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「憲法とは国家権力への国民からの命令である」(小室直樹著)読了 [読書]

小室直樹の憲法論。さすがだと思う。

論点が明確。問題点に的確にスポットライトが当てられ、指摘も明瞭。その論議にはひとつひとつ共感を覚える。現憲法を論ずるにあたっては、その是非の論議はともかく、これぐらいのことは論点として必ず知っておくべきことがここには明瞭に網羅されている。

博覧強記の著者だけに話しとしては多岐にわたる。教育論や官僚批判は、憲法論議からは一見逸脱気味に思えるが、論議の根幹は骨太で明快だ。

では、小室直樹の憲法論はどういうものか。

憲法が説いているのは、国は国民を守るということ。国民の人権を守るためには軍備が欠かせず、軍隊は国民の人権を守るためにある。戦力の保持は、戦争放棄という平和主義の理想よりも優先しているということ。

ところが『平和憲法』がどうの、自衛権がどうのと不毛の議論ばかりが続き、一方で国民の生命や自由を守るという根本使命を国政が果たしていないことには目が向けられていない。自衛隊が鬼っ子のように扱われ、行動その他のあらゆる制約が課せられ実行力が削がれているのは、そういう憲法が定める人権と国政が負う責務に対する無知・無関心のためだということ。

国民がそういうことに気づかず、官僚が劣化し、政治家が憲法違反状態を放置するのは戦後教育が原因だという。

要するに、第九条は戦勝国アメリカによって日本の軍備を無力化する目的で設けられたもの。それは、二次にわたる世界戦争に至った要因が何だったかということにある。敗戦国の愛国心、屈辱感から生ずる復讐心と報復願望に対する強い反省と恐怖があったからだ。

そのことは、軍備制限にとどまらず、国民の意識を醸成する教育にも及ぶ。戦後の教育制度・教育思想は徹底的に平和主義、国際宥和に塗り固められたというわけだ。

小室の非凡なところは、それを「アメリカ陰謀論」や「自虐史観」などの常套的俗論に貶めることをしないことだ。「押しつけ憲法」とはいっても、決して国民の基本的人権を擁護すべしという自由主義憲法を否定しているわけではない。問題は、むしろ、日本人がそういうことに無知で憲法を尊重せず、それが遵守されないままに違憲状態を放置していることだ。そういう嘆かわしい現状こそが大問題だというわけだ。

今の官僚制の劣化は、中国清末の科挙制度の堕落に酷似するとの指摘はまったくその通りだと思う。大作家・魯迅は、劣化した科挙制度の内実を繰り返し指摘し痛烈に批判していた。アメリカのジャクソン大統領が、政権交代に従って行政官僚を入れ替える「スポイルズ・システム」の創始者だとの指摘は目からウロコだった。その他、そういう小室ならではの炯眼洞察は、枚挙にいとまがない。


もちろん、読後の論議として、疑問がないわけではない。

階級・階層の喪失と平準化が、教育を同質化させ、ひいては官僚倫理を劣化させたとの指摘はわかるが、そうはいってもエリートや社会階層の復活にはならないだろう。フランスもついに国立行政学院(ENA)は廃止するという。では、具体的にどうするのか?

憲法はあくまでも慣習法だという。しかし、それが、制定憲法に反する既成事実が一定期間継続すればそれが新たな憲法規範となって事実上の憲法改廃になる、という主張ならば違うと思う。

戦前の歴史から蛇蝎のように嫌われる「統帥権」と、逆に万能の魔法の杖のように言われる「シビリアンコントロール(文民統制)は、実は同じことで本質の表裏に過ぎないというのも暴論だと思う。

統帥権干犯は叫ばれだしたのは、ワシントン条約の軍縮を巡ってだった。明治憲法では、「統帥権」は単なる軍事指揮権のみならず、軍備予算、兵備編成に及ぶ。「天皇は陸海軍の編成及び常備兵額を定む」(明治憲法第12条)というわけだ。国家予算であっても軍事予算だけは軍人の勝手。そういう欠陥があったからこそ、軍部の暴走が始まり急速に軍国主義へと傾いていく。明治から大正にかけて日本の軍隊は、一定の健全な統制がなされていた。それが、急に失われたのは明治憲法が、もともとそのように制定されていたからだ。憲法は決して慣習によって改廃されるわけではない。


憲法は、自らは何もしない。

国民が、自ら憲法規範を明定・明示し、それに照らして国政、立法の合憲違憲を問わない限りは、憲法は声すらも発しない。ましてや正義の憲法というものが天から降ってくるわけでもない。

小室はそういうことが言いたいのだと思う。





憲法とは_1.jpg


憲法とは国家権力への国民からの命令である
小室 直樹 著
ビジネス社


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