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「白鶴亮翔」(多和田葉子 著)読了 [読書]

ドイツで一人暮らす日本人女性の何気ない身の回りの隣人たちとの日常の交流を綴ったエッセイ風の私小説。

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作者の多和田葉子さんは、大学を卒業後、およそ40年にわたってベルリンで暮らしていて、日本語とドイツ語の二つの言語で小説の執筆を行っていて、作品は多くの言語に翻訳され紹介されている。だから、よけいにそのように見える。

…が、読み進めるほどに、そうではないとわかる。軽快なさりげない文章は、それでいて実に巧みで読みやすく、しかもリアルで含蓄や示唆に富んでいる。

主人公・美砂は、ふとしたことから太極拳スクールに参加します。ベルリンで東北(旧・満州)出身の中国人に習う。生徒たちは、南アメリカ人のカップル、ロシア人、イギリスの大学を出たフィリピン人と出自は様々。

美砂は、ドイツ文学研究の夫の留学に伴ってドイツに来たけれども、夫の帰国には従わずドイツに残る。ベルリンに定住している美砂の周囲の登場人物もほとんどがドイツ人以外の異国人。

ドイツ人と言えるのは、女友達のスージーと隣人のMさんぐらいのもの。そのMさんも、戦後に東プロイセンから移住してきた故郷追放者。Mさんというのは、最初の自己紹介で名前を聞き取りそびれ、かろうじて聞こえたイニシャルで呼んでいる。ドイツ人といっても微妙で希薄。

Mさんとの会話を重ねていくうちに、そういう異邦人たちがそれぞれに抱えるものが次第ににじみ出てくる。主人公が手すさびに翻訳するクライストの短編「ロカルノの女乞食」や、映画「楢山節考」や谷崎潤一郎などの古典的名作が、無理解や差別、分断や復しゅうの暗喩となって不吉さを醸し出す。一見、軽やかに進む文章の生地をこういう縦横の糸がびっしりと裏打ちして揺るがない。

過去の歴史や体験を背負う異邦の男女は、分断よりも互いに関わり合うことで優しく温和になれる。別れた夫は、美砂がドイツで見違えるように活発になって社交の場に溶け込むことをよく思わなかった。「発音だけはいいね」とそういう妻をくさすようなことを口にする。自分は壁に重たく張り付いているくせに、家に帰るとあれこれと饒舌になる。

白鶴亮翅(はっかくりょうし)とは、太極拳の型のひとつ。前後に両腕を真っ直ぐに広げる姿態が、翼を広げる鶴のようになる。太極拳は、呼吸を整え身体的なバランスと健康を得るものだが、基本は武術であるという。白鶴亮翅は、前方だけでなく後方からの敵にも即座に反応できる形だという。

この白鶴亮翔が、ドストエフスキー「罪と罰」と結びつき、見事なまでのエンディングとなる。

ロシア人女性アリョーシャは、成金未亡人で若いベンチャーに投資している。金を貸し与えている若い燕に不意に背後から襲われるが、習い憶えた白鶴亮翔のおかげで襲撃をとっさに避けることができた。「罪と罰」は、青年ラスコーリニコフが殺人の罪を犯すところから始まる。殺した高利貸しの老婆の名前がアリョーシャだったのです。この小説では、青年の罪を未然に防ぐことで終結となるというわけです。

もともとは朝日新聞に連載されたもの。その連載開始がロシアによるウクライナ侵攻と同時だったというのは決して偶然ではないだろうと思います。そこに作者の並々ならぬ洞察力を改めて感じるのです。

村上春樹にノーベル賞を期待する向きには気の毒だけれど、いずれは、多くの人がこの人の作品を慌てて読むことになるかもしれません。そうならないためにも、この最新作をおすすめします。



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白鶴亮翅(はっかくりょうし)
多和田葉子 著
朝日新聞出版
2023/5/8 新刊
タグ:多和田葉子
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