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「海馬を求めて潜水を」(ヒルデ&イルヴァ・オストピー共著)読了 [読書]

海馬というのは、脳の一部で記憶を司ると言われている器官。形がタツノオトシゴ(英:“sea horse”)に似ているので、その分類学名“Hippocampus”がそのまま呼称となっている。

つまりは、本書は人間の「記憶」をめぐるエッセイ。

心理学は科学なのか?

心理学は哲学がルーツで、いまでも多くの大学は文学部に属することが多い。かつてある物理学者は「心理学は科学ではない」と断じた。すでに人間の行動・認知を対象に、実験心理学や行動学など実証的、論知的な探究がもてはやさていた時代だ。今や人工知能などの情報工学、脳神経など病理・生理などの医学からのアプローチもあって、いよいよ「科学」としての自己主張を強めている。科学であってほしい。役だってほしいと思う。

ところが、今の世には、「脳科学者」だとか「認知神経科学者」などと自称する輩がやたらとTVなどのマスメディアにしゃしゃり出て、音楽だとか歴史だとかをしたり顔に論評する。学歴経歴を見てもどこにも人間心理を学としてきたバックグラウンドなどない。ああいう輩を見ると、確かに「科学者ではない」と言いたくなる。

本書も、同様にそういうガッカリ本。

標題は、海中で記憶したものは、地上ではなく海中だと定着しやすくなるということを実証するためにダイバーに海中で無意味な数字を記憶させるという実験を著者が行ったことに由来するようだ。結果は散々。ダジャレにもなっていない。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)には、記憶が大きな要因となる。恐怖となる大きな出来事が記憶となる。消そうとしても消せない強烈な体験の記憶。そのことをスカイダイバーの墜落からの生還者の証言をあげている。けれども一方で、相反する記憶喪失の事例も挙げる。著者は実にあいまいで散文的だ。

一方で、記憶は、実は、取るに足らない体験の集積で《再構成》される場合もあるし、そういうものがあったという《虚偽記憶》もあるという。

記憶が再構成されるということは、すなわち、記憶の乗っ取りとも言える。それに関連して幼児の記憶は何歳ぐらいから定着するのかという問題もある。言語の成長生成がその境界といえるのだろうか。かといって記憶定着の過程を、事後的に再構成して乗っ取るということの事例も少なくない。カッコウの托卵を引き合いに出すまでもなく、幼児の記憶定着にあまり論理性は見いだせない。

刑事手続きにおける記憶証言の虚偽性の問題は、より深刻なはずだ。本書によれば裁判証言にも、集団的な虚偽記憶の形成(誰かが言うとそれが記憶として伝播する)があるという。讒訴誣告のような悪意とは違って、悪意がなくともえん罪を生むこともあるという。ここにおいても著者は、相変わらずあいまいで散文的。どっちつかずでなんらかの問題提起をするわけでもない。

チェスの名手たちの驚異的な記譜記憶力についても同様だ。実際の記譜と、ランダムな指し手で形成した非論理的な駒の配置では、名手たちの記憶定着力は大きく違うという。記憶競技の名人たちも、無意味な数字に事物、風景など当てはめ道順をつけるという方法で、記憶を定着させるという。実際、海馬は記憶のマネジメントだけではなく、空間認識(場所や道順など)にも大きく関わっているという。かといって記憶の謎解きは示されることもない。

短期的記憶と長期的記憶にも大きな謎がある。海馬が短期的記憶を貯蔵するとの推定もあるがそうでもない。そもそも記憶は、コンピューターの記憶装置のように記録が貯蔵されるものなのか。記憶とうらはらの「忘却」とは何なのか。あるいは、記憶とは思考と分別しがたい。過去を想い出すことが、推論や創造という未来を生む。…話しはどんどんととりとめもなくなっていく。

かといって気候変動問題に結びつける終章はいかにもとってつけたようだ。あくまでも散文的で善人ぶった主観は、科学の名を借りた偽善を生む。

本書の救いは、訳が優れること。日本語は流れが自然でわかりやすい。

海馬を求めて潜水を_1.jpg

海馬を求めて潜水を
 作家と神経心理学者姉妹の記憶をめぐる冒険
(原題:)
ヒルデ・オストビー&イルヴァ・オストビー
中村冬美・羽根 由  訳

みすず書房
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