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松永安左エ門 [自転車散策・紀行]

彩湖・道満グリーンパークから、また、秋ヶ瀬橋を渡るとそこは志木市。

そのままその「いろは通り」を道なりに進むと志木市の市街地へ向かうことになります。曲がりくねった道ばかりなのは、この地域が荒川の流域に広がる平野部で肥沃な農地だったからでしょう。

いまや東京のベッドタウンですが、江戸期にはすでに川越との間に新河岸川の舟運が盛んとなり商業地として栄えたという歴史があります。新河岸川はずっと荒川に平行して流れ、岩淵水門で隅田川とつながっています。

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そういう歴史と立地のせいなのか、陸路は曲がりくねって複雑で、これといった一本筋の道がありません。通りの名前の多くは市民の公募によってつけられた歴史と無縁の、いわば道路の「キラキラネーム」で、「いろは通り」もそのひとつというわけです。そこから右往左往して「慶応通り」に入り、そこを進むと慶応志木高の緑の森が見えてきます。

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高校には身分不相応と言っても過言ではないほど緑の深い広大なキャンパスですが、これでも散々周囲をマンション建設などに切り売りして創立時の半分ほどに縮小した結果というから驚きです。

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その広大な敷地誕生には、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左エ門が大きくかかわっています。

松永は、戦後の九電力体制を作った人です。戦時の電力国家管理の特殊会社として成立した日本発送電の独占体制を維持しようという勢力を真っ向からねじ伏せて、分割民営化を実現したことから「鬼」と呼ばれたのです。

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壱岐出身の松永は、現在の西鉄の前身のひとつだった福岡市の路面電車の事業を皮切りに電気鉄道から電力事業へ進出し、彼が設立した東邦電力は、九州、近畿、中部を勢力下に納め、ついには東京にも進出して東京電燈と覇を競い「電力王」と呼ばれます。それが国家総動員法と日本発送電の設立によって野に下ることになりました。

彼の実家は裕福な商家でしたが、福沢諭吉の「学問のすすめ」に発奮し、家を飛び出すようにして上京し慶應義塾に学んだ人でした。諭吉に直接の知遇を得て身辺に付き随い、後に彼の事業のパートナーとなった福沢桃介は、諭吉の娘婿でした。

ところが松永は、「学問に興味がなくなった」と諭吉に告白し、諭吉も「卒業など大した意義はない」と許してしまいます。そういうわけで、松永の最終学歴は「慶應義塾中退」ということになってしまいます。

それでも松永は強烈な母校愛を抱き続け、戦後、母校に広大な土地をポンと提供します。当時の慶応は大学農学部を設置しようとしていて用地に窮していたのです。農学部開設が種々の事情で果たせなかった慶応は、この土地で農業高校を創設することになります。これが、今の志木高の始まりというわけです。

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普通科高校に転換し、慶応高校・女子高などと同じ高大一貫教育(つまり「エレベーター式」)となるのは、1957年のこと。そういう歴史のせいで、野火止用水も流れる広大な敷地には畑や田んぼがあって今も耕作授業も行われているとか。シティ派の慶応ボーイの中ではちょっと異色の存在になっています。同じように農業高校の由来を持ち、いまだに田植え授業があるという受験エリートの筑波大駒場高校と妙なところで符合しているのは面白い話しです。

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この野火止用水や新河岸川の支流の柳瀬川が流れる田園地帯は、松永がこよなく愛した土地で、彼との縁がとても深いというわけです。

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