SSブログ

「倭・倭人・倭国」(井上秀雄 著)読了 [読書]

私たちは、「倭」といえば日本のことだと当たり前のように思い込んでいる。

けれども、日本人の「倭」と中国や朝鮮が見ている「倭」とは別のものだ。

日本書紀に「倭」とあれば、ほとんどが今の奈良県(大和国)を指している地名のこと。けれども、それは「やまと」と読む。文字としての漢字を受容する以前から、奈良盆地南東部をヤマトと呼んでいた。和語の地名(ヤマト)を、「倭」に当てたのだろうという。

だから中国や朝鮮でいう「倭(わ)」とは、必ずしも同じではない。ところが、古来、日本の歴史家は、そういう思い違いを自明のこととして歴史を論じてきたのではないかという。

「倭の五王」など「日本書紀」には一言も書いていないのに、これらの「倭王」を天皇に当てるという画一的な学説で見事に統一されている。「倭」=日本=大和朝廷との考えにしばられているから、邪馬台国の北九州説と近畿説の対立にしても、戦前の学説からさしたる進展を見せていないと嘆く。

4世紀以降、朝鮮半島と日本との関係は活発になるが、そこでも「倭」は必ずしも日本を指すとは限らないという。「倭」=日本国/大和朝廷と一体とみるべきではないと説く。中でも興味深いのは、大和朝廷が日本を唯一代表し外交や交易、人的交流を直轄していたとは限らないという視点だ。

ましてや、律令国家成立以前には、「王」=「天皇」とは限らないだろう。朝鮮半島南部と北九州の主権支配がどのように入り組んでいたかは、十分に解明できているわけではない。地勢的には海の存在が鍵を握るが、半島内であっても陸路よりも海路が主であった時代、現代の地図をみて「海を渡る」=「日本海を渡る」とする根拠は薄いというのは納得的だ。

「倭」の語が、中国や朝鮮の古典にどう現れているか、記紀の本文や分注(分註)の記述や引用とも対比させながら詳細に検討している。地名としての「倭」、民族としての「倭人」、天皇や渡来系氏族など人名に現れる「倭」、国としての「倭国」「大倭国」などへの切り口はなかなか興味深い。

著者の井上秀雄は、日本では数少ない古代朝鮮史が専門の歴史学者。東北大名誉教授。

その立場から、日本の視点からのみ中国や朝鮮の文献を見る日本の古代史学者の姿勢を批判してきた。日本の文献史学は、いまだに鎖国状態が続いていると嘆く。日本人は、中国の歴史については自国に関係のないことまでよく知っているが、韓国・朝鮮の歴史には目もくれない。一方の中国は自国中心の相変わらずの大中華主義だし、韓国・朝鮮でも自国史中心であることに変わりない。

本書は、1991年にまとめられたものだが、30年経ってもこういう東アジアの古代史研究の現状はほとんど変わっていない。こういうことは、何も古代史研究に限らないような気がする。それが東アジアの現実なんだろうと思う。




wa_wajin_wakoku_trm_1_1.jpg

倭・倭人・倭国
東アジア古代史再検討
井上秀雄 著
人文書院

(追記 1)

倭を、日本列島とその住民に限定すべきではない。

中国人は、中華圏外の東方地域や住民を漠然と倭と呼んでいたといいます。やがて高句麗と遼河平原の支配をめぐって攻防を続けますが、その東南を倭と総称します。やがて新羅が興隆し攻防の接点が朝鮮半島東岸にも広がるとともに、朝鮮・韓人の視点からは倭という呼称はより東南に下がり日本列島も意識されるようになっていくというわけです。

倭(ワ)というのは、自分のことを指す言葉の音を当てたのではないかと推測しています。古代中国人の異民族名称に共通する傾向です。倭は、異民族の中で、自分を「ワレ」とか「ウォ」「ウィ」などと発音するアルタイ語系の民族の総称だったのではないか…というわけです。

やがて、日本列島の統一が進むにつれ、倭を「ヤマト」との訓を当てて国号として自称し、対外的にも国号のようにして受け入れていく。

倭(ワ)は、総称ですが、倭(ヤマト)となってはじめて具体的な固有名詞となったのです。字は同じでも日本語と中国や朝鮮の文献上、同一で継続的に混同することを本書はいましめています。東アジアの古代史全体をダイナミックにとらえるべきことを強調しています。



(追記 2)
著者も「旧唐書」の「日本国は倭国の別種なり」という記述に着目しています。

〈高麗伝〉〈百済国伝〉との類似、新羅では「弁韓之苗裔」と記述されていることの対比から、『倭國之別種』とは、倭国から分かれた国と読むのがもっとも穏当だろうと述べています。
ただし、続けて「それが直ちに日本の国内政治を反映したものと考える必要はないと思います。いいかえれば、唐は七世紀中ごろまでは倭国と国交を結び、八世紀以後日本国と正式な国交を結んだということを示しているに過ぎない…」

「七世紀には、大和朝廷が全国を支配していたと私も考えています。…内政が統一されたからといって、中央政府が外交を直接担当するとは限りません。むしろ外交交渉の伝統を持つ倭国が、大和朝廷の了解を得て、唐との外交関係を継続していた時期が、七世紀の倭国外交の時代ではないかと思います。」と言っています。

著者は、倭から日本への国号の改正が唐との外交上重要な変更があったことを示すと考えていて、さらに、それが白村江の事後処理外交に起因して、伝統的な倭国外交(北九州の太宰府外交)から大和朝廷の直接外交に切りかえたということを示しているのではないかとの考えを持っているようです。

白村江の戦いに至る、北九州の権力体制の実態と大和朝廷との関係…といった国内事情は、東アジアのなかでの国際関係からもっと解き明かすべきものがあるのではないでしょうか。そうでないと敗戦の事後処理から、日本古代史上最後の大乱である壬申の乱へと至る動きはまだまだ不可解なことが多く残されているような気がします。
タグ:井上秀雄
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。