19世紀後半に湧き上がったジャポニズム。その熱狂は、ゴッホやモネなどの印象派の画家たち、ロートレックなどのポスター画、アールヌーヴォーの工芸品といった造形芸術のみならず、ドビュッシーなどの音楽や文学などあらゆる芸術分野に影響を及ぼし西欧の美学的感性を一変させたと言っても過言ではない。その端緒は、輸入陶磁器の緩衝材として使われていた冊子の「北斎漫画」だったとも言われている。北斎はまさにジャポニズムの中心にあった。



 

エドモン・ド・ゴンクールの著した『北斎』は、浮世絵を中心としたジャポニズム興隆の決定的な著述というだけではなく、北斎の画業を単なる異国の通俗、エキゾチシズムや蒐集趣味にとどめず、正統的な美学的土俵の上にすえて美術史上の評価を与えた先駆的業績というにふさわしい。

 

本書は、そのゴンクールの『北斎』についての覚書。

 

ゴンクールと北斎との出会い、背景となった版画というジャンルの技法や形態、欧米における北斎評価の変遷などを仔細に探っていく。版画というものが印刷や出版というものと密接な関係があっただけに、その探求は書誌学や文献学的な視点にも熱が帯びる。

 

 

さて…

 

エドモン・ド・ゴンクールは、フランスの作家。弟ジュール・ド・ゴンクールとの共同で自然主義的な近代小説や美術評論に健筆をふるい、その遺産で創設した文学賞は、今もフランスで最も権威のある文学賞としてその名をとどめている。

 

北斎は、画号をいくつも変えそれにともない画風や様式も変遷し、とにかくおびただしい作品を遺した。作品の主題も、風俗・美人・役者・武者・風景・花鳥・静物と多岐にわたり、技法・形態としても、一枚絵・摺物・版本・肉筆画とある。

 

ゴンクールがその死の直前にようやく刊行にこぎつけた『北斎』は、まさに執念の書。文筆家にありがちな評論、エッセイの類いではなく、多岐多様な北斎の画業を可能な限り網羅し大系づけようとしたものであった。しかも、その本編は、目録の体裁(カタログ・レゾネ)を取るという美術研究書の王道をゆく本格的でマニアックなもの。

 

版画家でもあった弟・ジュールの影響もあって、北斎あるいはその作品を、単なる下絵作家、画工(グラフィックアーティスト)としてとらえず、版画技法や出版形態にまで追求し、一筆の線で瞬時に対象を写し取る日本画の特質と画家の卓抜な才能に迫るというわけだ。その中心にあるのは、やはり「北斎漫画」。

 

本書も、「覚書」とするだけにもちろん浩瀚な書ではないが、内容は多岐にわたる。

 

ゴンクールの情報収集を援けた林忠正などの日本人美術商、版画技法研究の先駆けとなった『18世紀の美術』で取り上げたヴァトーやブーシェなどの画家たち、あるいは北斎評価の先鋒となったルイ・ゴンスや、日本美術紹介の先駆のフェノロサなどとの影響、交流も探訪する。これもまた、原著に輪をかけてマニアック。それもまた、江戸時代の文芸、書、画を専門とし、ボストン、パリ、ロンドンなど海外各国の名だたる美術館などの所蔵品の整理、目録制作に携わってきた研究者としての著者の矜持でもあるのだろう。

 

 

面白かったのは、巻末の「用語略解」。

 

ゴンクールの時代に、洋の東西を分けずに北斎を同じ遡上で評価し、そのうえで目録を作るわけだから、当時のフランス語など欧米語のターミノロジーと日本語のそれをいかに解き明かし、対応づけ、訳語を当てはめるのかは、なかなか至難のこと。さらに100年後の著者にとっては、時を隔てて真逆のプロセスが生じる。研究者だけに通常の翻訳者以上の苦労とこだわりが生ずるというわけ…。

 

例えば《album アルボム》。

 

一般的な現代日本人が想起する「写真帳」ではないことは確かだが、それが「画帖」とか「画集」とかに固定してしまうのも、北斎側、ゴンクール側、双方にどこかしっくりとこない。どこかにすれ違いがある。それは時に帖装のことであったり、あるいは出版形態のことだったりと次元の違いも錯綜するからややこしい。案外、現代の音楽好きにとっては世界共通語である「(レコード)アルバム」の方がすっきりするかもしれない。著者も結局はカタカナの「アルバム」を多用することに落ち着いたらしい。

 

 

《Surimono スリモノ》の説明には、はたと膝を打った。

 

「摺り物」のことだが、その意味するところは、富裕層が、本屋などを通さず直接注文して制作させ、仲間内などに配ったいわば非売品。それだけに技巧を凝らした趣味性に富んだ木版画が多い。明解な意味を初めて知った。ゴンクールはそのまま“Surimono”と言っている。何とヨーロッパには同種のものがなかったからなのだそうだ。江戸の町人文化、市井の趣味人の懐の深さを、あらためて感じさせる。

 

とにかくマニアック。読み通しても何がわかったかという気にもなれないけれど、北斎の深い森へと知らずのうちにずぶずぶと引き込まれていく。

 

 

 

エドモン・ド・ゴンクール著『北斎』覚書

鈴木 淳 著

ひつじ書房