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ケーブルの焦点? (イザベル・ファウストのシェーンベルク) [オーディオ]

きっかけは、イザベル・ファウストの新しいアルバムを聴いてみて、ちょっと衝撃を受けたからです。

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衝撃はすぐに魅惑のようなものへと変容し、それにすっかり虜になってしまったのです。

時あたかも、金属たわしアースの検証中。さらには、LANケーブルの検証を終えたところでもあり、その確認にもこのシェーンベルクの厳しい不協和音と転調、無調の厳しい室内楽のアンサンブルは、もってこいの音源だったのです。

まず、協奏曲を聴いてみて、そのわかりやすさに驚きました。

この曲は、シェーンベルクがアメリカへ亡命した直後の1934年に着手されました。完全に12音技法で書かれていて、しかもとてつもない技巧を求められて初演を依頼したハイフェッツからすげなく断られてしまいます。私自身、今よりはるかに柔軟な耳を持っていたはずの学生時代に聴いてみてもまったく共感を覚えませんでした。

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それを、すっかり変えてしまったのが、ヒラリー・ハーンのアルバム。ハーンは、人気の名曲に、一般にはなじみにくい20世紀現代音楽をカップリングさせて、現代曲の啓蒙をはかることに熱心で、私自身、このアルバムでもシベリウスよりもシェーンベルクのほうにすっかりはまってしまいました。

それが、このファウストを聴いて、ちょっと仰天。ハーンの技巧も完璧ですが、ファウストを聴くと20世紀の前衛音楽という気難しさをひとつも感じさせない、情感豊かで繊細極まりない美しいパッセージに満ちているのです。ハーディングの指揮も冴え渡っている。オーケストラは奇しくも、ハーンと同じスウェーデン放送交響楽団。

続いて「浄夜」をかけてみて二度びっくり。


これもまた尋常ではないほどの繊細な美学にあふれています。そして、これらの二曲の間に35年という作曲者の時間の隔たりも、ウィーンとロサンゼルスという距離の隔たりも、あるいは巷間言われてきた作曲技法の隔たりさえも少しも感じさせないのです。後期ロマン派の作風と言われた「浄夜」の方は、あたかも、作者晩年の成熟した12音技法に擦り寄るかのようですし、「協奏曲」の方も「浄夜」の持つ作曲者青年時代の濃密な詩的情感の世界へと立ち戻るかのように響くのです。

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もとよりこの曲は、難解で「売れない作曲家」だったシェーンベルクの生計を一手に引き受けた人気曲でした。だからこそ、彼はオリジナルの弦楽六重奏曲から弦楽オーケストラへの編曲し、しかも何度も手直しをしています。それが一躍、クラシックファンに広く受け入れられるようになったのは、やはり、何と言ってもカラヤンの一連の新ウィーン楽派の楽曲を網羅したLPのおかげでした。カラヤンの「浄夜」は、ベルリン・フィルという名人芸集団の緻密なアンサンブル能力を活かした、カラヤン美学に彩られたもの。

オリジナルの弦楽六重奏版は、そういうオーケストラ版になじんでしまった耳には、かなり手厳しい響きと音色になってしまいます。後期ロマン派の濃厚な美学という固定観念からすると、ずいぶんと音楽の本質が違って聞こえるのです。


それは冒頭の静かな出だしからして違います。室内楽版は、意外に大きな音量で緊張度が高い。大編成のオーケストラ版のほうがかえって密やかな音量で、鬱屈した沈黙による開始ともいうべきもの。室内楽では「空気感」や拡がりのようなものはないのですが、より緻密で精妙な対位法や調性の浮遊や遷移が鮮やかで、世紀末のウィーンの濃密に熟成した気配を肌で感じます。和解のニ長調へと解決していく調性構成こそ伝統的様式の枠を脱していませんが、そこにはまごうかたなきシェーンベルクの世界があるのです。

それだけに、聴く耳にもきつい。でもそれ以上に、その複雑な対位法や主題構造の展開、和声法を聴き取るには、間断なく持続する不協和音の悩ましさもあって、オーディオシステムのかっこうの試金石にもなるというわけです。

最近のものでは、ベルチャ四重奏団+の評判が高い。

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これを改めて持ち出して聴いてみると、当初から高い緊張感の連続で、聴くのはなかなかの試練です。19世紀末の芸術といっても、どこか表現主義的な表現の陰鬱なおどろおどろしさで、見知らぬ男に身を委せたしまい子を宿したという女の告白が始まるとどこかいたたまれないほどの切迫感があって、それが頂点に達する第二部冒頭(100小節目 Molto rallentando)のff和音がかなり耳に痛い。高度にデフォルメされた具象画の世界。

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室内楽版の数少ない定盤のひとつであるカルミナ四重奏団+は、これほどのテンションの高さではないのですが、それでも、やっぱりオーケストラ版に慣れた耳には厳しいことは同じでしょう。ベルチャよりもオーソドックスで誠実かつ堅牢な奏法は、室内楽ならではの緻密な音の細密構造を明らかにしてくれますが、響きや音色はややドライです。

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つい最近、エアチェックしたカルテット・アマービレ+の演奏は、とても甘美で濃厚なロマンチシズムに満ちています。どちらかといえば、カラヤンのオーケストラ版の方向で、従来からのこの曲に与えられてきた「後期ロマン派」というイメージです。


ファウストたちの「浄夜」は、そういうものとも違う新しい「浄夜」です。

とにかく彼らの奏法、音色の引き出しの多さに驚嘆させられます。


まず『二人の男と女が、寒々とした林の中を歩いている』という冒頭のGRAVEから、その深みのある音色にはっとさせられます。女が突然に告白を切り出す場面での強烈なピッチカート。彼らの奏法の多彩なパレットの最初のクライマックス。それは大編成の弦楽オーケストラにはかえって出せない衝撃のピッチカート。

女の告白は綿々と続きます。第二部MOLTO RALLENDO冒頭、ffの和声は、他のどの演奏よりも切実でしかも美しく響きます。女は自分のなかに子を宿している、しかも、それは恋人の子ではなく愛情もない見知らぬ男の子供だ、と。ここからのアルペッジオとピッチカートが交錯する音響は、後年の12音技法の世界を彷彿とさせます。

そして第三部冒頭A TEMPOでのガーガーガーという3つの四分音符。絶望に満ちた女はこわばった足取りで恋する男の傍らを歩き、その言葉を胸打ち振るわせて待つ…。そのG線の音の触感は、これまでの室内楽版、オーケストラ版の誰もが出したことのない劇的な内的緊張をはらんでいます。こういうところに古楽から現代音楽まで幅広くカバーするファウストの高い感性を感じます。

絶望と切実さがないまぜになった女が息を潜めると、男の声が、寛大で崇高な愛を語り出します。それを示す、第4部ADAGIO冒頭のヴィオラとチェロの和音。ここで劇的に調性の世界に回帰する。この解決部への突入は、この曲でも最も感動的な瞬間ですが、ファウストらの演奏はまさに心の解放そのものです。この無調と調性の対照を聴くと、彼らは音律さえも変えているのではないかと思わせます。前半は平均律、後半は自然音律のピュアトーン。だから、対照的であってもどちらも響きが美しい。そういう多彩で特徴的な奏法を自在に使い分ける。とにかくそういうメンバー全員がすごい。

やがて美しい月の光が照らし出す真珠の輝きのようなアルペッジオの上に、ファウストの単線の美しい副主題が現れ、それにジャン=ギアン・ケラスの甘美で雄弁なチェロの美音が応えます。貴方の授かった子を、どうか貴方の魂の重荷にしないで欲しい…と。

12音技法に到達したシェーンベルクは、セリエル音楽など前衛の祖のように言われますが、ずっと伝統的保守的な面がありました。歌曲など詩文や神話伝承といった文学への傾倒は後期ロマン派そのものですし、ヴァイオリン協奏曲のようにソナタ形式など形式構造主義はブラームス仕込み。「浄夜」はその両面を合わせ持っています。

新しい市民階層のアヴァンギャルドな文学や詩文への傾倒は、ロマン主義というよりは、抑圧などの異常心理への傾倒を示した表現主義というべき風潮ではないでしょうか。


ファウストらの演奏を聴くと、そういう表現主義芸術ではなくて、標題音楽的な自然主義リアリズムと古典形式の絶対音楽の抽象性、すなわち、精密濃厚なエロス描写と工芸技法を駆使した絢爛な装飾美術のコラージュだという気がしてきます。新ウィーン楽派の音楽のCDジャケットによく使用されるクリムトのような、甘美と妖艶なエロスと同時に高い装飾性を合わせ持っている…それがシェーンベルクの音楽の本質であり「浄夜」の世界だった…のではないか、と。


すなわち、ファウストらは、抽象と具象、その二面性に光を当てて新しい意匠を創り出しているのです。


さて…

こちらが本題です。

最後に、LANケーブルの手直しをしました。

PC系は、ほぼ独立のオーディオ専用のネットワークを形成しています。Roon metadataを使用するために無線ルーターとスイッチングハブを経由して家庭用システムのWANにつないでいるだけ。後はオーディオ専用のプライベートネットワークを形成しています。

このローカルネットワークに使用している5本のLANケーブルは、結局、すべてCAT6A+TelegartnerMFP8に換えてしまったことは以前の日記に書いた通りです。

そのうち最後の、NAAPCにつなぐケーブルは長ければ長いほど良いということでした。ところが、自作を重ねているうちにこの巻き線から少しずつ拝借して切り出しているうちにどんどんと短くなってしまい、とうとう12mぐらいになっていました。

最短のものとも較べてみましたが、確かに長い方が音がよい。

そこで、もう一度、20mの切り売りを購入してケーブルを製作しました。(日記では成端が不安定だと書きましたが、その原因はMFP8の定格では単線の接続はAWG24まで、一方の日本製線のケーブルはAWG24ではなく0.5mm(JIS)で、線径がわずかに下回っているということが判明しました。安定した接続のためには折り返し技法が必要とのことで、オヤイデに製作を委託しました。)

聴いてみると…

やっぱり、長い方がよい。

一聴して奥行きが広がりました。奥行きが深くなったというより、壁より向こうのステージがぐっと大きく広がった感じです。

高音域のわずかな混変調歪みのような滲みがなくなります。料理に例えれば、ペシャメールソースがダマになったり、細かく分離したりすることがなく、すーっとスムーズに伸びる感じと言ったらよいでしょうか。ベルチャのアンサンブル(192KHz/24bit)が、きつい、ザラつく…というのではなく、厳しい、鋭い、という風になってくれました。まさにケーブル長さで焦点が合うという感覚です。

理由はわかりません。

そもそも伝送ケーブルは短ければ短いほどよいというのが直感的常識でしょう。何とも不思議です。ご本家筋では、direttaに移行するとともにすでにこういう接続はとっくにやめてしまったようです。いささか都市伝説じみたお話になってしまいつつあります。ここの伝送はcorePC側から音楽情報信号のみをプッシュしているだけなので明らかに半二重の一方向通信となっています。NAAPCは情報をスルーするだけでエラーがあればDAC側で補正・補間がかかるだけ。PCオーディオといっても、ここまで来ればCDのトランスポートと同じです。そこではインピーダンス整合による反射や伝送路での高域ノイズ減衰などの影響が相対的に大きくなって、聴覚にも感知されるということでしょうか??

たぶん、プラシーボです(笑)。
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