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「響きをみがく――音響設計家 豊田泰久の仕事」(石合力 著)読了 [読書]

音楽を聴くことにふた通りある。ひとつはCDなど音響機器を通じて再生音として聴く方法。もうひとつは生の演奏家の演奏を聴くこと。オーディオというものは大いに語られるのに、一方で王道ともいうべき生演奏の方でコンサートホールについては、ほとんど語られることはない。

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今日、クラシック音楽ホールの建設で世界中から引っ張りだこの永田音響設計。その中心的スターともいうべき音響設計家が豊田泰久だ。この知る人ぞ知る音響のスペシャリストに密着取材したのが本書。クラシック音楽ファンにはたまらないほど面白い。

豊田の最初の仕事が、国内屈指の名ホールといわれるサントリーホール。永田音響設計にとっても大きな飛躍となった大プロジェクトだった。

今でこそ名ホールと言われるが、開館当時は悪評も多かった。今でもその響きについて悪く言う人は少なくない。若き豊田もそこで「挫折」を味わっている―『音が聞こえないじゃないか!』。

よく知られるように、このホールはベルリンのフィルハーモニーを模したヴィンヤード型。カラヤンが推した。そのベルリンのホールも当初は悪評紛々で「カラヤン・サーカス」と揶揄された。カラヤンとベルリンフィルですら「見世物小屋」を自分たちにふさわしい「楽器」にするまでには、長い時間と経験が必要だった。楽器と同じように、弾けば弾くほど、ホールは鳴る。豊田は「ホールにもエージング効果はある」とはっきり言う。豊田にとってコンクリートのコンサートホールも変化する生き物なのだ。

近現代のコンサートホールは大規模化していった。音楽と聴衆との関係には、聴くという音響効果とともに、見るという視覚効果も求められる。従来の長方形の「シューボックス」や馬蹄形の「オペラハウス」には限界があった。そこに登場したのが客席がすり鉢状に取り囲む「ヴィンヤード」だった。その設計には違った構想が求められる。それが音響設計家の仕事になる。未知の音響空間で演奏するオーケストラ、指揮者たちに、音響設計家はどのようにその響きを伝えるのか。豊田はしばしば指揮者に呼び出され、リハーサルに立ち会い、助言を求められる。そこから生まれる人脈の広さと体験知の深さには驚くほどのものがある。

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豊田の近年の代表作に、ハンブルクのエルプフィルハーモニーがある。NDR(北ドイツ放送)エルプフィルハーモニー管弦楽団の本拠地である。そこで開館早々に大スキャンダルが持ち上がった。

開館まもないコンサート。マーラー「大地の歌」。ソロは当代きってのテノール、ヨナス・カウフマン。演奏のただ中で、オーケストラ後方の席の女性が立ち上がって「声が聞こえない」と叫んだ。呼応して正面席からも「聞こえない」との声が上がった。

カウフマンは「文句があるなら、建築家に言ってほしい」と言い、「ここでは二度とやらない。次にハンブルクに来るなら(旧ホールの)ライスハレでやる」と憤懣やるかたない。当然、音響設計にあたった豊田にも批判の矛先が向けられる。現地を訪問した彼はマスコミに取り囲まれることになる。サントリーホールで若き豊田が味わった「挫折」と同じだ。

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問題は、ホールか演奏家か。このホールでの、オーケストラと歌曲の演奏について、意見を求められたゲルギエフは、「大音響のオケとソロの歌手の間には、問題が起こる。…だからオケと歌手をどのように配置するのか、十分に考慮しなければならない」「バランスの取り方や別の場所に歌手を配置することを考慮すべきだった」「聴衆は、歌を聴きたいだけでなく、歌手を見たいものなのです」彼はそのように答えている。本書で引用されているゲルギエフの「バランス」「ミクスチャー」についてのコメントをなかなかに深い。

一般的に、NHKホールや東京文化会館のような多目的ホールでは、歌手をオーケストラの前に配置すれば声もよく通る。しかし、ミューザ川崎のようなヴィンヤード型のホールでは、オーケストラの前面ではだめでオーケストラ後方で壁を背にして歌うなどの工夫がいる。しかし、それでは歌手が見えないし後方席の客は大不満だろう。配置だけでも様々な工夫が必要となる。

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著者は、朝日新聞の国際派の記者。クラシック音楽と政治、社会に関する取材も多い。本書でも取材や豊田へのインタビューを通じて、最終的には「音響設計」というものの技術的な解説はあきらめたそうだ。木と石といった素材選択も視覚的意匠はともかく、「音響」ではほんの表層的な問題に過ぎない。音響設計家は、「音響を設計するのが仕事」「図面を引くことは一切ない」からだ。その分、バレンボイム、ツィメルマン、ブーレーズなどトップレベルの音楽家たちのインタビューやエピソード紹介がふんだんにあって、そのすべてが興味深い。




響きをみがく――音響設計家 豊田泰久の仕事
石合力 (著)
朝日新聞出版

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