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「フルトヴェングラー」(脇圭平・芦津丈夫 共著)再読 [読書]

フルトヴェングラー信奉者の、フルトヴェングラー信奉者による、フルトヴェングラー信奉者のための書。

崇拝者のなかでも抜きん出て著名な丸山真男を囲んでの鼎談がまずあって、それを補足する形でそれぞれの小論文が書き加えられた三部構成になっている。丸山が辞退したので、残りの二人の共著という形をとる。丸山の辞退は健康上の理由だったが、あくまでも自分の専門の日本政治思想史とは無関係で、自分はアマチュアだからという謙遜も大いにあったのだろう。

鼎談は、主に丸山が自説を展開することで主導する。それに応える芦津は、フルトヴェングラーの愛人との偶然の出会いから生まれた未亡人との直接の親交もあり、その「手記」や、クルト・リースの「フルトヴェングラー 音楽と政治」などの翻訳も手がけたドイツ文学者。脇はドイツ政治思想史の泰斗で、ドイツ正統音楽とかかわるきっかけは丸山からリースの著書の紹介を受けたことだったという。

いずれも論議がフルトヴェングラーの賞揚と擁護だから、三者の話は確かによく噛み合うが、新たな発見や視点がない。論拠や引用は、大体が「手記」やリースらの擁護派の著書ばかり。これらはいわばアリバイ証言のための著書なので議論の方向性はどうしても限られる。

丸山は、三人のなかで最も年長だし戦前の旧制高校の寮生時代から戦後の療養生活時代まですでに相当にクラシック音楽になじんでいたが、フルトヴェングラーの生演奏には接していない。高校時代の同僚が戦後外交官となり、その特権でウィーン・フィルとの演奏を生体験したと聞いて悔しがる。「非常な秀才だが(一高時代は)ボート漕いでて寮歌ばっかりがなっていた男」とまるで野蛮人だったかのように言う。けれども、寮歌といっても開始のかけ声は「アイン、ツヴァイ、ドライ」に違いない。親しい僚友に投げかける戯れ言だからこそ、こういうところに戦前からのエリートたちがいかにドイツ教養主義にかぶれていたかがうかがい知れる。

だから、言っていることは観念的で小難しく、やたらにドイツ語のカタカナが闊歩する。そもそもフルトヴェングラーがドイツ教養主義の塊みたいな出自で、著書や手紙は文語に近い。これを引用して得意げに話しをするので語彙がことさらに堅く読みにくい。そういうところに、クラシック音楽ファンの時として鼻持ちならないエリート臭さが漂う。特に、フルトヴェングラー信奉者にはそういうのが多い。

読後感にこんなことばかり書くと反感を買うので、ひとつだけ、とても共感したことを紹介すると、それはフルトヴェングラーの演奏の根底にある「緊張と弛緩」「生物体の呼吸」という指摘。「有機体としての音楽にはもっと深い次元で大きなうねりの旋律が歌っている」。そういう「原旋律」という息の長い呼吸のうねりが、楽章や楽曲全体に底深い、スケールの大きな波動があって、しかも細部にも細やかな神経が行き渡り繊細な美学がみなぎっている。それがフルトヴェングラーの「精神性」の魅力なんだと思う。こういう指摘は素直に感服した。


フルトヴェングラー_1.jpg

「フルトヴェングラー」
脇圭平・芦津丈夫 共著
岩波新書
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