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坂本龍一が愛したモニタースピーカー(にら邸訪問) [オーディオ]

久しぶりににらさんを訪問しました。


にらさんはちょっと思うところあって、オーディオシステムを一新。断捨離とまではいきませんが、機材をいったんは処分。そこから心機一転、シンプルなシステムを再構築。

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新システムの主役は、ムジークのスピーカー。

あの坂本龍一が愛したモニタースピーカー。にらさんの以前のシステムでは、二代続けてディナウディオでした。もともと若い頃はバンドマンだったというにらさん。坂本龍一の写真に写り込むムジークを見て閃いたのだそうです。

『…スピーカーの音がしない、ただピアノの音だけが聞こえる』

坂本は、そう言ったそうです。これを聞いて、ムジーク社社長ヨアヒム・キースラーは坂本に抱きついて喜んだのだとか。

にらさんは、《モニタースピーカー》にこだわる。ディナウディオは素晴らしいスピーカーだったが、音を作るところがある。《モニター》ではない。バンド仲間には不評だった。自分のデモテープをかけて「音がインチキだ」と酷評された。つまり、《モニター》ではない。

目の前のムジークはすでに二代目。最初はコンパクトモニターを入手。やはり低音に欲が出て、散々探し求めて現行のフロア型を海外の出品者と直接コンタクトして導入したのだとか。ウーファーが加わった3ウェイだからバランスが良い。厳密にはコンシューマー用としてモディファイされたもの。だから使いやすいし、確かに見た目もとても美しい。

プロ用と違ってパッシブなのでアンプが必要。もともとはスペクトラルのオーナーだったにらさんだから、アンプにもこだわりがある。今のアンプに至るまでも何台も比較している。フラッグシップ機だけれどもFundamentalと連携した最新のものではない。それも比較試聴のうえでの選択。でも電源にはおごるだけおごっている。手元に残っていたケーブル類も威力を発揮している。

ちなみに、ディナウディオもスペクトラルも日本代理店がクローズ。にらさんの断捨離はその直前のこと。処分はすでに済んでいて、ちょっと神がかっている。

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…でも、やはりアンプにはまだまだ迷いが残っている。

聴いていると、自分もそう感じる。ムジークにふさわしいアンプは何だろうか?そういうにらさんの自問自答に考え込んでしまう。《モニタースピーカー》の相方だから、やはり色づけのないアンプということになるだろう。デジタルアンプはそういう思いから選んだらしい。

けれども、スピーカーとアンプの組み合わせは難しい。値段と値段の単純な足し算ではないし、三原色のように決まった混合色が得られるわけではない。足し算引き算とは違う化学反応みたいなものが起こることがある。優等生でつまらないと言われたアンプが、歌姫と呼ばれたスピーカーをがぜん精確無比な出音に一変させてしまった事例も見聞きした。もちろんその逆もある。

助言めいたことを言うだけの知識も経験もない自分がちょっともどかしい。あるいは、それよりも前にムジークにふさわしい部屋のチューニングをいちからやり直すことも必要かもしれない。専用電源の見直しも頭をよぎるらしい。

さて、どうなるか。

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タグ:訪問オフ会
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「西行」(寺澤行忠 著)読了 [読書]

「願はくは花の下にて春死なむ その如月(きさらぎ)の望月の頃」


中世を生きた歌人・西行の歌は、近現代日本人の心を捉えて、どこまでも離さない。源平の乱の時代、生まれ落ちたのは公家に使える武士でありながら若くして出家し、生涯を漂泊の旅に生きた。

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仏門に入ったとはいえ決して俗世と縁を絶ち隠遁したわけではない。歌道、仏道を通じて多くの人々と交わり、尊崇を得ている。歌はむしろ平明で、歌壇主流の美辞や技巧とは縁が薄い。情緒豊かな情感は、気品に満ちた色艶があって、しかも、内省的。自然を愛し、円熟の寂寥、閑寂の境地は、日本人の美意識の原点と言ってもよいかもしれない。

「心なき身にもあはれは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮」


著者は、西行歌集研究の第一人者。文献・書誌に造詣が深く、写本の誤写を指摘しテキストの批判改訂に携わってきた。それだけに、私のような和歌初心者にとっても優しく寄り添うような同伴者に徹していて、西行の人生の道筋に沿いながら、その道標のような名歌184首を淡々と案内してくれる。

だからとても読みやすい。西行の名歌に触れながら、その音韻を体感し、その境地、生き様を反芻する。読む歩調、足取りはひとそれぞれだと思う。茫漠とした読感もあってよい。けっしてせかされることはない。ゆっくりと読めばよい。

「何事のおはしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるゝ」


よい本だと思う。


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西行 ― 歌と旅と人生 ―
寺澤 行忠 (著)
新潮選書
2024/1/25
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ショパンへのグランド・オマージュ(川口成彦@紀尾井レジデント・シリーズ最終回) [コンサート]

川口成彦さんの紀尾井ホールでのレジデント・シリーズもあっという間で、もう最終回。

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古楽器という枠にはめられがちのフォルテピアノやヴィンテージピアノから、思いも寄らぬような多彩なプログラムに挑んで私たちを驚かせ、楽しませてくれたシリーズでしたが、最終回はショパンへのグランド・オマージュ。

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ショパンの人生を反芻するというプログラムなのですが、その間にはショパンの交遊関係やその生きた時代を映し出す豊穣壮大で華麗な120分間。ショパンを含めて19人の作曲家による18曲。これを1843年製のプレイエルで弾ききるという、大変なプログラム。

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聴いていると、この時代のポーランドの田園風景、パリの華やかな社交界、ライン川河畔の自然などが目に浮かぶようで、とてもピクチャレスク。ショパンに影響を与えた恩師やフィールドらのロマン派ピアノの先人達、ショパンの音楽を伝承、継承した弟子たちなどの顔や姿も見えてくる。それに加えて、リストやシューマン、メンデルスゾーンなど同時代の作曲家たちと心を通わせた精神世界も浮かび上がって来るのです。

それは、あたかも、時代の様を活き活きと描出した長大な絵巻物。

7歳の時に書かれた遺作のポロネーズで始められたそれは、「幻想ポロネーズ」の最後の高い主和音で終わりを告げる。その余韻は長く天を突くように高く舞い上がっていきました。

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川口さん自身による解説文がとても素晴らしくて、その全てを紹介できないのが残念。



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紀尾井レジデント・シリーズ Ⅱ
川口成彦(フォルテピアノ) 第3回(最終回)
“ショパンと彼の仲間たち/ショパンへのグランド・オマージュ”
2024年4月26日(金) 19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(1階8列9番)

川口成彦(フォルテピアノ)
使用楽器:プレイエル(1843年製作)タカギクラヴィア社所蔵

●ワルシャワ時代のショパン
ショパン:ポロネーズ ト短調(遺作)
エルスネル:マズルカ風ロンド ト短調
フンメル:ピアノ協奏曲第2番イ短調 op.85から第2楽章 ラルゲット ヘ長調
ショパン:《パガニーニの思い出》イ長調 B.37
ショパン:ポロネーズ第15番変ロ短調(ロッシーニの主題を伴う)KK IVa-5

●パリの巨匠たち
フィールド:夜想曲第2番ハ短調 H25
カルクブレンナー:様式と完成の25の大練習曲 op.143から第11番ハ長調

●同時代の友人たち
クララ・シューマン:4つの性格的小品op.5から第1曲〈即興曲・魔女の狂宴(サバト)〉イ短調
ロベルト・シューマン:スケルツォ ヘ短調 op.14 Anh.1, H/K WoO 5-1
フォンタナ:2つのマズルカop.15から第1番ニ短調
ヒラー:6つのピアノ用小品集 op.130から第1番〈バラード〉イ短調
メンデルスゾーン:3つの前奏曲集 op.104a?第2番ロ短調
アルカン:夜想曲ロ長調 op.22

●親愛なる弟子たち
フィルチュ:舟歌変ト長調
グートマン:2つの夜想曲 op.8から第1番変イ長調
ミクリ:マズルカ ヘ短調 op.4

●ヘクサメロン
リスト、タールベルク、ピクシス、エルツ、ツェルニー、ショパン:ベッリーニの歌劇《清教徒》の〈清教徒の行進曲〉の主題による6つの変奏曲《ヘクサメロン》

●天に駆け上がる《幻想ポロネーズ》
ショパン:幻想ポロネーズ変イ長調 op.61

(アンコール)
ショパン:フーガ イ短調 KK.IVc/2
ヴュルフェル:兵隊ポロネーズ ニ長調
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Mさん宅訪問オフ会 [オーディオ]

Mさん宅訪問オフ会。

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MFPCのセッティングお披露目。

かなり驚いたのは、バベルの効果。

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もともとMFPCでは、エソのUSBDACよりiFiのZENDACのほうが音が良いということだったのですが、その下に置いてあったバベルをK01xsの下に移動。すると大逆転。あまりに良くなったのでビックリ!でした。

音の奥行き、広がりが劇的改善。MAGICOのベースの重低音がさらにタイトになり、音程もリズムも質感も明瞭になってリアルな迫力。参ったなぁ。

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言い忘れてはいけないのはMFPCのこと。このちいさなミニPC1台だけで、それが全て。Mさんはここのところリッピングに明け暮れたのだとか。CDは処分。残されたのはSACDのみ。エソで切り換えれば、ファイル再生もディスク再生も同一システムで自由自在。省スペース、ハイエンド超えの高音質…というのはありがたい。
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「100% ヴィオラの日」 (清水和音の名曲ラウンジ) [コンサート]

ヴィオラのファン、あるいはヴィオリストのファンにとってはこんなうれしい日はありません。

「100% ヴィオラの日」!

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佐々木亮さんに言わせると、ヴィオリストというのは謙譲の美徳なんだそうです。(ヴァイオリニストのように?)一番を争わない。今日の第1曲も、みんながファーストを譲り合い、佐々木さんが渋々引き受けたのだそうです(笑)。

恒例の清水和音さんからの質問タイムは、「どうしてヴィオラを選んだのか?そのきっかけは?」というもの。

佐々木さんは、アメリカに留学していて、いきなりある日、先生から「ヴィオラの仕事に行ってこい」とムチャ振りされて、練習なしのぶっつけ本番での演奏。何しろハ音記号も初めてだったそうです。周りとは違う音を弾いて迷惑だったかもしれないけど(ホントかいな?)、ご本人はすっかり気に入ってしまったそうです(爆笑)。

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まあ、こういう質問をヴィオラ奏者にぶつけると、たいがいは自虐ネタが返ってきます。以下はそういうお笑いの連続。

鈴木康浩さんは、高校生の頃から室内楽をやっていて、ヴィオラを割り付けられて、それ以来、本科はヴァイオリンなのに合奏ではヴィオラ。なぜかといえば、ヴィオラは簡単だし、音程や小節がずれても誰も気がつかないので楽だから(爆笑)。でも、楽器が大きいのでけっこう大変。それで楽譜は簡単なので釣り合いがとれるのだとか(再笑)。

中 恵菜さんも事情は同じ。ヴィオラをやれと言われて、イヤだったけど(爆笑)やってみてはまった。もともと人と合わせる室内楽が好きだったので性に合ったのだそうです。清水さんが、「クァルテットは仲が悪い。ヴィオラは人格者で、いつも仲介役」と水を向けると、「そうです。いつも第1ヴァイオリンとチェロが衝突する。第2ヴァイオリンとヴィオラはじっと黙って聞いている。」(爆笑)。

そういうヴィオラですが、今日はそれぞれソロも受け持ちます。こうしてヴィオラだけのアンサンブルやソロを聴くと、皆さんの個性も浮かび上がり、こんなに皆さん豊かで多様な感性と表情をお持ちなのだと、ますますヴィオラの魅力に心が沸き立ちます。

佐々木さんは、その高域の美しさに驚嘆。ちょっとヴィオラ離れした高音の魅力。無理していきんで高音を出している感じが皆無。しかもヴァイオリンと違ってとても柔らか。さすが、皆さんにファーストを譲られてしまうわけだと納得。

中さんの音色にははっとさせらるほどに蠱惑的な色艶があります。もちろん演奏技術のなせる技ですが、とてもよい楽器をお持ちです。クレジットによればモンターニャ。あの堤剛先生のチェロと同じ。こんなことは、カルテット・アマービレで聴いていた時には気づかなかったことです。

鈴木さんはとても朗らか。自虐ネタでも絶好調でしたが、こういうお人柄は、やっぱりヴィオリストの鏡。お言葉に反して、リズムや音程が実に安定している。一歩下がっての内声の渋い音色、ウラ拍の魅力は、ワルツのン・チャ・チャや、4拍の後の3つ拍から次の頭につなげるところなど、ヴィオラの魅力満開。まさに、ミスター・ヴィオラはこの人。

曲目も初めて聴くものがほとんど。

ベートーヴェンは、お得意のぶつかり合う弁証法は影を潜めて、とても調和的で輪廻回生的。それもヴィオラ3本だけのアンサンブルなればこそ。

ショスタコーヴィチは、親しみやすいメロディ満載なのは映画音楽が元となっているせいだと思うのですが、それがヴィオラのデュオだととても平明で親密です。

エネスコは、彼方を憧憬するかのような達観があって、しかもとても堅牢な覚醒にあふれている。ヴァイオリンの名手も解脱するとヴィオラになっちゃうということでしょうか。これはさすがミスター・ヴィオラの鈴木さんならではの境地。

印象が強かったのがヴュータンの二曲。そのどちらも、これまた数少ないヴィオラがオリジナルの技巧的小品。中さんの蠱惑、佐々木さんの美音がそれぞれに活かされています。まるでお二人に献上されたかのようにぴったりで、本当に魅了されました。

たった1時間少々という短さが信じられないくらいに豊かで充実した時間に感じられました。





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芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第47回「100% ヴィオラの日」
2024年4月247日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階K列21番)

ベートーヴェン:3つのヴィオラのためのトリオ op.87
(原曲:2つのオーボエとイングリッシュホルンのためのトリオ op.87 )
佐々木亮(Va)、鈴木康浩(Va)、中 恵菜(Va)

ショスタコーヴィチ:2つのヴィオラとピアノのための5つの小品より
中 恵菜(Va)、佐々木亮(Va)、清水和音(Pf)

エネスコ:演奏会用小品
鈴木康浩(Va)、清水和音(Pf)

ヴュータン:無伴奏ヴィオラのためのカプリッチョ
中 恵菜(Va)

ヴュータン:エレジー op.30
佐々木亮(Va)、清水和音(Pf)

クライスラー:愛の喜び (2つのヴィオラとピアノ版)
佐々木亮(Va)、鈴木康浩(Va)、清水和音(Pf)

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《エレクトラ》 (東京春祭――千秋楽) [コンサート]

東京・春・音楽祭2024も千秋楽。

その掉尾を飾るにふさわしい素晴らしい公演でした。

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オーケストラの壮大にして華麗な音響が、大ホールの空間全体に響きわたる。いささかクールなこのホールを鳴らしきるのは、外来の、しかも世界トップクラスのオーケストラが大編成で来日し、その本気を発揮したときだけに限る.…という思い込みを吹き飛ばすような読響の快演。ヴァイグレの指揮は、いつになく大きな身振りで熱のこもったものですが、あくまでも冷静。単なる大音響だけでなく、バランスがよく多様な色彩を引き出していました。歌手陣がとにかく豪華で粒ぞろい。全てが何もかも行き渡った最上級の演奏でした。

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大興奮の客席は、総立ちのスタンディングオベーション。まさに20周年を迎えたこの音楽祭の最終公演にふさわしい盛り上がり。東京のクラシック音楽がここまで来たかと思うほどの内容の充実振り、公演の数の多さ、そのひとつひとつの質の高さには感無量。よくぞこれだけの陣容がそろうものだという意味でも、20周年の公演最後を飾るにふさわしい。そのことに思い当たると感動が心から湧き上がってきます。

もともと、この公演は読響が企画したもの。コロナ禍のまっただ中で、水際対策のために断念させられた公演企画を復活させたもの。タイトルロール以下、出演者も完璧に同じ顔ぶれ。執念の公演実現ということでもあります。

力の限りの大音響のオーケストラに、歌手陣が少しも埋もれることがありません。そこにはヴァイグレの職人的な緻密な計算もあるし、歌手がコンサートホールのアコースティックのステージ前面で歌うという演奏会形式の優位性も確かにあるのですが、とにかく歌手陣の声量の大きさには圧倒させられました。

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先ずはタイトルロールのパンクラトヴァを絶賛しないわけにはいきません。7年前のミュンヘンでの「タンホイザー」(ヴェーヌス)でも圧倒されましたが、実にたくましい。それでいて声を変幻自在に操りエレクトラの怒気を含んだ執念、狂気、時折見せる弱音などを表情豊かに表現する。ともすればこのオペラは、終始、金切り声を上げ続ける鬱陶しいまでの単調さに辟易させられることが多いのですが、パンクラトヴァの表現力はそういう思い込みをねじ伏せてしまいます。

相対するクリソテミスのアリソン・オークスは、新しい才能の発見でした。柔らかで若く幼ささえ感じさせる声色ですが、パンクラトヴァのエレクトラに声量でまったく負けていない。対話で成り立つこのオペラですが、演出の粉飾の助けがない演奏会形式でありながら音楽的な対比、調性の性格付けだけで対話劇を描いていくシュトラウスの音楽の雄弁さを見事に演じる二人のコントラストが実に見事。

クリテムネストラの藤村実穂子の老練さにもあらためて惚れ惚れとします。とにのかくドイツ語のディクションが明らかなまでに抜きん出ている。似合いそうにもない老けた悪役は、まだまだ藤村にはふさわしくないようにも思うのですが、その歌唱だけによる性格付けは実に精妙で奥の深さを感じさせます。

さすがと思ったのは、オレストのルネ・パーペ。もうこの人が現れて歌い出すだけでステージが一瞬にして締まります。その美質のバスはほんとうに心奪われるし、ドラマの転換にふさわしい。リサイタルにも足を運ぶべきだったかと後悔しきり。

エギストのリューマガマーも凜としたテノールで魅力的でしたが、今回、つくづくと感心させられたのは侍女役を演じた日本人女性歌手の面々。声量面でもまったく不足がなく、それぞれの立ち位置をぴったりの声色と歌唱で歌い分ける。重唱を排したこのオペラでもどこかアンサンブル的なものが立っています。

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最後は、とにかく大変な大騒ぎ。2時間にもならない場面転換だけの一幕オペラというのは、演奏会形式でこそ堪能できるということもありますが、手の込んだシュトラウスの音楽だけではない、何かとてつもなく大きく重みのあるものが巻き起こした大興奮といった風のカーテンコールでした。東京でもこんな音楽シーンがあるんだ。

そんな感動も込めて、東京・春・音楽祭の20年の歩みと、ここまで来たその事業マネジメントにもブラボーです。




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東京・春・音楽祭2024
《エレクトラ》(演奏会形式/字幕付)
2024年4月21日(日)15:00
東京・上野 東京文化会館大ホール

R.シュトラウス:歌劇《エレクトラ》op.58(全一幕)

出演
指揮:セバスティアン・ヴァイグレ
エレクトラ(ソプラノ):エレーナ・パンクラトヴァ
クリテムネストラ(メゾ・ソプラノ):藤村実穂子
クリソテミス(ソプラノ):アリソン・オークス
エギスト(テノール):シュテファン・リューガマー
オレスト(バス):ルネ・パーペ
第1の侍女(メゾ・ソプラノ):中島郁子
第2の侍女(メゾ・ソプラノ):小泉詠子
第3の侍女(メゾ・ソプラノ):清水華澄
第4の侍女/裾持ちの侍女(ソプラノ):竹多倫子
第5の侍女/側仕えの侍女(ソプラノ):木下美穂子
侍女の頭(ソプラノ):北原瑠美
オレストの養育者/年老いた従者(バス・バリトン):加藤宏隆
若い従者(テノール):糸賀修平
召使:新国立劇場合唱団
 前川依子、岩本麻里
 小酒部晶子、野田千恵子
 立川かずさ、村山 舞
管弦楽:読売日本交響楽団(コンサートマスター:長原幸太)
合唱:新国立劇場合唱団
合唱指揮:冨平恭平
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アンデルシェフスキ再臨 (紀尾井ホール室内管・定期演奏会) [コンサート]

まさに魔術師。

まず、そのプログラムのトリッキーなこと。自身が指揮振りする協奏曲二曲と管弦楽曲との組み合わせですが、そちらは指揮なし。実は、そういう構成は、初登場の前回とまったく同じなのですが、今回もすっかり欺されました。

その二曲に、祖国ポーランドのルトスワフスキをきっちりと忍び込ませることも、前回に同じ。ネタばれのはずなのに、そのたびにやられたぁと喜ばされてしまいます。しかも、今回は、一曲目はグノーの木管楽器だけの「小交響曲」、二曲目は弦楽だけのルトスワフスキと、赤白をはっきりさせて鮮やか。楽員たちだってやり甲斐があって嬉しかったに違いありません。

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グノーは、実にシンプルで洗練の極み。1本だけのフルートがソリスティックに際立ちますが、各楽章の開始は全て他の楽器。そのアンサンブルの響きと音色は実にバランスが取れたもの。指揮者無しでいったい誰がリーダーシップを取っているのだろうということがマジックみたいな絶妙なアンサンブル。まさに“キオイ9”とでも呼びたいような、9人組の親密なアンサンブルに目が醒める思い。

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休憩後一曲目のルトスワフスキも、このオールスター・ストリングスならではの美学の世界。2分割、3分割、ソロとトゥッティと複雑精妙なアンサンブルも、キレのよいリズムも、そして蠱惑的な弦の旋律美など、その巧妙極まりない仕掛けを存分に楽しませてくれます。初体験でしたがすっかり魅了されました。

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さて、アンデルシェフスキの指揮振り。

ステージにはなぜか2台のピアノ。何とモーツァルトとベートーヴェンとで2台の楽器を弾き分けます。

実は、このピアノはいずれも紀尾井ホール備付けのスタインウェイ。アンデルシェフスキはリハーサルで、突然、どちらも弾きたいと言い出してスタッフを面食らわせたそうです。

そのモーツァルトは、繊細の極み。

2本のクラリネットが活躍する第一楽章は、木質の音色が包み込むなかで、ピアノとの絡み合いが実に優雅。いきなりピアノ独奏で始まるアダージョ楽章は、ため息のような息の長い木管の響きにのって、ピアノの転がりこぼれるような細やかな音符は、メランコリックな叙情に満ちています。極小にまで音量を低めたピアノの細い典雅な音色はまるでフォルテピアノを聴いている気分。使用したピアノは、開館以来の一番古い楽器だそうで、その古雅な味わいにとても納得。

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一方、後半のベートーヴェンは、若々しく躍動的。

ppで開始され、それがもう一度、いきなりffで繰り返される。とにもかくにも強弱のコントラスト、強いアクセントが、まさにベートーヴェン。そのテーマが、そもそも二つの対照的な音型のモチーフに二分されている。ここからまるで市松模様のような鮮やかなコントラストによる目眩くような音楽が活き活きと展開していく。モーツァルトとは、明らかに弦楽器の奏法が違っていると聞こえます。典雅さと若々しい粗野との対比。ピリオド奏法を精妙に使い分けるアンサンブルが見事。玉井菜採さんがコンサートマスターに座ると、オーケストラの隅々まで意図が行き渡り、アンサンブルが楽しい。アンデルシェフスキさんとの相性もぴったり。このベートーヴェンは、まるで初めて聴く曲であるかのように新鮮。

若鮎のようにピチピチとしていて、透明な輝かしさの音色は、確かに前半のモーツァルトとは楽器の個性の違いを感じます。こちらは、2019年に導入した新しいスタインウェイなのだそうです。ホール備付けの楽器にそれだけの個性の違いがあるとは思いもよりませんでしたが、その微妙な違いを聞き分け、それぞれの個性を弾き分け際立たせるアンデルシェフスキはまさにマジシャン。

アンコールにもびっくりですが、それがハイドンであることも、実は、前回と同じ。ネタばれマジックの楽しさ極まれり。次も楽しみになりました。また、来てほしい。




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紀尾井ホール室内管弦楽団
第138定期演奏会
2024年4月20日(金)19:00
東京・四ッ谷 紀尾井ホール
(2階C席3列13番)

指揮&ピアノ:ピョートル・アンデルシェフスキ

紀尾井ホール室内管弦楽団
コンサートマスター:玉井 菜採

グノー:小交響曲変ロ長調
モーツァルト:ピアノ協奏曲第23番イ長調 K.488

ルトスワフスキ:弦楽のための序曲
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 op.15

(アンコール)
ハイドン:ピアノ協奏曲ニ長調Hob.XVⅢ:11より第2楽章

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「日本の建築」(隈 研吾 著)読了 [読書]

隈研吾といえば、今の日本人の建築家のなかでおそらく最も多忙な人だろう。本書は、そのひとが八年かけて書いたという。

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日本の建築が、西欧の様式建築やモダニズム建築と出会って150年。それ以来の建築家たちの覚醒、葛藤や迷い、自己矛盾、変節を、忖度なく、徹底的に読み解いた日本現代建築史。

その思考思索の決着のように自身の建築へと帰着する。隈研吾の建築は、木材などの自然素材を多用し、居丈高なタテの巨大な柱が無い。和のモダニズム…とでも呼んでよいような、そういう隈の設計思想を理解するうえでも格好の書。

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著者である自身は、巻末の「おわりに」で、『従来の日本建築史の退屈は、二項対立にあると感じた』と書いている。

しかし、本書の面白さは《二項対立》にある。

よくも、まあ、これだけの対立項目があるかと感心するほどに多面的で様々な対立が建築の歴史にあるのかと、もうそれだけで面白く、ハラハラ、ドキドキの連続だ。退屈するどころではない。

日本の現代建築の始まりに必ず登場するのが《桂離宮》と「モダニズム建築の巨匠」ブルーノ・タウト。しかし、そこにはタウトと、鉄とコンクリートを多用したシンプルでキレのある形態を全面に押し出してタウトを時代遅れとしてモダニズムの主役から引きずり落とした「フォルマリズム」のコルビジェらとの対立があるという。タウトは、その桂離宮を大礼賛した一方で、それと対比させるように日光東照宮をこきおろしたことはよく知られているが、そこには質実・清貧主義vs権威的様式主義の二項対立があったという。

…という具合で、のっけから二項対立の連鎖。反ファシズムvs反アメリカ、弥生vs縄文、西の大陸的合理性vs東の武士的合理性、関東の大きさvs関西の小ささ、北欧的後進性vs西欧的産業社会、土俗的民衆vs権力と権威、鉄とコンクリートvs木材、柱vs壁、製材木材vs丸太、数理的工業規格vsあいまいな和建築の身体単位、垂直vs水平、デカルト空間vs斜め線、西洋流「大きな構造設計」vs日本の「小さな構造設計」…等々。

数え切れないほどの《二項対立》があるが、そうした対立項を明らかにして、戦争や冷戦などの政治対立、経済成長やその停滞、自然災害や環境破壊などと、どう建築家たちが向き合い、迷い悩み、内外面で反目し合ったかを解き明かしているからこそ、本書は面白い。二項対立は退屈だと最後っ屁のように言い放った隈自身こそ矛盾だらけだ。

建築家は、得てして饒舌だし理屈っぽい。しかし、本書を読むと、なぜそうなのかということもわかるような気がしてくる。建築というものは、人間の衣食住という生活万端に関わる根本だ。だからこそ、人間臭く奥が深い。

隈の文筆の才にも感歎させられた。


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日本の建築
隈 研吾 (著)
岩波新書 新赤版 1995
2023/11/29
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「真髄」ではないけれど… (パシフィックフィルハーモニア東京) [コンサート]

パシフィックフィルハーモニア東京は、もともとは東京ニューシティ管弦楽団と称していたオーケストラ。「東京で9番目のプロオーケストラ」として1990年に創設。

東京でローカルというのはヘンかもしれませんが、いわゆる「地域密着型」というのでしょうか、そういうものを感じさせます。

まず何よりも、大編成であることに驚きました。メジャーではないのにビッグ。正規メンバーの人数(試用期間中4名を含み45名)よりもはるかに大人数の楽員がステージ上に並んでいます。堂々の3管編成でコントラバスは7台。さすが東京です。

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そのオール・フランス音楽・プログラム――フランス音楽とは、言いながらとても日本的。

最初の「牧神の午後」には、うむと唸らされました。ゆったりとしたテンポで、フルートを始め個々の楽器のメロディアスな音色と澄んだ鳴り物の音がどこまでも綺麗に響く。そのことは、次の「海」でも同じ。ドビュッシーの思い描く大洋がどこかは定かではないのですが、この「海」は、まるで日本海。佐渡島を望む日本海の絶景という感覚。

こうしたことは、最後のラヴェルにも共通します。茫漠と混沌とした響きから狂乱のなかで崩壊していく音楽を、ものの見事なマスゲームのようなスペクタクル。飯盛さんのポディアム上のダンスも素晴らしかった。

フランス音楽の「神髄」とは思わないけど、堪能しました。

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圧巻だったのは、高木凜々子さんのソロによるサン・サーンス。

サン・サーンスは、ドビュッシーやラヴェルのいささか知性が勝ちすぎの高踏な「フランス音楽」のイメージとは違って古典的で、日本人の西洋音楽――伝統的クラシック音楽にぴったり。パリ音楽院で同窓だったサラサーテに献じた曲だそうです。サン・サーンスのヴァイオリン曲といえば、「序奏とロンド・カプリチオーソ」や「ハバネラ」が大好きでよく聴いていますが、この協奏曲はうかつにも見落としていました。

高木凜々子さんは、アーティスティック・パートナーとして楽団員のひとり。それだけに、オーケストラとはフィーリングがぴったり。息の合った音楽の起伏やダイナミックスのバランスがとても良くて聴き映えがします。第三楽章のコラールから大団円のコーダにかけての技巧の限りを尽くした部分は、まるでモーグルの目眩くターンの連続のよう。ここを駆け抜けた高木さんは快心の笑み。

深く腰を折っての答礼が印象的――何て爽やかで柔らかい身のこなしでしょうか。弾ききったという満足にはち切れんばかりに満面に笑みを浮かべて、とってもチャーミング。

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どんどんと国籍不明化していく東京のトップオーケストラですが、このパシフィックフィルハーモニア東京は、この大都会の懐の深さを感じさせて、親近感あふれるシンフォニーコンサートでした。




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パシフィックフィルハーモニア東京
第164回定期演奏会
飯盛範親X高木凜々子が魅せる
フランス音楽の神髄
2024年4月13日(土)14:00
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階D列30番)

指揮:飯森範親
ヴァイオリン:髙木凜々子

ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲
ドビュッシー/交響詩「海」

サン = サーンス/ヴァイオリン協奏曲第3番 ロ短調 作品61
(アンコール)
バッハ:無伴ヴァイオリン・パルティータ第3番より Ⅶ. ジーグ
ラヴェル/ラ・ヴァルス

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「言語の力」(ビオリカ・マリアン 著)読了 [読書]

複数の言語を話すことで、人間の脳は変わる。認知や思考に大きな影響を与えコミュニケーションの能力が拡大し、果ては認知症のリスクも減らすという。

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意外に思うかもしれないが、全世界に暮らす人の過半数がバイリンガルかマルチリンガルだという。全世界的に見ると、複数の言語を話す人は、例外ではなくむしろ普通の存在だ。

そして、外国語を習得することはさほど難しくない。

個人的な話しだけれど、昔、東大生は他の大学よりも帰国子女や留学体験者が格段に多いと教わった。そのことを教えてくれたのは東大教養学部のフランス文学の教授だった。調査の結果は学外秘とされていた。公表すると世の中の教育熱心な親たちがパニックになるだろうと懸念したからだそうだ。もう40年も昔の話しだけれど。

著者は、米国ノースウェスタン大学のコミュニケーション科学の教授。自らもルーマニア語を母語とするマルチリンガル。ロシア語はほぼ母語と同等、もちろん英語も話す。その他、様々な言語の研究に携わってきた。そうした立場と、自らの研究・調査結果から、マルチリンガルは良いことだらけだという。

そもそも脳は、それぞれの言語を別々に処理しているわけではない。聴覚、視覚といった知覚や認知も、記憶、思考など様々に連携するネットワークになっていて、言語によってその連携に違いは無いという。

つまり、人間の脳はひとつのオーケストラ。

同じオーケストラが、ベートーヴェンもブラームスでも、どんな曲でも演奏できる。曲によって楽団員が違うわけでも、楽器を持ち替えるわけでもない。それでまるで別の曲、ちがう音響を奏でる。

これも個人的な話しだけれど、会社の先輩で帰国子女で英語が堪能なバイリンガルがいた。通訳をしながら、日本語でメモを取り、それと同時に相手の英語でのひそひそ話しまで聴き取っていた。ひとつの脳でいくらでもこなせる。

言語は、人格を作るし文化や習慣も違ってくる。色や形などの認知までも言語によって変わってくる。だから、マルチリンガルは違った文化に対し寛容で、様々な感受性、表現の違いや表情や言葉の裏表への理解や思いやりが高まる。寛容度が上がり、他者を受け入れやすくなるという。だから、本人の幸福度も高まり、社会の分断リスクを低めて、世界はより平和になる。

米国国務省のレポートによると、日本語は最も難しい言語だそうだ。英語話者にとって習得するまでに要する時間が最長のカテゴリーに属する。単一性の高い民族で、島国という地勢もあってモノリンガルがあたりまえと思っている。

著者の紹介する言語学的、脳科学的な事例は、身近で、しかも、かなりショッキングな話しも多い。

読むと、きっとひとつでも外国語を学ぼうという気になるに違いありません。著者の調査によると、言語習得には幼児からの教育である必要はなく、高齢になっても学習に要する時間はさほど変わらないそうですから。



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言語の力
「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?
ビオリカ・マリアン 著
今井むつみ 監訳・解説
桜田直美 訳
KADOKAWA
2023年12月21日 初版発行

The Power of Language
Viorica Marian
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