「ペレアスとメリザンド」 (新国立劇場) [コンサート]
五感が融合し統合された「意識」のオペラ。
音楽と演劇、美術が見事に協調し、人間の知覚知能や思考の多層的な深部に分け入っていく。そこから得られる幻想は、どこに真実があるのかも不明で多義的。そのことにオペラという五感の芸術の醍醐味、楽しさを感じさせてくれます。
ドビュッシーの音楽とメーテルリンクの言語には、もともとそういう神秘世界があったのだと思います。そこに演出のケイティ・ミッチェルがさっそうと踏み込んでいく。
オペラ全体は、メリザンドの夢だと想定されています。ウェディングドレスのメリザンドがホテルの一室に登場しくつろぐ。そのメリザンドが夢想する。そこから始まり、終幕にはまたその場面に戻る。まさに一炊の夢。《夢》とは、人間の意識内のあたかも現実の経験であるかのように感じる、一連の幻影。それが夢だとは、夢を見ているうちは気づきませんが、醒めてみると自分が自分を見ていたような、劇中劇――《入れ子》の世界です。
黙り役という別のメリザンドも登場します。
岩波文庫の「対訳 ペレアスとメリザンド」の訳者・杉本秀太郎氏は、解説で『…舞台にかかっているとき、その舞台をしげしげと見守っているペレアス、そしてメリザンドが、客席に紛れている。』『かれらが声もなく坐り、私と同じ方向に視線を放っている。』――そんな情景が見えてくると書いています。
この一致には驚きました。これは偶然でしょうか。この演出では、もう一人のメリザンドはステージ上に限られますが、ペレアスやゴローも本来登場しない場面にもいつの間にか現れてじっと見つめていたり、あるいはメリザンドと絡んだりしたりさえします。そういう「意識」世界の人格の多重性、裏切りとも思えるほどの意識人格の投影反射の繰り返しがメーテルリンクの台本には確かに存在します。
黙り役としては、他にも二人の侍女が登場します。
こちらは、メリザンドの着替え役。棒のように無人格になったメリザンドから衣装をするりと脱がし、下着姿にしてから再びするすると新しい別の衣装を着せる。無人格なメリザンドを操る、黒衣や後見のような役どころは、これも夢という無自覚で他動的な意識の遷移・転移を象徴しています。
歌舞伎の《だんまり》のようにスローモーションになる場面もあります。意識世界における時間軸の伸縮と相対性を現す効果もあり、同時にドビュッシーの音楽の時間軸との同調もあって見事。ケイティ・ミッチェルの音楽の深い読み込みがあればこそ。これも、オペラとして斬新な演出です。
音楽が素晴らしい。
ドビュッシーの音楽は、アリアだとかバレー音楽だとか聴衆におもねった分断がない。ずっと舞台の進行に寄り添って間断なく続いていく。ともすれば無形式なつかみどころのない音楽になりがち。あるいは、いっそ演奏会形式で舞台や演技に向けられる視覚をカットさせないと音楽に集中できない。そういう難しさのあるこの作品が、この演出では見事に視覚と相乗作用を起こす。その音楽の綾の蠱惑的なこと。
ことに《水》のイメージが素晴らしく、庭園の泉(この演出では室内プール)の清新な水のゆらめきと濃緑色に沈む奥底、湿潤な空気感など、音楽を通じて視覚・聴覚以外の五感までもが励起される。
舞台上の水は控えめ。プールの水面は一階席から見えないがさざなみのゆらめきが壁面に映り込む。指環が不意に水に落ちても、あくまでもその雰囲気は音楽にある。繊細で緻密な演出が音楽と協調する。洞窟(演出では地下室)の場面など、「海(“la mer”)」という言葉が発せられるとオーケストラからはあの聴き慣れた交響詩の響きが現れる。それがそう確かに聞こえることに感動を覚えました。
塔の場面も、極めて官能的。現実として長い髪がみるみる伸びて塔の下まで届くというのはあり得ず、あくまでも暗喩だ。「暗闇に、薔薇が見える」「ずっと低いところ」「薔薇なんかじゃない…ちょっと見てこよう」――卑猥な戯れ歌とも取られかねないかもしれないが、それを言葉のままに映像化すればもっと陳腐になる。ドビュッシーの官能性は凄みがありました。
ペレアスとメリザンドが睦み合っているところに、誰かに見られているという不吉な予感の響きがどこからともなく湧き上がる。プールの破れた窓から突然現れるゴローはまるで、ホラー映画『リング』の貞子みたいで震え上がるが、その時に音楽の不吉さは絶頂を迎える。
大野和士は、素晴らしい創造性とリーダーシップで東フィルからそういうドビュッシーの音楽を引き出していた。間断なく続く音楽だからこそ、幕間の転換を待つ沈黙の間合いが活きている。ここにもステージ上の映像とピットの音楽との見事な相乗作用があります。それは、そもそも冒頭の花嫁とホテルの一室の場面で、じっと沈黙して待っていた大野の姿に象徴されています。そういう余白にも神経が行き届いていました。
舞台もよく出来ていた。
全体は二部に分けての上演ですが、場や幕の転換もなめらかで、しかも、夢幻的。箱型の部分ステージを黒い横幕で開閉して、移動転換するというアイデアは初めて見ました。横や上下の移動も視覚意識の遷移にぴったりとはまっています。何よりも音響的にも実によく配慮されたステージです。左手にしばしば登場するらせん階段の縦長のステアケースもよく考えられたアイデア。
何よりも称えたいのは歌手陣。
主役級の3人はいずれもこの役を得意としアクサンプロヴァンスの初演や、その後のこのプロダクションの公演に参加経験があると聞いています。素晴らしい歌唱とともにとてつもなくタフに見える演技を、最後まで緊張感を切らさずに信じられないほど緻密にやりきっている。
性格演技という面では、ゴロー役のローラン・ナウリが出色。粗暴などという表面的なものではなく、深層感情の制御を失った自意識の悲劇を演じて凄みを感じます。日本人歌手がオペラ全体によくはまり、外国人歌手と対等に渡り合っていたことも特筆したいと思います。ベテランの妻屋秀和のアルケルはさすが。イニョルドの九嶋香奈枝は、メゾであれボーイソプラノであれ演技・歌唱がはまりにくいこの役から、オペラ全体のキーとなるメッセージを発しきるところまで到達していて強い印象を受けました。
これだけ完成度の高いプロダクションは、新国立劇場でも久々だと思います。演出補のジル・リコの献身ぶりが大きかったのではないかと思います。コロナ禍を乗り切ったシーズンの掉尾にふさわしい。
新国立劇場
クロード・ドビュッシー 「ペレアスとメリザンド」
2022年7月9日 14:00
東京・初台 新国立劇場 オペラハウス
(1階5列10番)
【指 揮】大野和士
【演 出】ケイティ・ミッチェル
【美 術】リジー・クラッチャン
【衣 裳】クロエ・ランフォード
【照 明】ジェイムズ・ファーンコム
【振 付】ジョセフ・アルフォード
【演出補】ジル・リコ
【舞台監督】髙橋尚史
【ペレアス】ベルナール・リヒター
【メリザンド】カレン・ヴルシュ
【ゴロー】ロラン・ナウリ
【アルケル】妻屋秀和
【ジュヌヴィエーヴ】浜田理恵
【イニョルド】九嶋香奈枝
【医師】河野鉄平
【合唱指揮】冨平恭平
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
音楽と演劇、美術が見事に協調し、人間の知覚知能や思考の多層的な深部に分け入っていく。そこから得られる幻想は、どこに真実があるのかも不明で多義的。そのことにオペラという五感の芸術の醍醐味、楽しさを感じさせてくれます。
ドビュッシーの音楽とメーテルリンクの言語には、もともとそういう神秘世界があったのだと思います。そこに演出のケイティ・ミッチェルがさっそうと踏み込んでいく。
オペラ全体は、メリザンドの夢だと想定されています。ウェディングドレスのメリザンドがホテルの一室に登場しくつろぐ。そのメリザンドが夢想する。そこから始まり、終幕にはまたその場面に戻る。まさに一炊の夢。《夢》とは、人間の意識内のあたかも現実の経験であるかのように感じる、一連の幻影。それが夢だとは、夢を見ているうちは気づきませんが、醒めてみると自分が自分を見ていたような、劇中劇――《入れ子》の世界です。
黙り役という別のメリザンドも登場します。
岩波文庫の「対訳 ペレアスとメリザンド」の訳者・杉本秀太郎氏は、解説で『…舞台にかかっているとき、その舞台をしげしげと見守っているペレアス、そしてメリザンドが、客席に紛れている。』『かれらが声もなく坐り、私と同じ方向に視線を放っている。』――そんな情景が見えてくると書いています。
この一致には驚きました。これは偶然でしょうか。この演出では、もう一人のメリザンドはステージ上に限られますが、ペレアスやゴローも本来登場しない場面にもいつの間にか現れてじっと見つめていたり、あるいはメリザンドと絡んだりしたりさえします。そういう「意識」世界の人格の多重性、裏切りとも思えるほどの意識人格の投影反射の繰り返しがメーテルリンクの台本には確かに存在します。
黙り役としては、他にも二人の侍女が登場します。
こちらは、メリザンドの着替え役。棒のように無人格になったメリザンドから衣装をするりと脱がし、下着姿にしてから再びするすると新しい別の衣装を着せる。無人格なメリザンドを操る、黒衣や後見のような役どころは、これも夢という無自覚で他動的な意識の遷移・転移を象徴しています。
歌舞伎の《だんまり》のようにスローモーションになる場面もあります。意識世界における時間軸の伸縮と相対性を現す効果もあり、同時にドビュッシーの音楽の時間軸との同調もあって見事。ケイティ・ミッチェルの音楽の深い読み込みがあればこそ。これも、オペラとして斬新な演出です。
音楽が素晴らしい。
ドビュッシーの音楽は、アリアだとかバレー音楽だとか聴衆におもねった分断がない。ずっと舞台の進行に寄り添って間断なく続いていく。ともすれば無形式なつかみどころのない音楽になりがち。あるいは、いっそ演奏会形式で舞台や演技に向けられる視覚をカットさせないと音楽に集中できない。そういう難しさのあるこの作品が、この演出では見事に視覚と相乗作用を起こす。その音楽の綾の蠱惑的なこと。
ことに《水》のイメージが素晴らしく、庭園の泉(この演出では室内プール)の清新な水のゆらめきと濃緑色に沈む奥底、湿潤な空気感など、音楽を通じて視覚・聴覚以外の五感までもが励起される。
舞台上の水は控えめ。プールの水面は一階席から見えないがさざなみのゆらめきが壁面に映り込む。指環が不意に水に落ちても、あくまでもその雰囲気は音楽にある。繊細で緻密な演出が音楽と協調する。洞窟(演出では地下室)の場面など、「海(“la mer”)」という言葉が発せられるとオーケストラからはあの聴き慣れた交響詩の響きが現れる。それがそう確かに聞こえることに感動を覚えました。
塔の場面も、極めて官能的。現実として長い髪がみるみる伸びて塔の下まで届くというのはあり得ず、あくまでも暗喩だ。「暗闇に、薔薇が見える」「ずっと低いところ」「薔薇なんかじゃない…ちょっと見てこよう」――卑猥な戯れ歌とも取られかねないかもしれないが、それを言葉のままに映像化すればもっと陳腐になる。ドビュッシーの官能性は凄みがありました。
ペレアスとメリザンドが睦み合っているところに、誰かに見られているという不吉な予感の響きがどこからともなく湧き上がる。プールの破れた窓から突然現れるゴローはまるで、ホラー映画『リング』の貞子みたいで震え上がるが、その時に音楽の不吉さは絶頂を迎える。
大野和士は、素晴らしい創造性とリーダーシップで東フィルからそういうドビュッシーの音楽を引き出していた。間断なく続く音楽だからこそ、幕間の転換を待つ沈黙の間合いが活きている。ここにもステージ上の映像とピットの音楽との見事な相乗作用があります。それは、そもそも冒頭の花嫁とホテルの一室の場面で、じっと沈黙して待っていた大野の姿に象徴されています。そういう余白にも神経が行き届いていました。
舞台もよく出来ていた。
全体は二部に分けての上演ですが、場や幕の転換もなめらかで、しかも、夢幻的。箱型の部分ステージを黒い横幕で開閉して、移動転換するというアイデアは初めて見ました。横や上下の移動も視覚意識の遷移にぴったりとはまっています。何よりも音響的にも実によく配慮されたステージです。左手にしばしば登場するらせん階段の縦長のステアケースもよく考えられたアイデア。
何よりも称えたいのは歌手陣。
主役級の3人はいずれもこの役を得意としアクサンプロヴァンスの初演や、その後のこのプロダクションの公演に参加経験があると聞いています。素晴らしい歌唱とともにとてつもなくタフに見える演技を、最後まで緊張感を切らさずに信じられないほど緻密にやりきっている。
性格演技という面では、ゴロー役のローラン・ナウリが出色。粗暴などという表面的なものではなく、深層感情の制御を失った自意識の悲劇を演じて凄みを感じます。日本人歌手がオペラ全体によくはまり、外国人歌手と対等に渡り合っていたことも特筆したいと思います。ベテランの妻屋秀和のアルケルはさすが。イニョルドの九嶋香奈枝は、メゾであれボーイソプラノであれ演技・歌唱がはまりにくいこの役から、オペラ全体のキーとなるメッセージを発しきるところまで到達していて強い印象を受けました。
これだけ完成度の高いプロダクションは、新国立劇場でも久々だと思います。演出補のジル・リコの献身ぶりが大きかったのではないかと思います。コロナ禍を乗り切ったシーズンの掉尾にふさわしい。
新国立劇場
クロード・ドビュッシー 「ペレアスとメリザンド」
2022年7月9日 14:00
東京・初台 新国立劇場 オペラハウス
(1階5列10番)
【指 揮】大野和士
【演 出】ケイティ・ミッチェル
【美 術】リジー・クラッチャン
【衣 裳】クロエ・ランフォード
【照 明】ジェイムズ・ファーンコム
【振 付】ジョセフ・アルフォード
【演出補】ジル・リコ
【舞台監督】髙橋尚史
【ペレアス】ベルナール・リヒター
【メリザンド】カレン・ヴルシュ
【ゴロー】ロラン・ナウリ
【アルケル】妻屋秀和
【ジュヌヴィエーヴ】浜田理恵
【イニョルド】九嶋香奈枝
【医師】河野鉄平
【合唱指揮】冨平恭平
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団
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