バッハの音楽は、不思議とピアノ的だ。


武久源造のジルバーマン・ピアノによるバッハ演奏会。



小さなトッパンホールは満席で、かろうじて一昨日の電話予約で取ったのはこんな席。前列ではこれが精一杯。




プログラムを見ると、バッハの中でもとりわけピアノ的な曲目が並ぶ。


「パルティータ第4番」は、ワイセンベルグに親しんだ。あの硬質な美音と造形の美学は駅前の結婚式場の通俗とすれすれのところがあるが、4番のパルティータはことさら見事だった。


ちなみに、あの美しいリリシズムに満ちた2番のパルティータは断然アルゲリッチ。アルペッジオの響きの6番は高橋悠治。私にとっての「パルティータ」の刷り込みは全てピアノだった。


「イタリア協奏曲」はG.グールドだろう。しかし、個人的には宮沢明子のリサイタルが忘れられない。アンダンテの二段鍵盤風の音色の弾き分けには絶句した。ピアノのテクニックはそういうものだったのかと初めて知った瞬間だった。宮沢は自由闊達なひとで単なるグールドの追従者の域を超えていたと思う。


ジルバーマンのフォルテピアノは音量が小さいが、澄んだ丸い暖かな音がする。低域は優雅でしかもラインが明瞭。高域は心ときめくように輝く。チェンバロ的な音色のピアノという風だが、チェンバロのように響きが混濁しない。


印象的なのは「指」の感触が聴き手にまで伝わってくることだ。ジーグやプレスト、激しいフーガなどの早いパッセージの粒立ちはもちろんのこと、ひとつひとつ響きを確かめながら音をたどるようなアルマンドでの感触もこちらに伝わってくる。特に、指から指へとメロディをつないでいくようなレガートの感覚は新鮮だった。だから、チェンバロよりもかえってポリフォニックで、対位法の複声的表現が鮮烈に響く。


鍵盤楽器が通奏低音・伴奏楽器から、メロディも表現するソロ楽器に進化した一瞬である。


モダンピアノの弾き手には当たり前のようなことだから、バッハの真髄がロマン派寄りに歪められてしまう。バッハは徹底してヴィヴァルディなどヴェネチア派の協奏曲を鍵盤楽器に編曲した。バッハがヴァイオリンやオーボエのカンティナーレを執拗に追求したあの感覚。その指の感触を徹底して追求したのは、ピアニスト側ではグールドしかいないのかもしれない。


現代のピアニストは、テクニックの根源に盲目であって自分の美質がかえって見えないからだ。



それにしても、調律が大変。


最初のパルティータの5曲目サランバンドが終わったところで武久はいきなりハープ用ほどのT字レンチ型のチューニングハンマーを取り出し、聴衆の面前で自らチューニング。


それからは、二曲から三曲するとチューニングという有様。最後のアンサンブルを従えての「チェンバロ協奏曲第6番」では楽章毎にチューニング。それでも、第二楽章のアンダンテでは、ヴァイオリンもつられて音程が不安定になった。



最後の挨拶で、武久さんは「いやあ、こんなに狂うとは思わなかった」と破顔一笑。


その子供のように純真な笑顔を武久は自からの目で見ることはない。


CDでしか知らなかった武久源造の素顔に接することができてとてもよかった。





武久源造

ジルバーマン・ピアノでバッハを弾く

5月21日

東京 トッパンホール


ヨハン・セバスティアン・バッハ

パルティータ第4番 ニ長調 BWV828

半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV903

イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971

チェンバロ協奏曲第6番 ヘ長調 BXV1057

(原曲:ブランデンブルク協奏曲第4番)


(アンコール)

ゴールドベルク変奏曲より主題「アリア」