「緑十字機 決死の飛行」(岡部英一 著)読了 [読書]
言ってみれば、これは終戦秘話。
日本人の目に焼き付いている敗戦の映像というと、8月15日の玉音放送、8月30日連合軍最高司令官マッカーサーの厚木到着、それに9月2日の戦艦ミズーリ上での降伏文書調印という3つぐらいしか語られない。
特に8月15日は、「日本のいちばん長い日」として終戦記念日となっている。
事実、正午の玉音放送以後、軍部中央は「聖断ニ従テ行動ス」と降伏への抵抗を止め、最後の陸軍大将阿南惟幾ほか何人もの軍人がその数日以内に次々と自死を遂げている。
しかし、これで徹底抗戦派が一掃されたわけではなかった。
全国各地の軍事基地では、終戦の翌日から復員が始まり、すでに閑散とし始めていた一方で、あくまでも本土決戦を期する将校士官と残留要員が多く残存していて、一触即発の空気で張り詰めていた。
そうしたなかで、マニラのマッカーサー司令部から、「降伏軍使」の派遣を求めてくる。
降伏文書、降伏の天皇詔書の英文原案を受領し、調印式やGHQの設置の日程調整の協議が、軍使派遣の目的となる。それは軍人にとっては有無を云わせぬ屈辱の敗戦処理そのもの。誰もが引き受けたがらないのは、それだけではない。軍使派遣で敗戦を決定づけることを阻止しようという気配もあったし、協議の結果によって天皇の戦争責任が問われようなことになれば、生きて日本に帰れない。
「緑十字機」とは、その軍使を運ぶ機体のこと。
連合軍の指示により、機体が白く塗られ、緑十字が描かれていた。連合軍からの攻撃を防ぐためだが、目立つ機体はむしろ徹底抗戦派の友軍機から捕捉され迎撃される恐れがあった。機体は、航続距離が十分にある一式陸攻が選ばれた。徹夜で機体の塗装と整備が進められた。
搭乗員もにわか編成。主操縦士こそベテラン中のベテランが指名されたが、万全を期して整備員を優先して編成され、二番機には副操縦士はいない。出発ぎりぎりまで目的は秘匿され、顔なじみのいない隊員同士、誰もが互いに相手の本心はわからない。
全権軍使は、最後の参謀部次長・河辺虎史郎が。参謀総長の梅津美治郎(A級戦犯、終身刑で獄中死)が固辞したからだ。河辺はもともと戦争不拡大を唱え陸軍主流を外されていた。戦争末期になって呼び戻されて、屈辱の降伏軍使を拝命した。生きて帰れぬ覚悟もあったが、何かあれば戦闘再開も軍政も辞さぬ構えでいた米軍の不信を呼ぶ。正式な降伏まで長引けばソ連が北海道になだれ込み、日本の分割統治もあり得た。
その一行が協議を終え、降伏文書や詔書などの書類を携え帰路につくなかで予想もつかぬ困難に直面する。
中継地/沖縄伊江島で緑十字機に乗り換える際に二番機が事故で損傷する。やむなく一番機のみで夜間飛行を強行、帰路につく。その一番機は、原因不明の燃料切れを起こして、エンジン停止。
静岡県磐田の海岸に深夜の月明かりだけで不時着できたのは奇跡としか云いようがなかった。住民の協力や、浜松海軍基地などの機転で、予定よりわずか8時間の遅延だけで東京・調布飛行場の到着し、復命する。
実は、連合軍進駐に指定された厚木基地は、最大最強の徹底抗戦派が占拠していた。皇族を先頭に立てて必死の説得を行いようやく鎮圧退去させたが、飛行場の建造物は荒廃し、滑走路には嫌がらせの障害物が並べられていた。台風襲来が幸いし48時間の順延という譲歩があったものの、要求通り先遣隊を受け入れることができたのも奇跡的だった。
著者の岡部英一は、不時着地の地元静岡の郷土史家。
緑十字機に携わった人たちが真の戦争終結に向けて、気力と最後の力を尽くしたという事実と歴史的意義を後世に伝えていきたいとの一念、執念の調査や証言の発掘に尽力してきた。
本書の前半は、客観的な事実だけを時系列的に記述したもの。それがはからずも緊迫に包まれたこのミッションの息詰まるドラマになっている。
後半は、不時着に至った燃料切れの謎解きに挑む。搭乗者の誰かがトリックを仕掛けたものという疑いがどうしても残るからだ。搭乗員のなかに一人だけ氏名が明らかになっていない整備士がいる。副機長は「それは言えません。墓まで持っていく約束です」と証言を拒んだという。
二番機の故障にも謎が残る。著者は、陸軍と海軍との相互不信のなかで、軍使のなかの中堅士官を排除するためだったことが疑われるという。河辺中将らがマニラから伊江島に帰還し、「国体護持」要求がまったく相手にされなかったと知った彼らが一瞬気色ばんだ表情を見せたという。
敗戦国日本が粛々と停戦し、整然と保たれた社会的・政治的秩序を示し得たことが、どれだけマッカーサー以下GHQの好意的心象を引き出したかは想像に難くない。
緑十字機の奇跡の飛行には、軍使、搭乗員以下、不時着に偶然居合わせることになる磐田の市民に至るまで多くの人々が携わっている。本書からは、そうした人々ひとりひとりの顔が見えてくる。
感謝と感動の気持ちが抑えられない。
緑十字機 決死の飛行
岡部英一 (著)
静岡新聞社
日本人の目に焼き付いている敗戦の映像というと、8月15日の玉音放送、8月30日連合軍最高司令官マッカーサーの厚木到着、それに9月2日の戦艦ミズーリ上での降伏文書調印という3つぐらいしか語られない。
特に8月15日は、「日本のいちばん長い日」として終戦記念日となっている。
事実、正午の玉音放送以後、軍部中央は「聖断ニ従テ行動ス」と降伏への抵抗を止め、最後の陸軍大将阿南惟幾ほか何人もの軍人がその数日以内に次々と自死を遂げている。
しかし、これで徹底抗戦派が一掃されたわけではなかった。
全国各地の軍事基地では、終戦の翌日から復員が始まり、すでに閑散とし始めていた一方で、あくまでも本土決戦を期する将校士官と残留要員が多く残存していて、一触即発の空気で張り詰めていた。
そうしたなかで、マニラのマッカーサー司令部から、「降伏軍使」の派遣を求めてくる。
降伏文書、降伏の天皇詔書の英文原案を受領し、調印式やGHQの設置の日程調整の協議が、軍使派遣の目的となる。それは軍人にとっては有無を云わせぬ屈辱の敗戦処理そのもの。誰もが引き受けたがらないのは、それだけではない。軍使派遣で敗戦を決定づけることを阻止しようという気配もあったし、協議の結果によって天皇の戦争責任が問われようなことになれば、生きて日本に帰れない。
「緑十字機」とは、その軍使を運ぶ機体のこと。
連合軍の指示により、機体が白く塗られ、緑十字が描かれていた。連合軍からの攻撃を防ぐためだが、目立つ機体はむしろ徹底抗戦派の友軍機から捕捉され迎撃される恐れがあった。機体は、航続距離が十分にある一式陸攻が選ばれた。徹夜で機体の塗装と整備が進められた。
搭乗員もにわか編成。主操縦士こそベテラン中のベテランが指名されたが、万全を期して整備員を優先して編成され、二番機には副操縦士はいない。出発ぎりぎりまで目的は秘匿され、顔なじみのいない隊員同士、誰もが互いに相手の本心はわからない。
全権軍使は、最後の参謀部次長・河辺虎史郎が。参謀総長の梅津美治郎(A級戦犯、終身刑で獄中死)が固辞したからだ。河辺はもともと戦争不拡大を唱え陸軍主流を外されていた。戦争末期になって呼び戻されて、屈辱の降伏軍使を拝命した。生きて帰れぬ覚悟もあったが、何かあれば戦闘再開も軍政も辞さぬ構えでいた米軍の不信を呼ぶ。正式な降伏まで長引けばソ連が北海道になだれ込み、日本の分割統治もあり得た。
その一行が協議を終え、降伏文書や詔書などの書類を携え帰路につくなかで予想もつかぬ困難に直面する。
中継地/沖縄伊江島で緑十字機に乗り換える際に二番機が事故で損傷する。やむなく一番機のみで夜間飛行を強行、帰路につく。その一番機は、原因不明の燃料切れを起こして、エンジン停止。
静岡県磐田の海岸に深夜の月明かりだけで不時着できたのは奇跡としか云いようがなかった。住民の協力や、浜松海軍基地などの機転で、予定よりわずか8時間の遅延だけで東京・調布飛行場の到着し、復命する。
実は、連合軍進駐に指定された厚木基地は、最大最強の徹底抗戦派が占拠していた。皇族を先頭に立てて必死の説得を行いようやく鎮圧退去させたが、飛行場の建造物は荒廃し、滑走路には嫌がらせの障害物が並べられていた。台風襲来が幸いし48時間の順延という譲歩があったものの、要求通り先遣隊を受け入れることができたのも奇跡的だった。
著者の岡部英一は、不時着地の地元静岡の郷土史家。
緑十字機に携わった人たちが真の戦争終結に向けて、気力と最後の力を尽くしたという事実と歴史的意義を後世に伝えていきたいとの一念、執念の調査や証言の発掘に尽力してきた。
本書の前半は、客観的な事実だけを時系列的に記述したもの。それがはからずも緊迫に包まれたこのミッションの息詰まるドラマになっている。
後半は、不時着に至った燃料切れの謎解きに挑む。搭乗者の誰かがトリックを仕掛けたものという疑いがどうしても残るからだ。搭乗員のなかに一人だけ氏名が明らかになっていない整備士がいる。副機長は「それは言えません。墓まで持っていく約束です」と証言を拒んだという。
二番機の故障にも謎が残る。著者は、陸軍と海軍との相互不信のなかで、軍使のなかの中堅士官を排除するためだったことが疑われるという。河辺中将らがマニラから伊江島に帰還し、「国体護持」要求がまったく相手にされなかったと知った彼らが一瞬気色ばんだ表情を見せたという。
敗戦国日本が粛々と停戦し、整然と保たれた社会的・政治的秩序を示し得たことが、どれだけマッカーサー以下GHQの好意的心象を引き出したかは想像に難くない。
緑十字機の奇跡の飛行には、軍使、搭乗員以下、不時着に偶然居合わせることになる磐田の市民に至るまで多くの人々が携わっている。本書からは、そうした人々ひとりひとりの顔が見えてくる。
感謝と感動の気持ちが抑えられない。
緑十字機 決死の飛行
岡部英一 (著)
静岡新聞社
「暗い夜、星を数えて」(彩瀬 まる 著)読了 [読書]
前年に公募新人文学賞を受賞したばかりだった著者は、二泊三日の東北旅行に出かけた。松島に一泊後、友人を訪ねて仙台駅から福島いわき市を目指して常磐線の列車に乗る。
その電車が、相馬市手前の新地駅で停車していたときに東日本大震災に遭う。
その時の体験と後日の福島再訪を描いている。地震の被災そのものも希有の体験だが、そのあとに津波が押し寄せる。かろうじて避難したあと、居合わせた見知らぬ人の縁で相馬市から南相馬へと南へ南へと引き寄せられるように移動していき、そこで原発事故の報に遭う。
未曾有の被災体験の記憶だけれども、文章は簡明で短い。しかし、この人は文章の達人だ。その証拠に、この体験の記録は、災害後すでに十余年経ってなお生々しいほどに鮮度を保っている。
記述には、そこで出会った人々の何気ないひと言が捕獲されてピンで刺した昆虫の標本のように不思議な生命の煌めきとともに残されていて、胸を打つ。その証言の内容には、当時の混乱とどうしようもない切羽詰まった状況とともに、原発事故という現実に対する人々の悲しいまでの憤りがあって、なおかつ暖かい厚情が込められている。著者の「胸の泡立ち」にも様々な濁りと暗い色彩があって次から次へと新しいものが沸き上がる。
ここに描かれている人々には、非情なまでの状況にあっても優しい心遣いを失わない日本人の原点のようなものがある。当時の海外メディアに登場する、彼らにとって不思議な日本人の秩序だった社会への驚きも記憶としてよみがえってくる。
行政や事業者の原子力事業へのいまだに無反省な執心にも、これを読むと今さらのように静かな憤りが沸き上がる。
伝えるべきことを伝え、言うべきことを言う、という、ささやかで、なおかつ、凜とした文学の原点がここにはあるという気がする。ひとつひとつの文字を追いながら、思わず目が冴え渡る。
震災直後に書き起こし、書き継がれ、すっかり年月が経った著書だけれど、文庫、Kindleと、アクセシビリティは容易で高い。ぜひ、一度は目を通して欲しい一書だと思う。
暗い夜、星を数えて
3・11被災鉄道からの脱出
彩瀬 まる (著)
新潮社
その電車が、相馬市手前の新地駅で停車していたときに東日本大震災に遭う。
その時の体験と後日の福島再訪を描いている。地震の被災そのものも希有の体験だが、そのあとに津波が押し寄せる。かろうじて避難したあと、居合わせた見知らぬ人の縁で相馬市から南相馬へと南へ南へと引き寄せられるように移動していき、そこで原発事故の報に遭う。
未曾有の被災体験の記憶だけれども、文章は簡明で短い。しかし、この人は文章の達人だ。その証拠に、この体験の記録は、災害後すでに十余年経ってなお生々しいほどに鮮度を保っている。
記述には、そこで出会った人々の何気ないひと言が捕獲されてピンで刺した昆虫の標本のように不思議な生命の煌めきとともに残されていて、胸を打つ。その証言の内容には、当時の混乱とどうしようもない切羽詰まった状況とともに、原発事故という現実に対する人々の悲しいまでの憤りがあって、なおかつ暖かい厚情が込められている。著者の「胸の泡立ち」にも様々な濁りと暗い色彩があって次から次へと新しいものが沸き上がる。
ここに描かれている人々には、非情なまでの状況にあっても優しい心遣いを失わない日本人の原点のようなものがある。当時の海外メディアに登場する、彼らにとって不思議な日本人の秩序だった社会への驚きも記憶としてよみがえってくる。
行政や事業者の原子力事業へのいまだに無反省な執心にも、これを読むと今さらのように静かな憤りが沸き上がる。
伝えるべきことを伝え、言うべきことを言う、という、ささやかで、なおかつ、凜とした文学の原点がここにはあるという気がする。ひとつひとつの文字を追いながら、思わず目が冴え渡る。
震災直後に書き起こし、書き継がれ、すっかり年月が経った著書だけれど、文庫、Kindleと、アクセシビリティは容易で高い。ぜひ、一度は目を通して欲しい一書だと思う。
暗い夜、星を数えて
3・11被災鉄道からの脱出
彩瀬 まる (著)
新潮社
タグ:東日本大震災
横山幸雄の弾き振りでベートーヴェン(パシフィックフィルハーモニア東京) [コンサート]
パシフィック・フィルハーモニー東京(PPT)を聴くのはこれで2度目。
横山幸雄は、初登場。私自身は、恥ずかしながら、横山を聴くのは初めて。
それだけにまったく予断のない虚心坦懐のままに聴きましたが、これはもう極上のベートーヴェン。ピアニズムや管弦楽法にベートーヴェンらしさが満開で、とても幸せな気持ちになりました。
ピアノは、客席に背を向けオーケストラと相対する形で設置。上蓋は外してあります。オーケストラは、古典的な2管編成で、とてもシンプル。
そのピアノが実に良い音がした。ひとつひとつの粒立ちが明瞭でそろっていて精確。それでいて明るい彩色で響きが良くて連綿と音が連なる美しさが心地よい。こういう美音と粒の美しさが、横山の技術の美点なのでしょうか。
演奏後の挨拶で、横山は「協奏曲は、室内アンサンブルを大きく拡張したもの」と強調していました。
まさに、そういう演奏に徹しているのが、弾き振りの効果。ソリストにとって、オーケストラは指揮者に任せっきり。ソリストとオーケストラは対立的になりがち。よく言えばオーケストラの自主性だとか対話の楽しさとも言われるが、場合によっては『どちらがボスだ?』ということで双方の楽想の違いから妥協も生じてしまう。特に、ピアノ協奏曲は、弦楽器主体のオーケストラとは発音原理が違うから、むしろ、協調的に音の響きを作るのは難しい。
横山の弾き振りは、オーケストラとの協調・協和を徹底的に磨き上げている。オーケストラの現代的なテヌートが徹底していて、ピアノの音の粒子をつなげるように支え、その持続音のなかにピアノ粒だった煌めきが美しく踊る。ナチュラルトランペットを使用していたが、それはその音色に着目したのであってオーケストラの音作りはあくまでもモダン。その中でテヌートやスタッカートなどのアーティキュレーションを綺麗にピアノに合わせている。だから、ベートーヴェンの管弦楽法が際立ってくる。
それが最も生き生きと現れたのが、最後の第4番。
この協奏曲の初演は、「田園」や「運命」といった名交響曲と同じ演奏会でした。まさに傑作の森のなか。巧みな木管楽器の組み合わせ、弦の弾き分けによるアーティキュレーションの快感がここにある。その交響曲的な音響のなかでピアノの名人芸が彩りの艷や輝きをさらに多彩にする。
技量としては、正直言って凡庸だし、横山のピアノもことさらに際立たない。それでいてホルンは安定しているし、オーボエの音色も美しく、クラリネットの音色もいかにもそれらしい。だからこその「室内アンサンブルの拡大版」ということなのでしょう。
台風の来襲で、前日のリハーサルは中止。たった2日だけで、これだけの仕上がりというのは驚きます。日数の短縮を、横山は残念がったのか、あるいは短期間でこれだけの仕上がりにできたことを誇っているのか、そこはよくわかりません。もし、残念がっていたとしたらもっとアンサンブルに冒険ができたということではないでしょうか。やや遅めのインテンポは、安全運転ということでもあったかもしれません。アゴーギクやアクセントも大きく変化をさせることもない。とにかく、オーケストラとピアノがまったりと同調し融合させることで一貫していました。
もし、もう少し大胆に様々な揺らぎを入れていたらどうだったのでしょう。それはわかりませんが、結果としては形式美や均整の取れた古典派の美意識と現代楽器の多彩な色彩との幸福なマリアージュとなっていました。本当によいベートーヴェンでした。
パシフィックフィルハーモニア東京
第168回定期演奏会
横山幸雄との新たなる幕開け
渾身の弾き振りで贈るベートーヴェンのピアノ協奏曲
フランス音楽の神髄
2024年8月17日(土)14:00
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(2階J列46番)
指揮・ピアノ:横山幸雄
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 作品15
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品19
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
(アンコール)
ベートーヴェン/ピアノ三重奏第4番 変ロ長調「街の歌」作品11より第2楽章
ベートーヴェン/ピアノソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」作品31-2より第3楽章
横山幸雄は、初登場。私自身は、恥ずかしながら、横山を聴くのは初めて。
それだけにまったく予断のない虚心坦懐のままに聴きましたが、これはもう極上のベートーヴェン。ピアニズムや管弦楽法にベートーヴェンらしさが満開で、とても幸せな気持ちになりました。
ピアノは、客席に背を向けオーケストラと相対する形で設置。上蓋は外してあります。オーケストラは、古典的な2管編成で、とてもシンプル。
そのピアノが実に良い音がした。ひとつひとつの粒立ちが明瞭でそろっていて精確。それでいて明るい彩色で響きが良くて連綿と音が連なる美しさが心地よい。こういう美音と粒の美しさが、横山の技術の美点なのでしょうか。
演奏後の挨拶で、横山は「協奏曲は、室内アンサンブルを大きく拡張したもの」と強調していました。
まさに、そういう演奏に徹しているのが、弾き振りの効果。ソリストにとって、オーケストラは指揮者に任せっきり。ソリストとオーケストラは対立的になりがち。よく言えばオーケストラの自主性だとか対話の楽しさとも言われるが、場合によっては『どちらがボスだ?』ということで双方の楽想の違いから妥協も生じてしまう。特に、ピアノ協奏曲は、弦楽器主体のオーケストラとは発音原理が違うから、むしろ、協調的に音の響きを作るのは難しい。
横山の弾き振りは、オーケストラとの協調・協和を徹底的に磨き上げている。オーケストラの現代的なテヌートが徹底していて、ピアノの音の粒子をつなげるように支え、その持続音のなかにピアノ粒だった煌めきが美しく踊る。ナチュラルトランペットを使用していたが、それはその音色に着目したのであってオーケストラの音作りはあくまでもモダン。その中でテヌートやスタッカートなどのアーティキュレーションを綺麗にピアノに合わせている。だから、ベートーヴェンの管弦楽法が際立ってくる。
それが最も生き生きと現れたのが、最後の第4番。
この協奏曲の初演は、「田園」や「運命」といった名交響曲と同じ演奏会でした。まさに傑作の森のなか。巧みな木管楽器の組み合わせ、弦の弾き分けによるアーティキュレーションの快感がここにある。その交響曲的な音響のなかでピアノの名人芸が彩りの艷や輝きをさらに多彩にする。
技量としては、正直言って凡庸だし、横山のピアノもことさらに際立たない。それでいてホルンは安定しているし、オーボエの音色も美しく、クラリネットの音色もいかにもそれらしい。だからこその「室内アンサンブルの拡大版」ということなのでしょう。
台風の来襲で、前日のリハーサルは中止。たった2日だけで、これだけの仕上がりというのは驚きます。日数の短縮を、横山は残念がったのか、あるいは短期間でこれだけの仕上がりにできたことを誇っているのか、そこはよくわかりません。もし、残念がっていたとしたらもっとアンサンブルに冒険ができたということではないでしょうか。やや遅めのインテンポは、安全運転ということでもあったかもしれません。アゴーギクやアクセントも大きく変化をさせることもない。とにかく、オーケストラとピアノがまったりと同調し融合させることで一貫していました。
もし、もう少し大胆に様々な揺らぎを入れていたらどうだったのでしょう。それはわかりませんが、結果としては形式美や均整の取れた古典派の美意識と現代楽器の多彩な色彩との幸福なマリアージュとなっていました。本当によいベートーヴェンでした。
パシフィックフィルハーモニア東京
第168回定期演奏会
横山幸雄との新たなる幕開け
渾身の弾き振りで贈るベートーヴェンのピアノ協奏曲
フランス音楽の神髄
2024年8月17日(土)14:00
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(2階J列46番)
指揮・ピアノ:横山幸雄
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 作品15
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品19
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
(アンコール)
ベートーヴェン/ピアノ三重奏第4番 変ロ長調「街の歌」作品11より第2楽章
ベートーヴェン/ピアノソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」作品31-2より第3楽章
ベルイマン邸で聴き較べ [オーディオ]
ベルイマンさん宅を訪問しました。
ちょっとした比較の検証。まあ、体の良い検聴とか比較試聴のすり合わせというわけですが、その結果に驚愕しました。
比較 その1
OPPOのユニヴァーサルプレーヤーの設定変更。
OPPO UDP-205は、あらゆるディスクメディアのあらゆるフォーマットを高音質で再生できると人気の高かったユニヴァーサルプレーヤー。ところがOPPOは、その1年後に突如ユニバーサルプレーヤーの新規製品の企画・開発中止を発表し、このUDP-205も生産中止となりました。
それが、OPPOのエンジニアリングを引き継いだプレーヤーがまた新たに登場したそうだ。それでマニアの多くの乗り換えを始めたおかげで、UDP-205が中古市場で入手し易くなったのだとか。
UDP-205は、様々なサラウンド設定が可能で音質のみならず機能面でもその高いユニヴァーサリティということで優れもの。先ずは、SACDを何枚かサラウンド再生で聴かせていただいた。
比較は、その設定の変更。
これで同じSACDを2ch再生で聴く。……これには仰天!
まったく違う録音を聴いていると思えるくらいに違う。素晴らしい音質と立体感。
この設定は、どういうものかというと多岐にわたるサラウンド設定機能をバイパスしてしまうこと。だから、5.1chサラウンド再生はできない。その代わりに、SACD 2-track DSDの素のままの音が聴ける。
設定機能をスルーすると、これほどまでに音が良くなるのか!ということ。逆に、様々な設定機能を使うということは、DSD信号をいったんPCM信号に変更しているということ。PCMでなければDSPは不可能。このPCM変換とDSPが結局は音の鮮度を落としてしまう。
あまりの違いに驚いてしまいます。いったい今まで聴いていたのは何だったのかという気分。ベルイマンさんは、私の感想を聞いて、やっぱりそうですか…とちょっと暗い表情。
比較 その2
ベルイマンさんはパワーアンプの新規導入を検討中。最も気に入ったA社のアンプの導入を決めて、ショップ貸出で試聴中。選択肢は、a.フラッグシップの大パワーアンプと、b.ワングレード下のアンプ。
SACDのみならず私の持参したCDを中心に試聴。
一通り聴いたところで、アンプを入れ換える。何しろ50キロぐらいありそうなアンプを30キロぐらいのものに入れ換える。持ち上げるだけでも大変なこと。それにしても、a.とb.とでは、出力は300W/8Ωと150W/8Ω、価格だって倍半分の違いがある。同じメーカーの現行品だから、それは値段次第だろう。それを、あえて聴き較べするというのだから、何か含むところがあるのだろう。
聴いてみて、これまた意外で驚いた。
出力も価格も半分のb.の方が、音の色艶に優れていて明らかに表情が豊か。
その差はごくわずかだろうと予測したけれど、「聴いたとたんに勝負あったという感じですね」と言うと、ベルイマンさんもやっぱりそうですかとうなずく。これは、安いに越したことはないから、とてもうれしそう。ハンドリングも楽だし、拡張性も有利だ。
ベルイマンさんは、大変な爆音派。しかもスピーカーは大変なローインピーダンスで帯域によっては2Ωを下回る。a.も、b.も、もちろん目いっぱいの爆音で同じ音量での比較試聴。それでも、b.はビクともしない。つまりはa.の出力はオーバースペックに過ぎないということ。
こういうフラッグシップとの逆転は、ままあることでそれほど驚かないが、こんなにあからさまだということは意外でした。
では、なぜ、そのようなことが起こるのか?これは私の推測だけれども、パラレルプッシュプルの弊害だとしか思えない。a.の出力段は、10パラレル・プッシュプル。出力半分のb.は、6パラレル。
パラレルなんて、やらないほうが良い。ベストはシングルだ。それでも出力面で素子の限界はあるのでパラレルにせざるを得ないとしても、それは数が少ない方がよい。どんな優れた素子であっても個体のバラツキは避けられない。回路設計や実装面でも数が多くなればなるほど難しい。
少なければ少ないほどよい――そう思っています。
そのことがこれほど如実に出るのかと驚きましたし、メーカーというものはそれが音質面であからさまに出ても構わずカタログをそろえるのだということは意外でした。
ちょっとした比較の検証。まあ、体の良い検聴とか比較試聴のすり合わせというわけですが、その結果に驚愕しました。
比較 その1
OPPOのユニヴァーサルプレーヤーの設定変更。
OPPO UDP-205は、あらゆるディスクメディアのあらゆるフォーマットを高音質で再生できると人気の高かったユニヴァーサルプレーヤー。ところがOPPOは、その1年後に突如ユニバーサルプレーヤーの新規製品の企画・開発中止を発表し、このUDP-205も生産中止となりました。
それが、OPPOのエンジニアリングを引き継いだプレーヤーがまた新たに登場したそうだ。それでマニアの多くの乗り換えを始めたおかげで、UDP-205が中古市場で入手し易くなったのだとか。
UDP-205は、様々なサラウンド設定が可能で音質のみならず機能面でもその高いユニヴァーサリティということで優れもの。先ずは、SACDを何枚かサラウンド再生で聴かせていただいた。
比較は、その設定の変更。
これで同じSACDを2ch再生で聴く。……これには仰天!
まったく違う録音を聴いていると思えるくらいに違う。素晴らしい音質と立体感。
この設定は、どういうものかというと多岐にわたるサラウンド設定機能をバイパスしてしまうこと。だから、5.1chサラウンド再生はできない。その代わりに、SACD 2-track DSDの素のままの音が聴ける。
設定機能をスルーすると、これほどまでに音が良くなるのか!ということ。逆に、様々な設定機能を使うということは、DSD信号をいったんPCM信号に変更しているということ。PCMでなければDSPは不可能。このPCM変換とDSPが結局は音の鮮度を落としてしまう。
あまりの違いに驚いてしまいます。いったい今まで聴いていたのは何だったのかという気分。ベルイマンさんは、私の感想を聞いて、やっぱりそうですか…とちょっと暗い表情。
比較 その2
ベルイマンさんはパワーアンプの新規導入を検討中。最も気に入ったA社のアンプの導入を決めて、ショップ貸出で試聴中。選択肢は、a.フラッグシップの大パワーアンプと、b.ワングレード下のアンプ。
SACDのみならず私の持参したCDを中心に試聴。
一通り聴いたところで、アンプを入れ換える。何しろ50キロぐらいありそうなアンプを30キロぐらいのものに入れ換える。持ち上げるだけでも大変なこと。それにしても、a.とb.とでは、出力は300W/8Ωと150W/8Ω、価格だって倍半分の違いがある。同じメーカーの現行品だから、それは値段次第だろう。それを、あえて聴き較べするというのだから、何か含むところがあるのだろう。
聴いてみて、これまた意外で驚いた。
出力も価格も半分のb.の方が、音の色艶に優れていて明らかに表情が豊か。
その差はごくわずかだろうと予測したけれど、「聴いたとたんに勝負あったという感じですね」と言うと、ベルイマンさんもやっぱりそうですかとうなずく。これは、安いに越したことはないから、とてもうれしそう。ハンドリングも楽だし、拡張性も有利だ。
ベルイマンさんは、大変な爆音派。しかもスピーカーは大変なローインピーダンスで帯域によっては2Ωを下回る。a.も、b.も、もちろん目いっぱいの爆音で同じ音量での比較試聴。それでも、b.はビクともしない。つまりはa.の出力はオーバースペックに過ぎないということ。
こういうフラッグシップとの逆転は、ままあることでそれほど驚かないが、こんなにあからさまだということは意外でした。
では、なぜ、そのようなことが起こるのか?これは私の推測だけれども、パラレルプッシュプルの弊害だとしか思えない。a.の出力段は、10パラレル・プッシュプル。出力半分のb.は、6パラレル。
パラレルなんて、やらないほうが良い。ベストはシングルだ。それでも出力面で素子の限界はあるのでパラレルにせざるを得ないとしても、それは数が少ない方がよい。どんな優れた素子であっても個体のバラツキは避けられない。回路設計や実装面でも数が多くなればなるほど難しい。
少なければ少ないほどよい――そう思っています。
そのことがこれほど如実に出るのかと驚きましたし、メーカーというものはそれが音質面であからさまに出ても構わずカタログをそろえるのだということは意外でした。
締めは清水和音の熱情 (清水和音の名曲ラウンジ) [コンサート]
東京藝術劇場は今年9月末から約一年休館となるそうです。
それで、この「清水和音の名曲ラウンジ」シリーズもしばらくお休み。それで、今回はその締めということで、清水和音さんが最後に「熱情」を弾くというわけです。
今回のゲストは、藤江扶紀さん。
東京芸大を卒業後、ローム音楽財団の奨学生として渡仏。パリ・コンセルヴァトワール大学院を修了後もフランスを拠点に活躍。2018年からはトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団のコンサートマスターを務めています。
このシリーズの常連の一人ですが、年に一回の出演。なぜかいつも夏の暑い時期になるのは、フランスのお勤めが明けるバカンスだからでしょうか。清水さんが、せっかくのパリ・オリンピックなのにとツッコミを入れても、トゥールーズは、フランスといってもパリから遠い田舎ですから静かですと涼しいお顔。
今年の1月には、N響のゲスト・コンサートマスターも務めています。客演指揮者は、かつてトゥールーズ・キャピトル国立管の音楽監督だったトゥガン・ソヒエフ。よく知った間柄でN響とのコミュニケーションのサポート役ということだったのでしょう。
ここにも清水さんが、N響のコンマスって大変でしょう?とツッコミ。
まあ、何となくN響団員の優等生体質を皮肉るような質問でもあったわけですが、藤江さんは、どこの楽団であってもコンマスは難しい大役ですと軽くいなしておいて、フランスと日本の音楽気質の違いをさらり。
「N響は技術的に高いのにとても控えめ。ひとたび指揮者の意図を理解し共感すると一丸となって凄い演奏をする。フランスでは、その逆でひとりひとりが目立ちたがりで指揮者がそれをコントロールするのが大変です。」
「N響では指揮者はずっと積極的に引っ張る必要があるけど、フランスではもっぱら抑え役。そうでないととんでもない演奏になってしまう。」
日本人の技術偏重の優等生気質と、フランス人の自由で互いの干渉を嫌う個人主義気質は、オーケストラの組織でもとても対照的なようです。それをどうするかがコンサートマスターのマネジメントというわけです。
藤江さんのヴァイオリンは、細身でとても純度の高い音色。
モーツァルトのK304もベートーヴェンのスプリングソナタも、どちらも大好きな名曲中の名曲。共に、とてもフランス的な気質の音楽で、藤江さんのヴァイオリンにぴったり。清水さんとの音色的な調和も完璧で、すばらしい演奏でした。
締めは、清水さんの独奏で「熱情」。
このコンサートシリーズは、昼前の1時間のコンサイスなコンサートでトークも楽しく、ほとんど欠かさず通っていますので、しばらくのお休みはとても残念。来年10月の再開がとても待ち遠しく感じます。
芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第49回「締めは清水和音の熱情」
2024年8月7日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階M列24番)
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタホ 短調調 K.304
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調作品24 「春」
:ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調作品57 「熱情」
藤江 扶紀(Vn) 清水和音(Pf)
それで、この「清水和音の名曲ラウンジ」シリーズもしばらくお休み。それで、今回はその締めということで、清水和音さんが最後に「熱情」を弾くというわけです。
今回のゲストは、藤江扶紀さん。
東京芸大を卒業後、ローム音楽財団の奨学生として渡仏。パリ・コンセルヴァトワール大学院を修了後もフランスを拠点に活躍。2018年からはトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団のコンサートマスターを務めています。
このシリーズの常連の一人ですが、年に一回の出演。なぜかいつも夏の暑い時期になるのは、フランスのお勤めが明けるバカンスだからでしょうか。清水さんが、せっかくのパリ・オリンピックなのにとツッコミを入れても、トゥールーズは、フランスといってもパリから遠い田舎ですから静かですと涼しいお顔。
今年の1月には、N響のゲスト・コンサートマスターも務めています。客演指揮者は、かつてトゥールーズ・キャピトル国立管の音楽監督だったトゥガン・ソヒエフ。よく知った間柄でN響とのコミュニケーションのサポート役ということだったのでしょう。
ここにも清水さんが、N響のコンマスって大変でしょう?とツッコミ。
まあ、何となくN響団員の優等生体質を皮肉るような質問でもあったわけですが、藤江さんは、どこの楽団であってもコンマスは難しい大役ですと軽くいなしておいて、フランスと日本の音楽気質の違いをさらり。
「N響は技術的に高いのにとても控えめ。ひとたび指揮者の意図を理解し共感すると一丸となって凄い演奏をする。フランスでは、その逆でひとりひとりが目立ちたがりで指揮者がそれをコントロールするのが大変です。」
「N響では指揮者はずっと積極的に引っ張る必要があるけど、フランスではもっぱら抑え役。そうでないととんでもない演奏になってしまう。」
日本人の技術偏重の優等生気質と、フランス人の自由で互いの干渉を嫌う個人主義気質は、オーケストラの組織でもとても対照的なようです。それをどうするかがコンサートマスターのマネジメントというわけです。
藤江さんのヴァイオリンは、細身でとても純度の高い音色。
モーツァルトのK304もベートーヴェンのスプリングソナタも、どちらも大好きな名曲中の名曲。共に、とてもフランス的な気質の音楽で、藤江さんのヴァイオリンにぴったり。清水さんとの音色的な調和も完璧で、すばらしい演奏でした。
締めは、清水さんの独奏で「熱情」。
このコンサートシリーズは、昼前の1時間のコンサイスなコンサートでトークも楽しく、ほとんど欠かさず通っていますので、しばらくのお休みはとても残念。来年10月の再開がとても待ち遠しく感じます。
芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第49回「締めは清水和音の熱情」
2024年8月7日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階M列24番)
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタホ 短調調 K.304
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調作品24 「春」
:ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調作品57 「熱情」
藤江 扶紀(Vn) 清水和音(Pf)
最後の3つのソナタ (アンティ・シーララ) [コンサート]
アンティ・シーララは、ベートーヴェンのスペシャリストなんだそうです。
その剛毅剛直なベートーヴェンに度肝を抜かれる思いがしました。まさに鋼鉄のピアノ。大曲三曲を5分間の小休憩を挟みながら一気に弾ききってしまう。
ベートーヴェンのソナタのなかでも、最後の3つのソナタは、究極的で対比的な二極世界。しかも、3曲が相互に呼応し合うような壮大な内面ドラマを持っています。
そのコントラストがあまりに激しい部分があるので、この曲を聴くときには、思わず居住まいを正して身構えてしまいますし、どのように演奏するのかと固唾を呑んでしまうところがあります。
それだけに、その極端なコントラストを音楽の流れのなかで、どう折り合いをつけてバランスさせ、心情のドラマをどう決着をつけるのかが問われる。
かつては、剛直さと厳粛さというドイツ的な観念論の枠内でこの三部作を捉えていましたが、いつの頃からか、むしろ、フランス的な美学的な造形のなかで受け止めるようになりました――突き進むような高揚感から、一転するように内省的で恍惚と静かな陶酔の高みの世界への昇華。
好きな演奏は、ジャン=ベルナール・ポミエのようなフレンチ・ピアニズム。
むしろモーツァルト的な、天から光がふり注いでくるような音楽。グリモーだってそこは共通していて、透明で芯のある美音。ポリーニだって晩年になるほどそういう方向に向かっていった気がします。あのギレリスでさえもが、突然の死で全ソナタの録音は完成しませんでしたが、とても優しさにみちた美音の連なりを奏でていました――決して鋼鉄のピアノではありません。
シーララの演奏は、その対極。
シーララは、何度も来日を重ねているらしいのですが個人的には初めて聴きました。いったいどんなことになるのかいろいろと妄想をめぐらしていたのですが、その剛直そのもののベートーヴェンにしばらくは呆然としてなかなか言葉が出ませんでした。
聴き終わっても、なかなか心の中で折り合いがつきません。
そこで、聴き直してみたのが「鍵盤の獅子王」と言われたバックハウス。
かつての巨匠姓がもてはやされた時代のヴィルティオーソはどのような演奏をしていたのだろうかと確かめたくなったのです。古びたモノーラルレコードを引っ張り出して、聴いてみました。すると意外なことに、節度のあるダイナミックスです。最後の作品111の冒頭のたたきつけるような強和音も、現代のピアニストと変わらない。当時のヴィルティオージティは、むしろ、後半の速めのテンポの取り方にあったようです。速いパッセージで細やかなリズムと色彩のテンペラメントのアラベスク模様のなかに長大な歌唱やフーガの高揚を紡ぎ出していく。バックハウスは、当時すでに70歳を超えていましたが、大変な技術です。
シーララの演奏は、あまりにも打鍵が強く激しいので、二極世界の均衡感覚を一気に打ち砕いてしまう。後半の叙情世界がなかなかバランスがとれない。どうしても単調になってしまう。
作品109の冒頭も、軽やかで柔和な音楽が強烈な和音で打ち破られる。強い厳しいベートーヴェン。第2楽章も強靱なスケルツォ。フィナーレの第3楽章は、美しい安息の変奏と、そこから覚醒するようなフーガ……闘争からの解脱というような終末感ではなく、もっとロマンチックなバラードの物語世界へと導いていくような演奏解釈と言えるでしょうか。
もしかしたら、過去のピアニズムでは実現し得なかった、未来的な新しい「最後の三つのソナタ」なのかもしれません。未完成という印象はどうしても否めませんが(特に後半の叙情性)、これからの熟成が楽しみ。ベートーヴェン演奏の今後としても、ちょっと目が離せないピアニストなのかもしれません。
第549回日経ミューズサロン
アンティ・シーララ
ピアノ・リサイタル
2024年8月5日(金)18:30~
東京・大手町 日経ホール
(D列24番)
アンティ・シーララ(Antti Siirala)
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
その剛毅剛直なベートーヴェンに度肝を抜かれる思いがしました。まさに鋼鉄のピアノ。大曲三曲を5分間の小休憩を挟みながら一気に弾ききってしまう。
ベートーヴェンのソナタのなかでも、最後の3つのソナタは、究極的で対比的な二極世界。しかも、3曲が相互に呼応し合うような壮大な内面ドラマを持っています。
そのコントラストがあまりに激しい部分があるので、この曲を聴くときには、思わず居住まいを正して身構えてしまいますし、どのように演奏するのかと固唾を呑んでしまうところがあります。
それだけに、その極端なコントラストを音楽の流れのなかで、どう折り合いをつけてバランスさせ、心情のドラマをどう決着をつけるのかが問われる。
かつては、剛直さと厳粛さというドイツ的な観念論の枠内でこの三部作を捉えていましたが、いつの頃からか、むしろ、フランス的な美学的な造形のなかで受け止めるようになりました――突き進むような高揚感から、一転するように内省的で恍惚と静かな陶酔の高みの世界への昇華。
好きな演奏は、ジャン=ベルナール・ポミエのようなフレンチ・ピアニズム。
むしろモーツァルト的な、天から光がふり注いでくるような音楽。グリモーだってそこは共通していて、透明で芯のある美音。ポリーニだって晩年になるほどそういう方向に向かっていった気がします。あのギレリスでさえもが、突然の死で全ソナタの録音は完成しませんでしたが、とても優しさにみちた美音の連なりを奏でていました――決して鋼鉄のピアノではありません。
シーララの演奏は、その対極。
シーララは、何度も来日を重ねているらしいのですが個人的には初めて聴きました。いったいどんなことになるのかいろいろと妄想をめぐらしていたのですが、その剛直そのもののベートーヴェンにしばらくは呆然としてなかなか言葉が出ませんでした。
聴き終わっても、なかなか心の中で折り合いがつきません。
そこで、聴き直してみたのが「鍵盤の獅子王」と言われたバックハウス。
かつての巨匠姓がもてはやされた時代のヴィルティオーソはどのような演奏をしていたのだろうかと確かめたくなったのです。古びたモノーラルレコードを引っ張り出して、聴いてみました。すると意外なことに、節度のあるダイナミックスです。最後の作品111の冒頭のたたきつけるような強和音も、現代のピアニストと変わらない。当時のヴィルティオージティは、むしろ、後半の速めのテンポの取り方にあったようです。速いパッセージで細やかなリズムと色彩のテンペラメントのアラベスク模様のなかに長大な歌唱やフーガの高揚を紡ぎ出していく。バックハウスは、当時すでに70歳を超えていましたが、大変な技術です。
シーララの演奏は、あまりにも打鍵が強く激しいので、二極世界の均衡感覚を一気に打ち砕いてしまう。後半の叙情世界がなかなかバランスがとれない。どうしても単調になってしまう。
作品109の冒頭も、軽やかで柔和な音楽が強烈な和音で打ち破られる。強い厳しいベートーヴェン。第2楽章も強靱なスケルツォ。フィナーレの第3楽章は、美しい安息の変奏と、そこから覚醒するようなフーガ……闘争からの解脱というような終末感ではなく、もっとロマンチックなバラードの物語世界へと導いていくような演奏解釈と言えるでしょうか。
もしかしたら、過去のピアニズムでは実現し得なかった、未来的な新しい「最後の三つのソナタ」なのかもしれません。未完成という印象はどうしても否めませんが(特に後半の叙情性)、これからの熟成が楽しみ。ベートーヴェン演奏の今後としても、ちょっと目が離せないピアニストなのかもしれません。
第549回日経ミューズサロン
アンティ・シーララ
ピアノ・リサイタル
2024年8月5日(金)18:30~
東京・大手町 日経ホール
(D列24番)
アンティ・シーララ(Antti Siirala)
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
「指先から旅をする」(藤田真央 著)読了 [読書]
クラシックファンなら知らぬ人はいないだろう。あっという間に世界で活躍するトップアーティストになった藤田真央。ちょっと規格外の天才で、その天然なキャラクターが、ベストセラー小説の映画化「蜜蜂と遠雷」で演奏を担当した風間塵そのものに重なり合う。映画公開の同じ年に、チャイコフスキー・コンクールで二位入賞を果たして、ちょっとしたアイドルになった。
もともとは、「WEB別冊文芸春秋」に連載されたもの。21年のインタビューをきっかけに連載が始まり、それから23年にかけての2年間の身の回りの出来事やつれづれの思いを綴ったもの。ベルリンに拠点を移したタイミングで、そこからヨーロッパ各地で引っ張りだこになるから、旅日記といった風もあってとてもヴィジュアル。気取らず飾らない文章の軽やかなリズムが心地よい。
アイドルに、写真たっぷりの日記風のエッセイを書かせるというのは、よくある出版パターンだけれども、そのアイドルがクラシックのピアニストだというだけでなく、その連載時にたちどころに世界的な人気ピアニストになってしまうという、その同時性がとてつもなくユニーク。
たった2年間の記録なのに、その間の成長と変貌は著しい。
ともすれば、クラシック音楽というものはスノッブで教養主義的な権威を振りかざしかねない。この若き人気ピアニストは、高名な音楽家との交流の日常を通じて赤裸々な音楽的成長を映し出していく。ちょっと大げさに言えば、海底火山の噴火と日々刻々と姿を変えていく火山島の動画でも見ているようなもの。
若いから、協奏曲でソロをとっても熟達のマエストロたちからはけっこうきつい直言やご指導を受ける。綱渡りのようなスケジュールで、同じ曲であっても共演の相手も違うし、気候も体調も違うなかで、自分自身、出来不出来もあるし気分や相性によっては演奏のコンセプトも変わる。初日と二日目で演奏も変わる。ある街では満員の大成功であっても、所変われば知名度が浸透しておらず、半分も入っていないということも。プログラムビルディングへのこだわりや、モーツァルト、ショパンなどへの思いも、2年間の経験を通じて日々揺れ動き、ちょっとずつ変貌していく。
そんなこともさっぱりと語っている。けれどその内実はとても赤裸々。
恩師の野島稔を別格とすれば、敬愛してやまないピアニストは、一にプレトニョフ、二にミケランジェリだそうだ。特にプレトニョフは現役だし、ヴェルヴィエなどで間近に接しているだけに、スリリングで生々しいエピソードを紹介している。プレトニョフは、日本ではさほどの敬愛を受けていない気がする。個人的にはプレトニョフには絶対的な尊敬を抱いているので、この辺りの記述はとても興味深く、うれしかった。
とにかく藤田真央が大好きというファンはもちろん、ディープなクラシックファンを自任する向きも、クラシック好きには誰にでもお勧めしたい好著。
指先から旅をする
藤田真央
文藝春秋
2023-12-10 第一刷
もともとは、「WEB別冊文芸春秋」に連載されたもの。21年のインタビューをきっかけに連載が始まり、それから23年にかけての2年間の身の回りの出来事やつれづれの思いを綴ったもの。ベルリンに拠点を移したタイミングで、そこからヨーロッパ各地で引っ張りだこになるから、旅日記といった風もあってとてもヴィジュアル。気取らず飾らない文章の軽やかなリズムが心地よい。
アイドルに、写真たっぷりの日記風のエッセイを書かせるというのは、よくある出版パターンだけれども、そのアイドルがクラシックのピアニストだというだけでなく、その連載時にたちどころに世界的な人気ピアニストになってしまうという、その同時性がとてつもなくユニーク。
たった2年間の記録なのに、その間の成長と変貌は著しい。
ともすれば、クラシック音楽というものはスノッブで教養主義的な権威を振りかざしかねない。この若き人気ピアニストは、高名な音楽家との交流の日常を通じて赤裸々な音楽的成長を映し出していく。ちょっと大げさに言えば、海底火山の噴火と日々刻々と姿を変えていく火山島の動画でも見ているようなもの。
若いから、協奏曲でソロをとっても熟達のマエストロたちからはけっこうきつい直言やご指導を受ける。綱渡りのようなスケジュールで、同じ曲であっても共演の相手も違うし、気候も体調も違うなかで、自分自身、出来不出来もあるし気分や相性によっては演奏のコンセプトも変わる。初日と二日目で演奏も変わる。ある街では満員の大成功であっても、所変われば知名度が浸透しておらず、半分も入っていないということも。プログラムビルディングへのこだわりや、モーツァルト、ショパンなどへの思いも、2年間の経験を通じて日々揺れ動き、ちょっとずつ変貌していく。
そんなこともさっぱりと語っている。けれどその内実はとても赤裸々。
恩師の野島稔を別格とすれば、敬愛してやまないピアニストは、一にプレトニョフ、二にミケランジェリだそうだ。特にプレトニョフは現役だし、ヴェルヴィエなどで間近に接しているだけに、スリリングで生々しいエピソードを紹介している。プレトニョフは、日本ではさほどの敬愛を受けていない気がする。個人的にはプレトニョフには絶対的な尊敬を抱いているので、この辺りの記述はとても興味深く、うれしかった。
とにかく藤田真央が大好きというファンはもちろん、ディープなクラシックファンを自任する向きも、クラシック好きには誰にでもお勧めしたい好著。
指先から旅をする
藤田真央
文藝春秋
2023-12-10 第一刷
タグ:藤田真央
「紅珊瑚の島に浜茄子が咲く」(山本貴之 著)読了 [読書]
第15回日経小説大賞受賞作。
江戸時代後期の奥州を舞台に繰り広げられる極上の歴史ミステリー。
選考委員3氏の全会一致での選出だったそうだ。なるほど、謎解きとほのかな男女愛の機微とを絡ませた筆致はエンタテインメントとして見事で、そこに幕末時代の幕藩体制の揺らぎとその背景を描いていて経済小説的な面白さがある。
江戸時代後期、文化文政の世。小藩の四男、部屋住みの響四郎は、羽州新田藩の継嗣として迎えられる。外様とはいえ大藩である羽州藩支藩への末期養子。それは幕閣の出世頭である浜松藩主・水野忠邦の斡旋によるもの。新田藩が預かる幕府直轄の島では、蝦夷地の花として知られる浜茄子が咲くという。この異例の斡旋には、この島の謎めいた内情を探らせるという密命めいた使命を帯びていた。近習の中条新之助は、響四郎につき従って新田藩に赴く。
筆者は、東京大法卒、ジョージタウン大学法学修士。銀行勤務の後、コンサルティング会社を経て、現在は北海道で空港運営に携わるという元サラリーマン作家。
物語は、もう一本の筋である紙問屋の若女将千代と響四郎が、根津権現で出会うことから始まる。筆者は、学生時代の下宿から根津神社の境内の庭を日々散策し、風趣豊かな情景に接し慣れ親しんでいたという。
羽州藩とはおそらく米沢藩をモデルにしているのだろう。新潟県沖には、粟島(あわしま)という島があって江戸時代には村上藩から天領となり庄内藩預かりとなっていて、その統治の歴史は複雑だったようだ。筆者は、そこに北海道と畿内、長崎を結ぶ北前船の物流航路の隠された要衝とその利権を想定したというわけだ。筆者が日頃暮らす雪深い北海道の風物を重ね合わせたことで、鮮やかなリアリティを生んでいる。
主流を外れて、取引先や関係会社に出向させられ、孤立無援のなかで、内々に潜んだ慣行や不正に向き合わざるを得ないというのは、サラリーマン人生にはありがちなこと。幕藩体制末期なら、藩主といえどもそういう天下り、派遣されたサラリーマン役員と変わらない。誰が敵か味方なのか、何を自分に期待されているのかもわからないというシチュエーションは、サラリーマンにとってあるあるの世界だが、それを時代小説に取り込んだところがユニーク。しかも成功している。
そんな現代人の共感を呼び込みながらの謎解きに一気に読み進み、その晴れやかな結末と、さわやかな読後感もなかなかに良い。
紅珊瑚の島に浜茄子が咲く
山本貴之 (著)
日経新聞出版
2024-3-1 第一刷
江戸時代後期の奥州を舞台に繰り広げられる極上の歴史ミステリー。
選考委員3氏の全会一致での選出だったそうだ。なるほど、謎解きとほのかな男女愛の機微とを絡ませた筆致はエンタテインメントとして見事で、そこに幕末時代の幕藩体制の揺らぎとその背景を描いていて経済小説的な面白さがある。
江戸時代後期、文化文政の世。小藩の四男、部屋住みの響四郎は、羽州新田藩の継嗣として迎えられる。外様とはいえ大藩である羽州藩支藩への末期養子。それは幕閣の出世頭である浜松藩主・水野忠邦の斡旋によるもの。新田藩が預かる幕府直轄の島では、蝦夷地の花として知られる浜茄子が咲くという。この異例の斡旋には、この島の謎めいた内情を探らせるという密命めいた使命を帯びていた。近習の中条新之助は、響四郎につき従って新田藩に赴く。
筆者は、東京大法卒、ジョージタウン大学法学修士。銀行勤務の後、コンサルティング会社を経て、現在は北海道で空港運営に携わるという元サラリーマン作家。
物語は、もう一本の筋である紙問屋の若女将千代と響四郎が、根津権現で出会うことから始まる。筆者は、学生時代の下宿から根津神社の境内の庭を日々散策し、風趣豊かな情景に接し慣れ親しんでいたという。
羽州藩とはおそらく米沢藩をモデルにしているのだろう。新潟県沖には、粟島(あわしま)という島があって江戸時代には村上藩から天領となり庄内藩預かりとなっていて、その統治の歴史は複雑だったようだ。筆者は、そこに北海道と畿内、長崎を結ぶ北前船の物流航路の隠された要衝とその利権を想定したというわけだ。筆者が日頃暮らす雪深い北海道の風物を重ね合わせたことで、鮮やかなリアリティを生んでいる。
主流を外れて、取引先や関係会社に出向させられ、孤立無援のなかで、内々に潜んだ慣行や不正に向き合わざるを得ないというのは、サラリーマン人生にはありがちなこと。幕藩体制末期なら、藩主といえどもそういう天下り、派遣されたサラリーマン役員と変わらない。誰が敵か味方なのか、何を自分に期待されているのかもわからないというシチュエーションは、サラリーマンにとってあるあるの世界だが、それを時代小説に取り込んだところがユニーク。しかも成功している。
そんな現代人の共感を呼び込みながらの謎解きに一気に読み進み、その晴れやかな結末と、さわやかな読後感もなかなかに良い。
紅珊瑚の島に浜茄子が咲く
山本貴之 (著)
日経新聞出版
2024-3-1 第一刷