能狂言の子役 [芸能]
能狂言の子役ってすごい!
今日もまた、能楽鑑賞。演目は、狂言「居杭」と能「高野物狂」。
いずれも子方(こかた)が活躍する。子方は、つまり、子役。
茂山忠三郎親子が演ずる狂言「居杭」は、いつも頭を叩かれる子どもが、いやだいやだと清水(きよみず)でお祈りすると神様から被ると見えなくなる頭巾をもらっちゃう。透明人間になってイタズラしまくりという楽しいお話し。9歳の良倫くんがめちゃ可愛い。遠目に見ると我が孫にそっくり。かぶる頭巾がとってもお洒落で可愛いくて思わず笑っちゃう。
能「高野物狂」は、家出してしまった若君を追って高野山に来た守り役の家臣がもの狂いするというお話し。幼い若君を、坂井真悠子さんが演じる。台詞は少ないけど脇座前でずっと微動せずにもの狂いの舞を見つめる。その姿がとにかく健気というのか…その凜々しいたたずまいがかっこいい。
良倫くんより年上かなぁ、女の子だからちょっと大人びているけど、子どもにこうやって長い時間じっと背筋を伸ばして座っていさせるのは大変なディシプリン。
そもそも、こんな小さな若君が、茨城県からひとりで高野山まで行ってしまうというのが非現実的だなぁ…。それでも、それを命をかけて守ろうという忠臣のもの狂いに感動してしまいました。
今日もまた、能楽鑑賞。演目は、狂言「居杭」と能「高野物狂」。
いずれも子方(こかた)が活躍する。子方は、つまり、子役。
茂山忠三郎親子が演ずる狂言「居杭」は、いつも頭を叩かれる子どもが、いやだいやだと清水(きよみず)でお祈りすると神様から被ると見えなくなる頭巾をもらっちゃう。透明人間になってイタズラしまくりという楽しいお話し。9歳の良倫くんがめちゃ可愛い。遠目に見ると我が孫にそっくり。かぶる頭巾がとってもお洒落で可愛いくて思わず笑っちゃう。
能「高野物狂」は、家出してしまった若君を追って高野山に来た守り役の家臣がもの狂いするというお話し。幼い若君を、坂井真悠子さんが演じる。台詞は少ないけど脇座前でずっと微動せずにもの狂いの舞を見つめる。その姿がとにかく健気というのか…その凜々しいたたずまいがかっこいい。
良倫くんより年上かなぁ、女の子だからちょっと大人びているけど、子どもにこうやって長い時間じっと背筋を伸ばして座っていさせるのは大変なディシプリン。
そもそも、こんな小さな若君が、茨城県からひとりで高野山まで行ってしまうというのが非現実的だなぁ…。それでも、それを命をかけて守ろうという忠臣のもの狂いに感動してしまいました。
タグ:国立能楽堂
雅趣と躍動 (国立劇場 舞楽) [芸能]
久しぶりに国立劇場で舞楽を観ました。
久しぶりといっても、これまでは数も限られていて、しかも、武満徹の創作であったり寺社の復活公演だったりしたので、宮内庁雅楽部の正統な形での公演は初めてです。それだけに改めて長い年月をかけて磨かれてきたその伝統の雅趣と絢爛豪華な様式美に心酔う思いがして堪能しました。
今回は、思うところがあって2階席を取りました。舞楽の様式美を楽しむには、高い位置から見下ろすほうが面白く、また、管楽も音響面だけでなく視覚的に捉えることができると考えたからです。幸い2階席の中央近くの2列目の席が確保できました。おかげでいろいろと気づくことも多く、退屈しませんでした。
舞楽は、「左方」か「右方」のいずれかに配置されて上演されます。舞人たちが左右のそれぞれから登場するというだけでなく、「左方」は中国系の[唐楽]であって「右方」は朝鮮半島系の[高麗楽]と淵源を異にしていて、左右の似たタイプの演目同士を交互に1組として番組を構成します。伴奏の管楽も、左右で異なり、雅楽ではおなじみと思っていた笙(しょう)は「左方」の唐楽にしか用いられないということに今回初めて気がつきました。
太鼓と鉦鼓は、「左方」「右方」共通ですが、左右各々に配置されて、特に巨大な太鼓(落語でおなじみのいわゆる《火焔太鼓》)は、叩く度に切っ先の矛が揺れて大迫力。なるほどこれなら録音再生時の絶対位相も峻別できるかもしれないと思ったほど。
最初の「還城楽」は、中国西域の胡人が蛇を捕らえて喜ぶ…というもの。中央に運ばれておかれた金色の作り物の蛇を掲げ、もう一方の手には桴(ばち)を持って狂喜乱舞する。一人で舞うものですが、拍子が変則的で面白い。装束もエキゾチックで文様も色彩もど派手、これに奇怪な面相のお面までつけているので興味が尽きません。
対する「右方」の「白浜」は四人で舞うアンサンブル。装束はいかにも平安貴族風ですが、途中で肩脱ぎになったりとこれまた退屈させません。最初のうちは四人全員が正面向きで踊りますが、途中から後ろ向きと前向きに分かれたり、それを交互に換えたり、時計回りに大輪を作って廻ったりと変化に富んでいます。伴奏もその度に曲調や拍子を換えていくので楽と舞が一体となってとても立体的。
後半の、「喜春楽」も四人で舞います。こちらではさらに、前後の入れ違いだけではなく対面して鏡映しのように対称的に舞ったりとさらに変化に富んでいます。舞人が登場する場面の音楽は拍節感がありませんが、いざ踊り出すと、やはりダンスですから独特の規則的リズムにのってくる。そういう伴奏の様式にも次第に耳が慣れてきて、楽しさも増してきます。特に、この曲の舞人登場の序での、管楽器が少しずつ追いかけるように細かく重ねていく「退吹(おいぶき)」。拍節が無いのでフーガというよりも、演奏前のオーケストラの無秩序で騒然とした試奏に近く、開演直前の高揚感を連想させてとても面白かった。
終曲の「納曽利」は、二人で舞う双舞。四人で舞うのも面白いのですが、二人で舞うのも、かえって軽快さと自由度が増し、対角線の動線や背中合わせなど変幻さも増すというのも面白い。装束は、一曲目と同じような武張った派手なもので、面を被るのも同じ。「左方」「右方」それぞれに対照的に同じような装束があるのも意外でした。
かつては、雅楽や舞楽の公演は、歌舞伎などに較べると今も回数も少ないのですが、ずいぶんと機会が増えてきたようです。しかも、この日は満員で入口には長蛇の列ということにも驚きました。お年寄りも若いカップルも子供を連れた家族連れも多く、お客さんも多彩。その盛況ぶりに気持ちが晴れやかになります。
国立劇場 第90回雅楽公演 「舞楽」
2022年5月28日(土)14:00
東京・半蔵門 国立劇場 大劇場
(2階2列17番)
舞楽
左方 還城楽(げんじょうらく)
右方 白浜(ほうひん)
左方 喜春楽(きしゅんらく)
右方 納曽利(なそり)
宮内庁式部職楽部
久しぶりといっても、これまでは数も限られていて、しかも、武満徹の創作であったり寺社の復活公演だったりしたので、宮内庁雅楽部の正統な形での公演は初めてです。それだけに改めて長い年月をかけて磨かれてきたその伝統の雅趣と絢爛豪華な様式美に心酔う思いがして堪能しました。
今回は、思うところがあって2階席を取りました。舞楽の様式美を楽しむには、高い位置から見下ろすほうが面白く、また、管楽も音響面だけでなく視覚的に捉えることができると考えたからです。幸い2階席の中央近くの2列目の席が確保できました。おかげでいろいろと気づくことも多く、退屈しませんでした。
舞楽は、「左方」か「右方」のいずれかに配置されて上演されます。舞人たちが左右のそれぞれから登場するというだけでなく、「左方」は中国系の[唐楽]であって「右方」は朝鮮半島系の[高麗楽]と淵源を異にしていて、左右の似たタイプの演目同士を交互に1組として番組を構成します。伴奏の管楽も、左右で異なり、雅楽ではおなじみと思っていた笙(しょう)は「左方」の唐楽にしか用いられないということに今回初めて気がつきました。
太鼓と鉦鼓は、「左方」「右方」共通ですが、左右各々に配置されて、特に巨大な太鼓(落語でおなじみのいわゆる《火焔太鼓》)は、叩く度に切っ先の矛が揺れて大迫力。なるほどこれなら録音再生時の絶対位相も峻別できるかもしれないと思ったほど。
最初の「還城楽」は、中国西域の胡人が蛇を捕らえて喜ぶ…というもの。中央に運ばれておかれた金色の作り物の蛇を掲げ、もう一方の手には桴(ばち)を持って狂喜乱舞する。一人で舞うものですが、拍子が変則的で面白い。装束もエキゾチックで文様も色彩もど派手、これに奇怪な面相のお面までつけているので興味が尽きません。
対する「右方」の「白浜」は四人で舞うアンサンブル。装束はいかにも平安貴族風ですが、途中で肩脱ぎになったりとこれまた退屈させません。最初のうちは四人全員が正面向きで踊りますが、途中から後ろ向きと前向きに分かれたり、それを交互に換えたり、時計回りに大輪を作って廻ったりと変化に富んでいます。伴奏もその度に曲調や拍子を換えていくので楽と舞が一体となってとても立体的。
後半の、「喜春楽」も四人で舞います。こちらではさらに、前後の入れ違いだけではなく対面して鏡映しのように対称的に舞ったりとさらに変化に富んでいます。舞人が登場する場面の音楽は拍節感がありませんが、いざ踊り出すと、やはりダンスですから独特の規則的リズムにのってくる。そういう伴奏の様式にも次第に耳が慣れてきて、楽しさも増してきます。特に、この曲の舞人登場の序での、管楽器が少しずつ追いかけるように細かく重ねていく「退吹(おいぶき)」。拍節が無いのでフーガというよりも、演奏前のオーケストラの無秩序で騒然とした試奏に近く、開演直前の高揚感を連想させてとても面白かった。
終曲の「納曽利」は、二人で舞う双舞。四人で舞うのも面白いのですが、二人で舞うのも、かえって軽快さと自由度が増し、対角線の動線や背中合わせなど変幻さも増すというのも面白い。装束は、一曲目と同じような武張った派手なもので、面を被るのも同じ。「左方」「右方」それぞれに対照的に同じような装束があるのも意外でした。
かつては、雅楽や舞楽の公演は、歌舞伎などに較べると今も回数も少ないのですが、ずいぶんと機会が増えてきたようです。しかも、この日は満員で入口には長蛇の列ということにも驚きました。お年寄りも若いカップルも子供を連れた家族連れも多く、お客さんも多彩。その盛況ぶりに気持ちが晴れやかになります。
国立劇場 第90回雅楽公演 「舞楽」
2022年5月28日(土)14:00
東京・半蔵門 国立劇場 大劇場
(2階2列17番)
舞楽
左方 還城楽(げんじょうらく)
右方 白浜(ほうひん)
左方 喜春楽(きしゅんらく)
右方 納曽利(なそり)
宮内庁式部職楽部
文楽の音 (国立劇場 第217回文楽公演) [芸能]
久しぶりの文楽です。
今年は、国立劇場開場55周年にあたるそうです。たまたま、TVの人気長寿番組「笑点」を観ていたら同じように「55周年記念」ということで座布団を連発していたのを思い出し、ちょっとほっこりした気分になりました。
最初の出し物は、三十三間堂の建立をめぐってのお話し。
横曾根平太郎は、父の仇討ちを背負う浪人ですが、お柳(りゅう)と出会って夫婦となり子をもうけ、老母と、熊野の里で、ひっそりと暮らしています。実はそのお柳は、柳の木の精。平太郎のおかげで伐り倒されることを免れた恩返しに人間の身になって夫婦愛を貫きます。それが白河天皇の縁があって平太郎が出世の糸口を得、そのために柳の木は、いよいよ三十三間堂の棟木として伐り出されることになる。
平穏で静かな暮らしのなか、母子の愛情や夫婦のしっとりとした語らいが見所。面白いのは平太郎のアンチヒーローぶり。母親の言うがままに従うのも孝行だと足を洗ってもらっていると、畑の野菜を採ったと因縁をつけに押しかけた悪者に、それも弱みにされて、強請られるままでなすすべもない。妻のお柳が、自分が棟木として差し出されることで別れる運命を、ひっそりとほのめかすのに、そのことに気がつかない。そういう平太郎の弱さが、かえって、この夫婦ふたりの平穏な暮らしを満たしている夫婦愛を切ないほどに伝えて胸を打つのです。
吉田和生の女房お柳がそういう誠実味あふれる仕草を儚いまでに演じきる。ここでは、中を語った睦太夫の声と清志郎の太棹が艶があってしかも強く冴え渡った。もちろん、奥を務めてくれた呂勢太夫と清治の至芸の世界に触れられたことも嬉しい。
後半は、安珍清姫のお話し。道成寺の鐘に隠れた安珍を蛇になってまとわりついて追い詰める話しからの一段。今で言えば、女が男を追うストーカーといったところだが、その清姫が安珍を追って日高川に飛び込み、蛇体を顕し火を吹きながら対岸まで行き着くという大スペクタクル。姫の頭(かしら)が一瞬にして鬼に面変わりする人形のカラクリ《ガブ》も見どころ。
東京の文楽公演はなかなか良い席が取れないのですが、今回は右手の席がとれました。人形が演ずる舞台からはちょっと遠いけれど、浄瑠璃の太夫と三味線が語る「床(ゆか)」に近い。
その分、太い肉声の語りや太棹の厚い響きとパルシブな反響音が大迫力。
邦楽の劇場音響は残響が短くドライ。直接音主体の音響なので、それだけに音の立ち上がり立ち下がりが鋭く、音像の方向性もはっきりする。
人形浄瑠璃は、演ずる人形という映像と、語りとその伴奏である三味線の「床」という音響が、はっきりと独立していて二本柱を成している。音声の雄弁さは素浄瑠璃(すじょうるり)として独立した芸鑑賞も可能なほど。かといって人形の細やかな遣いの至芸や、仕草、形、人形の美しくも生々しい姿態からも片時も目が離せない。
しかし、人形の舞台は正面、太夫と三味線の床は右手にある。
舞台は、当然、正面にあるが、音声はそれに重ねることができない。西洋歌劇では、舞台前に穴のようなスペース(ピット)を設けてオーケストラをそこに沈めて、映像と音声の正面性を確保したが、日本の伝統芸能は頑なに従来の舞台構造を引き継いできた。
もし、これを家庭で鑑賞するための映画やブルーレイにしたら、どうするでしょうか。
生(リアリティ)を尊重して、そういう音響音場定位を保つか、それとも、床の音声も正面フロントに定位させるか。
私だったら、正面にする。その方が集中できる。
伝統芸能の舞台構造のリアリティを持ち込む必然性を感じないし、映像にはクローズアップやカメラ位置の切り換えも大いにあるだろう。そうでこそ、映画などで観ることが客席鑑賞を超える利点も出てくる。だからむしろ音声音場は、正面にあって安定している方が聴きやすい。クローズアップは、現実の感覚は意識の領域であって物理的な近接映像ではない。だから音声はそのカメラ位置移動に同調する必要もないし、同調はかえって集中を阻害する。
大スペクタクルの「日高川」では、床には九人の太夫、三味線が並ぶ。川を渡る場面では、向かって左手の御簾内から笛や太鼓の囃子方が賑やかに鳴る。こういう場面は、右左の立体音響を存分に表現して場面の大きさとその臨場感を体感させてくれるといい。
そんなことまで、客席であれこれ考えているのは、たぶん、私だけだと思います(笑)。
2021年9月6日 14:15~
東京・千代田区 国立劇場
人形浄瑠璃 文楽 9月公演
第二部
「卅三間堂棟由来」
平太郎住家より木遣音頭の段
「日高川入相花王」
渡し場の段
(9列29番)
今年は、国立劇場開場55周年にあたるそうです。たまたま、TVの人気長寿番組「笑点」を観ていたら同じように「55周年記念」ということで座布団を連発していたのを思い出し、ちょっとほっこりした気分になりました。
最初の出し物は、三十三間堂の建立をめぐってのお話し。
横曾根平太郎は、父の仇討ちを背負う浪人ですが、お柳(りゅう)と出会って夫婦となり子をもうけ、老母と、熊野の里で、ひっそりと暮らしています。実はそのお柳は、柳の木の精。平太郎のおかげで伐り倒されることを免れた恩返しに人間の身になって夫婦愛を貫きます。それが白河天皇の縁があって平太郎が出世の糸口を得、そのために柳の木は、いよいよ三十三間堂の棟木として伐り出されることになる。
平穏で静かな暮らしのなか、母子の愛情や夫婦のしっとりとした語らいが見所。面白いのは平太郎のアンチヒーローぶり。母親の言うがままに従うのも孝行だと足を洗ってもらっていると、畑の野菜を採ったと因縁をつけに押しかけた悪者に、それも弱みにされて、強請られるままでなすすべもない。妻のお柳が、自分が棟木として差し出されることで別れる運命を、ひっそりとほのめかすのに、そのことに気がつかない。そういう平太郎の弱さが、かえって、この夫婦ふたりの平穏な暮らしを満たしている夫婦愛を切ないほどに伝えて胸を打つのです。
吉田和生の女房お柳がそういう誠実味あふれる仕草を儚いまでに演じきる。ここでは、中を語った睦太夫の声と清志郎の太棹が艶があってしかも強く冴え渡った。もちろん、奥を務めてくれた呂勢太夫と清治の至芸の世界に触れられたことも嬉しい。
後半は、安珍清姫のお話し。道成寺の鐘に隠れた安珍を蛇になってまとわりついて追い詰める話しからの一段。今で言えば、女が男を追うストーカーといったところだが、その清姫が安珍を追って日高川に飛び込み、蛇体を顕し火を吹きながら対岸まで行き着くという大スペクタクル。姫の頭(かしら)が一瞬にして鬼に面変わりする人形のカラクリ《ガブ》も見どころ。
東京の文楽公演はなかなか良い席が取れないのですが、今回は右手の席がとれました。人形が演ずる舞台からはちょっと遠いけれど、浄瑠璃の太夫と三味線が語る「床(ゆか)」に近い。
その分、太い肉声の語りや太棹の厚い響きとパルシブな反響音が大迫力。
邦楽の劇場音響は残響が短くドライ。直接音主体の音響なので、それだけに音の立ち上がり立ち下がりが鋭く、音像の方向性もはっきりする。
人形浄瑠璃は、演ずる人形という映像と、語りとその伴奏である三味線の「床」という音響が、はっきりと独立していて二本柱を成している。音声の雄弁さは素浄瑠璃(すじょうるり)として独立した芸鑑賞も可能なほど。かといって人形の細やかな遣いの至芸や、仕草、形、人形の美しくも生々しい姿態からも片時も目が離せない。
しかし、人形の舞台は正面、太夫と三味線の床は右手にある。
舞台は、当然、正面にあるが、音声はそれに重ねることができない。西洋歌劇では、舞台前に穴のようなスペース(ピット)を設けてオーケストラをそこに沈めて、映像と音声の正面性を確保したが、日本の伝統芸能は頑なに従来の舞台構造を引き継いできた。
もし、これを家庭で鑑賞するための映画やブルーレイにしたら、どうするでしょうか。
生(リアリティ)を尊重して、そういう音響音場定位を保つか、それとも、床の音声も正面フロントに定位させるか。
私だったら、正面にする。その方が集中できる。
伝統芸能の舞台構造のリアリティを持ち込む必然性を感じないし、映像にはクローズアップやカメラ位置の切り換えも大いにあるだろう。そうでこそ、映画などで観ることが客席鑑賞を超える利点も出てくる。だからむしろ音声音場は、正面にあって安定している方が聴きやすい。クローズアップは、現実の感覚は意識の領域であって物理的な近接映像ではない。だから音声はそのカメラ位置移動に同調する必要もないし、同調はかえって集中を阻害する。
大スペクタクルの「日高川」では、床には九人の太夫、三味線が並ぶ。川を渡る場面では、向かって左手の御簾内から笛や太鼓の囃子方が賑やかに鳴る。こういう場面は、右左の立体音響を存分に表現して場面の大きさとその臨場感を体感させてくれるといい。
そんなことまで、客席であれこれ考えているのは、たぶん、私だけだと思います(笑)。
2021年9月6日 14:15~
東京・千代田区 国立劇場
人形浄瑠璃 文楽 9月公演
第二部
「卅三間堂棟由来」
平太郎住家より木遣音頭の段
「日高川入相花王」
渡し場の段
(9列29番)
タグ:文楽