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過去形の現代音楽 (N響 ミュージックトモロウ2024) [コンサート]

ちょっと考えさせられてしまった。

日本で最も歴史のある作曲賞である「尾高賞」。

毎年の受賞曲発表は、かつてはN響定期で行われていた。保守的なN響定期会員には現代音楽がなじみにくく、80年代に特別演奏会が別途開催されるようになり、この「Music Tomorrow」はそれを継承したもの。

受賞作品とともに、代表的な現代作品も演奏する。世界のトップオーケストラとの共同委嘱作品の日本初演がずらりと並ぶ豪華なプログラム。

N響の高度な技術、初見対応力が存分に総攬できて、当代一流の人気ソリストが登場して、しかも、チケット代はたったのS席3千円と超お得。

考えさせられたというのは、尾高賞というもののあり方。

受賞したのは、湯浅讓二氏。戦後まもない頃の前芸術運動「実験工房」で武満徹らと行動をともにしたという世代。御年94歳の大長老。しかも、その作品は、最新作ではなく16年前の作品の編作に過ぎない。現代の新作ではなく過去形の音楽。

湯浅氏が奥様を亡くされた時の作品で、「哀歌」とはつまりは亡妻への死の慟哭、追弔の音楽。聴いてみるとこれほどわかりやすいというのか、「哀歌(エレジー)」のあまりにもお定まりの下降音型が綿々と重なる音楽で、しかも前衛の看板みたいな無調音楽に徹するものだから、戦後の前衛世代の相も変わらぬマンネリズムの空虚さしか感じない。原曲のマンドリンならだいぶ違ったのかも知れないが。

50年以上も昔、中学・高校生の時代にずいぶんと背伸びをして、前衛音楽コンサートにも何回か足を運んだ。昨年何回目かの尾高賞を受賞した一柳慧氏なども前衛のスター的存在で、それを崇め奉ったのは若気の至りとも言うべき知ったかぶりに過ぎず、実験的な音楽には好奇心はあっても心から共感することはなかったというのが偽らざる本音。それがいまや、何の抵抗もなく聴けるばかりか、懐かしいというか、いささか古くさいものとさえ聞こえてしまう。

昨年の一柳氏は、受賞を前にして物故されたが、今回、湯浅氏は車椅子で登壇。N響の常務理事が、歩み寄って腰を低くして賞状を差し出す光景はなんとも言えない気分がした。この受賞選考にはどうやらずいぶんと議論もあったらしい。プログラムの片山杜秀氏の解説からも、なんとも微妙な空気を感じるが、その意味でこの一文は大変な名文だ。当のご本人のほうは、同じプログラム「受賞によせて」で、受賞の知らせに『どの曲が受賞したのかな?』とまず思ったと書いている。いやはやなんともという感じで、片山氏の賛辞がいかに大変な名文であるかというものだろう。言わずもがなだが、湯浅氏はもう作曲はしないということも宣言している。

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さて…

日本初演の各曲は、どれも素晴らしかった。

本来は作曲者エロヴェシュの自作自演が企画されていたが、残念ながら急逝された。指揮台に立ったのはその高弟であるペーター・レンデル。その指揮は見事。

一曲目は、抽象画の大家マレーヴィチにちなんだ曲で、絢爛な色彩感に圧倒された。絵画を「読む」というのは意味深だけれども、色彩だけで形に乏しくちょっと単調。

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後半の、二曲の協奏曲がすごく楽しかった。メストレのソロというのはとんでもなく贅沢。ギイは、これまたリストはだしの華々しいカデンツァ風のソロと厚みのあるオーケストラの大音響で大いに盛り上がります。

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アンコールのドビュッシー「花火」は、いつも実演に接すると思うのですが、打ち上げ花火ではなくネズミ花火だと確信してしまう。聴覚が視覚的モビリティに転化するというのは、もっとも現代的な感覚の嬉遊なんだと改めて思いました。





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NHK交響楽団
Music Tomorrow 2024
2024年5月28日(火)19:00
東京オペラシティコンサートホール
(2階 L1列 31番)

グザヴィエ・ドゥ・メストレ(ハープ)
フランソワ・フレデリック・ギイ(ピアノ)
ペーター・ルンデル(指揮)
NHK交響楽団

エトヴェシュ:マレーヴィチを読む(2018)[日本初演]
湯浅譲二:
  打楽器、ハープ、ピアノ、弦楽オーケストラのための
   「哀歌(エレジィ) ―for my wife, Reiko―」(2023)
   [第71回「尾高賞」受賞作品]

エトヴェシュ:ハープ協奏曲(2023)
ミュライユ:「嵐の目」
      ―ピアノとオーケストラのための幻想即興曲(2022)[日本初演]

(アンコール)フランソワ・フレデリック・ギイ
ドビュッシー:前奏曲集 第Ⅱ巻 ― 第12曲「花火」
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京都の裏小路の宿とカフェ [旅日記]

京博(きょうはく)に行く前に立ち寄った宿泊所。ウチのかみさんが今晩ご宿泊とのことで荷物を預けに立ち寄りました。

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ここは京都御所の東側の河原町通りと鴨川の間の裏小路。どこか懐かしい下町っぽい閑静な住宅街ですが、御所に近いだけに由緒正しさを感じさせます。この宿泊所も、ちょっとした穴場。宮家ゆかりの地だそうで、かつて香淳皇后(昭和天皇の皇后)が幼少の一時期をお過ごしになったのだとか。

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京都といえども、こういうところには観光客は来ません。

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お寺さんと保育園に隣接した、ちょっとレトロなカフェでひと休み。

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アイスティーとセットのフレンチトーストが美味しかった。
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ちょっとクセになる京博(きょうはく) [旅日記]

初夏の修学院離宮は、思いのほか暑かった。

四季折々に表情を変える庭園ですが、特に夏の離宮は自然の強く照らし出されるような気がします。それだけに回遊式庭園のパワーがすごい。

一ヶ月の休暇をずっと日本で過ごすというドイツ人のカップルは京都御所にまわるとかで、彼らと出町柳の駅で別れると、私たちは国立博物館へ。

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明治古都館と呼ばれるもともとの建物は、ジョサイア・コンドルの直弟子の片山東熊の設計。長州藩下級藩士の小倅で騎兵隊に入隊し戊辰戦争を戦ったきかん気らしく、同期の辰野金吾に較べると、どこか国粋的なところがあって和洋折衷の意匠がちょっとクセになります。

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明治天皇に「贅沢すぎる」と叱られて気に病んだというエピソードの旧東宮御所(現・迎賓館)よりも、かえって伸びやかで、片山ファンにはたまらない魅力を感じさせるのが、この京博(きょうはく)。

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「雪舟展」鑑賞を兼ねての久々の再訪です。
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蘇州園(旧・弘世助三郎邸) [旅日記]

旧・乾邸見学の後に訪れたカフェ(蘇州園)は、日本生命創業者・弘世助三郎の旧邸でした。

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飛び込みだったので私たちはケーキセット。事前に予約してアフタヌーンティーを楽しむのがこのカフェの王道なのだとか。でも私のいただいた抹茶テラミスは最高においしかった。

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高級住宅街といえば、よく「東の田園調布、西の芦屋・六麓荘」と言われますが、かつてのこの地(住吉・御影)はケタ違いの豪邸群でした。

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旧・乾邸 [旅日記]

メインイベントは、渡邊節の傑作といわれる旧・乾家住宅。

汽船会社の創業者・乾新治の個人住宅。住吉山手は近代になって開発された高級住宅街ですが、その中でも昭和10年という遅い時期の建築なので立地は、急坂を上ったかなり山手の斜面にあります。

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渡邊節の作品としては、綿業会館がありますが、こちらはれっきとした個人の自宅。迎賓館とか別荘とかでもない。渡邊は、設計者としてはかなりのカネ喰いだったようですが、施主にしてみれば思いのたけを尽くしてくれるひと。綿業会館に較べると確かにスケールは小さいのですが、それだけに贅が凝縮されています。導線や見た目の立体的な意匠に細やかな配慮が行き届いてるという印象。

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特に、ゲストルームはとても気持ちが良い。薄い色づけのステンドグランスがお洒落で部屋が開放的で明るい。半分はサンルームにいるような雰囲気で、庭園をながめながらゆったりといつまでもくつろいでいたい気分。

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それでいて、天井は吹き抜けのように高く大きなシャンデリア――さらに、渡邊節のシンボルとも言える2階へと上がる階段が重厚さと豪華さを演出している。ここはやっぱりゲストルームなんだと忘れかけていたことに思い当たります。

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洋式庭園から眺める正面外観は、ちょっと不均衡。向かって右が洋式のゲスト部分で左が居室部分で和式になっているからです。でも、それは外観という見てくれよりも内側の機能や意匠を優先するからであって、そこが個人住宅の魅力でもあり、渡邊節の真骨頂だという気がします。

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意匠面でカネに糸目をつけなかったと言われる渡邊ですが、一方では建築家として極めて機能主義、合理主義で、この建物も鉄筋コンクリート製だそうです。短期間で済ませることが得意だったそうで、建設中に住居を失う新婚の息子夫婦にはその間、世界旅行に行かせて見聞を広めさせたのだとか。

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そのおかげで、長い風雪に耐えていまでもまるでそこに人が住んでいるかのように保全されています。この一帯(旧・住吉村)には大富豪たちの大邸宅が立ち並んでいたそうですが、そのほとんどが失われている。その意味でも、この乾邸は見る価値のある建物です。
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白鶴美術館 [旅日記]

白鶴酒造の創業家・七代目当主嘉納治兵衛が自ら蒐集した古美術を展示するために建てられた美術館。

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中はゆったりとした造りで、殷周の青銅器や唐、明、清代の陶磁器などがゆとりをもって展示されています。国宝、重要文化財の数々にも圧倒されますが、建物もすべて私財を投じた私設の美術館ということにも驚きます。

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嘉納治兵衛は、灘の酒蔵主と強力し、住吉山手一帯の開発に尽力したひとで、その開発は住宅地としての環境整備のみならず、病院施設の誘致やこのような文化施設の充実のほか、学校の創立など教育面でも貢献したそうです。

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あの屈指の進学校・灘高校もそのひとつ。創設時に顧問を務めた講道館柔道の嘉納治五郎は、白鶴嘉納家の縁戚でした。
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ヴェルディ「椿姫」(新国立劇場) [コンサート]

お目当ては、タイトルロールの中村恵理。世界で通用する数少ない日本人歌手のひとり。一昨年のプロダクションの再演だけど観るのは今回が初めてでした。

中村恵理の歌唱と演技は、期待どおり。

でも、出だしが難しい。

中村は、一貫して繊細、可憐で、芯は強いが自己犠牲に満ちた真情にあふれるヴィオレッタを演じようとしていたと思う。演出も決してそれとは矛盾したものではなかったと思う。

そういう歌唱と演技にとって、出だしはかなり難しい。第一幕は、立派な歌い手のほうが楽だし、音楽的にもその方が映える。悦楽的、拝金主義の「道を踏み外した女、堕落した女」を演じておいて、後半になってがらりと変わるという「実は…」という意外性のほうが受けがよい。

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出だしはともすればエンジンがかかりにくい。それもあったかもしれないけど、この第一幕は、中村というより共演者の問題なんだろう。アルフレートが立派過ぎるのだ。だから、どうしてもヴィオレッタの声量が小さく聞こえてしまう。ここは声量や立派な歌唱よりも、直情的な真っ直ぐ過ぎるほどの純情でヴィオレッタの内面を揺さぶって、「花から花へ」に潜んでいるヴィオレッタの迷いを引き立ててほしかった。

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第二幕のジェルモンも同じ。あまりにも重厚で圧迫感を感じてしまう。これではヴィオレッタを力ずくで説得しているように見える。都会的洗練や進歩性とはほど遠い保守的な地方の地主階級の誠実味の切なさがほしい。そうでなければ、中村の演技や歌唱が生かされない。この場面でこそのジェルモンの慈愛に満ちた歌唱のはず。それはアルフレートを説得しようとする「プロヴァンスの海と陸」ではなおのこと。

責任の一端は、ここまでのランツィロッタの指揮と東フィルにもある。どうにも音楽がおおざっぱで粗っぽい。

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それが、劇の半ばからぐんぐんと変貌していく。一変したといってよいほど。それはやっぱりヴェルディの音楽の力なんだと思った。第二場のフローラの館。不本意ながらのヴィオレッタと荒れるアルフレートが巻き起こす混乱と混沌の重唱が素晴らしい。切り換えにあって場をアゲるのはいつも新国立の合唱団。

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そして、第三幕のヴィオレッタこそ、このプロダクションの見せ場。涙無くして見ていられない。終わってみれば中村恵理の独壇場。

演出と舞台も称賛したい。舞台はとてもシンプル。それでいてバックの鏡面が奥行きと幅を与えてくれる。鏡面に開けられたドアからの退場というアイデアはなかなかの効果で、ステージに残るヴィオレッタの孤立を浮かび上がらせてくれたりする。大道具といえばグランドピアノが一台。それが、シャンパン・タワーのテーブルだったり賭け事のテーブルにもなるし、病床にもなる。最後の愁嘆場での薄幕も、恋人とその義父との距離が解消していく様を表して効果的。ちょっと残念なのは照明が暗いこと。もっとメリハリがあってよかったのではないか。

演出も、シンプルなものだが奇をてらった読み換えがない。とても劇の流れを忠実に追ったオーソドックスなもの。前奏曲が、ある種の回想劇であることを明示できたのも演出の効果なのだろう。とにかくステージが自由で広い。それだけに歌唱と演技が映える。オーケストラピットに張り出したエクステンションは、最後の中村恵理の演技のためのとっておきのものだったことが最後の最後でわかる。

返す返すも前半のちぐはぐさが残念。バランスの問題だから今後の公演で修正されていくかもしれない。中村の見事な歌唱と演技を目の当たりにすると、時間をかけてアンサンブルを練り上げた全キャスト日本人のプロダクションのほうが良いのではとさえ思う。新国立劇場もそろそろそういうことにチャレンジしてほしい。


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新国立劇場
ヴェルディ 「椿姫」
2024年5月16日 19:00
東京・初台 新国立劇場 オペラハウス
(1階12列13番)

【指 揮】フランチェスコ・ランツィロッタ
【演出・衣裳】ヴァンサン・ブサール
【美 術】ヴァンサン・ルメール
【照 明】グイド・レヴィ
【ムーヴメント・ディレクター】ヘルゲ・レトーニャ
【再演演出】澤田康子
【舞台監督】CIBITA 斉藤 美穂

【ヴィオレッタ】中村恵理
【アルフレード】リッカルド・デッラ・シュッカ
【ジェルモン】グスターボ・カスティーリョ
【フローラ】杉山由紀
【ガストン子爵】金山京介
【ドゥフォール男爵】成田博之
【ドビニー侯爵】近藤 圭
【医師グランヴィル】久保田真澄
【アンニーナ】谷口睦美
【ジュゼッペ】高嶋康晴
【使者】井出壮志朗
【フローラの召使】上野裕之
【合 唱】新国立劇場合唱団
【合唱指揮】三澤洋史
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
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スピーカーが無い (kikiさん邸訪問記) [オーディオ]

kikiさんのお宅を訪問しました。

よく「スピーカーが消える」と言います。

でも…

kikiさんのスピーカーは、始めから《無い》――存在していません。

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唯一無二のユニークな再生システムです。それは何と言っても「対向型」とでも言うべきスピーカーセッティングによる立体音場再生です。マンションの6畳ほどのリスニングルームに案内されると、まず目を引くのはリスニングポジション正面にスピーカーが無いこと。スピーカーは、足元のフロア左右に向き合うようにセットされていて、こちらを向いていません。目の前にスピーカーがある一般のセッティングとは違う。スピーカーが《無い》というわけです。

ちょっとレトロな機器を使い込んでいて、スピーカー、アンプと幾種類かの組み合わせで、それぞれ独立したラインアップでいろいろと工夫を重ねながら楽しむというのがkiki流。「対向法」と言っても、ご自身があれこれスピーカーの振り角などを試行錯誤しているうちに行き着いたものだそうです。「対向法」というのは、誰かがそう呼んでいると後で知ったそうです。この日は、残念ながらQUAD ESLはお休み。ちょっと不調だそうです。

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一番奥と手前にENSAMBLE ANIMATA。真ん中にaudio physic BRILON 1.0SLE。いずれも小型スピーカーですべて足元のフロア置き。それぞれかなりの仰角がつけられています。オーディオシステムの面構えとしてはかなりユニークです。

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いきなり「お持ちのCDをおかけください」と言われて、ちょっと戸惑いました。立体音場再生の検証用にと、ごく限られた調整用のCDしか持ってこなかったからです。気を取り直して、常用定盤リファレンスCDをかけていただきました。

最初に、奥のANIMATAから。こちらはAccuphase A-20Vを2台ブリッジでドライブしているそうです。

正直申し上げて、これはあまり感心しませんでした。音場が中央に寄ってしまい音像定位がはっきりしません。奥行きはありますが、音場が小さく狭くまとまってしまいステージが見えてきません。パッヘルベルのカノンではハーモニーは綺麗に響くのですがカノンの3つのパートが分離してくれない。

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幸田浩子のアヴェ・マリアではボーカルが奥に薄く遠くなってしまいます。これはいかにも位相が甘い。スピーカーのセッティングが云々という以前にアンプの位相がちゃんとしていないのでしょう。ブリッジ接続があだになっているのではないでしょうか。

次に、真ん中のBRILONです。

これは良い!…と思いました。BRILONは私が使用しているスピーカースタンド(サイドプレス)の原点ともなったスピーカーなので名前は知っていたのですが実見するのは初めて。こんなに小さいのかと意外でしたが、このサイズは音場再生にはうってつけ。ただ残念なのは音色がいまひとつ。高域が粗っぽい。その責めはどうやらこれまたアンプにあるようです。中華製の真空管アンプをベースに改造したものとのことですが、真空管なのかあるいは他のデバイスなのか素性が良くないのかもしれません。

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最後に、一番手前のANIMATA。

これが、音場も音色も申し分ない。「どれがいいですか?」と聞かれて、ためらわずに「これです」とお答えしました。同じスピーカーであり、それぞれ存分に詰めたセッティングなので、判別しているのはアンプということになります。こちらはKYOCERA(B-910)の純A級アンプ。初めて知りましたが、京セラが90年代に突然オーディオに参入した時の、いわば幻のアンプ。これを2台左右独立でプリアンプでバランス出力を形成して接続しているとのご説明でした。

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プリアンプは、kikiさん自作のもの。バッテリー駆動ということ以外の詳細はよく理解できませんでしたが、音量は従来の前段・後段の中間のアッテネーターで減衰するのではなくて出力段のゲインをコントロールするもののようです。グランドについても独自の考え方があるそうです。回路の詳細はともかく、一聴してSNが素晴らしく音色もとびきり自然なものだということがわかります。

ただし、聴いているうちに微かに不満が残ります。高域での左右定位がよくないのです。そのことはパッヘルベルのカノンでも、アヴェ・マリアでも感じます。中域以下の音域で定位を作っている分には申し分ないのですが、ヴァイオリンなど高域でなおかつ倍音成分がたっぷりの音像となるとおかしくなってしまいます。

ふと思いついて、ANIMATAのサランネットを外してもらいました。

これが正解でした。どうしても対向型ですとツィターの指向限界で左右定位を作ることになります。ANIMATAのツィターはドーム型で指向性は良いはずですが、さすがに対向型はシビアなのでサランネットで位相が拡散してしまっているのだと推測したわけです。対向型で音場を作るということは、ツィターの素性、特に指向性が極めてシビアにならざるを得ないと感じます。

ここからは、音楽鑑賞にスイッチが切り替わります。様々な音源をお聴かせいただきました。

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ひとつだけご紹介すると、ブレンデルのモーツァルト。

ブレンデルのモーツァルト・ソナタというのは意外に思われるかも知れませんが、あまり多くは録音していません。このCDは初めて知りました。モーツァルトというのはピアニストに言わせると演奏が最も難しいそうです。汲めども尽きぬ深遠があって、平易な楽譜はかえってつかみどころがない。ファジル・サイなどを聴くと、何だか行きつく所まで来たとげんなりさせられますが、このブレンデルには、オーソドックスな完璧なまでのモーツァルトで、心が洗われるような思いがします。

このCDは、フィリップスの正規版にもかかわらず、すべてライブ収録だということが異色。

しかも、ヴェニューが違う。

最初に聴かせていただいたK570は、アムステルダムのコンセルトヘボー。その豊かな響きが透明度を伴って息を呑むほど純度が高い。いささか朴訥なあのホールの縦長のシューボックスの形が見えてきます。

一方、次に聴かせていただいたトルコ行進曲は、イギリスのスネイプのモルティングハウス。ウィスキーのモルト工場を改装したホールのウッディな暖かみのある韻が心地よく、ホールの高さよりもがフロアや壁が鳴るようで木組みのホールの姿が目に浮かぶよう。こちらはBBCがクレジットされていて、フィリップスのクルーではないようです。やはりホールの音を知り尽くしているということなのでしょうか。

よく音楽知らずのオーディオ耳と揶揄されますが、それはそういう虚飾で歪められた音ばかり聴いているからに過ぎません。究極の音場再生とは、演奏が収録される会場やホールの形さえもが見えてきます。

そういう再生システムにようやく出会えたような気がしました。

タグ:訪問オフ会
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『百首でよむ「源氏物語」』(木村 朗子 著)読了 [読書]

「光源氏」の世界をまずは知っておきたい、何かすぐに読める本はないか、という向きにも絶好の書です。

和歌というと、かえって尻込みしてしまう…かもしれませんが、ところがどっこい、「光源氏」入門に絶好の書です。



著者は、津田塾大学教授。古典文学だけではなく、現代小説や短歌の評論など多方面で活躍する日本文学研究者。

長大な「源氏物語」には、登場人物の詠んだ七九五首もの和歌が現れる。「源氏物語」は、まずもって歌物語として書きつづられ、同時代の平安貴族に愛読され後々に伝えられてきた。

本書は、その全五十四帖のそれぞれから二、三首を厳選し、全巻百首の和歌を鑑賞しつつ物語をたどっていくというもの。全三部に分けて、律儀にそれぞれのあらすじが手短にしかも丁寧に語られています。

そのあらすじに目を通すだけで物語に気持ちが入っていける。現代語訳を読むことではかえって円滑ではなかった「源氏物語」理解が楽に進みます。

その分、和歌の鑑賞に想いを致すことができる。そうやって筋立てをさらりと頭に入れて、濃密な情感を秘めた和歌のやり取りにじっくりと目を通すと、なるほど、「源氏物語」が、海外からも《奇跡》と評価されていることもわかるような気がしてきます。

こんな古い時代に人間の一人ひとりの自意識と心理を細やかに描写していることは、西洋近代文学に至るまではなかったはずです。千年も昔に書かれたものとは信じられない。

特に、最後の「宇治十帖」はまるで執筆者が違うかのように筆致が変わります。経済的な不安に苛まされ気の進まぬ婚姻に気を病む男女たち、そのわずかな心の隙間ともつれから生じた思わぬ不倫の三角関係といった展開は、まるで現代の不条理なドラマでも見るかのようで、その中で語られる濃密な情感に引き込まれていきます。

こうやって和歌を中心とした「源氏」読解の追体験をすると、叙事的な「物語」からの飛躍が見えてくる気がします。平安の人々にとっても、漢文に代表される感情を押し殺したような《書き言葉》は、政治的、官僚的な建前に過ぎなかった。それだけに和歌というものは、赤裸々な本音を滲ませるオーラルな感情表現の手段となっていたのではないでしょうか。

登場人物の詠む和歌こそが、叙事的な地の文では表現しきれない、生々しい感情に踏み込んだ心理描写を担っている。和歌を通じて、いわゆる「むかし物語」という《お話し(ストーリー)》にとどまらず、近現代文学に通ずるような心理劇へと飛躍していく。そういう文学的な奇跡をもたらしたのが「和歌」だったのではないかとさえ思えてきます。

五十四帖に順ってきっちりと章立てされていること、その筋立てや登場人物の平易な要約、各章を象徴する和歌の厳選ということで、「源氏物語」の簡便な索引としても重宝しそうな好著だと思います。




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百首でよむ「源氏物語」
  和歌でたどる五十四帖
木村 朗子 (著)
平凡社新書 (1045)
2023/12/15 初版第一刷
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ローマ三部作 (ファビオ・ルイージ N響定期) [コンサート]

ルイージの快演が炸裂!素晴らしい名演でした。

何しろレスピーギの“ローマ三部作”。加えて、ルイージ自身が世界初演した現代イタリア作曲家の日本初演も組み合わせての“オール・イタリア”もの。しかも、いずれも色彩豊かな大編成の管弦楽曲。盛り上がらないはずがありません。

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名ホールとまでは言わないけれど、NHKホールはサントリーホールよりもずっと良い、こんなに音のよいホールだったのか!?――そう思わせるような胸のすくような音響です。

選んだ席が良かったというよりも鳴らしきったルイージとN響の快挙というべきでしょうか。3600席の多目的ホールのいささかデッド気味の大空間が音で満ちあふれるのを目の当たりにしたという感激。パイプオルガンや、バンダの金管群も音響の立体的な厚みを加えて、ホールがフル稼働。こんなことを日本のオーケストラがやってのけるのか!?――うれしい限りです。

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曲は、レスピーギの華麗なオーケストレーションでよく知られた名曲。けれども、ルイージにかかると、そういうありきたりな印象がすっかり書き換えられてしまうような、新鮮な興趣に満ちあふれるところがありました。

まずもって、“三部作”とひとからげにできない、曲想や管弦楽法のキャラクターの違いや綾などがレスピーギという作曲家のキャリアの変遷として浮かび上がってくる。ルイージは、そこにイタリア人としての矜恃をかけていたのだと思います。

最初に演奏された新曲「戦いに生きて」が、その口切りとして実にふさわしく、技法上の色彩のイタリア的な変幻自在さや、その新味にかけるイタリア人の覇気あふれる情熱。飛びきり楽天的な前衛で、享楽的でさえあるのです。冒頭のヴィオラの音色や、弦楽器のピッチカートやハープ、あるいは打楽器群がかもし出す触感の実に雄弁なこと。こういう現代イタリアのモダニズムに感受性が覚醒されてから聴くレスピーギの何と豊穣豊満なことか。

「ローマの噴水」は、ドビュッシー的な絵画手法の音楽革命への共感から来るものだったと気づかされたし、「ローマの松」は、歴史スペクタクル、「ローマの祭り」はその擬古的な趣向の延長拡大で、さらに大画面化し、マンドリンまで持ち出して緩急の呼吸で俗っぽいラブシーンもてらうことなく駆使するところが後のハリウッドに大いに影響を与えたのではないでしょうか。

当然に、N響のソロの巧さも改めて再確認。技術に感服するだけではなかったのがこのルイージのカリスマなのでしょう。とにかくソロが単なる技術的に上手というだけでなく、意趣卓逸な歌心にあふれている。それを包み込み合わせていくアンサンブルの精妙なこと。ここに、ルイージ効果みたいなものを絶対的に感じます。

もちろんレスピーギの打楽器群の使い方の巧さにも感歎させられます。ドラやベルの持続する音色もさることながら、ある意味で尖った、当たるような触感が、音楽が本来持っているリズム感覚に生気をもたらす。N響の打楽器奏者には、かぶいてみせる好き者感覚も抜きん出ていて、演奏にためらいがありません。タンバリンを全身で前へ吹き飛ばすように打つ黒田英美さんにはしばし目が釘付け。

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コンサートマスターは、長老・篠崎史紀氏。まだいるのかとの声もかかりそうですが、思えばルイージの正式就任直前のコンサートのぎこちなさを救ったのは篠崎氏。今回は、ルイージが特に指名したのではとかんぐりたくなるほどの息の合った演奏。

客席もステージも会心の演奏という満足感にあふれていて実に楽しそうでにこやかでした。


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NHK交響楽団
第2010回 定期公演Aプログラム
2024年5月12日(水)14:00~
東京・代々木 NHKホール
(1階 L11列 12番)

指揮:ファビオ・ルイージ
コンサートマスター:篠崎史紀

パンフィリ:戦いに生きて[日本初演]
レスピーギ:交響詩「ローマの松」
 
     :交響詩「ローマの噴水」
     :交響詩「ローマの祭り」

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