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「平成音楽史」(片山杜秀+山崎浩太郎)読了 [読書]

これは面白い。面白すぎる。

現代政治史の泰斗と現代演奏史譚の語り部、ともに博覧強記の音楽評論家のふたりが、平成のクラシック音楽界を語り尽くす。もともとがCSデジタル音声放送の対談番組だから、聞き過ごせばそれでお終いの泡と消える放言ばかり。もちろん切れ味は抜群で、忖度も配慮もない言いっぱなしの暴言もどきの連発。パチパチと言葉がはじける痛快なやりとりが続く。

以下は、ふたりのワンフレーズの数々。なかには相当の暴言・失言も…(?)

(昭和から平成へ)
〇クラシックとは、意外性などがあってはならない宗教的年中行事
〇いまの時代、どこのオケも均質化して独自の音色なんてない
〇昭和はメジャーの時代、平成は多品種と混沌の時代
〇カラヤンの「アダージョ」は資本主義の黄昏

(ジェンダーと“Mee Too”)
〇昭和までは男目線中心、あるいは、旧制高校型教養主義
〇平成は女性目線――それ以前に見過ごされてきた慣行まで遡及して糾弾される
〇女子が作曲家になろうものなら、母親ともども音大教授の「親子どんぶり」の犠牲者に

(宇野功芳なるもの)
〇昭和の吉田秀和的教養と、その良識に反する平成の「宇野チルドレン」
〇宇野功芳の存在は、ある意味で司馬遼太郎と似てる
〇宇野はアンチ・アカデミズムの反主流が大衆の主流になった――それは司馬史観と同じ
〇朝比奈隆/ブルックナー教の熱烈な信者たち――宇野功芳はそのエヴァンゲリスト

(高齢者崇拝)
〇面白みのなかった中堅が、年をとって次の時代にはいい爺さんになる
〇日本人の超高齢マエストロ信仰――その祖はベームやシューリヒト、ワルター

(音楽マネー)
〇小澤征爾は、日本人のなんでもありみたいなところをラディカルに突き詰めた人
〇小澤征爾はおカネを持ってくる、客を集めることができる日本で唯一の人
〇橋下徹が都知事、NHK会長、読売グループ総帥になったら日本のオケは全滅する
〇ゲルギエフ、クルレンツィスはロシア、デュダメルはヴェネズエラのオイルマネー
〇バブル時代の三大テノールで、日本人はようやくオペラに目覚めた
〇マーラー、ブルックナーみたいな大作を好む一億総中流、大衆教養主義のアマオケ世代

(佐村河内事件)
〇平成は、壮大なまがいものの時代
〇まがいものへの感動は、マーラーに始まり、ブルックナーへ、ついに佐村河内へ
〇佐村河内と麻原彰晃に共通するのは、日本人の交響曲信仰

(モダンとピリオド)
〇サントリーホールでヴァイオリン・リサイタルなんて異常な感覚
〇古楽ブームは、アメリカ流グローバリズムに対するアンチ
〇平成になって古典派、シューベルトなどの前期ロマン派が面白くなった
〇ピリオド楽器でやるとスリリングになる――音楽はきわきわでないと楽しくない
〇モダンはある程度のひとがやればある程度になる―― 一億総中流的

(時代遅れの演奏家たち)
〇中村紘子は、いつまでもタテ指がなおらなかった戦後初期のピアノ教育の産物
〇ヨーヨー・マのバッハは「やっぱり僕うまくてすみません」のまま変わらず、悲しい
〇ポリーニは真面目――歳を取ったら相応の美学と弾き方を…ということができない
〇歳をとったいまのポリーニは栄華をしのぶ「荒城の月」の美しさ


きりがないのでこのくらいにしておこう。なお上の一言録は自分の勝手な要約と解釈もあることをことわっておきたい。ファンによっては怒り心頭ということもあるかもしれないが、音楽談義として笑って楽しみたい。


キーワードになっているのは「キッチュ」。

はったり、まがいもの、変わり者、といった意味で使っている。そして、挫折とか出自、血統、あるいは病苦・障害などの克服といった何か壮大な物語がついてくるほど感動するという風潮。それが増長し、ついには佐村河内のようなウソになる。ゴーストライターの新垣隆について、ポストモダンの自己喪失アルチザンだと喝破している。このあたりは、さすがの炯眼だと言わざるを得ない。

しかし、そういうまがいものの大ウソに自分たちも加担していたことに反省、悔悟の気配がない。佐村河内たちが平成の「キッチュ」の頂点だとはしゃぐ結語が、自分たちの大失態への単なる照れ隠しであったらよいのだけれど。


平成音楽史_1.jpg


平成音楽史
片山杜秀+山崎浩太郎 田中美登里[聞き手]
アルテスパブリッシング
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