「板橋」というのは、石神井川にかかる橋で、もちろん板橋区の「板橋」はここから来ています。



ここは、旧中山道の板橋宿のあった場所です。



板橋宿は、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、日光街道の千住とならび江戸の表玄関ともいうべき大きな宿場町でした。街道に沿って、上宿、中宿、下宿と分かれていて、本陣のあった中宿が今の「仲宿」にあたり、商店街の中心になっています。



いまはちょっとレトロでなおかつおしゃれな商店街になっています。大型連休の初日とあって、いつもより人出が多いようですが、普段からも散策するにはとてもよい町並みです。



石神井川は両岸に緑道もあって、春には桜の花が咲き誇り、夏はうっそうとした緑に涼風がそよぐ気持ちのよい木陰が続く、これもまた散策にはもってこいの小道になっています。



石神井川といえば、西東京から練馬にかけてのイメージがありますが、実は、隅田川の支流で、中流の石神井池からこの板橋、王子を経て隅田川に合流しています。



板橋と王子の間は、加賀藩の21万坪におよぶ広大な下屋敷があった土地で、現在の地名になっています。そのほんの一部の築山が加賀公園として名残をとどめています。

その縁で、板橋区と金沢市は友好交流都市の関係にあります。

ちなみに、上屋敷は、今に赤門を遺す東京大学本郷キャンパス、中屋敷は現在の駒込で六義園に隣接する区域。百万石大名の敷地はとにかく広大で広範囲に及んでいました。

下屋敷は、板橋宿に隣接することから、参勤交代の行列が江戸へ入るにあたって旅装を解き江戸入城の威儀を整える場ともなりました。



石神井川は、この下屋敷内を流れていましたから、その水利を利用して幕末には火薬製造や大砲の鋳造などが行われました。加賀藩は富山県五箇山を火薬の原料である焔硝生産地として確保し幕末に至るまで火薬生産の質と量において日本一の地位にあったのです。

この軍事生産拠点は、明治以降、この地域一帯を一大軍事補給の中心として発展させていくことになります。