに驚かされます。谷崎は、実際は四畳半の一階の日本間を『六畳の……」としたりしていて、少し膨らませている。訪問当初に意外につつましい家だという印象を持つのはそのせいかもしれません。それでも、小説で描かれる具体的な導線や叙景が見事なまでに一致するのです。
映画(1983)で、古手川祐子が姉の吉永小百合の足の爪を切っている場面が、1階の四畳半。廊下を隔てて風呂場があって湯上がりの涼みや着替えによく使われたとのこと。対照的な性格の二人が内面では結びついていることを象徴するような部屋。縁側があって庭木の緑が濃くそういうふたりの姉妹の睦まじさとくつろぎを映し出しています。
あまりに映画のセットが見事な写実なので、監督の市川崑に、この庵を尋ねたことがあるのかと聞いそうです。その返事は「一度もない」との意外なもの。それほどに、市川は原作を読み込み、その谷崎の叙述は、現実を精確に描写していたということになります。
この日は猛暑でしたので、上記のような説明はすべてクーラーが効いている一階の洋間(谷崎が描いた『食堂と応接間と二た間つづきになった部屋』)で行われました。
その説明はとても絶妙なもので、並みの案内をはるかに超える内容の濃いもの。妙齢の女性の口舌はとても心地よく、(僭越ながら)これはただの案内係ではないなと……。あとで知ったことですが、武庫川女子大学名誉教授のたつみ都志さん。
倚松庵は、もともとは、いまの場所より150メートルほど南にあったそうです。1985年六甲ライナー開通時に、取り壊しになる予定であったのを、付近の住民と保存運動を行い、ようやく市が動いて移設保存が実現したもの。たつみさんはその市民運動のリーダーでもあったようです。
見学は、予約制。グループは10名ほどでしたが、私たちともう一組の老夫婦以外はみな若い人たちばかりでした。高校生のグループもうっすらと汗をかきながら熱心に説明に聞き入る。
印象的だったのは、ひとりの二十歳そこそこの中国人留学生の青年。
たつみさんとは既知の間柄のようで、見学が終わったあとも熱心なやりとりをつづけていました。漏れ聞こえてきた会話は、日本語の助詞の使い方。「が」が主語を示す格助詞ばかりではなく、古語的用法で《体言の代用》として用いられることもあるということ。中国人青年が「ああ、そういうことだったんですね。それでわかりました。」と、汗だらけの額を上下に揺らしての喜色満面の笑顔がとても印象に残りました。
谷崎文学の普遍性を強烈に印象づける建物ツアーになりました。
タグ:京阪神旅行
ダイレクト・カット盤の再生 [オーディオ]
秋葉原アムトランスでの新忠篤氏ミニコンサート。
今回のテーマは、ダイレクト・カット盤の再生。
ダイレクト・カットとは、磁気テープを介さずに直接、収録現場でラインミックスしたものをそのままカッティングマシンでラッカー盤をカットするというもの。
今回再生されたのは7枚。いずれも凄い音がした。
01 日本のキンテート・レアル VOL.1
02 ロイ・エヤーズ・クァルテット
03 ザ・スリー
04 ダイレクト・フロム・クリーヴランド
05 アーサー・フィードラー・アンド・ボストン・ポップス
06 ワーグナー、エーリッヒ・ラインスドルフ指揮ロス・アンゼルス・フィル
07 テルマ・ヒューストンとプレッシャー・クッカー
先鞭をつけたのは日本コロンビアだったそうだ。01はその第一弾。来日して連夜のショーで人気を博していたタンゴ演奏グループに声をかけたところ快諾。深夜のスタジオで収録。恐ろしいほどのリアルさと、眼前で生の音を浴びるようなエネルギーで、文字通りダイレクトな音がする。45回転だからなおのこと。
02は、やはり来日したハービー・マンのクィンテットに声をかけたら即座にOK。ただしハービー・マンはアトランティックとの契約の縛りがあって参加できない。言ってみればマン抜きの、ハービー・マン・クァルテット。こちらも45回転。
03は、1974年に設立された日本のジャズ・レーベル。設立者は伊藤八十八。LAに遠征して収録。ラッカー盤をそのまま日本に持ち帰ったのだとか。クルセイダーズのジョー・サンプルが、レイ・ブラウン、シェリー・マンと組んだ豪華な顔ぶれのスペシャル・セッション。
ダイレクト・カットはやがて米国レーベルへと波及する。
04は、世界初のクラシックのダイレクト・カットと銘打ってテラークが手がけたもの。後のテラークのワンポイント的な音場感は皆無で、ちょっとのけぞってしまうような近接感。あからさまなハイ上がりにむせかえる。……と、思ったその瞬間、新さんの手が伸びる。
新さん設計・自作のフォノイコライザーアンプはEQ可変式。SPを聴くためにあらゆるEQカーブに対応できる。切り換え式ではなくて、ターンオフ/ロールオーバーをそれぞれ連続可変で調節できるのでトーンンコントロールのようにも使える。ステレオレコードを、ffrrだ、ColumbiaだというRIAA否定派とRIAA統一派との不毛な論争の双方をあっという間に黙らせてしまうような新さんの瞬間技に感じ入ってしまう。このアンプは、21世紀の真空管ユニットで組んであって、しかもバッテリー駆動。
こうしたダイレクト・カットは、簡単に再生できるわけではない。なかなかダイレクト盤らしい本領を発揮するのは実は難しい。そのことは実体験で知っているつもり。今回の再生のカギは、カートリッジ。
使用されたのは、クラング・クンストの10A。
ラッカーマスターのカッティング状態チェック用に開発されたもの。いかにもダイレクト再生にふさわしいが、そんじょそこらのカートリッジではない。その秘密は、コイルが、カンチレバーを介さずスタイラス真上に直接ついている。最近、フィデリックスが新開発したMC-F1000やオーディオテクニカがモデルチェンジしたART1000Xのいわば本家本元。
セッティングもかなり難しそうでなかなか素人にできることではないようだ。
推奨針圧は最大5.5gだそうだが、それを7gまでかけている。もっとかけたいところだそうだが盤を痛めかねないのでこれが限界なんだとか。バイブやピアノ、あるいは06のようなクラシックのフルオーケストラの大音量でもびくともしない。とびきりの安定度に驚いてしまう。大針圧のせいか盤によってはハイハットやパーカッションの高域がちょっと粗っぽいところがあるが、その広帯域、広ダイナミックレンジには腰が抜けるほど。アナログとは思えないが、その音にはデジタルには感じられないリアルな音の振動感覚がある。電気吹き込み以前のSPレコードは、すなわちダイレクト・カットだったので、どんなにレンジが狭かろうが、サーフィスノイズがあろうが、その魅力はこの音感覚がある。いわばアナログの魅力の根源のようなもの。
「爆音でどうもすみませんでした。」と新さんもしってやったりとご満悦のようで満面の笑顔です。
ダイレクト・カッティング盤は、けっこう沢山発売された。最近ではアナログ復権の潮流にのって21世紀のダイレクト・カットと称してキングレコードもチャレンジしているようだ。
ただし、ダイレクト・カッティング盤をそのままプラッターに載せて針を落とせばたちどころに別世界……というものではない。セッティングの完成度が試される。けっこうチャレンジングなものだと思う。こんなサウンドを聴かされると、なおのことそう思いました。
使用機材
カートリッジ Klang Kunst 10A
フォノイコライザー KORG Nutube使用連続可変型フォノイコライザー
アンプ ELEKIT TU-8900
スピーカー GIP Monitor 1
今回のテーマは、ダイレクト・カット盤の再生。
ダイレクト・カットとは、磁気テープを介さずに直接、収録現場でラインミックスしたものをそのままカッティングマシンでラッカー盤をカットするというもの。
今回再生されたのは7枚。いずれも凄い音がした。
01 日本のキンテート・レアル VOL.1
02 ロイ・エヤーズ・クァルテット
03 ザ・スリー
04 ダイレクト・フロム・クリーヴランド
05 アーサー・フィードラー・アンド・ボストン・ポップス
06 ワーグナー、エーリッヒ・ラインスドルフ指揮ロス・アンゼルス・フィル
07 テルマ・ヒューストンとプレッシャー・クッカー
先鞭をつけたのは日本コロンビアだったそうだ。01はその第一弾。来日して連夜のショーで人気を博していたタンゴ演奏グループに声をかけたところ快諾。深夜のスタジオで収録。恐ろしいほどのリアルさと、眼前で生の音を浴びるようなエネルギーで、文字通りダイレクトな音がする。45回転だからなおのこと。
02は、やはり来日したハービー・マンのクィンテットに声をかけたら即座にOK。ただしハービー・マンはアトランティックとの契約の縛りがあって参加できない。言ってみればマン抜きの、ハービー・マン・クァルテット。こちらも45回転。
03は、1974年に設立された日本のジャズ・レーベル。設立者は伊藤八十八。LAに遠征して収録。ラッカー盤をそのまま日本に持ち帰ったのだとか。クルセイダーズのジョー・サンプルが、レイ・ブラウン、シェリー・マンと組んだ豪華な顔ぶれのスペシャル・セッション。
ダイレクト・カットはやがて米国レーベルへと波及する。
04は、世界初のクラシックのダイレクト・カットと銘打ってテラークが手がけたもの。後のテラークのワンポイント的な音場感は皆無で、ちょっとのけぞってしまうような近接感。あからさまなハイ上がりにむせかえる。……と、思ったその瞬間、新さんの手が伸びる。
新さん設計・自作のフォノイコライザーアンプはEQ可変式。SPを聴くためにあらゆるEQカーブに対応できる。切り換え式ではなくて、ターンオフ/ロールオーバーをそれぞれ連続可変で調節できるのでトーンンコントロールのようにも使える。ステレオレコードを、ffrrだ、ColumbiaだというRIAA否定派とRIAA統一派との不毛な論争の双方をあっという間に黙らせてしまうような新さんの瞬間技に感じ入ってしまう。このアンプは、21世紀の真空管ユニットで組んであって、しかもバッテリー駆動。
こうしたダイレクト・カットは、簡単に再生できるわけではない。なかなかダイレクト盤らしい本領を発揮するのは実は難しい。そのことは実体験で知っているつもり。今回の再生のカギは、カートリッジ。
使用されたのは、クラング・クンストの10A。
ラッカーマスターのカッティング状態チェック用に開発されたもの。いかにもダイレクト再生にふさわしいが、そんじょそこらのカートリッジではない。その秘密は、コイルが、カンチレバーを介さずスタイラス真上に直接ついている。最近、フィデリックスが新開発したMC-F1000やオーディオテクニカがモデルチェンジしたART1000Xのいわば本家本元。
セッティングもかなり難しそうでなかなか素人にできることではないようだ。
推奨針圧は最大5.5gだそうだが、それを7gまでかけている。もっとかけたいところだそうだが盤を痛めかねないのでこれが限界なんだとか。バイブやピアノ、あるいは06のようなクラシックのフルオーケストラの大音量でもびくともしない。とびきりの安定度に驚いてしまう。大針圧のせいか盤によってはハイハットやパーカッションの高域がちょっと粗っぽいところがあるが、その広帯域、広ダイナミックレンジには腰が抜けるほど。アナログとは思えないが、その音にはデジタルには感じられないリアルな音の振動感覚がある。電気吹き込み以前のSPレコードは、すなわちダイレクト・カットだったので、どんなにレンジが狭かろうが、サーフィスノイズがあろうが、その魅力はこの音感覚がある。いわばアナログの魅力の根源のようなもの。
「爆音でどうもすみませんでした。」と新さんもしってやったりとご満悦のようで満面の笑顔です。
ダイレクト・カッティング盤は、けっこう沢山発売された。最近ではアナログ復権の潮流にのって21世紀のダイレクト・カットと称してキングレコードもチャレンジしているようだ。
ただし、ダイレクト・カッティング盤をそのままプラッターに載せて針を落とせばたちどころに別世界……というものではない。セッティングの完成度が試される。けっこうチャレンジングなものだと思う。こんなサウンドを聴かされると、なおのことそう思いました。
使用機材
カートリッジ Klang Kunst 10A
フォノイコライザー KORG Nutube使用連続可変型フォノイコライザー
アンプ ELEKIT TU-8900
スピーカー GIP Monitor 1
若き巫女の降臨 (平野友葵-ヴァイオリン) [コンサート]
若手演奏家を紹介する紀尾井ホール「明日への扉」シリーズ。新進気鋭の演奏家の登竜門として、これまでも数々の大型新人を送り出してきました。
今回の平野友葵さんは、この春に二十歳になったばかり。桐朋学園大学を経て、昨秋にウィーンに留学したばかり。この「明日への扉」がデビュー・リサイタルだそうです。
平野さんは、その意味で本当に手つかずの新人なのに、その手が開けた扉はとびきり大きな扉だったという気がします。
最初のグリーグで目が醒める思いがしました。こんなにも激情的で輝かしいまでにはちきれんばかりの情感が放出される爆発的なロマンチックな演奏は初めて。グリーグ晩年の傑作ですが、こうした熱い血潮、情感は、あまり私のなかのグリーグのイメージにはありませんでした。その意外性に聴いていてちょっと戸惑うほどの、太陽系のど真ん中のような堂々たる熱い演奏。
ショーソンにも同じような戸惑い、不思議さがつきまといます。こんなにも遅いテンポでこの曲を弾かれてしまうものなのだろうかという疑問。それがずっと堂々と押し通されて、聴いていてもどんどんと引き込まれていってしまいます。
休憩後のバッハでも、その不思議さは変わりません。バッハの無伴奏といえば厳然とした譜面テキストがあって、それに対峙することで霊感を得るものだと思っていたのですが、平野さんには譜面がない。あるいは今までの巨匠達の系譜のような規範が感じられない。あるのは彼女の生身の音楽があってそれが湧き出るようにバッハの音楽を紡いでいる。
例えば、フーガ。バッハの厳格な様式感があってこそのフーガと思えるのですが、一見それとは無縁のヴァイオリンの音色と弦や胴の響きが変幻自在に流れていく夢幻の音楽。ダブルストップやアルペッジョ、スケールといった巧緻な技術に長大なスラーがかけられていて目がクラクラするような思いがします。本当に譜面通りに弾いているのだろうかという不思議さがどうしてもつきまとうほど。
シマノフスキのソナタは若い頃の作品。それがかえってプログラムの中核にあったとさえ思えるように、それまでずっと感じていた《不思議》が氷解していくような気がします。平野さんのヴァイオリンは、すなわちウィーンという中央ヨーロッパの音楽の中心で、二十歳の今まさに日々発見し学んでいる音楽世界。それをとんでもない速度で吸収し消化し肉体化したうえで、爆発的な霊感エネルギーで放出している。
そのウィーン風の精妙な弓遣いによる節回しを遺憾なく発揮したのが、最後のツィガーヌ。ラヴェルが、ハンガリー出身のヴァイオリニスト、イェリー・ダラーニに一晩中取り憑かれたように演奏させ続けて霊感を得た音楽だというエピソードを彷彿とさせます。新人らしい技術の高さを披瀝させる定番なのに、アクロバティックな技巧は聴く者の視界から消えていて、ひたすら彼女の生身の音楽だけがある。
それは、まさに若い巫女の降臨。
平野さんが、これからどのような活躍をするのかは想像もつきません。でも、もしかしたら、これは歴史的なデビューリサイタルだったのかも。そういう予感でいっぱいです。
紀尾井 明日への扉40
平野友葵(ヴァイオリン)
2024年7月18日(木) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階 18列11番)
平野友葵(ヴァイオリン)
開原由紀乃(ピアノ)
グリーグ:ヴァイオリン・ソナタ第3番ハ短調 op.45
ショーソン:詩曲 op.25
バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調 BWV1001
シマノフスキ:ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 op.9
ラヴェル:ツィガーヌ
(アンコール)
クライスラー:ウィーン風小行進曲
今回の平野友葵さんは、この春に二十歳になったばかり。桐朋学園大学を経て、昨秋にウィーンに留学したばかり。この「明日への扉」がデビュー・リサイタルだそうです。
平野さんは、その意味で本当に手つかずの新人なのに、その手が開けた扉はとびきり大きな扉だったという気がします。
最初のグリーグで目が醒める思いがしました。こんなにも激情的で輝かしいまでにはちきれんばかりの情感が放出される爆発的なロマンチックな演奏は初めて。グリーグ晩年の傑作ですが、こうした熱い血潮、情感は、あまり私のなかのグリーグのイメージにはありませんでした。その意外性に聴いていてちょっと戸惑うほどの、太陽系のど真ん中のような堂々たる熱い演奏。
ショーソンにも同じような戸惑い、不思議さがつきまといます。こんなにも遅いテンポでこの曲を弾かれてしまうものなのだろうかという疑問。それがずっと堂々と押し通されて、聴いていてもどんどんと引き込まれていってしまいます。
休憩後のバッハでも、その不思議さは変わりません。バッハの無伴奏といえば厳然とした譜面テキストがあって、それに対峙することで霊感を得るものだと思っていたのですが、平野さんには譜面がない。あるいは今までの巨匠達の系譜のような規範が感じられない。あるのは彼女の生身の音楽があってそれが湧き出るようにバッハの音楽を紡いでいる。
例えば、フーガ。バッハの厳格な様式感があってこそのフーガと思えるのですが、一見それとは無縁のヴァイオリンの音色と弦や胴の響きが変幻自在に流れていく夢幻の音楽。ダブルストップやアルペッジョ、スケールといった巧緻な技術に長大なスラーがかけられていて目がクラクラするような思いがします。本当に譜面通りに弾いているのだろうかという不思議さがどうしてもつきまとうほど。
シマノフスキのソナタは若い頃の作品。それがかえってプログラムの中核にあったとさえ思えるように、それまでずっと感じていた《不思議》が氷解していくような気がします。平野さんのヴァイオリンは、すなわちウィーンという中央ヨーロッパの音楽の中心で、二十歳の今まさに日々発見し学んでいる音楽世界。それをとんでもない速度で吸収し消化し肉体化したうえで、爆発的な霊感エネルギーで放出している。
そのウィーン風の精妙な弓遣いによる節回しを遺憾なく発揮したのが、最後のツィガーヌ。ラヴェルが、ハンガリー出身のヴァイオリニスト、イェリー・ダラーニに一晩中取り憑かれたように演奏させ続けて霊感を得た音楽だというエピソードを彷彿とさせます。新人らしい技術の高さを披瀝させる定番なのに、アクロバティックな技巧は聴く者の視界から消えていて、ひたすら彼女の生身の音楽だけがある。
それは、まさに若い巫女の降臨。
平野さんが、これからどのような活躍をするのかは想像もつきません。でも、もしかしたら、これは歴史的なデビューリサイタルだったのかも。そういう予感でいっぱいです。
紀尾井 明日への扉40
平野友葵(ヴァイオリン)
2024年7月18日(木) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階 18列11番)
平野友葵(ヴァイオリン)
開原由紀乃(ピアノ)
グリーグ:ヴァイオリン・ソナタ第3番ハ短調 op.45
ショーソン:詩曲 op.25
バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調 BWV1001
シマノフスキ:ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 op.9
ラヴェル:ツィガーヌ
(アンコール)
クライスラー:ウィーン風小行進曲
「氷の世界」井上陽水は透けたほうがよい? [オーディオ]
「氷の世界」井上陽水。
実は、ポリドール・プレス盤とビクター・プレス盤があって、しかも、ビクター・プレス盤が良い音だという指摘に目からウロコ。
ビクター・プレス盤の見分け方は、レコードが透けて見えるかどうかなのだそうだ。
私は、マトリックスやらプレス・マークなどというものはよくわからない。だから、見分け方が透ける透けないと言われればもはやそれを信じるしかない。
それにしても、所蔵の「氷の世界」は、リアルタイムで買い求めたもの。それがOMEだなんてはずは無い。もともとこのディスクは素晴らしい音で悦に入っていたもの。オフ会などでもこれ見よがしにかけたこともある。
久しぶりにかけてみて、絶好調!
LEDライトで試してみた。
なんと透ける!
ためしにドイツ・グラモフォン国内盤をかたっぱしから取り出して試してみた。
透けない!
陽水のひとつ前のアルバム「センチメンタル」は……透けない!
ポリドール内製とビクターでは音が断然違うというコメントは、クラシックのドイツ・グラモフォン国内盤を聴く限り信じられないが、わざわざ音が悪いという内製盤を探して聴く気にもなれないから、本当かどうかはわからない。
音が良いことではこちらも随一とも思っている「あおぞら」岩崎宏美もかけてみた。
こちらも透ける!まあ、ビクターレーベルなんだから当たり前か。
実は、ポリドール・プレス盤とビクター・プレス盤があって、しかも、ビクター・プレス盤が良い音だという指摘に目からウロコ。
ビクター・プレス盤の見分け方は、レコードが透けて見えるかどうかなのだそうだ。
私は、マトリックスやらプレス・マークなどというものはよくわからない。だから、見分け方が透ける透けないと言われればもはやそれを信じるしかない。
それにしても、所蔵の「氷の世界」は、リアルタイムで買い求めたもの。それがOMEだなんてはずは無い。もともとこのディスクは素晴らしい音で悦に入っていたもの。オフ会などでもこれ見よがしにかけたこともある。
久しぶりにかけてみて、絶好調!
LEDライトで試してみた。
なんと透ける!
ためしにドイツ・グラモフォン国内盤をかたっぱしから取り出して試してみた。
透けない!
陽水のひとつ前のアルバム「センチメンタル」は……透けない!
ポリドール内製とビクターでは音が断然違うというコメントは、クラシックのドイツ・グラモフォン国内盤を聴く限り信じられないが、わざわざ音が悪いという内製盤を探して聴く気にもなれないから、本当かどうかはわからない。
音が良いことではこちらも随一とも思っている「あおぞら」岩崎宏美もかけてみた。
こちらも透ける!まあ、ビクターレーベルなんだから当たり前か。
途切れない才能 (山中惇史-名曲リサイタル・サロン) [コンサート]
この日は、ピアノリサイタルとはいいながら、ひとつもピアノ曲がない。
というのも、全てピアノ以外の楽器のために作曲された曲を、ピアノ用に編曲したもの。いわゆる〈トランスクリプション〉。
最初にヘンデル。〈アフェットゥーソ〉はヴァイオリン・ソナタが原曲ですが、2曲目の〈パッサカリア〉は、もともとはチェンバロ曲なのでそのまま弾いているのかと思いきや、始めにごく短い序奏がついている。だから、これはどちらかといえば〈トランスクリプション〉というより〈アレンジ〉に近いのかな。
山中さんは、1990年生まれ。CDソロ・デビューは昨年だそうだから、すでに三十代半ばの遅いデビュー。もともとは作曲科の出身でマルチタレント。作曲/編曲、音楽プロデュースとすでにいろいろ活躍していて、ピアノ演奏が本業だとは限らない。名曲リサイタル・サロンのシリーズでも、異色の才能の登場です。
写真は、ご覧の通りなかなかのイケメン。ところが、登場したらちょっとヘアスタイルが変わっていて、ちょっとチャラ男風で軽い。トークも面白くて、とにかく話題が豊富。カッコイイというよりとても親しみが持てるお兄ちゃんという感じ。
ヘンデルとの出会いのエピソード、バッハ/ブゾーニ〈シャコンヌ〉の感動……などなどを、延々と雄弁に語って止むことがない。面白かったのは、この名曲リサイタル・サロン恒例の〈食べ物〉質問。料理への興味は本格的だそうで、その縁からあの平野レミさんのイベントに参加。それをきっかけに平野(和田)家とは家族ぐるみのお付き合い。毎月29日(「ニクの日」)には肉料理のご馳走をご一緒するのだとか。
演奏も、ごくごく弱音の序奏から、最後の残音を長く響かせるロングトーンまでずっと途切れることがない。
感心したのは、ナビゲーターの八塩さん。山中さんの話しを決して遮らず、ぎりぎりの時間をマネージしてしまう。本当に聞き上手で賢い女性だと改めて感心してしまいました。
時間超過にもかかわらず、アンコール。この〈子犬のワルツパラフレーズ〉が山中さんの本領――途切れない才能――を、一番よく表徴していたという気がします。
芸劇ブランチコンサート
名曲リサイタル・サロン
第31回 山中惇史
2024年7月17日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階K列22番)
山中惇史 (ピアノ)
八塩圭子(ナビゲーター)
《ピアノ・トランスクリプションの魔法》
ヘンデル〈山中惇史編〉:アフェットゥーソ
ヘンデル:パッサカリア ト短調
J.S.バッハ〈山中惇史編〉:ラルゴ(無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番より)
J.S.バッハ〈ブゾーニ編〉:シャコンヌ
ショパン〈バックハウス編〉:ロマンス(ピアノ協奏曲第1番より)
山中惇史:わらべうたによるパラフレーズ
(アンコール)
山中惇史:ショパン/子犬のワルツによるパラフレーズ
というのも、全てピアノ以外の楽器のために作曲された曲を、ピアノ用に編曲したもの。いわゆる〈トランスクリプション〉。
最初にヘンデル。〈アフェットゥーソ〉はヴァイオリン・ソナタが原曲ですが、2曲目の〈パッサカリア〉は、もともとはチェンバロ曲なのでそのまま弾いているのかと思いきや、始めにごく短い序奏がついている。だから、これはどちらかといえば〈トランスクリプション〉というより〈アレンジ〉に近いのかな。
山中さんは、1990年生まれ。CDソロ・デビューは昨年だそうだから、すでに三十代半ばの遅いデビュー。もともとは作曲科の出身でマルチタレント。作曲/編曲、音楽プロデュースとすでにいろいろ活躍していて、ピアノ演奏が本業だとは限らない。名曲リサイタル・サロンのシリーズでも、異色の才能の登場です。
写真は、ご覧の通りなかなかのイケメン。ところが、登場したらちょっとヘアスタイルが変わっていて、ちょっとチャラ男風で軽い。トークも面白くて、とにかく話題が豊富。カッコイイというよりとても親しみが持てるお兄ちゃんという感じ。
ヘンデルとの出会いのエピソード、バッハ/ブゾーニ〈シャコンヌ〉の感動……などなどを、延々と雄弁に語って止むことがない。面白かったのは、この名曲リサイタル・サロン恒例の〈食べ物〉質問。料理への興味は本格的だそうで、その縁からあの平野レミさんのイベントに参加。それをきっかけに平野(和田)家とは家族ぐるみのお付き合い。毎月29日(「ニクの日」)には肉料理のご馳走をご一緒するのだとか。
演奏も、ごくごく弱音の序奏から、最後の残音を長く響かせるロングトーンまでずっと途切れることがない。
感心したのは、ナビゲーターの八塩さん。山中さんの話しを決して遮らず、ぎりぎりの時間をマネージしてしまう。本当に聞き上手で賢い女性だと改めて感心してしまいました。
時間超過にもかかわらず、アンコール。この〈子犬のワルツパラフレーズ〉が山中さんの本領――途切れない才能――を、一番よく表徴していたという気がします。
芸劇ブランチコンサート
名曲リサイタル・サロン
第31回 山中惇史
2024年7月17日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階K列22番)
山中惇史 (ピアノ)
八塩圭子(ナビゲーター)
《ピアノ・トランスクリプションの魔法》
ヘンデル〈山中惇史編〉:アフェットゥーソ
ヘンデル:パッサカリア ト短調
J.S.バッハ〈山中惇史編〉:ラルゴ(無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番より)
J.S.バッハ〈ブゾーニ編〉:シャコンヌ
ショパン〈バックハウス編〉:ロマンス(ピアノ協奏曲第1番より)
山中惇史:わらべうたによるパラフレーズ
(アンコール)
山中惇史:ショパン/子犬のワルツによるパラフレーズ
「戦国日本の生態系」(高木 久史 著)読了 [読書]
「生態系(エコシステム)」などという表題から、環境考古学など生物学、地質学などの自然科学的分析成果を取り込んだ、学際的な近世史研究かと思ったが、実のところは、純然たる文献史学。それは文字記録をもとに史実を復元しようという、歴史研究の王道なのだが、本書の視点は大きく異にする。
歴史というのは、いわゆる「英雄達の選択」的な支配層の足跡になりがち。本書は、地方に埋もれがちだった徴税記録や訴状や判物(はんもつ)などを丹念に読み解き、地域経済の成り立ちを再構成し、庶民の生業を浮かび上がらせようという試み。
対象は、越前の最西部、越前岬から若狭湾に接するごく狭い地域。丹生山地の山腹急斜面が直接日本海に臨む地形で、海食崖が連なる景勝地として知られる。豊かな海と森深い山が近接した狭小地であり、本街道からはずれた僻地。同時に、敦賀という近江、京につながる集散地の背後地でもあった。
ここで再現される近世の姿は、従来の米作中心の経済とはまるで違う。庶民の生業は、稲作ばかりではなく雑穀類など農作物は多様で、塩業、漁労、森林伐採、ススキなど茅材の栽培などの一次産業から陶芸、漆工芸など二次産業へと多岐にわたる。兼業、副業、分業も進んでいた。米作中心主義がともすれば決めつけがちな「農閑期」のイメージとはおよそ様相が違う。例えば陶芸といっても、当初はすり鉢など生活必需品が主だったが、燃料木材に恵まれたこの地域は、江戸初期には亙の生産も盛んになる。南加賀の赤瓦(技術的ルーツは島根の石州亙)は、この地方で盛んに作られて茅葺きを置き換えていく。
戦国武将や織豊期大名などの支配層の徴税徴用も多品目、多種多様で決して年貢米一辺倒ではない。近世の地域経済は、一定の自由経済圏を持ち、決して時給自足ではなかった。そこにはそうした多様な生業を営む庶民と支配権力との間に絶妙な駆け引きがあって、独占権などの特権の安堵とその反対給付としての貢納と労務や運輸などのサービスの提供があったという。庶民はなかなかしたたかだったというわけだ。
文献史学といえども、資料のスポットライトのあて方、地道な解読で歴史を見る目がこうも変わるとは……と目からウロコ。
難をいえば、文章がいささか冗長なこと。しかも、学術的な堅苦しさを避けようとするあまり慣れないキャッチーな言葉遣いで格好をつけたがる。表題の「生態系(エコシステム)」がそのことを象徴している。また、歴史のマクロ的なダイナミックスに欠ける印象があるのは、歴史的な時系列が整理されていないからだろう。
戦国日本の生態系
庶民の生存戦略を復元する
高木 久史 (著)
講談社選書メチエ
歴史というのは、いわゆる「英雄達の選択」的な支配層の足跡になりがち。本書は、地方に埋もれがちだった徴税記録や訴状や判物(はんもつ)などを丹念に読み解き、地域経済の成り立ちを再構成し、庶民の生業を浮かび上がらせようという試み。
対象は、越前の最西部、越前岬から若狭湾に接するごく狭い地域。丹生山地の山腹急斜面が直接日本海に臨む地形で、海食崖が連なる景勝地として知られる。豊かな海と森深い山が近接した狭小地であり、本街道からはずれた僻地。同時に、敦賀という近江、京につながる集散地の背後地でもあった。
ここで再現される近世の姿は、従来の米作中心の経済とはまるで違う。庶民の生業は、稲作ばかりではなく雑穀類など農作物は多様で、塩業、漁労、森林伐採、ススキなど茅材の栽培などの一次産業から陶芸、漆工芸など二次産業へと多岐にわたる。兼業、副業、分業も進んでいた。米作中心主義がともすれば決めつけがちな「農閑期」のイメージとはおよそ様相が違う。例えば陶芸といっても、当初はすり鉢など生活必需品が主だったが、燃料木材に恵まれたこの地域は、江戸初期には亙の生産も盛んになる。南加賀の赤瓦(技術的ルーツは島根の石州亙)は、この地方で盛んに作られて茅葺きを置き換えていく。
戦国武将や織豊期大名などの支配層の徴税徴用も多品目、多種多様で決して年貢米一辺倒ではない。近世の地域経済は、一定の自由経済圏を持ち、決して時給自足ではなかった。そこにはそうした多様な生業を営む庶民と支配権力との間に絶妙な駆け引きがあって、独占権などの特権の安堵とその反対給付としての貢納と労務や運輸などのサービスの提供があったという。庶民はなかなかしたたかだったというわけだ。
文献史学といえども、資料のスポットライトのあて方、地道な解読で歴史を見る目がこうも変わるとは……と目からウロコ。
難をいえば、文章がいささか冗長なこと。しかも、学術的な堅苦しさを避けようとするあまり慣れないキャッチーな言葉遣いで格好をつけたがる。表題の「生態系(エコシステム)」がそのことを象徴している。また、歴史のマクロ的なダイナミックスに欠ける印象があるのは、歴史的な時系列が整理されていないからだろう。
戦国日本の生態系
庶民の生存戦略を復元する
高木 久史 (著)
講談社選書メチエ
異色の受賞 (第34回日本製鉄音楽賞 受賞記念コンサート) [コンサート]
日本製鉄音楽賞は、数えてもう34回目になります。1990年に紀尾井ホールのこけら落としとともに発足。新日本製鐵鐵(当時-現・日本製鉄)の創立20周年の記念事業の一環。最初のフレッシュアーティスト受賞者は、諏訪内晶子さんでした。
フレッシュアーティスト賞とともに、当時からあった特別賞。こちらは永年にわたって活躍した音楽家や、プロデューサーやステージマネージャーなど表には出てこない、いわゆる裏方役の方々を顕彰する目的で設置されました。
今年の受賞は、平井満さん。やはり企画・制作を生業とするプロデューサーということになりますが、商業主義に染まらない市民レベルの視点で室内楽など小規模なコンサートの運営に尽力されてきた。いわゆるプロとは違う異色の受賞ということになります。
受賞記念トークで話題になった「鵠沼サロンコンサート」には、あの大震災のあった年に一度だけ足を運んだことがあります。
巨匠ジェラール・プーレさんのリサイタルでした。藤沢市鵠沼海岸のレストランで開かれてきた小さな演奏会。音楽愛好者のグループがボランティアとなって、当時すでに20年以上続けられてきたサロンコンサート。
ちょうど今と同じ梅雨の季節で、お客さんが三々五々に集まるドアは開けっ放しで、開演時間が迫るとクーラーがようやく効いてくる。急な温度変化と高い湿度でブーレさんは相当に演奏に苦労されていたことを覚えています。やはり、こういう場所でのコンサートには知られない苦労が山積しているのです。
この時とても印象的だったのが、このコンサートのためにレストランに置かれていたピアノ。小さなB型のグランドピアノですが、素晴らしい音色。驚いて確かめてみたらニューヨーク・スタインウェイ。
昨年の受賞者・高木裕さんは、ニューヨーク・スタインウェイを日本のコンサートに紹介した功労者ですが、私も、ちょうど同じ年に竹澤恭子さんと川口玲さんのリサイタルで衝撃的なヴィンテージ・スタインウェイの素晴らしさを知ったばかりでした。高木裕さんの著書を矢継ぎ早に読んでいた頃だったところに、こんな小さなレストランでのそのピアノとの出会いに驚きました。レストランオーナーにお聞きしたら、やはり、定期的なメンテナンスは欠かせないとのこと。
平井さんの功績は、地域のコミュニティが支えてきたサロンコンサートの運営代表というにとどまりません。
やはり大きいのは、川崎市鶴見のサルビアホールでの弦楽四重奏コンサートのシリーズや、港南区民文化センター・ひまわりの郷でのコンサートシリーズの運営なのだと思います。
こちらは横浜楽友会という公式な団体を設立しての運営ですが、決して商業主義に染まらず市民目線での運営を貫いておられる。何と言っても、たった100席のサルビアホールの音楽ホールでクァルテット・シリーズを続けられてきたことは特筆に値します。あの素晴らしいアコースティックでこそのクァルテットの楽しみ。だからこそベルチャ四重奏団など内外の超一流クァルテットが来演する。駅前の公立施設の小さな空間が格別の音楽に満たされる。商業主義には絶対に開拓できない貴重な奇跡のようなコンサートシリーズです。
企業メッセの日本製鉄音楽賞としても、大いなる共感を持つはずで、決して見逃さなかったのは天晴れというしかありません。
金川真弓さんの受賞記念コンサートはもちろん素晴らしかった。
第13回受賞者の小菅優さんが友情共演というのも豪華。曲目もバッハのシャコンヌと、ファリャ、プーランクというちょっと尖ったプログラム。
帰国子女、長い海外生活にも関わらずちょっと内気な感じの短いスピーチがちょっと意外です。「私ももう三十歳なので……」という女性にとってのタブーを自ら破ってのひと言は、《フレッシュアーティスト》受賞の戸惑いと晴れやかな気持ちを表したかったのでしょうか、ちょっと会場の忍び笑いを誘っていました。
第34回 日本製鉄音楽賞
フレッシュアーティスト賞
金川真弓 受賞記念コンサート
2024年7月11日(木)
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階BR 2列1番)
バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調BWV1004
ファリャ/コハンスキ編曲:スペイン民謡組曲(《7つのスペイン民謡》より)
プーランク:ヴァイオリン・ソナタFP119
(アンコール)
フォーレ:「夢のあとに」
フレッシュアーティスト賞とともに、当時からあった特別賞。こちらは永年にわたって活躍した音楽家や、プロデューサーやステージマネージャーなど表には出てこない、いわゆる裏方役の方々を顕彰する目的で設置されました。
今年の受賞は、平井満さん。やはり企画・制作を生業とするプロデューサーということになりますが、商業主義に染まらない市民レベルの視点で室内楽など小規模なコンサートの運営に尽力されてきた。いわゆるプロとは違う異色の受賞ということになります。
受賞記念トークで話題になった「鵠沼サロンコンサート」には、あの大震災のあった年に一度だけ足を運んだことがあります。
巨匠ジェラール・プーレさんのリサイタルでした。藤沢市鵠沼海岸のレストランで開かれてきた小さな演奏会。音楽愛好者のグループがボランティアとなって、当時すでに20年以上続けられてきたサロンコンサート。
ちょうど今と同じ梅雨の季節で、お客さんが三々五々に集まるドアは開けっ放しで、開演時間が迫るとクーラーがようやく効いてくる。急な温度変化と高い湿度でブーレさんは相当に演奏に苦労されていたことを覚えています。やはり、こういう場所でのコンサートには知られない苦労が山積しているのです。
この時とても印象的だったのが、このコンサートのためにレストランに置かれていたピアノ。小さなB型のグランドピアノですが、素晴らしい音色。驚いて確かめてみたらニューヨーク・スタインウェイ。
昨年の受賞者・高木裕さんは、ニューヨーク・スタインウェイを日本のコンサートに紹介した功労者ですが、私も、ちょうど同じ年に竹澤恭子さんと川口玲さんのリサイタルで衝撃的なヴィンテージ・スタインウェイの素晴らしさを知ったばかりでした。高木裕さんの著書を矢継ぎ早に読んでいた頃だったところに、こんな小さなレストランでのそのピアノとの出会いに驚きました。レストランオーナーにお聞きしたら、やはり、定期的なメンテナンスは欠かせないとのこと。
平井さんの功績は、地域のコミュニティが支えてきたサロンコンサートの運営代表というにとどまりません。
やはり大きいのは、川崎市鶴見のサルビアホールでの弦楽四重奏コンサートのシリーズや、港南区民文化センター・ひまわりの郷でのコンサートシリーズの運営なのだと思います。
こちらは横浜楽友会という公式な団体を設立しての運営ですが、決して商業主義に染まらず市民目線での運営を貫いておられる。何と言っても、たった100席のサルビアホールの音楽ホールでクァルテット・シリーズを続けられてきたことは特筆に値します。あの素晴らしいアコースティックでこそのクァルテットの楽しみ。だからこそベルチャ四重奏団など内外の超一流クァルテットが来演する。駅前の公立施設の小さな空間が格別の音楽に満たされる。商業主義には絶対に開拓できない貴重な奇跡のようなコンサートシリーズです。
企業メッセの日本製鉄音楽賞としても、大いなる共感を持つはずで、決して見逃さなかったのは天晴れというしかありません。
金川真弓さんの受賞記念コンサートはもちろん素晴らしかった。
第13回受賞者の小菅優さんが友情共演というのも豪華。曲目もバッハのシャコンヌと、ファリャ、プーランクというちょっと尖ったプログラム。
帰国子女、長い海外生活にも関わらずちょっと内気な感じの短いスピーチがちょっと意外です。「私ももう三十歳なので……」という女性にとってのタブーを自ら破ってのひと言は、《フレッシュアーティスト》受賞の戸惑いと晴れやかな気持ちを表したかったのでしょうか、ちょっと会場の忍び笑いを誘っていました。
第34回 日本製鉄音楽賞
フレッシュアーティスト賞
金川真弓 受賞記念コンサート
2024年7月11日(木)
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階BR 2列1番)
バッハ:無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調BWV1004
ファリャ/コハンスキ編曲:スペイン民謡組曲(《7つのスペイン民謡》より)
プーランク:ヴァイオリン・ソナタFP119
(アンコール)
フォーレ:「夢のあとに」
オルガンとチェンバロで聴き比べるゴルトベルク(大塚直哉レクチャー・コンサート) [コンサート]
大塚直哉さんが、2018年以来続けているレクチャー・コンサートが、久しぶりにさいたま芸術劇場に戻ってきたもの。
このシリーズは、もともとこの劇場備え付けのポジティヴオルガン(M.ガルニエ・オルガン製作所製)を主役に据えて、チェンバロとの弾き比べなど様々な視点からバッハを楽しもうという企画。
今回は、ゴルトベルク変奏曲。
まずはオルガンで《アリア Aria》を演奏。オルガンは持続音なので、旋律はとても情緒豊かに歌い、低音の基音がよく響きコード進行がはっきりします。《変奏曲》とは言うけれど、実は、この低音のコード進行の上に30の変奏曲が作曲されている……というお話し。アリアの旋律のヴァリエーションではないのです。あくまでも、この32の低音が主題だというわけです。
32の低音主題。前後のアリアと30の変奏曲で合計32曲。こういう数学的構造や対称性をバッハは作曲のなかで隠し文字のように埋め込んでいます。30曲の変奏は、3曲ずつの単位を成して全体で10単位で30曲。1単位の3曲は、1曲目がガヴォットやアルマンドといった既存の書式・様式の曲、2曲目は2段鍵盤を活かしたトリオ・ソナタ。そして3曲目にはカノンが置かれている。
そのカノンが、精妙巧妙な造りになっていて、同じ音程から始まり、2度のカノン、3度、4度と音程を広げている。同じ音程の旋律の単なる追いかけっこではない。最後は8度とオクターブで元に戻り、ついには9度のカノンにまで達する。
演奏の間に、林 綾野さんとの対談をはさみます。
林さんは、美術展覧会の企画をするいわゆるキュレイター。その傍ら、絵画鑑賞のワークショップ、美術書の企画、執筆も手がけるマルチタレント。特に、その時代の食の嗜好などを研究、紹介し「おいしい浮世絵展」などを企画し、「フェルメールの食卓」という著作も出版している。
はきはきとした口調で、そのお話しはとても面白い。
バッハの時代の日常の食卓は、どうやらとても貧しかったらしい。ブリューゲルの絵(「穀物の収穫」)をよく見ると農民が食べているのは雑穀粥で、しかもいまのようなミルク煮ではなくて、バターやチーズを搾り取った酸っぱくて臭い脱脂乳のようなもの。
バッハは、役得で大変なご馳走を食べていたという記録がある。まだ若かったワイマールの宮廷オルガニスト時代に、ハレの聖母教会のオルガン建造に巨匠たちとともに助言し、完成時には鑑定人として招待されて大接待を受けている。牛肉煮込み、羊や子牛のローストと高タンパクで、グリーンピースにアスパラガスなどいかにもドイツの5月といった旬のメニューで、これは確かに大饗宴。
その他、コーヒーやタバコなどバッハの嗜好品や、自筆譜に染み込んだワインのシミなどバッハの日常の食生活などの面白いエピソードが満載でとても面白かった。
最後は、変奏の最後の第30変奏。
この最後のユニット3曲で、バッハはかなり羽目を外してしまう。大塚さんも、左手をチェンバロ、右手をオルガンと両手を広げてアクロバチックな二重奏というお遊びまで披露する。最終曲は、カノンではなくて二つの主題をごちゃごちゃに歌い合うというクォドリベット。バッハの時代、食卓で家族がこの俗謡を歌って大いにはしゃいだのだという。その食事の賑わいが目に浮かびます。
ゴルトベルク変奏曲というと、つい、厳めしく構えてしまいそうだけど、人生の日常に欠かせない食のお話しで大いに俗っぽく盛り上がった楽しいレクチャーコンサートになりました。
大塚直哉レクチャー・コンサート第10回
オルガンとチェンバロで聴き比べるゴルトベルク
2024年7月7日(日)14:00~
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール
(1階 P列15番)
大塚直哉(演奏・お話し) チェンバロ、ポジティブオルガン
ゲスト:林 綾野 (キュレイター、アートライター)
J. S. バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
【対談1】バッハの時代の食事情を想像する
【対談2】バッハが食べたごちそう
【対談2】きゃべつとかぶらの民謡
(アンコール)
《ゴルトベルク変奏曲》の低音主題に基づく即興演奏
このシリーズは、もともとこの劇場備え付けのポジティヴオルガン(M.ガルニエ・オルガン製作所製)を主役に据えて、チェンバロとの弾き比べなど様々な視点からバッハを楽しもうという企画。
今回は、ゴルトベルク変奏曲。
まずはオルガンで《アリア Aria》を演奏。オルガンは持続音なので、旋律はとても情緒豊かに歌い、低音の基音がよく響きコード進行がはっきりします。《変奏曲》とは言うけれど、実は、この低音のコード進行の上に30の変奏曲が作曲されている……というお話し。アリアの旋律のヴァリエーションではないのです。あくまでも、この32の低音が主題だというわけです。
32の低音主題。前後のアリアと30の変奏曲で合計32曲。こういう数学的構造や対称性をバッハは作曲のなかで隠し文字のように埋め込んでいます。30曲の変奏は、3曲ずつの単位を成して全体で10単位で30曲。1単位の3曲は、1曲目がガヴォットやアルマンドといった既存の書式・様式の曲、2曲目は2段鍵盤を活かしたトリオ・ソナタ。そして3曲目にはカノンが置かれている。
そのカノンが、精妙巧妙な造りになっていて、同じ音程から始まり、2度のカノン、3度、4度と音程を広げている。同じ音程の旋律の単なる追いかけっこではない。最後は8度とオクターブで元に戻り、ついには9度のカノンにまで達する。
演奏の間に、林 綾野さんとの対談をはさみます。
林さんは、美術展覧会の企画をするいわゆるキュレイター。その傍ら、絵画鑑賞のワークショップ、美術書の企画、執筆も手がけるマルチタレント。特に、その時代の食の嗜好などを研究、紹介し「おいしい浮世絵展」などを企画し、「フェルメールの食卓」という著作も出版している。
はきはきとした口調で、そのお話しはとても面白い。
バッハの時代の日常の食卓は、どうやらとても貧しかったらしい。ブリューゲルの絵(「穀物の収穫」)をよく見ると農民が食べているのは雑穀粥で、しかもいまのようなミルク煮ではなくて、バターやチーズを搾り取った酸っぱくて臭い脱脂乳のようなもの。
バッハは、役得で大変なご馳走を食べていたという記録がある。まだ若かったワイマールの宮廷オルガニスト時代に、ハレの聖母教会のオルガン建造に巨匠たちとともに助言し、完成時には鑑定人として招待されて大接待を受けている。牛肉煮込み、羊や子牛のローストと高タンパクで、グリーンピースにアスパラガスなどいかにもドイツの5月といった旬のメニューで、これは確かに大饗宴。
その他、コーヒーやタバコなどバッハの嗜好品や、自筆譜に染み込んだワインのシミなどバッハの日常の食生活などの面白いエピソードが満載でとても面白かった。
最後は、変奏の最後の第30変奏。
この最後のユニット3曲で、バッハはかなり羽目を外してしまう。大塚さんも、左手をチェンバロ、右手をオルガンと両手を広げてアクロバチックな二重奏というお遊びまで披露する。最終曲は、カノンではなくて二つの主題をごちゃごちゃに歌い合うというクォドリベット。バッハの時代、食卓で家族がこの俗謡を歌って大いにはしゃいだのだという。その食事の賑わいが目に浮かびます。
ゴルトベルク変奏曲というと、つい、厳めしく構えてしまいそうだけど、人生の日常に欠かせない食のお話しで大いに俗っぽく盛り上がった楽しいレクチャーコンサートになりました。
大塚直哉レクチャー・コンサート第10回
オルガンとチェンバロで聴き比べるゴルトベルク
2024年7月7日(日)14:00~
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール
(1階 P列15番)
大塚直哉(演奏・お話し) チェンバロ、ポジティブオルガン
ゲスト:林 綾野 (キュレイター、アートライター)
J. S. バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988
【対談1】バッハの時代の食事情を想像する
【対談2】バッハが食べたごちそう
【対談2】きゃべつとかぶらの民謡
(アンコール)
《ゴルトベルク変奏曲》の低音主題に基づく即興演奏
タグ:彩の国さいたま芸術劇場 大塚直哉
プッチーニ「トスカ」(新国立劇場) [コンサート]
堪能した。これぞプッチーニ。
冒頭に短い序奏。スカルピアの動機がどす黒く響く。その分厚い響きの何と雄渾なこと。
この日のベニーニと東フィルが素晴らしかった。音量が厚く雄大。バストロンボーン、チンバッソが加わった金管群とティンパニが最右手、コントラバスが最左手と低音楽器がピットを挟み撃ちにして終始厚く響く。中央正面を木管、その左手にホルン4台。こうした配置が、プッチーニの管弦楽法をものの見事に鳴らしきる。
張り詰めたテンションが終始緩むことなく、いつもは退屈しがちな最初の教会と礼拝場の場面から小気味よくストーリーが進む。それは何と言っても、歌手陣の素晴らしい歌唱と演技があるから。声と演技とオーケストラが緊密で絶妙に絡み合う。
トスカのエル=コーリーは、姿も歌唱も素晴らしく圧倒的。とにかく形がよい。さながら歌舞伎や人形浄瑠璃といった伝統古典のように所作と形が決まる。カヴァラドッシのイリンカイの声量と甘い艶やかな声は、これこそイタリア歌劇の魅力ともいうべきものが満開。二人とも、オーケストラに埋もれることなく劇場空間に響きわたる渾身の歌唱。アンジェロッティの妻屋、堂守の志村など日本人脇役陣もいつも以上に演技が冴えている。
マダウ=ディアツ演出のこのプロダクションは、2000年の初演以来、もう8回目の再演なのだそうだ。新国立劇場屈指の人気レパートリー。古典的な舞台は、美しく豪華。台本に極めて忠実、繰り返し上演されてきて演出の細やかさが隅々にまで行き届いている。それだけに話題になりにくいのかもしれない。個人的にも、久しぶりに観てみるかと足を運んだけれど、その期待が的中。これほど素晴らしい「トスカ」だったのかと大感激。
残念と言えば残念なのが、この劇で肝心要のスカルピアが急遽代役となったこと。代役・青山は凡演だが、決して舞台を壊したわけではない。第一幕最後のテデウム。“行け、トスカよ!(Va, Tosca!...)”の邪悪な野心の独白も全体の中に埋没してしまうが、かえってこのオペラ最大の見せ場の絢爛豪華な舞台の陶酔に呑み込まれてしまって気にならない。
第二幕の“歌に生き、愛に生き(Vissi d'arte, vissi d'amore,...)”のトスカ絶対の歌唱でも、スカルピアはていよくベランダに出て舞台から姿を消しているという演出なので邪魔にならない。もちろんエル=コーリーの歌の感激はひとしお。姿と形も見事。ここから「トスカのキス」までのやり取りには、スカルピアの情欲があっさりと演じられるから、かえってトスカの演技に目が集中できる。机上の書類をあさり、スカルピアの死体の手から通行証をつかみ取るまでのエル=コーリーの演技と、真紅のドレスに身を包んだその若い輝くような地中海的容姿が素晴らしかった。
第三幕の、カヴァラドッシの“星は光輝き(E lucevan le stelle…)”を導く、ヴィオリンソロとチェロ4台の合奏、クラリネットも素晴らしかった。閉幕後に、ベニーニが何度もチェロとクラリネットを立たせて喝采したのも大いにうなずける。ソリストをピットで立たせて讃えるのは異例のこと。とにかくベニーニは、終始、上機嫌。情のこもった自身の指揮振りにも、それに応えたオーケストラにも会心の思いがあったのだとわかる。
再演を重ねてきた新国立劇場の定番だけに話題としては盛り上がらないのかもしれないけれど、その舞台の豪華で美しいこと、台本に忠実で非の打ち所のない演出、トスカ本来の若々しくドラマチックな容姿と歌唱のエル=コーリー。見逃すにはあまりにもったいない。
新国立劇場
プッチーニ 「トスカ」(初日)
2024年7月6日(土) 14:00
東京・初台 新国立劇場 オペラハウス
(1階9列24番)
【指 揮】マウリツィオ・ベニーニ
【演 出】アントネッロ・マダウ=ディアツ
【美 術】川口直次
【衣 裳】ピエール・ルチアーノ・カヴァッロッティ
【照 明】奥畑康夫
【再演演出】田口道子
【舞台監督】菅原多敢弘
【トスカ】ジョイス・エル=コーリー
【カヴァラドッシ】テオドール・イリンカイ
【スカルピア】青山 貴
【アンジェロッティ】妻屋秀和
【スポレッタ】糸賀修平
【シャルローネ】大塚博章
【堂守】志村文彦
【看守】龍進一郎
【羊飼い】前川依子
【合 唱】新国立劇場合唱団
【合唱指揮】三澤洋史
【児童合唱】TOKYO FM少年合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
冒頭に短い序奏。スカルピアの動機がどす黒く響く。その分厚い響きの何と雄渾なこと。
この日のベニーニと東フィルが素晴らしかった。音量が厚く雄大。バストロンボーン、チンバッソが加わった金管群とティンパニが最右手、コントラバスが最左手と低音楽器がピットを挟み撃ちにして終始厚く響く。中央正面を木管、その左手にホルン4台。こうした配置が、プッチーニの管弦楽法をものの見事に鳴らしきる。
張り詰めたテンションが終始緩むことなく、いつもは退屈しがちな最初の教会と礼拝場の場面から小気味よくストーリーが進む。それは何と言っても、歌手陣の素晴らしい歌唱と演技があるから。声と演技とオーケストラが緊密で絶妙に絡み合う。
トスカのエル=コーリーは、姿も歌唱も素晴らしく圧倒的。とにかく形がよい。さながら歌舞伎や人形浄瑠璃といった伝統古典のように所作と形が決まる。カヴァラドッシのイリンカイの声量と甘い艶やかな声は、これこそイタリア歌劇の魅力ともいうべきものが満開。二人とも、オーケストラに埋もれることなく劇場空間に響きわたる渾身の歌唱。アンジェロッティの妻屋、堂守の志村など日本人脇役陣もいつも以上に演技が冴えている。
マダウ=ディアツ演出のこのプロダクションは、2000年の初演以来、もう8回目の再演なのだそうだ。新国立劇場屈指の人気レパートリー。古典的な舞台は、美しく豪華。台本に極めて忠実、繰り返し上演されてきて演出の細やかさが隅々にまで行き届いている。それだけに話題になりにくいのかもしれない。個人的にも、久しぶりに観てみるかと足を運んだけれど、その期待が的中。これほど素晴らしい「トスカ」だったのかと大感激。
残念と言えば残念なのが、この劇で肝心要のスカルピアが急遽代役となったこと。代役・青山は凡演だが、決して舞台を壊したわけではない。第一幕最後のテデウム。“行け、トスカよ!(Va, Tosca!...)”の邪悪な野心の独白も全体の中に埋没してしまうが、かえってこのオペラ最大の見せ場の絢爛豪華な舞台の陶酔に呑み込まれてしまって気にならない。
第二幕の“歌に生き、愛に生き(Vissi d'arte, vissi d'amore,...)”のトスカ絶対の歌唱でも、スカルピアはていよくベランダに出て舞台から姿を消しているという演出なので邪魔にならない。もちろんエル=コーリーの歌の感激はひとしお。姿と形も見事。ここから「トスカのキス」までのやり取りには、スカルピアの情欲があっさりと演じられるから、かえってトスカの演技に目が集中できる。机上の書類をあさり、スカルピアの死体の手から通行証をつかみ取るまでのエル=コーリーの演技と、真紅のドレスに身を包んだその若い輝くような地中海的容姿が素晴らしかった。
第三幕の、カヴァラドッシの“星は光輝き(E lucevan le stelle…)”を導く、ヴィオリンソロとチェロ4台の合奏、クラリネットも素晴らしかった。閉幕後に、ベニーニが何度もチェロとクラリネットを立たせて喝采したのも大いにうなずける。ソリストをピットで立たせて讃えるのは異例のこと。とにかくベニーニは、終始、上機嫌。情のこもった自身の指揮振りにも、それに応えたオーケストラにも会心の思いがあったのだとわかる。
再演を重ねてきた新国立劇場の定番だけに話題としては盛り上がらないのかもしれないけれど、その舞台の豪華で美しいこと、台本に忠実で非の打ち所のない演出、トスカ本来の若々しくドラマチックな容姿と歌唱のエル=コーリー。見逃すにはあまりにもったいない。
新国立劇場
プッチーニ 「トスカ」(初日)
2024年7月6日(土) 14:00
東京・初台 新国立劇場 オペラハウス
(1階9列24番)
【指 揮】マウリツィオ・ベニーニ
【演 出】アントネッロ・マダウ=ディアツ
【美 術】川口直次
【衣 裳】ピエール・ルチアーノ・カヴァッロッティ
【照 明】奥畑康夫
【再演演出】田口道子
【舞台監督】菅原多敢弘
【トスカ】ジョイス・エル=コーリー
【カヴァラドッシ】テオドール・イリンカイ
【スカルピア】青山 貴
【アンジェロッティ】妻屋秀和
【スポレッタ】糸賀修平
【シャルローネ】大塚博章
【堂守】志村文彦
【看守】龍進一郎
【羊飼い】前川依子
【合 唱】新国立劇場合唱団
【合唱指揮】三澤洋史
【児童合唱】TOKYO FM少年合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
タグ:新国立劇場