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「音楽の危機」(岡田暁生著)読了 [読書]

コロナ禍のさなかに執筆、刊行され、クラシック音楽の存亡が脅威にさらされているとの危機を訴える。

クラシック音楽のなかでも、大ホールで二千人規模の聴衆が集い、ステージ上には大規模編成のオーケストラと合唱、合わせて二百人余りが所狭しと並んで演奏されるベートーヴェンの「第九」は、もろに「中止」を余儀なくされた。

その「第九」こそは、市民がこぞって密集し、高らかに市民社会の勝利宣言を行う儀式として成立してきたという。密集による同質化・同調化の作用による、産業資本主義による民衆の秩序化と労働力の囲い込みと組織化、集積組み立てのプロセスの時間的工程の完成過程のドラマ化であり、完成完結としての勝利のための祝典であり、そういう近代正統音楽の元祖だと決めつける。コロナ禍が、その構造基盤を直撃しているというわけだ。

果たしてクラシック音楽は、もはや病禍の克服と勝利を祝うことは出来ないのか。近代以来の市民社会の上質な教養としての西洋正統音楽は、もはや、元通りに戻ることはなく、今後、大幅な変質変革を迫られるのだろうか。

前半の、社会史学的な視点から、音楽演奏形態や、それを前提として成立・継続してきたクラシック音楽の分析はなかなか鋭いものがあるし、それ自体はなかなかに面白い。《第九》のような大規模でなおかつ感染対策上もっとも忌避される大合唱を伴う音楽が、特に公演が困難になっていることは確かだと思う。

とはいえ、19世紀末までに限りなく肥大化してきた近代音楽のあり方が問われ出したのは、すでに20世紀前半からあったわけだし、成熟してきた日本のクラシック音楽シーンにおいてもいわゆる現代音楽や室内楽、古楽の人気も浸透し、大ホール・大オーケストラ中心から、中小ホールやサロン的スペースでの公演へと拡散、多様化してきている。著者は、あまりにマルキシズム的な社会史学視点に傾きすぎていないだろうか。

確かに、大衆動員と集団同調化は、産業革命以来の産業資本や市民革命、果ては全体主義の有効な手段であり、ベートーヴェンの「第九」にもアドルノなどの批判はあったが、一方で、「集会の自由」は民主主義の根幹を成す権利であり、結社の自由や団体交渉権などともに、ひとびとの集団形成は基本的な権利防衛の重要な武器となってきたことも忘れてはならないだろう。キリスト教における教会の存在など、宗教史的な視点から見ても、何も近代社会の支配の論理というだけではなく、人類の本質的本能だとさえ言えるかもしれない。

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本書で初めて知ったのは、秋吉台国際芸術村ホールのこと。

イタリアの前衛作曲家ルイジ・ノーノの晩年の大作、オペラ「プロメテオ-聴く悲劇」公演のために、建築家磯崎新が設計し県が67億円を投じて1998年8月にオープンしたという。

客席数は最大で334席。残響時間は2.6秒。多焦点ですべての場所ですべて音の響きが異なっているという。現代音楽の実験的な表現創造活動が可能なホールとして設計されたとのことだが、ひるがえせば伝統的で汎用性のある演奏様式には不適で、人里離れた《芸術村》的な立地も含めて、どこか芸術家気取りの独善的な匂いがしてならない。その非現実性に唖然とする。現に、県は廃止を迫り、毎年2億円近くにのぼる管理運営費をめぐって地元や運営団体と紛議になっているという。

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果たして著者は、この施設のあり方を肯定的にとらえているのかどうかは不明だが、コロナ禍以前の問題として、公共財政のあり方や、その公的支援を巡ってうごめく人々の想像力の貧しさが引き起こしている別の危機が日本にはずっと前からあったのではないかという気さえする。これは何もクラシック音楽に限らない。

いまそこにある危機は、パンデミックが常態化するなかで、どうやって音楽活動を続け、私たち音楽を求める公衆がどこへ行けばその飢餓を充足できるのかということだと思う。そこには音響工学やITなどテクニカルな課題や、感染防止などの感染症衛生学的な知見研究ももちろんのこと、演奏形態の試行などの創造面での工夫も必要だと思う。そういう面でもあらゆるコミュニケーションと実空間を超えた人々の結束が必要なのではないだろうか。著者の視点はあまりにも観念的傍観的で、そういう現実の危機について実効性がない。

本書自体が「不要不急」の書だと思えてならない。


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音楽の危機
《第九》が歌えなくなった日
岡田暁生 著
中公新書
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