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「日蓮」(佐藤賢一著)読了 [読書]

日蓮というと、他宗を痛烈に攻撃し、二度も島流しにされ、それでも屈しなかったひと。元寇の予言や強烈な信仰心と教宣は、攘夷論をはじめ戦前の皇国史観などの国家主義と結びつけられるなど、排外的で攻撃的、侵略的な政治イメージも強い。その宗祖の生涯は、伝記、歌舞伎や浄瑠璃、小説や映画などでさんざん取り上げられてきて、そういうイメージも定着している。

何を今さらという思いもあったし、テーマが宗教だけに危ない気持ちもいっぱいだった。

しかし、読み通してみると、至極真っ当。

日蓮の生涯をそのままにたどっていく。あざとい誇張や脚色もない。一貫して日蓮の法論の形成や問答を通してその宗旨を説いている。かといって堅物でもなく会話が多く読みやすい。とかく硬派になりがちな歴史小説としては、むしろ異色かもしれない。

では、どうなのか?…といえば、これがなかなか成功している。

著者は、もともと中世や近代のヨーロッパを得意とする歴史小説家。以前に読んだ「王妃の離婚」も、フランス王ルイ12世が前王から押しつけられた醜女の王妃との政略結婚を無効と訴え出た、法廷闘争を描いたもの。教会(カノン)法の正義を巡っての法論の闘い。もともとそういう舞台づくりが得意なのだ。

日蓮が強烈に批判した法然の称名念仏は、広く普及したが、もともと天台宗徒から批判され弾圧も受けた。比叡山に上って天台教学を究めた日蓮がそれを批判するのは当然であったし、末法思想にもとづきひたすら来世での救済を念ずる思想は厭世的で頽廃だというのは批判として至極真っ当だとさえ言える。

そういう現世否定の無力感を植えつけ、もっぱら支配と搾取にいそしみ、貧困貧窮を放置する聖俗権力は、確かに批判攻撃されてしかるべきだった。日蓮自身も、二度目の佐渡流刑を通じて、法然のように「易行」を取り入れた信仰のあり方に理解を示すようになる。それはつまりは、ひたすら念仏を唱えるのと同じ形となる。違いは「なんまんだぶ」ではなく「なんみょうほうれんげきょう」ということだ。

元寇の予言も、日蓮は全て経典の説くことを唱えたに過ぎないという。確かに、経典の説くことは「歴史は繰り返す」という経験知であって奇跡や秘蹟ではない。経典に学ぶことで現世の誤謬と迷妄を正すことができる。人々の救済は来世ではなく、今を生きるこの現世にある。それには、まず、現世の権力のあり方を改めることだ。一貫して日蓮はそういう諫言を繰り返す。

かつて宗教と政治は、表裏一体だった。近代国家になって、宗教は権力機能を失い、人権思想に基づく民主主義にとって代わられた。しかし、民主主義はもっぱら個々の権利を主張するが、自らのあり方を省みよとは言わない。

宗教が教えてきた自省自照を喪失した現代社会は、人々の絆と安全安心のよりどころ、共存共生、弱者支援などの根源が問われているのだと思う。



日蓮.jpg

日蓮
佐藤賢一著
新潮社
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