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「山本五十六」(相澤 淳 著) 読了 [読書]

従来の《山本五十六》観からすれば異端の書。

山本五十六を英雄視することに長年違和感を持ち続けてきた。本書を読んでその胸のつかえが下りた。

「戦争に反対しながらも、自ら対米戦争の火ぶたを切らざるを得なかった」という山本像は、1965年に出版されベストセラーとなった阿川弘之の伝記が定着させた。そうやって山本を悲劇の英雄視する見方は、現在に至るも、広く、しかも、堅固に共有されている。

しかし、山本は対米開戦の最大の立役者だ。戦後になって対米戦争反対者だったというのはどこかおかしい。同じように、戦後長い間、海軍善玉論が信じられてきたが、海軍こそが国力を無視した無謀な対英米戦争へ主導した張本人。そういう海軍の再評価と山本の再評価は表裏を一体にしている。

そもそも日本帝国海軍は、日露戦争後、一貫してアメリカを仮想敵国としてきた。若き山本が遠洋練習航海で初めて訪れたアメリカは日本を脅威とみなし排日熱で湧き上がっていた。山本自身がそういうアメリカへの敵愾心をたぎらせている。米国駐在の体験でもそれは変わらなかった。開明的な親米家というのは作られた神話に過ぎない。

米国仮想敵の海軍が憤激したのは軍縮だった。主力艦劣勢の比率で押し切られたワシントン軍縮で海軍は大きな挫折を味わう。その劣勢を巻き返すためのロンドン軍縮会議に山本も海軍随員として参加するが、再び大きな挫折を受ける。以降、山本の軍略上の執念は、いかに艦艇劣勢を覆しアメリカに勝つかということに集中する。

そのことが、大艦巨砲主義の愚を説き、航空戦略の充実拡張を説く進取的な合理主義者山本像の本質だったといえる。航空戦力によりアメリカ艦隊への一撃で、制海権で有利に立つ、「対米開戦時にはまず真珠湾を攻撃すべし」とは、早くから山本が口にしていたことであり、それがあの鉄砲玉的な「真珠湾攻撃」につながる。

南洋島嶼地域の制海権を、艦隊によって押さえるというのではなく、航空戦力に依るという新たな《制空権》という発想を得たのもそうした戦略の一環にある。山本の独創性は、その制空権の根拠を、航空母艦ではなく島嶼各所に設置する陸上基地からの陸上攻撃機の充実に求めたことだ。

しかし、そうした航空戦力優位の戦略発想は、山本が駐在武官時代にアメリカで学んだものだった。山本は、艦艇優位におごるアメリカの油断の機先を制することをめざし航空戦力構築に軍備予算集中を説くが、艦隊主義派との間で結局は両論併記的な妥協に屈することになる。真珠湾攻撃やマレー沖海戦の戦果は、むしろアメリカという寝た子を起こすことになった。結局は国力の差はいかんともしがたい。「1年か1年半は大いに暴れてみせる」と山本は言ったが、それは航空戦力構築がいまだ道半ばだということを吐露したに過ぎない。開戦半年後早くもミッドウェー海戦で航空艦隊は壊滅し、ガダルカナル撤退まで1年しか持たなかった。

山本や海軍の善玉論の雰囲気は、日独伊軍事協定に反対した、米内光政(海軍大臣)、山本(同次官)、井上成美(同軍務局長)のいわゆる《海軍トリオ》によって醸し出された。しかし、これは陸海両軍の派閥抗争であり、対ソ戦への危惧と資源を求めての南進論という海軍全体の主張を背負って立っていたに過ぎない。その海軍も米国の経済制裁の代償としてドイツと関係強化に傾いていく。ナチドイツの軍事技術との連携を進めたのも山本だった。

阿川弘之のいわゆる海軍三部作は、この《海軍トリオ》の伝記だったが、その劈頭を飾りベストセラーとなった『山本五十六』には、個人的にどこかもどかしさが残った。むしろ、『井上成美』には心底から開戦に反対だった海軍軍人の意地を感じ取り、戦後の身の処し方にも爽やかな読後感が残った。山本ではない。

山本が維新で敗残した長岡藩の出身で、黒船のペリーやアメリカの強圧を幼少期からずっと敵視していたというのは、いささか脚色に過ぎるとは思いつつも、本書の山本評価見直し論は大いに賛同する。そういう見直しが、国民の好戦的防衛論や一撃必殺の博打的な楽観を戒め、国の安全保障とは何かということを沈着冷静に思考することにつながると思うからだ。




山本五十六.jpg

山本五十六
アメリカの敵となった男
相澤 淳 (著)
中公選書
タグ:山本五十六
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