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「証言 沖縄スパイ戦史」(三上智恵著)読了 [読書]

中野学校といえば市川雷蔵の颯爽としたスパイ活劇を思い浮かべる世代もいるかもしれない。

そんな戦後の日本社会が驚いたのは、小野田少尉がフィリピン・ルバング島から帰還した時だ。中野学校出身と知ってさらに衝撃が走った。29年に及んだ潜伏の行動が次第に明らかにつれて彼の帯びていた使命が何だったかを国民が知ることとなる。

実際のところ、当初はスパイ養成学校だったが、戦中にゲリラ(遊撃戦)要員養成へと転換してしまっている。その目的は、正規軍が玉砕後も生き残って遊撃戦を継続させること。住民を巻き込んでゲリラ戦を続けることにあった。

小野田に対しては、その忍耐と忠誠への同情と驚きが相半ばするなかで、その裏では、小野田ら残留兵士らがフィリピン兵士、警察官、民間人を30人以上殺傷したという事実と対比政府への補償問題が浮かび上がった。

結局、日比両政府の極秘交渉の結果、3億円の見舞金で手を打ち、日本政府は戦後補償は1956年の日比賠償協定によって解決済みとの面目を保ち、比政府は恩赦によって比側の刑罰対象から外した。マルコス大統領はマラカニアン宮殿での投降式に臨み小野田を「立派な軍人」と称えた。

実は、同じことが沖縄にあった。

民間人を含む20万人余が犠牲になった沖縄戦。1945年4月1日の米軍上陸以来、主に南部で凄惨な攻防が繰り広げられ、6月23日、第32軍牛島満司令官が自決し、日本軍の組織的抵抗は終結した後も、多くの敗残兵が逃げ込んだ北部山岳地域では住民を巻き込んだ抵抗と混乱が続き、8月15日の終戦を過ぎても投降を拒否する兵士たちが残っていた。第32軍司令部は『沖縄が玉砕した後も生き残り、遊撃戦を続けろ』との密命を下していたからだ。

山中に立てこもったのは「護郷隊」という少年達。正規の徴用ではない彼らを調練し組織化したのが陸軍中野学校出身の青年将校達だった。少年達はいわば住民の人質でもあった。すでに米軍の占領統治化にあった村落住民は、家族であり地域社会の一員であったゲリラ兵の少年達をかくまい、基地内の活動を見て見ぬふりをし、備蓄食料や支給の小麦粉、カリフォルニア米までも彼らに持たせた。一方で、将校や下士官の中には、米軍に通じているとあらぬ疑いをかけては警官や村の実力者たちを惨殺した者もいる。

こうした陰惨な《遊撃戦》は、実は、本土でも準備が進められていた。本土決戦となって、もし、それが実行されていたら…。

軍の公式な記録は、敗戦の過程ですべて焼却隠滅されている。兵士の遺品メモなども米側によって翻訳されているものが米国公文書館などに保管されているだけで現物は遺されていない。

本書は、長く、多くを語ろうとしなかった少年遊撃兵たちの生き証人から、丹念に聞き取りを行ったもので、いわゆるオーラルヒストリーの貴重な記録。

著者は、ジャーナリスト、映画監督。本書は数々の賞を受けたドキュメンタリー映画「沖縄スパイ戦史」には収まりきれなかったのインタビューやその後の証言、膨大な追跡調査などを追加してまとめたもの。

戦争への加担、悲惨な場面の目撃などの立場を問わず、生き証人たちが戦後も長く抱えてきた記憶と心情の吐露、追跡して探し当てた遺族などの生々しい感情など、オーラルヒストリーならではのずしりと重い現実がある。新書とはいいながら700ページを超す大部。一気に読み終えたが、「戦争を知る」ことのずしりと重いものが心の深奥にまで残る。



沖縄スパイ戦史_1.jpg
証言 沖縄スパイ戦史
三上 智恵 著
集英社新書


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