ウィーンの濃厚な夜 (葵トリオ@ピアノ・トリオ・フェスティバル) [コンサート]
すごいプログラム、すごい演奏、すごい音楽でした。
世紀末から20世紀初頭にかけての成熟しきったウィーンの伝統音楽が産み落とした天才と鬼才たちの音楽。ピアノ三重奏曲という濃密に凝縮された音楽の原子核のような編成だからこそ表現できた《濃密な夜》の音楽。
ツェムリンスキーは、マーラーとシェーンベルクの分岐にいた人。その音楽は、マーラー的な最後期ロマン派の極致のような濃密で官能の音楽。このピアノ三重奏曲は、そういう彼の出発点のような曲だそうだ。本来はクラリネット三重奏曲で、作曲コンクールで入賞した曲をブラームスの推薦で出版された。その際に、ピアノ三重奏曲に変更された。息の長い旋律線はそういうことなのかと納得する。
葵トリオは、濃密な融合と混淆の音楽を創り出す。従来は、三人の個性がぶつかり合う丁々発止の演奏といった印象だったのですが、この夜はそういう上昇感覚とは真逆で、溶融して滴り落ちるような響きの濃厚な味わいが素晴らしい。秋元のピアノは、力強い剛直なピアノでありながら同時に二人の弦楽器に不思議なほど染み込んでしまう。擦弦楽器という自分とは体質の違う音色の陰となり華となり、その響きの矛盾のない一体感が凄い。
だから、のっけからウィーンの闇と光のような音楽にノックアウト。
二曲目のコルンゴルドは、このピアノ三重奏曲を13歳の時に作曲したのだという。信じられないような神童ぶり。天才というのは、前後の脈絡もなく登場するわけではないと思う。やはりそれだけの文化・文明の成熟があってこそ産み落とされるのが天才。この早熟の音楽も、時間軸や空間の座標軸を喪っているかのような音楽。強烈なまでの完成度の部分部分が際限もなく次から次へと繰り出され、それらが見事なまでに構成されていて、…だからこそ居所がつかめないような清潔さと浮遊感がある。
眼前に神童がいるわけではないのに、やはり、何かとんでもなく珍しいものを観ているような高揚感があって、実のところこの夜、一番客席が盛り上がって大喝采となったのはこの13歳のコルンゴルドの曲でした。
さて…
この夜の中核は、やっぱり、シェーンベルク。
「浄夜」は、シェーンベルク初期の傑作。無調音楽以前の様式だがシェ-ンベルク畢竟の傑作。彼はこの曲だけで一生糊口を凌ぐことができたそうで、それだけに様々な編成の版があり編曲版も多い。もちろんピアノ三重奏曲版というのは初めて。
客席は照明が落とされ、ステージだけは深更の月夜の晩のようにほのかに青白く照らし出されている。
ツェムリンスキー、コルンゴルドと聴かされてきた心理的効果は強烈で、ピアノ三重奏という音のカラクリにもすっかり耳が馴染んでいるという効果も抜群。やはり、そういう音響の魔術の中心にいるのが秋元のピアノ。この日の秋元は、まるで人格が変わったかのように凄味がある。弦楽器に溶け込むピアノの帯域と音量のダイナミックが、厚みのある音響となって音楽全体を支え、そこに浮き上がってくる小川のヴァイオリンの琴線が情感にあふれ美しく、伊藤のチェロの甘く艶やかな色が何とも艶めかしい。
弦楽オーケストラでは、霧や靄のかかったようなかすんだものになってしまうが、葵トリオは晩秋のくっきりと冷ややかな月明かりの下、男女の心の葛藤を直截に照らし出す。そのテンションの高さと集中力が凄まじく、それがこれだけ長い時間ずっとそのままに保たれることに凄味を感じる。客席は、終始、静まりかえりしわぶきひとつ聞こえないほど。演奏が終わってもその静寂に圧倒されたかのようで、なかなか拍手が始まりませんでした。
アンコールは、そういう空気の重たさを推し量ったような軽妙なモーツァルト。ウィーンの神童・天才といえば、やはりここに帰って行くのでしょうか。心がほぐれて解放されたような、ほっとした瞬間でした。
ベテランのトリオ・ヴァンダラー、そして気鋭の葵トリオと続いて、シリーズ最後、は金川真弓、佐藤晴真、久末航という若手のオールスタートリオ。このシリーズは目が離せません。
ピアノ・トリオ・フェスティヴァル2024-Ⅱ
葵トリオ
紀尾井レジデント・シリーズ Ⅰ 特別回
秋元孝介(ピアノ)
小川響子(ヴァイオリン)
伊東 裕(チェロ)
2024年10月3日(木)19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階9列9番)
ツェムリンスキー:ピアノ三重奏曲ニ短調 op.3
コルンゴルト:ピアノ三重奏曲ニ長調 op.1
シェーンベルク:浄夜 op.4(ピアノ三重奏版)
エドゥアルト・シュトイアーマン編曲 [シェーンベルク生誕150周年記念]
(アンコール)
モーツァルト:ピアノ三重奏曲ト長調 K.561より第三楽章アレグレット
世紀末から20世紀初頭にかけての成熟しきったウィーンの伝統音楽が産み落とした天才と鬼才たちの音楽。ピアノ三重奏曲という濃密に凝縮された音楽の原子核のような編成だからこそ表現できた《濃密な夜》の音楽。
ツェムリンスキーは、マーラーとシェーンベルクの分岐にいた人。その音楽は、マーラー的な最後期ロマン派の極致のような濃密で官能の音楽。このピアノ三重奏曲は、そういう彼の出発点のような曲だそうだ。本来はクラリネット三重奏曲で、作曲コンクールで入賞した曲をブラームスの推薦で出版された。その際に、ピアノ三重奏曲に変更された。息の長い旋律線はそういうことなのかと納得する。
葵トリオは、濃密な融合と混淆の音楽を創り出す。従来は、三人の個性がぶつかり合う丁々発止の演奏といった印象だったのですが、この夜はそういう上昇感覚とは真逆で、溶融して滴り落ちるような響きの濃厚な味わいが素晴らしい。秋元のピアノは、力強い剛直なピアノでありながら同時に二人の弦楽器に不思議なほど染み込んでしまう。擦弦楽器という自分とは体質の違う音色の陰となり華となり、その響きの矛盾のない一体感が凄い。
だから、のっけからウィーンの闇と光のような音楽にノックアウト。
二曲目のコルンゴルドは、このピアノ三重奏曲を13歳の時に作曲したのだという。信じられないような神童ぶり。天才というのは、前後の脈絡もなく登場するわけではないと思う。やはりそれだけの文化・文明の成熟があってこそ産み落とされるのが天才。この早熟の音楽も、時間軸や空間の座標軸を喪っているかのような音楽。強烈なまでの完成度の部分部分が際限もなく次から次へと繰り出され、それらが見事なまでに構成されていて、…だからこそ居所がつかめないような清潔さと浮遊感がある。
眼前に神童がいるわけではないのに、やはり、何かとんでもなく珍しいものを観ているような高揚感があって、実のところこの夜、一番客席が盛り上がって大喝采となったのはこの13歳のコルンゴルドの曲でした。
さて…
この夜の中核は、やっぱり、シェーンベルク。
「浄夜」は、シェーンベルク初期の傑作。無調音楽以前の様式だがシェ-ンベルク畢竟の傑作。彼はこの曲だけで一生糊口を凌ぐことができたそうで、それだけに様々な編成の版があり編曲版も多い。もちろんピアノ三重奏曲版というのは初めて。
客席は照明が落とされ、ステージだけは深更の月夜の晩のようにほのかに青白く照らし出されている。
ツェムリンスキー、コルンゴルドと聴かされてきた心理的効果は強烈で、ピアノ三重奏という音のカラクリにもすっかり耳が馴染んでいるという効果も抜群。やはり、そういう音響の魔術の中心にいるのが秋元のピアノ。この日の秋元は、まるで人格が変わったかのように凄味がある。弦楽器に溶け込むピアノの帯域と音量のダイナミックが、厚みのある音響となって音楽全体を支え、そこに浮き上がってくる小川のヴァイオリンの琴線が情感にあふれ美しく、伊藤のチェロの甘く艶やかな色が何とも艶めかしい。
弦楽オーケストラでは、霧や靄のかかったようなかすんだものになってしまうが、葵トリオは晩秋のくっきりと冷ややかな月明かりの下、男女の心の葛藤を直截に照らし出す。そのテンションの高さと集中力が凄まじく、それがこれだけ長い時間ずっとそのままに保たれることに凄味を感じる。客席は、終始、静まりかえりしわぶきひとつ聞こえないほど。演奏が終わってもその静寂に圧倒されたかのようで、なかなか拍手が始まりませんでした。
アンコールは、そういう空気の重たさを推し量ったような軽妙なモーツァルト。ウィーンの神童・天才といえば、やはりここに帰って行くのでしょうか。心がほぐれて解放されたような、ほっとした瞬間でした。
ベテランのトリオ・ヴァンダラー、そして気鋭の葵トリオと続いて、シリーズ最後、は金川真弓、佐藤晴真、久末航という若手のオールスタートリオ。このシリーズは目が離せません。
ピアノ・トリオ・フェスティヴァル2024-Ⅱ
葵トリオ
紀尾井レジデント・シリーズ Ⅰ 特別回
秋元孝介(ピアノ)
小川響子(ヴァイオリン)
伊東 裕(チェロ)
2024年10月3日(木)19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階9列9番)
ツェムリンスキー:ピアノ三重奏曲ニ短調 op.3
コルンゴルト:ピアノ三重奏曲ニ長調 op.1
シェーンベルク:浄夜 op.4(ピアノ三重奏版)
エドゥアルト・シュトイアーマン編曲 [シェーンベルク生誕150周年記念]
(アンコール)
モーツァルト:ピアノ三重奏曲ト長調 K.561より第三楽章アレグレット
ちょいワルと善人のデュオ (芸劇 名曲リサイタル・サロン) [コンサート]
改修でしばしお休みとなる芸劇ブランチコンサートの最終回は大入り満員。1999席完売は、このシリーズでは藤田真央以来の二度目だと思います。
とにかく大人気の石田泰尚。直前にはミューザ川崎に満員御礼の札が下りたし、武道館でも公演を予定しているとか。今回、この石田泰尚の出演の企画は、ナビゲーターの八塩圭子さんお手柄なんだと自らアピール。直々にお願いしたところ、その場で手帳を開いて「あ、空いてる…」のひと言で決まったのだとか(爆笑)。
これほどの人気は、やはり、ちょいワル風の風貌のギャップが魅力だからだろう。口数の少ないぶっきらぼうさと、それでいて演奏には品格があって正統なクラシック――そういうギャップがユニーク。気取らずお高くもとまっていない。実はシャイだと感じさせ、それがクラシック音楽との距離を縮めてくれる。そんなところに幅広いファンを惹き付ける魅力がある。
このシリーズ恒例の食べ物質問にも「朝食は抜き」「好きな料理は《しょうが焼き定食》」と一言しか返ってこない。会場は大笑い。八塩さんもそれにめげず質問を続けるところがさすが。
お相手は、實川 風。
以前、このシリーズに登場した時には、「バッティングセンターのピアニスト」などと失礼なことを申し上げたけれど、その健全な好青年ぶりは相変わらず。これがまた、石田と絶妙なコントラスト。
石田の實川評は、「何でも受け止めてくれる」。
そもそも石田組の人選基準は?問われて、「人柄」のひと言。
一方で、實川の石田評というと、「飛び出してくるような凄い音楽性」「リハーサルと本番でまるで違う」。
つまりは、實川は、どんなクセ球、悪球でも打ち返す器用さがあって、体勢も崩れない。悪球を打ち返しても、實川の健全な音楽性は少しも損なわれない。ちょいワルと善人がみごとに両立する素晴らしいアンサンブル。
だから、シューベルト、モーツァルトからファリャ、ピアソラまで、ドイツ正統の名曲から、ラテン度を徐々に盛り上げていくという音楽の流れにも聴いている方は安心して身を任せることができる。選曲について八塩が質問すると…
石田の回答は「テキトーです」で終わり(大爆笑)。
最後は、實川の編曲で、バッハとピアソラを同時に混ぜくった曲。これまた、ちょいワルと善人の同居みたいな趣向の音楽で、なかなか面白かった。
芸劇ブランチコンサート 名曲リサイタル・サロン
第32回「石田泰尚 & 實川 風」
2024年9月25日(火)11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(31階 D列59番)
ヴァイオリン:石田泰尚
ピアノ:實川 風
ナビゲーター:八塩圭子
シューベルト/アヴェ・マリア
モーツァルト/ヴァイオリン・ソナタ 第25番ト長調 K.301
スメタナ/我が故郷より
第1曲 モデラート
第2曲 アンダンティーノ「ボヘミアの幻想」
ファリャ/スペイン舞曲 火祭りの踊り
ピアソラ/悪魔のロマンス(實川編)
實川 風/トッカティーナ ~バッハとピアソラのテーマによる~
(アンコール)
シュニトケのタンゴ
ラ・クンパルシータ
とにかく大人気の石田泰尚。直前にはミューザ川崎に満員御礼の札が下りたし、武道館でも公演を予定しているとか。今回、この石田泰尚の出演の企画は、ナビゲーターの八塩圭子さんお手柄なんだと自らアピール。直々にお願いしたところ、その場で手帳を開いて「あ、空いてる…」のひと言で決まったのだとか(爆笑)。
これほどの人気は、やはり、ちょいワル風の風貌のギャップが魅力だからだろう。口数の少ないぶっきらぼうさと、それでいて演奏には品格があって正統なクラシック――そういうギャップがユニーク。気取らずお高くもとまっていない。実はシャイだと感じさせ、それがクラシック音楽との距離を縮めてくれる。そんなところに幅広いファンを惹き付ける魅力がある。
このシリーズ恒例の食べ物質問にも「朝食は抜き」「好きな料理は《しょうが焼き定食》」と一言しか返ってこない。会場は大笑い。八塩さんもそれにめげず質問を続けるところがさすが。
お相手は、實川 風。
以前、このシリーズに登場した時には、「バッティングセンターのピアニスト」などと失礼なことを申し上げたけれど、その健全な好青年ぶりは相変わらず。これがまた、石田と絶妙なコントラスト。
石田の實川評は、「何でも受け止めてくれる」。
そもそも石田組の人選基準は?問われて、「人柄」のひと言。
一方で、實川の石田評というと、「飛び出してくるような凄い音楽性」「リハーサルと本番でまるで違う」。
つまりは、實川は、どんなクセ球、悪球でも打ち返す器用さがあって、体勢も崩れない。悪球を打ち返しても、實川の健全な音楽性は少しも損なわれない。ちょいワルと善人がみごとに両立する素晴らしいアンサンブル。
だから、シューベルト、モーツァルトからファリャ、ピアソラまで、ドイツ正統の名曲から、ラテン度を徐々に盛り上げていくという音楽の流れにも聴いている方は安心して身を任せることができる。選曲について八塩が質問すると…
石田の回答は「テキトーです」で終わり(大爆笑)。
最後は、實川の編曲で、バッハとピアソラを同時に混ぜくった曲。これまた、ちょいワルと善人の同居みたいな趣向の音楽で、なかなか面白かった。
芸劇ブランチコンサート 名曲リサイタル・サロン
第32回「石田泰尚 & 實川 風」
2024年9月25日(火)11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(31階 D列59番)
ヴァイオリン:石田泰尚
ピアノ:實川 風
ナビゲーター:八塩圭子
シューベルト/アヴェ・マリア
モーツァルト/ヴァイオリン・ソナタ 第25番ト長調 K.301
スメタナ/我が故郷より
第1曲 モデラート
第2曲 アンダンティーノ「ボヘミアの幻想」
ファリャ/スペイン舞曲 火祭りの踊り
ピアソラ/悪魔のロマンス(實川編)
實川 風/トッカティーナ ~バッハとピアソラのテーマによる~
(アンコール)
シュニトケのタンゴ
ラ・クンパルシータ
フランス近代の厚みと色彩 (紀尾井ホール室内管 定期) [コンサート]
指揮者のデュムソーは、初登場。
その音楽には目からウロコ。フランスの若手だけれど、フランス近現代音楽のエッセンスがぎっしり。
ルーセルの《蜘蛛の饗宴》は、その昔、FM放送で聴いたことがあるというだけ。たぶんマルティノンだと思う。CDも持っていない。もちろんナマで聴くのは初めて。
だから、こういう音楽だったのかと目が醒める思い。若い頃はフランス現代音楽というと前衛的でシュールなものだと思い込んでいました。題名からそんなイメージを連想したのでしょうか。確かに印象派音楽の流れをひく新しい響きに満ちているけれど、とっても暖かみと繊細さを感じさせる音楽。こういう近現代和声を心地よいと感じさせることは、響きのよいこのホールであっても希なこと。
チェロのアルトシュテットは、ドイツ出身だけれどフランス系。紀尾井ホールはこれが二回目。初登場はショスタコーヴィチで、その場で今回の出演が決まったのだとか。音色を自在に操り、色彩の色彩の振幅の大きさは、まさにプロコフィエフにぴったり。パリで隆盛を極めた近現代バレエへの未練が内在しているのではと確かに感じてしまうのは、ルーセルに続いて聴いたからでしょうか。
名手ぞろいのオーケストラが、見事なまでにフランスのエスプリに染め上げられたのは、もちろんデュムソーの卓越したリーダーシップですが、久々の登場となったコンマスの千々岩さんのコミュニケーション力のたまものだと思うのです。
これだけの演奏を聴かされたあとでの、ビゼーがまさに目からウロコだったのです。
近年、政治経済の世界でよく聞かれる言葉に『中間層の厚み』というものがあります。所得階層のなかで中間層の比率が高く安定していることが社会を安定させ、国民経済を強化し、健全な民主主義を支える――それが経済財政政策の目標として掲げられることが多い。
《中間層》とは、かつては《プチ・ブル》《小市民》と蔑称的に呼ばれていました。そもそもがマルクス主義の用語。支配層にもなれず、保守というほどの頑強さもなく、ともすれば頭でっかちのリベラルに走りがちな、どっちつかずの無党派層。
フランス語のプチ(“petite”)には、そういう蔑みの意味合いがありますが、どこか軽い――一方では、その軽さの深層に、人間主義・個人主義的な生きることの懊悩と真理が秘められているように思うのです。そういう『中間層の厚み』が勢いづき、とびきり突出していたのがフランスの近現代ではなかったかと思うのです。
「アルルの女」とは、ファム・ファタールに心を翻弄されてしまう小地主(プチブル)の息子の悲劇。それは「カルメン」と同じ。初演では受け入れられなかったのに、作曲者の死後、古今の名曲になることも共通します。それは、分厚い中間層が形成される過程にあった近代フランスだったからこそだと考えるのです。
ファーブルの「昆虫記」がヒットする背景には、学術的なものというよりも、そういう市民社会の形成・成熟があったと言われます。小昆虫たちを愛する趣味趣向は、すなわちプチを愛でる小市民の嗜好そのもの。デュムソーのルーセルは、そういう個人の夢想の物語をものの見事に表出していました。
もうひとつの「プチ」は、オーケストラの編成とバランス。
今回、紀尾井ホール室内管は、両翼対向・左低弦型8-8-6-4-2 楽譜通りの2管演奏です。2管といえどもホルン4台、コルネット2台、トロンボーン3台も加わった800席の紀尾井ホールのステージいっぱいに拡がった最大級の編成です。
大ホールでのメジャーオーケストラならば、もっと弦のプルト数を増やした大きな編成になりますが、このオリジナル譜通りの小さな(プチ)編成。コントラバスはたったの2台。そのバランスが素晴らしいサウンド効果を上げていました。
その効果というのは、管楽器群が弦楽器群と対等に明確な色彩コントラストを描き出すことの音楽的ドラマです。
そのことは冒頭の前奏曲(第一組曲)から、いきなり目からウロコです。弦楽器群のモノトーンの主題から次々と変奏曲が繰り出されていく。その管楽器のアンサンブルやソロの見事なこと。大ホールの大編成では、こうした管楽器の自立した音色は、埋もれてしまったり、遠い遠景へと追いやられてしまいがち。テンポも少し速めにとっていて個々の楽器のテクスチュアが際立ちます。
そういうことは、あの有名なフルートとハープだけで始まるメヌエット(第二組曲)でも顕著。デュムソーさんは、ここではもはや指揮をせずふたりに任せてしまう。アンコールで繰り返された最後のファランドールでもオーケストラの勢いに任せてほとんど指揮をしない。ラストの二曲は、室内楽的な縮小からオーケストラが大集団となって高揚するその振幅の大きさが見事でした。
そういう室内楽的な自立性、凝縮性と個々の自我が集団となって多彩な膨張を繰り返す近現代のマス大衆文化という点では、まさにプロコフィエフの協奏曲も同じだったのです。その中核にあるのは「中間層の厚み」そのもの。
ピエール・デュムソー、おそるべし。
この人の、フランス近現代歌劇をぜったい聴いてみたいと思いました。そういえばこの髭づらはビゼーに似てなくもない。
紀尾井ホール室内管弦楽団 第140回定期演奏会
2024年9月21日(土) 14:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階C席2列13番)
ニコラ・アルトシュテット(チェロ)
指揮:ピエール・デュムソー
コンサートマスター:千々岩英一
ルーセル:交響的断章《蜘蛛の饗宴》op.17
プロコフィエフ:交響的協奏曲ホ短調 op.125
(アンコール)
バッハ:無伴奏チェロ組曲第一番よりサラバンド
ビゼー:劇付随音楽《アルルの女》第1組曲・第2組曲
(アンコール)
同上よりファランドール
その音楽には目からウロコ。フランスの若手だけれど、フランス近現代音楽のエッセンスがぎっしり。
ルーセルの《蜘蛛の饗宴》は、その昔、FM放送で聴いたことがあるというだけ。たぶんマルティノンだと思う。CDも持っていない。もちろんナマで聴くのは初めて。
だから、こういう音楽だったのかと目が醒める思い。若い頃はフランス現代音楽というと前衛的でシュールなものだと思い込んでいました。題名からそんなイメージを連想したのでしょうか。確かに印象派音楽の流れをひく新しい響きに満ちているけれど、とっても暖かみと繊細さを感じさせる音楽。こういう近現代和声を心地よいと感じさせることは、響きのよいこのホールであっても希なこと。
チェロのアルトシュテットは、ドイツ出身だけれどフランス系。紀尾井ホールはこれが二回目。初登場はショスタコーヴィチで、その場で今回の出演が決まったのだとか。音色を自在に操り、色彩の色彩の振幅の大きさは、まさにプロコフィエフにぴったり。パリで隆盛を極めた近現代バレエへの未練が内在しているのではと確かに感じてしまうのは、ルーセルに続いて聴いたからでしょうか。
名手ぞろいのオーケストラが、見事なまでにフランスのエスプリに染め上げられたのは、もちろんデュムソーの卓越したリーダーシップですが、久々の登場となったコンマスの千々岩さんのコミュニケーション力のたまものだと思うのです。
これだけの演奏を聴かされたあとでの、ビゼーがまさに目からウロコだったのです。
近年、政治経済の世界でよく聞かれる言葉に『中間層の厚み』というものがあります。所得階層のなかで中間層の比率が高く安定していることが社会を安定させ、国民経済を強化し、健全な民主主義を支える――それが経済財政政策の目標として掲げられることが多い。
《中間層》とは、かつては《プチ・ブル》《小市民》と蔑称的に呼ばれていました。そもそもがマルクス主義の用語。支配層にもなれず、保守というほどの頑強さもなく、ともすれば頭でっかちのリベラルに走りがちな、どっちつかずの無党派層。
フランス語のプチ(“petite”)には、そういう蔑みの意味合いがありますが、どこか軽い――一方では、その軽さの深層に、人間主義・個人主義的な生きることの懊悩と真理が秘められているように思うのです。そういう『中間層の厚み』が勢いづき、とびきり突出していたのがフランスの近現代ではなかったかと思うのです。
「アルルの女」とは、ファム・ファタールに心を翻弄されてしまう小地主(プチブル)の息子の悲劇。それは「カルメン」と同じ。初演では受け入れられなかったのに、作曲者の死後、古今の名曲になることも共通します。それは、分厚い中間層が形成される過程にあった近代フランスだったからこそだと考えるのです。
ファーブルの「昆虫記」がヒットする背景には、学術的なものというよりも、そういう市民社会の形成・成熟があったと言われます。小昆虫たちを愛する趣味趣向は、すなわちプチを愛でる小市民の嗜好そのもの。デュムソーのルーセルは、そういう個人の夢想の物語をものの見事に表出していました。
もうひとつの「プチ」は、オーケストラの編成とバランス。
今回、紀尾井ホール室内管は、両翼対向・左低弦型8-8-6-4-2 楽譜通りの2管演奏です。2管といえどもホルン4台、コルネット2台、トロンボーン3台も加わった800席の紀尾井ホールのステージいっぱいに拡がった最大級の編成です。
大ホールでのメジャーオーケストラならば、もっと弦のプルト数を増やした大きな編成になりますが、このオリジナル譜通りの小さな(プチ)編成。コントラバスはたったの2台。そのバランスが素晴らしいサウンド効果を上げていました。
その効果というのは、管楽器群が弦楽器群と対等に明確な色彩コントラストを描き出すことの音楽的ドラマです。
そのことは冒頭の前奏曲(第一組曲)から、いきなり目からウロコです。弦楽器群のモノトーンの主題から次々と変奏曲が繰り出されていく。その管楽器のアンサンブルやソロの見事なこと。大ホールの大編成では、こうした管楽器の自立した音色は、埋もれてしまったり、遠い遠景へと追いやられてしまいがち。テンポも少し速めにとっていて個々の楽器のテクスチュアが際立ちます。
そういうことは、あの有名なフルートとハープだけで始まるメヌエット(第二組曲)でも顕著。デュムソーさんは、ここではもはや指揮をせずふたりに任せてしまう。アンコールで繰り返された最後のファランドールでもオーケストラの勢いに任せてほとんど指揮をしない。ラストの二曲は、室内楽的な縮小からオーケストラが大集団となって高揚するその振幅の大きさが見事でした。
そういう室内楽的な自立性、凝縮性と個々の自我が集団となって多彩な膨張を繰り返す近現代のマス大衆文化という点では、まさにプロコフィエフの協奏曲も同じだったのです。その中核にあるのは「中間層の厚み」そのもの。
ピエール・デュムソー、おそるべし。
この人の、フランス近現代歌劇をぜったい聴いてみたいと思いました。そういえばこの髭づらはビゼーに似てなくもない。
紀尾井ホール室内管弦楽団 第140回定期演奏会
2024年9月21日(土) 14:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階C席2列13番)
ニコラ・アルトシュテット(チェロ)
指揮:ピエール・デュムソー
コンサートマスター:千々岩英一
ルーセル:交響的断章《蜘蛛の饗宴》op.17
プロコフィエフ:交響的協奏曲ホ短調 op.125
(アンコール)
バッハ:無伴奏チェロ組曲第一番よりサラバンド
ビゼー:劇付随音楽《アルルの女》第1組曲・第2組曲
(アンコール)
同上よりファランドール
鏡の中の鏡 (奥井紫麻 ピアノ・リサイタル) [コンサート]
豊洲シビックセンターに奥井紫麻さんという若いピアニストのリサイタルを聴きにでかけました。
お目当ての第1はファツィオリ。
ファツィオリはイタリアの新興ピアノメーカー。英国のレーベル、ハイペリオンがニコライ・デミジェンコやアンジェラ・ヒューイットに弾かせて先鞭をつけましたが、かつてはどこへ行ったらファツィオリが聴けるのか、誰がファツィオリが弾くのかと東京中を探し回りました。それをナマで聴ける。
この豊洲シビックセンターは、そのファツィオリ(F278)を常備しているというのです。ホールは300席ほどの小ホール。間近に聴けるチャンス。この初めてのホールの音響はどんなものかということも興味津々でした。
奥井紫麻さんは、私にとっては無名でしたので、正直言って、動機としては3番目に過ぎなかったのですが、プロフィールを見てみると大変な天才少女。2004年生まれということですから、弱冠二十歳になったばかり。早くからその才能を認められ、幼少時から、モスクワのグネーシン音楽学校でロシアン・ピアニズムの英才教育を受けているという。
ステージに現れた奥井紫麻さんは真っ白なロングドレス。背中と脇が大きく空いていてちょっとドッキリさせられますが、ピアノを弾くまでの立ち居振る舞いには、まだまだ“天才少女”のあどけなさが残っています。
何と言っても聴かせてくれたのは、後半のラフマニノフ。
ファツィオリは、ステージ上で映える美しい姿態。内部のバーズアイの木調も艶やかで、会場を写し込むフィニッシュは本当に鏡のように磨き上げてある。ちょっとスリムに見える筐体や上蓋――これが轟くようにパワフルに響きわたる。
とにかく響きが豊か。ハンマーが弦を鋭く叩き発音するとその瞬間にキャビネットが共鳴しているような感覚があって、響きの豊穣さと透明度や明晰さが両立している。強烈な和音や、急速のパッセージでも、決して響きが濁らない。個々の音は完璧にクリアで、高音、中音、低音の全てが共に調和し、共鳴し、実に豊かな美しい音色を生みだす。高音は明るく輝かしく、中音はまろやかで濃厚、低音はオルガンのように豊か。
奥井さんは、そのままにラフマニノフのピアニズムに向き合い、その「音楽」や「美しさ」に没頭しているかのよう。ファツィオリを弾く喜びが、ラフマニノフを弾く喜びと完全に合一しているかのよう。イタリアとロシアとは真反対のように距離が遠いと思えるのに、ファツィオリは、ロシアン・ピアニズムにぴったり。聴いているこちらまでも、そういうメカニカルなピアノの魔力に引き込まれてしまう。その吸引力は、以前に聴いた読響でトリフォノフが弾いたプロコフィエフ以上のものがありました。
さて…
このホールは、とても面白い仕掛けがある。
はて?と思ったのが、左右の壁面が非対称であること。左は木製だが、右とステージ背面はガラスになっている。フラットなガラス面が鏡になって、ピアノが合わせ鏡のように映し出される。まるで、鏡の中の鏡。音楽ホールとしては異例のことで、音響面への影響を心配したけれど、響きは多目的ホールとしては上々。
客席は、典型的な多目的ホールで階段状になっている。このことはピアノ独奏にとっては悪くない。天井高さがある程度確保できる前列なら、むしろピアノにとっては音楽専用ホールよりもよいかもしれない。ピアノの底が見えないからです。その分、サロンコンサートの平土間のピアノの親密で純度の高い響きに限りなく近い。
プログラムが終了し、満場の拍手に応えてアンコールを弾き出した刹那に、ステージ背面から右にかけて、壁面が開けてガラス張りの向こうに薄暮の街が見えてくる。夕景に浮かぶ豊洲の都市景観美という何とも見事なフィナーレの演出でした。
Fazioli Japan プレゼンツ
奥井紫麻 ピアノリサイタル
2024年9月15日(日)16:00
東京・豊洲 豊洲シビックセンターホール
(5列15番 自由席)
ショパン:
舟歌 嬰ヘ長調 Op.60
24のプレリュードOp.28全曲
ラフマニノフ:
前奏曲集Op.23より2、4、5,6、7番
〃 Op.32より1、2、3、5、6、7、8、12、13番
(アンコール)
スクリャービン:
12のエチュードop.8から第4番
お目当ての第1はファツィオリ。
ファツィオリはイタリアの新興ピアノメーカー。英国のレーベル、ハイペリオンがニコライ・デミジェンコやアンジェラ・ヒューイットに弾かせて先鞭をつけましたが、かつてはどこへ行ったらファツィオリが聴けるのか、誰がファツィオリが弾くのかと東京中を探し回りました。それをナマで聴ける。
この豊洲シビックセンターは、そのファツィオリ(F278)を常備しているというのです。ホールは300席ほどの小ホール。間近に聴けるチャンス。この初めてのホールの音響はどんなものかということも興味津々でした。
奥井紫麻さんは、私にとっては無名でしたので、正直言って、動機としては3番目に過ぎなかったのですが、プロフィールを見てみると大変な天才少女。2004年生まれということですから、弱冠二十歳になったばかり。早くからその才能を認められ、幼少時から、モスクワのグネーシン音楽学校でロシアン・ピアニズムの英才教育を受けているという。
ステージに現れた奥井紫麻さんは真っ白なロングドレス。背中と脇が大きく空いていてちょっとドッキリさせられますが、ピアノを弾くまでの立ち居振る舞いには、まだまだ“天才少女”のあどけなさが残っています。
何と言っても聴かせてくれたのは、後半のラフマニノフ。
ファツィオリは、ステージ上で映える美しい姿態。内部のバーズアイの木調も艶やかで、会場を写し込むフィニッシュは本当に鏡のように磨き上げてある。ちょっとスリムに見える筐体や上蓋――これが轟くようにパワフルに響きわたる。
とにかく響きが豊か。ハンマーが弦を鋭く叩き発音するとその瞬間にキャビネットが共鳴しているような感覚があって、響きの豊穣さと透明度や明晰さが両立している。強烈な和音や、急速のパッセージでも、決して響きが濁らない。個々の音は完璧にクリアで、高音、中音、低音の全てが共に調和し、共鳴し、実に豊かな美しい音色を生みだす。高音は明るく輝かしく、中音はまろやかで濃厚、低音はオルガンのように豊か。
奥井さんは、そのままにラフマニノフのピアニズムに向き合い、その「音楽」や「美しさ」に没頭しているかのよう。ファツィオリを弾く喜びが、ラフマニノフを弾く喜びと完全に合一しているかのよう。イタリアとロシアとは真反対のように距離が遠いと思えるのに、ファツィオリは、ロシアン・ピアニズムにぴったり。聴いているこちらまでも、そういうメカニカルなピアノの魔力に引き込まれてしまう。その吸引力は、以前に聴いた読響でトリフォノフが弾いたプロコフィエフ以上のものがありました。
さて…
このホールは、とても面白い仕掛けがある。
はて?と思ったのが、左右の壁面が非対称であること。左は木製だが、右とステージ背面はガラスになっている。フラットなガラス面が鏡になって、ピアノが合わせ鏡のように映し出される。まるで、鏡の中の鏡。音楽ホールとしては異例のことで、音響面への影響を心配したけれど、響きは多目的ホールとしては上々。
客席は、典型的な多目的ホールで階段状になっている。このことはピアノ独奏にとっては悪くない。天井高さがある程度確保できる前列なら、むしろピアノにとっては音楽専用ホールよりもよいかもしれない。ピアノの底が見えないからです。その分、サロンコンサートの平土間のピアノの親密で純度の高い響きに限りなく近い。
プログラムが終了し、満場の拍手に応えてアンコールを弾き出した刹那に、ステージ背面から右にかけて、壁面が開けてガラス張りの向こうに薄暮の街が見えてくる。夕景に浮かぶ豊洲の都市景観美という何とも見事なフィナーレの演出でした。
Fazioli Japan プレゼンツ
奥井紫麻 ピアノリサイタル
2024年9月15日(日)16:00
東京・豊洲 豊洲シビックセンターホール
(5列15番 自由席)
ショパン:
舟歌 嬰ヘ長調 Op.60
24のプレリュードOp.28全曲
ラフマニノフ:
前奏曲集Op.23より2、4、5,6、7番
〃 Op.32より1、2、3、5、6、7、8、12、13番
(アンコール)
スクリャービン:
12のエチュードop.8から第4番
期待の若き星 (中川優芽花 ピアノ・リサイタル) [コンサート]
まさに驚愕の才能。
ステージに現れると意外なほど小柄。ジャケットにロングパンツで全身黒ずくめ。音大出たて新任の音楽の先生みたい。
その意外さが最初のラフマニノフで真反対にひっくり返る。信じられないような豪快なピアニズムと轟音。その音量の大きさ、最小の弱音からのレンジの広さに驚かされます。
足を運んだきっかけは、先だってNHKFMで放送された、ケルンでのリサイタルのライブ録音を聴いたこと。モーツァルトの「キラキラ星変奏曲」やショパンなど、とても新鮮。なるほど、河村尚子や藤田真央に続くクララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールの覇者。しかも最年少。
とにかく音楽が雄弁でその語り口の巧みさがとても新鮮。フレーズとフレーズの間合いや、旋律と内声部の重畳的な織り込み、装飾的なアクセントが巧みというだけでなく、曲と曲とのアクセントや場面転換の間合いが巧み。プログラム全体の構成が熟考されていると感じさせるのです。
ラフマニノフの前奏曲は、作曲家の生涯にわたって書き綴られた。だから、通しで演奏されると印象が散漫になってしまう。中川は、作品23から4曲だけ選び、しかも番号順に弾かない。最初は家庭的な幸福感に包まれた優しさのあふれる穏やかな第6番。曲調が一変する第2番はその音量とヴィルティオーシティで驚かせるのだけれど、これ見よがしの技巧披瀝ではなくてロシアの五月の爆発的な春の到来とその喜びを見事に感じさせてくれます。第4番は、また静謐な家族愛に戻り、第5番で家族愛の未来を信じ切った前向きの躍動とともにこの一連の家族の物語を閉じる。
その連なりの続きにシューマンがある。
たちまちの大拍手。それにニコニコと答え、いったんステージから下がるけれど、遅参の客の着席の時間を取っただけですぐに開始したのは、ラフマニノフの家族愛の余韻につなげるため。夢の世界へと導く、その開始が見事。
シューマンのピアノ曲のなかでも最高の傑作ともいえるこの曲は、同時にそのもの狂いが陰をひそめてしまう、シューマンとしては異質の音楽です。この曲の中心にあるのが、あの「トロイメライ」。逆クライマックスというのでしょうか、ぼんやりとした夢見心地が沈潜する世界。中川は、中級者でも弾けそうな平易なこの曲の巧みなコード進行と断片でつづる息の長い旋律を、ことさらに強弱のレンジを小さくとって弾く。意図は明らか。プログラムの中核はこのシューマンでありそのまた中心が「トロイメライ」。それは、ダイナミックスのコントラストの基底とも言うべきもの。つまり、ラフマニノフと後半のリストとの真ん中に置かれた「子供の情景」そのものがプログラム全体の二重の逆クライマックスになっている。アンコールピースとして聴かされてもこういう感動はないと思います。
大変なストーリー・テラー。
リストのロ短調ソナタは、様式構成としてはとりとめもない曲ですが、なぜか連続ドラマのように起承転結が繰り返し、片時も目が離せないドラマチックな音楽。その旋律や動機の音色や色彩、和声リズムが千変万化で、前後で雰囲気が一変するような場面転換も鮮やかで、まるで、能楽を観ているよう。
中川のパレットの多さは驚くほどで、複雑に絡み合う動機、旋律、内声、ベースライン、リズム打鍵がまるでオーケストラのように繰り出され、見事にコントロールされています。その象徴とも言えるのが、再現部となる長い終結の部分を導くあの短いフガートでした。そういうオーケストラルなピアニズムは、アンコールでのピアノ編「ヴォカリーズ」でも舌を巻く思いでした。
楽器のコントロール力が驚異的。
ラフマニノフでのロングトーンでの消えゆく終結での、指先のストロークとフットペダルで醸すダンパーの絶妙なバランスには驚きました。デリケートな楽器のメカニズムが強音でわずかに狂わされ、その後はなかなか金属的なノイズが抑えられなかったことは差し引いても、はっとさせられた一瞬でした。一音一音の粒のそろえ方、強弱の階調の無限大とも思える数の多さ、強弱の偏移の滑らかさなど、ほんとうに見事。
リストへは、毒のようなもの、どこまでも堕ちていく陰鬱なものなど、聴く者をドキリとさせるような表現がもっと欲しいという気もしましたが、それはやはりまだ若いせいなんだと思います。あれだけのドラマはなかなかお目にかかれないと思いました。
ほんとうにこれからどうなっていくのか、とても楽しみなピアニスト。…というと、誤解されてしまいかねないのですが、だからこそ今こそ聴いておきたいピアニスト。「驚才!」
中川優芽花 ピアノ・リサイタル
2024年9月11日(水日)194:00
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階9列9番)
ラフマニノフ:
前奏曲集 作品23より
第6番 変ホ長調
第2番 変ロ長調
第4番 ニ長調
第5番 ト短調
シューマン:
子どもの情景 Op.15
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178
(アンコール)
ラフマニノフ:
ヴォカリーズ
イタリアン・ポルカ
ステージに現れると意外なほど小柄。ジャケットにロングパンツで全身黒ずくめ。音大出たて新任の音楽の先生みたい。
その意外さが最初のラフマニノフで真反対にひっくり返る。信じられないような豪快なピアニズムと轟音。その音量の大きさ、最小の弱音からのレンジの広さに驚かされます。
足を運んだきっかけは、先だってNHKFMで放送された、ケルンでのリサイタルのライブ録音を聴いたこと。モーツァルトの「キラキラ星変奏曲」やショパンなど、とても新鮮。なるほど、河村尚子や藤田真央に続くクララ・ハスキル国際ピアノ・コンクールの覇者。しかも最年少。
とにかく音楽が雄弁でその語り口の巧みさがとても新鮮。フレーズとフレーズの間合いや、旋律と内声部の重畳的な織り込み、装飾的なアクセントが巧みというだけでなく、曲と曲とのアクセントや場面転換の間合いが巧み。プログラム全体の構成が熟考されていると感じさせるのです。
ラフマニノフの前奏曲は、作曲家の生涯にわたって書き綴られた。だから、通しで演奏されると印象が散漫になってしまう。中川は、作品23から4曲だけ選び、しかも番号順に弾かない。最初は家庭的な幸福感に包まれた優しさのあふれる穏やかな第6番。曲調が一変する第2番はその音量とヴィルティオーシティで驚かせるのだけれど、これ見よがしの技巧披瀝ではなくてロシアの五月の爆発的な春の到来とその喜びを見事に感じさせてくれます。第4番は、また静謐な家族愛に戻り、第5番で家族愛の未来を信じ切った前向きの躍動とともにこの一連の家族の物語を閉じる。
その連なりの続きにシューマンがある。
たちまちの大拍手。それにニコニコと答え、いったんステージから下がるけれど、遅参の客の着席の時間を取っただけですぐに開始したのは、ラフマニノフの家族愛の余韻につなげるため。夢の世界へと導く、その開始が見事。
シューマンのピアノ曲のなかでも最高の傑作ともいえるこの曲は、同時にそのもの狂いが陰をひそめてしまう、シューマンとしては異質の音楽です。この曲の中心にあるのが、あの「トロイメライ」。逆クライマックスというのでしょうか、ぼんやりとした夢見心地が沈潜する世界。中川は、中級者でも弾けそうな平易なこの曲の巧みなコード進行と断片でつづる息の長い旋律を、ことさらに強弱のレンジを小さくとって弾く。意図は明らか。プログラムの中核はこのシューマンでありそのまた中心が「トロイメライ」。それは、ダイナミックスのコントラストの基底とも言うべきもの。つまり、ラフマニノフと後半のリストとの真ん中に置かれた「子供の情景」そのものがプログラム全体の二重の逆クライマックスになっている。アンコールピースとして聴かされてもこういう感動はないと思います。
大変なストーリー・テラー。
リストのロ短調ソナタは、様式構成としてはとりとめもない曲ですが、なぜか連続ドラマのように起承転結が繰り返し、片時も目が離せないドラマチックな音楽。その旋律や動機の音色や色彩、和声リズムが千変万化で、前後で雰囲気が一変するような場面転換も鮮やかで、まるで、能楽を観ているよう。
中川のパレットの多さは驚くほどで、複雑に絡み合う動機、旋律、内声、ベースライン、リズム打鍵がまるでオーケストラのように繰り出され、見事にコントロールされています。その象徴とも言えるのが、再現部となる長い終結の部分を導くあの短いフガートでした。そういうオーケストラルなピアニズムは、アンコールでのピアノ編「ヴォカリーズ」でも舌を巻く思いでした。
楽器のコントロール力が驚異的。
ラフマニノフでのロングトーンでの消えゆく終結での、指先のストロークとフットペダルで醸すダンパーの絶妙なバランスには驚きました。デリケートな楽器のメカニズムが強音でわずかに狂わされ、その後はなかなか金属的なノイズが抑えられなかったことは差し引いても、はっとさせられた一瞬でした。一音一音の粒のそろえ方、強弱の階調の無限大とも思える数の多さ、強弱の偏移の滑らかさなど、ほんとうに見事。
リストへは、毒のようなもの、どこまでも堕ちていく陰鬱なものなど、聴く者をドキリとさせるような表現がもっと欲しいという気もしましたが、それはやはりまだ若いせいなんだと思います。あれだけのドラマはなかなかお目にかかれないと思いました。
ほんとうにこれからどうなっていくのか、とても楽しみなピアニスト。…というと、誤解されてしまいかねないのですが、だからこそ今こそ聴いておきたいピアニスト。「驚才!」
中川優芽花 ピアノ・リサイタル
2024年9月11日(水日)194:00
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階9列9番)
ラフマニノフ:
前奏曲集 作品23より
第6番 変ホ長調
第2番 変ロ長調
第4番 ニ長調
第5番 ト短調
シューマン:
子どもの情景 Op.15
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 S.178
(アンコール)
ラフマニノフ:
ヴォカリーズ
イタリアン・ポルカ
タグ:浜離宮朝日ホール
すべての人々の魂を呼び覚ます(ポール・ルイス-シューベルト) [コンサート]
大きな期待をさらに超えた。深く心をえぐり出すような凄味があった。
ポール・ルイスは、私にとっては新たな才能あふれるピアニストの登場として夢中にさせてしまったピアニスト。CDなどはずいぶん聴いているのに実際の演奏を聴く機会を逃していました。それだけに期待は大きかったのです。
天才とか英才教育とは対極的な異色のキャリアですが、実にオーソドックスな音楽作りと音色の持ち主。端正な音楽というほどに正統で、しかも、底知れぬ魅力を備えている。いかにも英国のピアニストと思ったのですが、その演奏や音色を聴いて思い浮かべたのはアルフレッド・ブレンデル。――ルイスの師ですから、当然といえば当然なのかもしれません。
ブレンデルと言えば偉大な中庸のピアニスト。若い時代には決してそうではなかったようですが、円熟してから、旧フィリップスに遅咲きともいうべきメジャーデビューした頃には、ベートーヴェンやハイドン、シューベルト、リストらの中欧正統音楽の伝統をバランスよく体現する規範的で中庸の音楽を奏するピアニストでした。
そのブレンデルの衣鉢を継ぎながらも、もっと現代的で磨かれた美しい音色と沈潜する熱が発する輻射熱量の高い音楽。……そういうものが、コンサート前のイメージであり、彼のシューベルトへの期待だったのです。
それが完膚なきまでに覆りました。
音色はもちろん濁らず美しいのですが、もっとずっと強く力感にあふれていて雄弁。ロマンチシズムの振幅の幅は、驚くほど大きく雄大。それはヤマハホールの親密な空間と、やや小さめのヤマハのコンサートグランドということもあるのでしょうか。小さいことが、かえって大きく感じさせる。
シューベルトが、内省的な音楽であることは確かなのですが、もはや個人主義的なロマンチシズムをはるかに超えた全人類的なもっと何か大きなものの肉声あるいは心の声を聴くような広壮な広がりと深みを持っているシューベルト。
D959のアンダンティーノなどは、ショパン以前にすでにバラードが在ったといかのように感情のストーリーが鮮やか。その悔恨のうねりを打ちのめすような怒りの爆発、あるいは運命的な落雷なのか、その果ての諦観あるいは祈り。ストーリーは明らかだと思えるのに、それが具体的に何なのかがつかみどころがない。それだけ大きなもの……例えば、繰り返され絶え間の無い戦争のことなのか……とにかく、とてつもなく大事で大きなものだと思えるのです。
ブレンデルが到達した普遍的中庸から出発しながら、ずっと激しい深いものへと音楽が巨大化し、感情の発露としての歌が細密化していっているというように感じます。
ほんとうに凄いピアニストです。
ポール・ルイス -シューベルト ピアノ・ソナタ・シリーズ Ⅱ-
ポール・ルイス(ピアノ)
2024年9月8日(日)14:00
東京・銀座 ヤマハホール
(1階H列11番)
F.シューベルト/
ピアノ・ソナタ第9番 ロ長調 D.575
ピアノ・ソナタ第20番 イ長調 D.959
ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
ポール・ルイスは、私にとっては新たな才能あふれるピアニストの登場として夢中にさせてしまったピアニスト。CDなどはずいぶん聴いているのに実際の演奏を聴く機会を逃していました。それだけに期待は大きかったのです。
天才とか英才教育とは対極的な異色のキャリアですが、実にオーソドックスな音楽作りと音色の持ち主。端正な音楽というほどに正統で、しかも、底知れぬ魅力を備えている。いかにも英国のピアニストと思ったのですが、その演奏や音色を聴いて思い浮かべたのはアルフレッド・ブレンデル。――ルイスの師ですから、当然といえば当然なのかもしれません。
ブレンデルと言えば偉大な中庸のピアニスト。若い時代には決してそうではなかったようですが、円熟してから、旧フィリップスに遅咲きともいうべきメジャーデビューした頃には、ベートーヴェンやハイドン、シューベルト、リストらの中欧正統音楽の伝統をバランスよく体現する規範的で中庸の音楽を奏するピアニストでした。
そのブレンデルの衣鉢を継ぎながらも、もっと現代的で磨かれた美しい音色と沈潜する熱が発する輻射熱量の高い音楽。……そういうものが、コンサート前のイメージであり、彼のシューベルトへの期待だったのです。
それが完膚なきまでに覆りました。
音色はもちろん濁らず美しいのですが、もっとずっと強く力感にあふれていて雄弁。ロマンチシズムの振幅の幅は、驚くほど大きく雄大。それはヤマハホールの親密な空間と、やや小さめのヤマハのコンサートグランドということもあるのでしょうか。小さいことが、かえって大きく感じさせる。
シューベルトが、内省的な音楽であることは確かなのですが、もはや個人主義的なロマンチシズムをはるかに超えた全人類的なもっと何か大きなものの肉声あるいは心の声を聴くような広壮な広がりと深みを持っているシューベルト。
D959のアンダンティーノなどは、ショパン以前にすでにバラードが在ったといかのように感情のストーリーが鮮やか。その悔恨のうねりを打ちのめすような怒りの爆発、あるいは運命的な落雷なのか、その果ての諦観あるいは祈り。ストーリーは明らかだと思えるのに、それが具体的に何なのかがつかみどころがない。それだけ大きなもの……例えば、繰り返され絶え間の無い戦争のことなのか……とにかく、とてつもなく大事で大きなものだと思えるのです。
ブレンデルが到達した普遍的中庸から出発しながら、ずっと激しい深いものへと音楽が巨大化し、感情の発露としての歌が細密化していっているというように感じます。
ほんとうに凄いピアニストです。
ポール・ルイス -シューベルト ピアノ・ソナタ・シリーズ Ⅱ-
ポール・ルイス(ピアノ)
2024年9月8日(日)14:00
東京・銀座 ヤマハホール
(1階H列11番)
F.シューベルト/
ピアノ・ソナタ第9番 ロ長調 D.575
ピアノ・ソナタ第20番 イ長調 D.959
ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
横山幸雄の弾き振りでベートーヴェン(パシフィックフィルハーモニア東京) [コンサート]
パシフィック・フィルハーモニー東京(PPT)を聴くのはこれで2度目。
横山幸雄は、初登場。私自身は、恥ずかしながら、横山を聴くのは初めて。
それだけにまったく予断のない虚心坦懐のままに聴きましたが、これはもう極上のベートーヴェン。ピアニズムや管弦楽法にベートーヴェンらしさが満開で、とても幸せな気持ちになりました。
ピアノは、客席に背を向けオーケストラと相対する形で設置。上蓋は外してあります。オーケストラは、古典的な2管編成で、とてもシンプル。
そのピアノが実に良い音がした。ひとつひとつの粒立ちが明瞭でそろっていて精確。それでいて明るい彩色で響きが良くて連綿と音が連なる美しさが心地よい。こういう美音と粒の美しさが、横山の技術の美点なのでしょうか。
演奏後の挨拶で、横山は「協奏曲は、室内アンサンブルを大きく拡張したもの」と強調していました。
まさに、そういう演奏に徹しているのが、弾き振りの効果。ソリストにとって、オーケストラは指揮者に任せっきり。ソリストとオーケストラは対立的になりがち。よく言えばオーケストラの自主性だとか対話の楽しさとも言われるが、場合によっては『どちらがボスだ?』ということで双方の楽想の違いから妥協も生じてしまう。特に、ピアノ協奏曲は、弦楽器主体のオーケストラとは発音原理が違うから、むしろ、協調的に音の響きを作るのは難しい。
横山の弾き振りは、オーケストラとの協調・協和を徹底的に磨き上げている。オーケストラの現代的なテヌートが徹底していて、ピアノの音の粒子をつなげるように支え、その持続音のなかにピアノ粒だった煌めきが美しく踊る。ナチュラルトランペットを使用していたが、それはその音色に着目したのであってオーケストラの音作りはあくまでもモダン。その中でテヌートやスタッカートなどのアーティキュレーションを綺麗にピアノに合わせている。だから、ベートーヴェンの管弦楽法が際立ってくる。
それが最も生き生きと現れたのが、最後の第4番。
この協奏曲の初演は、「田園」や「運命」といった名交響曲と同じ演奏会でした。まさに傑作の森のなか。巧みな木管楽器の組み合わせ、弦の弾き分けによるアーティキュレーションの快感がここにある。その交響曲的な音響のなかでピアノの名人芸が彩りの艷や輝きをさらに多彩にする。
技量としては、正直言って凡庸だし、横山のピアノもことさらに際立たない。それでいてホルンは安定しているし、オーボエの音色も美しく、クラリネットの音色もいかにもそれらしい。だからこその「室内アンサンブルの拡大版」ということなのでしょう。
台風の来襲で、前日のリハーサルは中止。たった2日だけで、これだけの仕上がりというのは驚きます。日数の短縮を、横山は残念がったのか、あるいは短期間でこれだけの仕上がりにできたことを誇っているのか、そこはよくわかりません。もし、残念がっていたとしたらもっとアンサンブルに冒険ができたということではないでしょうか。やや遅めのインテンポは、安全運転ということでもあったかもしれません。アゴーギクやアクセントも大きく変化をさせることもない。とにかく、オーケストラとピアノがまったりと同調し融合させることで一貫していました。
もし、もう少し大胆に様々な揺らぎを入れていたらどうだったのでしょう。それはわかりませんが、結果としては形式美や均整の取れた古典派の美意識と現代楽器の多彩な色彩との幸福なマリアージュとなっていました。本当によいベートーヴェンでした。
パシフィックフィルハーモニア東京
第168回定期演奏会
横山幸雄との新たなる幕開け
渾身の弾き振りで贈るベートーヴェンのピアノ協奏曲
フランス音楽の神髄
2024年8月17日(土)14:00
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(2階J列46番)
指揮・ピアノ:横山幸雄
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 作品15
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品19
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
(アンコール)
ベートーヴェン/ピアノ三重奏第4番 変ロ長調「街の歌」作品11より第2楽章
ベートーヴェン/ピアノソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」作品31-2より第3楽章
横山幸雄は、初登場。私自身は、恥ずかしながら、横山を聴くのは初めて。
それだけにまったく予断のない虚心坦懐のままに聴きましたが、これはもう極上のベートーヴェン。ピアニズムや管弦楽法にベートーヴェンらしさが満開で、とても幸せな気持ちになりました。
ピアノは、客席に背を向けオーケストラと相対する形で設置。上蓋は外してあります。オーケストラは、古典的な2管編成で、とてもシンプル。
そのピアノが実に良い音がした。ひとつひとつの粒立ちが明瞭でそろっていて精確。それでいて明るい彩色で響きが良くて連綿と音が連なる美しさが心地よい。こういう美音と粒の美しさが、横山の技術の美点なのでしょうか。
演奏後の挨拶で、横山は「協奏曲は、室内アンサンブルを大きく拡張したもの」と強調していました。
まさに、そういう演奏に徹しているのが、弾き振りの効果。ソリストにとって、オーケストラは指揮者に任せっきり。ソリストとオーケストラは対立的になりがち。よく言えばオーケストラの自主性だとか対話の楽しさとも言われるが、場合によっては『どちらがボスだ?』ということで双方の楽想の違いから妥協も生じてしまう。特に、ピアノ協奏曲は、弦楽器主体のオーケストラとは発音原理が違うから、むしろ、協調的に音の響きを作るのは難しい。
横山の弾き振りは、オーケストラとの協調・協和を徹底的に磨き上げている。オーケストラの現代的なテヌートが徹底していて、ピアノの音の粒子をつなげるように支え、その持続音のなかにピアノ粒だった煌めきが美しく踊る。ナチュラルトランペットを使用していたが、それはその音色に着目したのであってオーケストラの音作りはあくまでもモダン。その中でテヌートやスタッカートなどのアーティキュレーションを綺麗にピアノに合わせている。だから、ベートーヴェンの管弦楽法が際立ってくる。
それが最も生き生きと現れたのが、最後の第4番。
この協奏曲の初演は、「田園」や「運命」といった名交響曲と同じ演奏会でした。まさに傑作の森のなか。巧みな木管楽器の組み合わせ、弦の弾き分けによるアーティキュレーションの快感がここにある。その交響曲的な音響のなかでピアノの名人芸が彩りの艷や輝きをさらに多彩にする。
技量としては、正直言って凡庸だし、横山のピアノもことさらに際立たない。それでいてホルンは安定しているし、オーボエの音色も美しく、クラリネットの音色もいかにもそれらしい。だからこその「室内アンサンブルの拡大版」ということなのでしょう。
台風の来襲で、前日のリハーサルは中止。たった2日だけで、これだけの仕上がりというのは驚きます。日数の短縮を、横山は残念がったのか、あるいは短期間でこれだけの仕上がりにできたことを誇っているのか、そこはよくわかりません。もし、残念がっていたとしたらもっとアンサンブルに冒険ができたということではないでしょうか。やや遅めのインテンポは、安全運転ということでもあったかもしれません。アゴーギクやアクセントも大きく変化をさせることもない。とにかく、オーケストラとピアノがまったりと同調し融合させることで一貫していました。
もし、もう少し大胆に様々な揺らぎを入れていたらどうだったのでしょう。それはわかりませんが、結果としては形式美や均整の取れた古典派の美意識と現代楽器の多彩な色彩との幸福なマリアージュとなっていました。本当によいベートーヴェンでした。
パシフィックフィルハーモニア東京
第168回定期演奏会
横山幸雄との新たなる幕開け
渾身の弾き振りで贈るベートーヴェンのピアノ協奏曲
フランス音楽の神髄
2024年8月17日(土)14:00
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(2階J列46番)
指揮・ピアノ:横山幸雄
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番 ハ長調 作品15
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品19
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第4番 ト長調 作品58
(アンコール)
ベートーヴェン/ピアノ三重奏第4番 変ロ長調「街の歌」作品11より第2楽章
ベートーヴェン/ピアノソナタ第17番 ニ短調「テンペスト」作品31-2より第3楽章
締めは清水和音の熱情 (清水和音の名曲ラウンジ) [コンサート]
東京藝術劇場は今年9月末から約一年休館となるそうです。
それで、この「清水和音の名曲ラウンジ」シリーズもしばらくお休み。それで、今回はその締めということで、清水和音さんが最後に「熱情」を弾くというわけです。
今回のゲストは、藤江扶紀さん。
東京芸大を卒業後、ローム音楽財団の奨学生として渡仏。パリ・コンセルヴァトワール大学院を修了後もフランスを拠点に活躍。2018年からはトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団のコンサートマスターを務めています。
このシリーズの常連の一人ですが、年に一回の出演。なぜかいつも夏の暑い時期になるのは、フランスのお勤めが明けるバカンスだからでしょうか。清水さんが、せっかくのパリ・オリンピックなのにとツッコミを入れても、トゥールーズは、フランスといってもパリから遠い田舎ですから静かですと涼しいお顔。
今年の1月には、N響のゲスト・コンサートマスターも務めています。客演指揮者は、かつてトゥールーズ・キャピトル国立管の音楽監督だったトゥガン・ソヒエフ。よく知った間柄でN響とのコミュニケーションのサポート役ということだったのでしょう。
ここにも清水さんが、N響のコンマスって大変でしょう?とツッコミ。
まあ、何となくN響団員の優等生体質を皮肉るような質問でもあったわけですが、藤江さんは、どこの楽団であってもコンマスは難しい大役ですと軽くいなしておいて、フランスと日本の音楽気質の違いをさらり。
「N響は技術的に高いのにとても控えめ。ひとたび指揮者の意図を理解し共感すると一丸となって凄い演奏をする。フランスでは、その逆でひとりひとりが目立ちたがりで指揮者がそれをコントロールするのが大変です。」
「N響では指揮者はずっと積極的に引っ張る必要があるけど、フランスではもっぱら抑え役。そうでないととんでもない演奏になってしまう。」
日本人の技術偏重の優等生気質と、フランス人の自由で互いの干渉を嫌う個人主義気質は、オーケストラの組織でもとても対照的なようです。それをどうするかがコンサートマスターのマネジメントというわけです。
藤江さんのヴァイオリンは、細身でとても純度の高い音色。
モーツァルトのK304もベートーヴェンのスプリングソナタも、どちらも大好きな名曲中の名曲。共に、とてもフランス的な気質の音楽で、藤江さんのヴァイオリンにぴったり。清水さんとの音色的な調和も完璧で、すばらしい演奏でした。
締めは、清水さんの独奏で「熱情」。
このコンサートシリーズは、昼前の1時間のコンサイスなコンサートでトークも楽しく、ほとんど欠かさず通っていますので、しばらくのお休みはとても残念。来年10月の再開がとても待ち遠しく感じます。
芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第49回「締めは清水和音の熱情」
2024年8月7日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階M列24番)
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタホ 短調調 K.304
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調作品24 「春」
:ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調作品57 「熱情」
藤江 扶紀(Vn) 清水和音(Pf)
それで、この「清水和音の名曲ラウンジ」シリーズもしばらくお休み。それで、今回はその締めということで、清水和音さんが最後に「熱情」を弾くというわけです。
今回のゲストは、藤江扶紀さん。
東京芸大を卒業後、ローム音楽財団の奨学生として渡仏。パリ・コンセルヴァトワール大学院を修了後もフランスを拠点に活躍。2018年からはトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団のコンサートマスターを務めています。
このシリーズの常連の一人ですが、年に一回の出演。なぜかいつも夏の暑い時期になるのは、フランスのお勤めが明けるバカンスだからでしょうか。清水さんが、せっかくのパリ・オリンピックなのにとツッコミを入れても、トゥールーズは、フランスといってもパリから遠い田舎ですから静かですと涼しいお顔。
今年の1月には、N響のゲスト・コンサートマスターも務めています。客演指揮者は、かつてトゥールーズ・キャピトル国立管の音楽監督だったトゥガン・ソヒエフ。よく知った間柄でN響とのコミュニケーションのサポート役ということだったのでしょう。
ここにも清水さんが、N響のコンマスって大変でしょう?とツッコミ。
まあ、何となくN響団員の優等生体質を皮肉るような質問でもあったわけですが、藤江さんは、どこの楽団であってもコンマスは難しい大役ですと軽くいなしておいて、フランスと日本の音楽気質の違いをさらり。
「N響は技術的に高いのにとても控えめ。ひとたび指揮者の意図を理解し共感すると一丸となって凄い演奏をする。フランスでは、その逆でひとりひとりが目立ちたがりで指揮者がそれをコントロールするのが大変です。」
「N響では指揮者はずっと積極的に引っ張る必要があるけど、フランスではもっぱら抑え役。そうでないととんでもない演奏になってしまう。」
日本人の技術偏重の優等生気質と、フランス人の自由で互いの干渉を嫌う個人主義気質は、オーケストラの組織でもとても対照的なようです。それをどうするかがコンサートマスターのマネジメントというわけです。
藤江さんのヴァイオリンは、細身でとても純度の高い音色。
モーツァルトのK304もベートーヴェンのスプリングソナタも、どちらも大好きな名曲中の名曲。共に、とてもフランス的な気質の音楽で、藤江さんのヴァイオリンにぴったり。清水さんとの音色的な調和も完璧で、すばらしい演奏でした。
締めは、清水さんの独奏で「熱情」。
このコンサートシリーズは、昼前の1時間のコンサイスなコンサートでトークも楽しく、ほとんど欠かさず通っていますので、しばらくのお休みはとても残念。来年10月の再開がとても待ち遠しく感じます。
芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第49回「締めは清水和音の熱情」
2024年8月7日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階M列24番)
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタホ 短調調 K.304
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調作品24 「春」
:ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調作品57 「熱情」
藤江 扶紀(Vn) 清水和音(Pf)
最後の3つのソナタ (アンティ・シーララ) [コンサート]
アンティ・シーララは、ベートーヴェンのスペシャリストなんだそうです。
その剛毅剛直なベートーヴェンに度肝を抜かれる思いがしました。まさに鋼鉄のピアノ。大曲三曲を5分間の小休憩を挟みながら一気に弾ききってしまう。
ベートーヴェンのソナタのなかでも、最後の3つのソナタは、究極的で対比的な二極世界。しかも、3曲が相互に呼応し合うような壮大な内面ドラマを持っています。
そのコントラストがあまりに激しい部分があるので、この曲を聴くときには、思わず居住まいを正して身構えてしまいますし、どのように演奏するのかと固唾を呑んでしまうところがあります。
それだけに、その極端なコントラストを音楽の流れのなかで、どう折り合いをつけてバランスさせ、心情のドラマをどう決着をつけるのかが問われる。
かつては、剛直さと厳粛さというドイツ的な観念論の枠内でこの三部作を捉えていましたが、いつの頃からか、むしろ、フランス的な美学的な造形のなかで受け止めるようになりました――突き進むような高揚感から、一転するように内省的で恍惚と静かな陶酔の高みの世界への昇華。
好きな演奏は、ジャン=ベルナール・ポミエのようなフレンチ・ピアニズム。
むしろモーツァルト的な、天から光がふり注いでくるような音楽。グリモーだってそこは共通していて、透明で芯のある美音。ポリーニだって晩年になるほどそういう方向に向かっていった気がします。あのギレリスでさえもが、突然の死で全ソナタの録音は完成しませんでしたが、とても優しさにみちた美音の連なりを奏でていました――決して鋼鉄のピアノではありません。
シーララの演奏は、その対極。
シーララは、何度も来日を重ねているらしいのですが個人的には初めて聴きました。いったいどんなことになるのかいろいろと妄想をめぐらしていたのですが、その剛直そのもののベートーヴェンにしばらくは呆然としてなかなか言葉が出ませんでした。
聴き終わっても、なかなか心の中で折り合いがつきません。
そこで、聴き直してみたのが「鍵盤の獅子王」と言われたバックハウス。
かつての巨匠姓がもてはやされた時代のヴィルティオーソはどのような演奏をしていたのだろうかと確かめたくなったのです。古びたモノーラルレコードを引っ張り出して、聴いてみました。すると意外なことに、節度のあるダイナミックスです。最後の作品111の冒頭のたたきつけるような強和音も、現代のピアニストと変わらない。当時のヴィルティオージティは、むしろ、後半の速めのテンポの取り方にあったようです。速いパッセージで細やかなリズムと色彩のテンペラメントのアラベスク模様のなかに長大な歌唱やフーガの高揚を紡ぎ出していく。バックハウスは、当時すでに70歳を超えていましたが、大変な技術です。
シーララの演奏は、あまりにも打鍵が強く激しいので、二極世界の均衡感覚を一気に打ち砕いてしまう。後半の叙情世界がなかなかバランスがとれない。どうしても単調になってしまう。
作品109の冒頭も、軽やかで柔和な音楽が強烈な和音で打ち破られる。強い厳しいベートーヴェン。第2楽章も強靱なスケルツォ。フィナーレの第3楽章は、美しい安息の変奏と、そこから覚醒するようなフーガ……闘争からの解脱というような終末感ではなく、もっとロマンチックなバラードの物語世界へと導いていくような演奏解釈と言えるでしょうか。
もしかしたら、過去のピアニズムでは実現し得なかった、未来的な新しい「最後の三つのソナタ」なのかもしれません。未完成という印象はどうしても否めませんが(特に後半の叙情性)、これからの熟成が楽しみ。ベートーヴェン演奏の今後としても、ちょっと目が離せないピアニストなのかもしれません。
第549回日経ミューズサロン
アンティ・シーララ
ピアノ・リサイタル
2024年8月5日(金)18:30~
東京・大手町 日経ホール
(D列24番)
アンティ・シーララ(Antti Siirala)
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
その剛毅剛直なベートーヴェンに度肝を抜かれる思いがしました。まさに鋼鉄のピアノ。大曲三曲を5分間の小休憩を挟みながら一気に弾ききってしまう。
ベートーヴェンのソナタのなかでも、最後の3つのソナタは、究極的で対比的な二極世界。しかも、3曲が相互に呼応し合うような壮大な内面ドラマを持っています。
そのコントラストがあまりに激しい部分があるので、この曲を聴くときには、思わず居住まいを正して身構えてしまいますし、どのように演奏するのかと固唾を呑んでしまうところがあります。
それだけに、その極端なコントラストを音楽の流れのなかで、どう折り合いをつけてバランスさせ、心情のドラマをどう決着をつけるのかが問われる。
かつては、剛直さと厳粛さというドイツ的な観念論の枠内でこの三部作を捉えていましたが、いつの頃からか、むしろ、フランス的な美学的な造形のなかで受け止めるようになりました――突き進むような高揚感から、一転するように内省的で恍惚と静かな陶酔の高みの世界への昇華。
好きな演奏は、ジャン=ベルナール・ポミエのようなフレンチ・ピアニズム。
むしろモーツァルト的な、天から光がふり注いでくるような音楽。グリモーだってそこは共通していて、透明で芯のある美音。ポリーニだって晩年になるほどそういう方向に向かっていった気がします。あのギレリスでさえもが、突然の死で全ソナタの録音は完成しませんでしたが、とても優しさにみちた美音の連なりを奏でていました――決して鋼鉄のピアノではありません。
シーララの演奏は、その対極。
シーララは、何度も来日を重ねているらしいのですが個人的には初めて聴きました。いったいどんなことになるのかいろいろと妄想をめぐらしていたのですが、その剛直そのもののベートーヴェンにしばらくは呆然としてなかなか言葉が出ませんでした。
聴き終わっても、なかなか心の中で折り合いがつきません。
そこで、聴き直してみたのが「鍵盤の獅子王」と言われたバックハウス。
かつての巨匠姓がもてはやされた時代のヴィルティオーソはどのような演奏をしていたのだろうかと確かめたくなったのです。古びたモノーラルレコードを引っ張り出して、聴いてみました。すると意外なことに、節度のあるダイナミックスです。最後の作品111の冒頭のたたきつけるような強和音も、現代のピアニストと変わらない。当時のヴィルティオージティは、むしろ、後半の速めのテンポの取り方にあったようです。速いパッセージで細やかなリズムと色彩のテンペラメントのアラベスク模様のなかに長大な歌唱やフーガの高揚を紡ぎ出していく。バックハウスは、当時すでに70歳を超えていましたが、大変な技術です。
シーララの演奏は、あまりにも打鍵が強く激しいので、二極世界の均衡感覚を一気に打ち砕いてしまう。後半の叙情世界がなかなかバランスがとれない。どうしても単調になってしまう。
作品109の冒頭も、軽やかで柔和な音楽が強烈な和音で打ち破られる。強い厳しいベートーヴェン。第2楽章も強靱なスケルツォ。フィナーレの第3楽章は、美しい安息の変奏と、そこから覚醒するようなフーガ……闘争からの解脱というような終末感ではなく、もっとロマンチックなバラードの物語世界へと導いていくような演奏解釈と言えるでしょうか。
もしかしたら、過去のピアニズムでは実現し得なかった、未来的な新しい「最後の三つのソナタ」なのかもしれません。未完成という印象はどうしても否めませんが(特に後半の叙情性)、これからの熟成が楽しみ。ベートーヴェン演奏の今後としても、ちょっと目が離せないピアニストなのかもしれません。
第549回日経ミューズサロン
アンティ・シーララ
ピアノ・リサイタル
2024年8月5日(金)18:30~
東京・大手町 日経ホール
(D列24番)
アンティ・シーララ(Antti Siirala)
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
不滅のフォルテピアノ (川口成彦 & V.シェレポフ) [コンサート]
フォルテピアノの連弾――しかも、フォルテピアノは、スクエアピアノも加えて2台、さらにモダンピアノも加えて3台を弾き分けるという、ちょっと豪華なコンサート。
ピアニストは、目下、大活躍中の川口成彦さん。その川口さんと同世代で、ブルージュ国際古楽コンクールやローマ・フォルテピアノ国際コンクールなどで最高位を受賞しているヴィアチェスラフ・シェレポフさんとのデュオ。シェレポフさんは初来日。
連弾というのは、とても家庭的。ふたりの奏者が体を寄せ合ってひとつの鍵盤に向き合って弾く光景はとても微笑ましい。最初に演奏されたのは、モーツァルトの「4手のためのソナタ」。使用楽器は、1814年製のスクエアピアノ。だからより家庭的な雰囲気でいっぱい。
続けて、川口の独奏でヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのソナタ。使用楽器は、ウィーンで活躍した製作者アントン・ヴァルターの1795年頃のピアノの復元楽器。いかにもウィーンの古典派前期を思わせる雅でロマンチックな音色です。
ここからは、モダンピアノでの演奏が続きます。
先ずは川口のソロで、モンポウ。続いては、連弾でロドリーゴ。スペイン好きを自認する川口らしい選曲ですが、モンポウの「子供の情景」には家庭愛とか親密なくつろぎの中に、どこかまがまがしい暗部が隠されているのは、第一次世界大戦の陰を落としているからでしょうか。一方のロドリーゴには、この作曲家独自の哀愁が漂う素晴らしい連弾曲でした。
休憩をはさんで、シェレポフの独奏で、グリンカ。
これがこの日の白眉だったかな。シェレポフさんはモダンピアノの大変な名手。そのせいなのか、調律が良かったのか、このスタインウェイが素晴らしい音色でした。特に低域が重く、しかも、少しも滲むことなく強く沈むように長く響く。いかにもロシア。フォルテピアノと聴き合わせることで、かえって、モダンピアノの良さも浮かび上がってくる。ロドリーゴもグリンカも、もっとピアノ曲を聴いてみたいと思いました。
続いては、土臭いロマンスがたっぷりのドゥシークを川口が弾く。ヴァルターのフォルテピアノの音色も相まってウィーン情緒たっぷりです。そしてクレメンティの4手のソナタから、シューベルトの幻想曲D940と素晴らしい音楽史の流れです。
アンコールでは、再びスクエアピアノでの連弾でモーツァルト。今度は、上蓋を閉じての変奏。家庭用だったからアップライトと同様に蓋を閉じるのが通常。音量は小さくなるけど、不思議なことに音の粒立ちが明瞭でより繊細な感じがします。ヴァルターのフォルテピアノとの個性の対比がより際立って浮かび上がってきます。
3台のピアノを弾き分けてのソロや連弾。18~19世紀に急激な進化を遂げたピアノは、いかにも近代工業技術がもたらした楽器のようであって、ひとつも同じ楽器がない。決して規格品なんかじゃない。そういう楽器の個性の豊かさを俯瞰できる素晴らしく楽しい一夜でした。
川口成彦 & V.シェレポフ 不滅のフォルテピアノ
2024年7月29日(月) 19:00
東京・北区王子 北とぴあ さくらホール
(1階 L列 21番)
フォルテピアノ/ピアノ 独奏・連弾:
川口成彦
ヴィアチェスラフ・シェレポフ
◎モーツァルト:4手のためのソナタ 変ロ長調 K.358
○W. F. バッハ:ラメント(『ソナタ F.7』より) ソナタ ホ短調 BR A9
●モンポウ:子供の情景
◎ロドリーゴ:黄昏
○グリンカ:舟歌
アリャビエフの歌曲「ナイチンゲール」の主題による変奏曲
●ドゥシーク:「ロスライン城」の主題による変奏曲
◎クレメンティ:4手のためのソナタ ハ長調 op.6-1
◎シューベルト:幻想曲 ヘ短調 D940
(アンコール)
モーツァルト:メヌエット K.15
4手のためのソナタ 変ロ長調 K.358より 第3楽章
【使用楽器】
フォルテピアノ(A.ヴァルター:1795年頃/太田垣至復元)
J.ブロードウッド&サンズのスクエアピアノ:1814年/太田垣至修復)
モダンピアノ(スタインウェイ)
【奏者】
●川口成彦
○ヴィアチェスラフ・シェレポフ
◎連弾
ピアニストは、目下、大活躍中の川口成彦さん。その川口さんと同世代で、ブルージュ国際古楽コンクールやローマ・フォルテピアノ国際コンクールなどで最高位を受賞しているヴィアチェスラフ・シェレポフさんとのデュオ。シェレポフさんは初来日。
連弾というのは、とても家庭的。ふたりの奏者が体を寄せ合ってひとつの鍵盤に向き合って弾く光景はとても微笑ましい。最初に演奏されたのは、モーツァルトの「4手のためのソナタ」。使用楽器は、1814年製のスクエアピアノ。だからより家庭的な雰囲気でいっぱい。
続けて、川口の独奏でヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのソナタ。使用楽器は、ウィーンで活躍した製作者アントン・ヴァルターの1795年頃のピアノの復元楽器。いかにもウィーンの古典派前期を思わせる雅でロマンチックな音色です。
ここからは、モダンピアノでの演奏が続きます。
先ずは川口のソロで、モンポウ。続いては、連弾でロドリーゴ。スペイン好きを自認する川口らしい選曲ですが、モンポウの「子供の情景」には家庭愛とか親密なくつろぎの中に、どこかまがまがしい暗部が隠されているのは、第一次世界大戦の陰を落としているからでしょうか。一方のロドリーゴには、この作曲家独自の哀愁が漂う素晴らしい連弾曲でした。
休憩をはさんで、シェレポフの独奏で、グリンカ。
これがこの日の白眉だったかな。シェレポフさんはモダンピアノの大変な名手。そのせいなのか、調律が良かったのか、このスタインウェイが素晴らしい音色でした。特に低域が重く、しかも、少しも滲むことなく強く沈むように長く響く。いかにもロシア。フォルテピアノと聴き合わせることで、かえって、モダンピアノの良さも浮かび上がってくる。ロドリーゴもグリンカも、もっとピアノ曲を聴いてみたいと思いました。
続いては、土臭いロマンスがたっぷりのドゥシークを川口が弾く。ヴァルターのフォルテピアノの音色も相まってウィーン情緒たっぷりです。そしてクレメンティの4手のソナタから、シューベルトの幻想曲D940と素晴らしい音楽史の流れです。
アンコールでは、再びスクエアピアノでの連弾でモーツァルト。今度は、上蓋を閉じての変奏。家庭用だったからアップライトと同様に蓋を閉じるのが通常。音量は小さくなるけど、不思議なことに音の粒立ちが明瞭でより繊細な感じがします。ヴァルターのフォルテピアノとの個性の対比がより際立って浮かび上がってきます。
3台のピアノを弾き分けてのソロや連弾。18~19世紀に急激な進化を遂げたピアノは、いかにも近代工業技術がもたらした楽器のようであって、ひとつも同じ楽器がない。決して規格品なんかじゃない。そういう楽器の個性の豊かさを俯瞰できる素晴らしく楽しい一夜でした。
川口成彦 & V.シェレポフ 不滅のフォルテピアノ
2024年7月29日(月) 19:00
東京・北区王子 北とぴあ さくらホール
(1階 L列 21番)
フォルテピアノ/ピアノ 独奏・連弾:
川口成彦
ヴィアチェスラフ・シェレポフ
◎モーツァルト:4手のためのソナタ 変ロ長調 K.358
○W. F. バッハ:ラメント(『ソナタ F.7』より) ソナタ ホ短調 BR A9
●モンポウ:子供の情景
◎ロドリーゴ:黄昏
○グリンカ:舟歌
アリャビエフの歌曲「ナイチンゲール」の主題による変奏曲
●ドゥシーク:「ロスライン城」の主題による変奏曲
◎クレメンティ:4手のためのソナタ ハ長調 op.6-1
◎シューベルト:幻想曲 ヘ短調 D940
(アンコール)
モーツァルト:メヌエット K.15
4手のためのソナタ 変ロ長調 K.358より 第3楽章
【使用楽器】
フォルテピアノ(A.ヴァルター:1795年頃/太田垣至復元)
J.ブロードウッド&サンズのスクエアピアノ:1814年/太田垣至修復)
モダンピアノ(スタインウェイ)
【奏者】
●川口成彦
○ヴィアチェスラフ・シェレポフ
◎連弾