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「つくられた桂離宮神話」(井上章一 著)読了 [読書]

桂離宮は、簡素な日本美を象徴する建築・庭園であり、それはブルーノ・タウトによって再発見された。

多くの日本人は、今でもそう信じている。

それをバッサリ。

何とも「いけず」でそれだけに痛快。面白すぎる。日本美を代表する建築にケチがついて面白くない人間がいないはずはない。だから本書が世に問われたときには物議をかもしたらしい。「あんなことを言わせていてよいのか」――それで建築史学会に無視された。著者は、その冷遇に対して大いに憤慨したらしい。そのことは「文庫版あとがき」に詳しいが、これがまた笑うに笑えない。

断っておくが、本文はまことに学術的で生真面目。その考証の追求ぶりという点では文献考証の手本と言ってもよいほど。実に執拗で忖度がない。まさに「いけず」なのだ。

それまでは桂離宮は、人々の関心を集めることもなく忘れられ、半ばうち捨てられていた。それが1933年に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトが絶賛、一転して、簡素で機能美に徹した日本建築の素晴らしさに気づかされた日本人の称賛を集めることになる。対照的なのは日光東照宮で、それまでは絢爛豪華で精緻な意匠工芸と、長い間、もてはやされてきたのに、とたんに俗悪で過剰だと貶められてしまうことになる。

そういう誰でも知っている「桂離宮神話」は、実は、すべて虚構だったという。

過剰な意匠を嫌い、機能に優れるものは外観的にも美しい…というのは、まさにモダニズム派の主張。当時勃興期にあったモダニズムは、その喧伝のためにタウトを利用したのだという。柱や屋根といった構造材がそのまま美的意匠となっているという機能美の徹底こそ日本美の特質だという文化論も、折からのナショナリズムの高揚に乗じて作られた。そもそもタウトは、モダニズム建築の信奉者ですらなかったという。

著者はそういう虚構の足跡を、執拗かつ詳細な文献解析で明かしていく。おびだたしい数の観光ガイドを時系列的に解析して、桂離宮の観光資源としての人気がタウトによるものではないことも解き明かす。それは教養人、専門家などのエリートが言挙げした文化論、審美信仰が観光宣伝のキャッチに取り込まれ、それをそのまま鵜呑みにした大衆へと拡がっていく。そんな過程をも露わにする。

著者自身は、桂離宮そのものについては「自分にはその良さはわからない」といっさい語らない。その言いようがまたまた「いけず」。そのことで、反感を呼び、建築史学会から無視冷遇されわけだが、社会学者など埒外の学者は面白がった。ところが面白いと評されても、「大きなお世話だ」と喜ばないところがこれまた著者の面目躍如というわけだ。

桂離宮の名声は、虚構や誤解によって高まった。誤解がとけ、評価や解釈のありようが年月とともに変わっても、いったん高まった価値認識だけは動かない。それが古典芸術というもののありようなのだという。

そのことは、他の芸術でも同じ。私は、クラシック音楽のファンだが、本書が論じていることと通じるものがあると思える。何だかちょっと身につまされる。

つくられた桂離宮神話_1.jpg

つくられた桂離宮神話
井上 章一 (著)
講談社学術文庫
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