「ごまかさないクラシック音楽」(岡田暁生 片山杜秀 共著)読了 [読書]
標題の「ごまかさない」とはどういう意味だろうか?
対談のひとり、岡田暁生氏は『はじめに』でこう語っています。
――興味を持ち始めたころ抱いた疑問は、後から振り返ってもしばしばことの核心をついている。だが納得できる答えを誰も与えてくれない――
クラシック音楽にまつわる、こうした5歳のチコちゃんの疑問を「ごまかさず」に真正面から向かい合って、本音で話し合おうというのがこの対談の趣旨であるというわけだ。
岡田氏は、これからの音楽のあり方に懐疑的な音楽史学者。一方の片山氏は、現代音楽や現代聴衆の社会政治的背景の虚実を追求してきた政治学者。互いに、クラシック音楽と呼ばれるジャンルを熱烈に愛しながらも、かなりシニカルな言辞を投げつける音楽評論家…ということでは共通しています。
一方で、バッハ、ベートーヴェンを核心とする《クラシック》の本流から、それ以前の時代の源流へとその根源をアカデミックに探訪しようとする岡田氏と、むしろ下流側の現代へと、記憶の生々しい社会事象や個人的体験に結びつけてマニアックに問いかけるクラヲタの片山氏とは、まるで音楽的嗜好も思想的志向も違っていて対立的。
前半は、その上流の音楽史であって岡田氏が主導する。とはいえ、そもそも《クラシック音楽》というものは、大正・昭和の教養主義、スノッビズムであろうと、平成・令和の軽薄短小の同調主義であろうと、その愛好家が安易に考えているような「音楽は世界の共通語」「人類みな兄弟」的なお花畑ではない…ということで妙に二人の平仄は合ってしまう。
がぜん面白くなるのは、近現代に話題が下ってくる後半。主導権は次第に片山氏へと移るわけだが、二人とも、近代資本主義や二十世紀の全体主義、戦後の冷戦時代の現実が芸術全体に落としたどす黒い影は熟知しているから、クラシック音楽の背景に潜んでいる自由主義と全体主義という政治イデオロギー対立ということでは一致する。そうした後ろ暗い陰の世界を暴き立ててばっさりと裁ち切るところで意気投合するところが面白い。
今や、自由主義的民主主義も行き詰まっていているから、さすがにクラシック音楽好きといえども、西洋正統音楽こそが唯一にして純真無垢な正義の哲人であって、グローバルな世界の善良なる文化だとは、素直に信じ切れなくなっているはずだ。
「クラシック音楽は死んだ("Musik ist tot")」
そんなところが二人の意気投合の帰結であるように思う。
だから、本書は決して《入門書》ではない。「5歳…(実はン十歳)の疑問」に答えるということでは、相当のクラシック上級者向け。
読者のほうこそ、果たしてどこまで、自分をごまかさないで受け入れることができるか?
ごまかさないクラシック音楽
岡田 暁生 (著), 片山 杜秀 (著)
新潮選書
2023/5/25 発刊
対談のひとり、岡田暁生氏は『はじめに』でこう語っています。
――興味を持ち始めたころ抱いた疑問は、後から振り返ってもしばしばことの核心をついている。だが納得できる答えを誰も与えてくれない――
クラシック音楽にまつわる、こうした5歳のチコちゃんの疑問を「ごまかさず」に真正面から向かい合って、本音で話し合おうというのがこの対談の趣旨であるというわけだ。
岡田氏は、これからの音楽のあり方に懐疑的な音楽史学者。一方の片山氏は、現代音楽や現代聴衆の社会政治的背景の虚実を追求してきた政治学者。互いに、クラシック音楽と呼ばれるジャンルを熱烈に愛しながらも、かなりシニカルな言辞を投げつける音楽評論家…ということでは共通しています。
一方で、バッハ、ベートーヴェンを核心とする《クラシック》の本流から、それ以前の時代の源流へとその根源をアカデミックに探訪しようとする岡田氏と、むしろ下流側の現代へと、記憶の生々しい社会事象や個人的体験に結びつけてマニアックに問いかけるクラヲタの片山氏とは、まるで音楽的嗜好も思想的志向も違っていて対立的。
前半は、その上流の音楽史であって岡田氏が主導する。とはいえ、そもそも《クラシック音楽》というものは、大正・昭和の教養主義、スノッビズムであろうと、平成・令和の軽薄短小の同調主義であろうと、その愛好家が安易に考えているような「音楽は世界の共通語」「人類みな兄弟」的なお花畑ではない…ということで妙に二人の平仄は合ってしまう。
がぜん面白くなるのは、近現代に話題が下ってくる後半。主導権は次第に片山氏へと移るわけだが、二人とも、近代資本主義や二十世紀の全体主義、戦後の冷戦時代の現実が芸術全体に落としたどす黒い影は熟知しているから、クラシック音楽の背景に潜んでいる自由主義と全体主義という政治イデオロギー対立ということでは一致する。そうした後ろ暗い陰の世界を暴き立ててばっさりと裁ち切るところで意気投合するところが面白い。
今や、自由主義的民主主義も行き詰まっていているから、さすがにクラシック音楽好きといえども、西洋正統音楽こそが唯一にして純真無垢な正義の哲人であって、グローバルな世界の善良なる文化だとは、素直に信じ切れなくなっているはずだ。
「クラシック音楽は死んだ("Musik ist tot")」
そんなところが二人の意気投合の帰結であるように思う。
だから、本書は決して《入門書》ではない。「5歳…(実はン十歳)の疑問」に答えるということでは、相当のクラシック上級者向け。
読者のほうこそ、果たしてどこまで、自分をごまかさないで受け入れることができるか?
ごまかさないクラシック音楽
岡田 暁生 (著), 片山 杜秀 (著)
新潮選書
2023/5/25 発刊
横須賀のtraneshepp会さん宅をお訪ねしました [オーディオ]
横須賀のtraneshepp会さん宅をお訪ねしました。
ヴィンテージ機器を、入念にリファインされたセッティングとラインアップで現代的なサウンドで鳴らしておられる。その朗々たる鳴りっぷりは見事としか言いようがありません。
中でも目を引くのが、50年代の名器パトリシアン。
聴かせていただいのが、ジョージ・セル/クリーヴランド管の名録音・名演奏であるコダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」。
これを取り出したのは、CBS/SONYが標榜した“SX68SOUND”盤だったから。 当時の最新鋭のノイマン製のカッティングヘッドを使用していて、レコード会社として創業まもないSONYは、その技術力を誇示していました。そういうスペックを争ういわゆるオーディオ時代の幕開けでした。
五味康祐は「このノイマンSX68が音をきたなくした。これを褒めるやからは舌をかんで、死ね」とどこかで書いているのだそうです。この話しを蒸し返したら、これまた某氏から“SX68”のことを散々に言われてしまいました。「舌を噛めとまでは言わないが、米国コロンビア盤に較べると酷すぎる。即刻、処分した」との言い分。
それで、このパトリシアンを見てふつふつと血が騒ぎ、勇んで取り出してかけていただいたというわけですが、聴いてみると目も醒めんばかりの、広帯域、広ダイナミックレンジ。さすがにアナログの充実期の録音だと感嘆するばかりです。
何よりもヴァイオリンの強奏の高音が容赦なく、かつ、伸びやかに捉えられている。これは実にアメリカならではのオーケストラであって、シカゴ響と双璧。1800席の大ホールで強力な金管楽器軍団と渡り合える筋肉質の弦パートの真骨頂。ffのユニゾンでメロディを奏でるところの純音の美しさは、残響にまみれた1000席ほどのホールに甘やかされたヨーロッパの楽団には到底到達不可能の技術的境地でした。
巷間言われるような「高域寄り」ではまったくなく、冒頭の「大くしゃみ」の後の、ティンパニとピアノ低音のトレモロに低弦が加わるppの部分などローエンドにも凄味があります。
このグランカッサが床を揺るがすのにたじろいだのか、TさんがあわててSOULENOTEのローカットのスイッチをON。まさかとは思うけど希少なユニットを壊されてはたまらん…とTさんが苦笑します。
「ウィーンの音楽時計」のチューブラーベルやシンバルなどの鳴り物の胸のすくようなキレのあるパーカッションは壮絶ともいうべきサウンド。 一番の聴きどころは、第5曲の「間奏曲」でしょう。とにかく土臭く濃密な弦楽合奏と民俗楽器のツィンバロムの絡みには胸をかきむしられるような郷愁を感じます。弦の濃厚な響きの中にツィンバロムのオリエンタルな響きが決して埋もれることもない。しかも決して音量バランスに誇張や強調がないところが凄い。この時代には考えられなかった分解能の高さです。
カッティングアンプは、SX68MARK-IIになって、SONY得意の半導体の低歪率・大出力アンプになりました。このCBS-EPIC録音チーム高音質マスターを得て、SONYのカッティングエンジニアたちは快哉を叫んだのではないでしょうか。
そういう創業間もない頃のCBS/SONYの技術的に尖っていた部分は、次第に丸くなっていき、レーベルが青白ではなくなって“SX68”“SX72”“360°SOUND”といったキャッチが消え失せると、すっかりおとなしくなってしまったのは残念です。
だから"SX68"といったロゴとそのサウンドこそが、この時代の心意気そのものなのです。 鳴らすもので鳴らせば、がぜん本領を発揮する。
それこそ「これを貶すやからは舌をかんで、死ね」です(笑)。
ヴィンテージ機器を、入念にリファインされたセッティングとラインアップで現代的なサウンドで鳴らしておられる。その朗々たる鳴りっぷりは見事としか言いようがありません。
中でも目を引くのが、50年代の名器パトリシアン。
聴かせていただいのが、ジョージ・セル/クリーヴランド管の名録音・名演奏であるコダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」。
これを取り出したのは、CBS/SONYが標榜した“SX68SOUND”盤だったから。 当時の最新鋭のノイマン製のカッティングヘッドを使用していて、レコード会社として創業まもないSONYは、その技術力を誇示していました。そういうスペックを争ういわゆるオーディオ時代の幕開けでした。
五味康祐は「このノイマンSX68が音をきたなくした。これを褒めるやからは舌をかんで、死ね」とどこかで書いているのだそうです。この話しを蒸し返したら、これまた某氏から“SX68”のことを散々に言われてしまいました。「舌を噛めとまでは言わないが、米国コロンビア盤に較べると酷すぎる。即刻、処分した」との言い分。
それで、このパトリシアンを見てふつふつと血が騒ぎ、勇んで取り出してかけていただいたというわけですが、聴いてみると目も醒めんばかりの、広帯域、広ダイナミックレンジ。さすがにアナログの充実期の録音だと感嘆するばかりです。
何よりもヴァイオリンの強奏の高音が容赦なく、かつ、伸びやかに捉えられている。これは実にアメリカならではのオーケストラであって、シカゴ響と双璧。1800席の大ホールで強力な金管楽器軍団と渡り合える筋肉質の弦パートの真骨頂。ffのユニゾンでメロディを奏でるところの純音の美しさは、残響にまみれた1000席ほどのホールに甘やかされたヨーロッパの楽団には到底到達不可能の技術的境地でした。
巷間言われるような「高域寄り」ではまったくなく、冒頭の「大くしゃみ」の後の、ティンパニとピアノ低音のトレモロに低弦が加わるppの部分などローエンドにも凄味があります。
このグランカッサが床を揺るがすのにたじろいだのか、TさんがあわててSOULENOTEのローカットのスイッチをON。まさかとは思うけど希少なユニットを壊されてはたまらん…とTさんが苦笑します。
「ウィーンの音楽時計」のチューブラーベルやシンバルなどの鳴り物の胸のすくようなキレのあるパーカッションは壮絶ともいうべきサウンド。 一番の聴きどころは、第5曲の「間奏曲」でしょう。とにかく土臭く濃密な弦楽合奏と民俗楽器のツィンバロムの絡みには胸をかきむしられるような郷愁を感じます。弦の濃厚な響きの中にツィンバロムのオリエンタルな響きが決して埋もれることもない。しかも決して音量バランスに誇張や強調がないところが凄い。この時代には考えられなかった分解能の高さです。
カッティングアンプは、SX68MARK-IIになって、SONY得意の半導体の低歪率・大出力アンプになりました。このCBS-EPIC録音チーム高音質マスターを得て、SONYのカッティングエンジニアたちは快哉を叫んだのではないでしょうか。
そういう創業間もない頃のCBS/SONYの技術的に尖っていた部分は、次第に丸くなっていき、レーベルが青白ではなくなって“SX68”“SX72”“360°SOUND”といったキャッチが消え失せると、すっかりおとなしくなってしまったのは残念です。
だから"SX68"といったロゴとそのサウンドこそが、この時代の心意気そのものなのです。 鳴らすもので鳴らせば、がぜん本領を発揮する。
それこそ「これを貶すやからは舌をかんで、死ね」です(笑)。
「アルツハイマー病研究、失敗の構造」(カール・ヘラップ 著)読了 [読書]
エーザイのアルツハイマー病の新薬「レカネマブ(商品名レケンビ)」が保険適用となり、認知症治療薬として投与が開始されたことが大きなニュースととなっている。
果たしてそれは《認知症》の治療や予防に決定的なものなのか?
高齢社会では膨大な数の認知症の要介護者を抱えている。高額な薬価への保険適用は、医療保険の財政の破綻を招かないのか?。介護支援と医療保険とどう折り合いをつけるのか?そうした懸念や疑問、批判の声が各方面から上がっている。保険適用は、社会全体から見れば、決してめでたいことではない。
本書は、アルツハイマー病研究を失敗だと断じ、その裏の事情を暴露し痛烈に批判している。
そもそも「レカネマブ」は万能の特効薬ではない。そのためにこれまで膨大な人材と研究資源が消尽され、その開発のために莫大な資金がつぎ込まれてきた。――それはなぜか?
「アルツハイマー病」とは、そもそもどんな病気か?
皆さんは、「アルツハイマー」と聞いて、すぐに思い浮かべる病状はどんなものだろうか。おおよそ次の3つから選んでみて下さい。(別に正解を問うテストではないのでお気軽にお答えください)
1.時間をかけて徐々に記憶力の障害が進行し、知的能力が損なわれ人格さえ変わってしまう恐ろしい脳の奇病。
2.脳に異常な物質が徐々に蓄積していき、脳組織が破壊されていくことによって引き起こされる重度の進行性認知障害。
3.高齢化によって認知障害が進み、痴ほう化が現れ、生活や家族関係など各方面に深刻な支障を生ずる、重度の老人性痴呆症。
さて、皆さんの答えはいかがでしょうか?おそらくほとんどの方が3.だと思われているのではないでしょうか。実際、かつての「痴呆症」とか「老人ボケ」といった言葉を「アルツハイマー」と冗談半分にせよ言い換えてしまうことは今やごくごく日常的なことになっていると思う。
私の世代では、2.だと思い込んでいる人も多い。私が「アルツハイマー」のことを知ったのは90年代初めごろ。当時、それが盛んに話題となったのは原因不明のこの認知障害の病の原因が解明されたと報じられたから。《異常な物質》とは、タンパク質の一種で「アミロイド(β)」と呼ばれるもの。それがなぜ蓄積されるかについては諸説あって、まだまだ謎だった。
歴史的には、1.が正しい。病名は、この新しい疾患を発見したドイツ人医師の名前にちなむ。アルツハイマーは、精神科医だが脳の解剖学研究にも興味を持ち、ひとりの患者の脳組織を顕微鏡で観察しその特異な病巣を発見した。長年、あくまでも「奇病」であって、希にしか発生しない病状だと見なされていた。
「アルツハイマー病」研究が拡がるのは、むしろ戦後のこと。寿命が延び、高齢化社会が進展するにつれ、身体的には頑健であっても認知の点で問題のある老人が増えてきた。有吉佐和子の『恍惚の人』がベストセラーになったのは1972年のことだった。その老人性認知症の症状は、「アルツハイマー病」とほとんど同じだった。かくて「アルツハイマー病」はまれに見る悲惨な奇病からありふれた認知症へと変貌する。3.が、現在の一般的な受け止めだと言ってよい。
つまり、1.も2.も3.も全て正解ということになる。時とともに「奇病」は、希に見る病気から、遺伝性も疑われる多発性の病気となり、今や誰もが避けることのできない老齢化に伴う症状として世の人々の恐怖心を煽っている。
しかし、「奇病」のそもそもの特異性とされた脳細胞構造の病巣にみられた異物がやがて脳病理学の進展によって「アミロイドβ」と特定されたことは画期的であったし、それが画像診断の進化によって老人性認知症患者にも共通して見られることもわかってきた。やがてこれがあたかも全ての痴呆症の病因であるかのような前提が学会に蔓延する。すなわち「アミロイドの蓄積がアルツハイマー型認知症を発症させる」という、いわゆる「アミロイドカスケード」仮説である。
著者によれば、実際のところはアミロイドが溜まるから認知症になるかどうかはわからないという。蓄積しても認知症になっていない人はいくらでもいるし、蓄積は80歳を超えると3分の1か、それ以上の半分近くにもなる。つまり、蓄積は老化の結果であって、それは認知症の原因とは見なされない。認知症が老化の結果なら、そのメカニズムは複雑で何が根本的な原因なのかは不明なのだ。
しかし、医学界も大学などの公的研究機関も、やがて「アミロイドカスケード」仮説に邁進することになる。アミロイド以外に病理を求める基礎研究はことごとく排除され研究費がつかない。製薬会社は、アミロイドを抑制する抗アミロイド薬の開発に躍起になる。その裏付けを構築するために、化学者ばかりでなく統計学者も動員され、複雑で怪しげな統計学的・疫学的見解がまかり通ることになる。
抗アミロイド薬によってアミロイド蓄積が抑制されても、認知症が治るわけではない。期待できるのは、最大限、その進行が止まることである。しかも、「アミロイド」原因説が仮説である以上、進行がとまるかどうかもわからない。最低限、患者にアミロイド蓄積があると診断されない限りは、投与することさえ意味がない。
一方で、高齢化による介護ニーズは高まるばかり。患者自身ばかりだけでなく家族の不安も高まる一方だ。《期待の新薬》に殺到するのは医者だけではない。誰だって、何とかしたいとすがりつきたくなる。
その費用は人・年あたり3百万円を超えるという。不可逆的な進行性の病気だから投与は死ぬまで続く。製薬会社の株価は高騰するかもしれないが、保険財政は破綻するかもしれない。その前に介護費用の負担との取り合いも問題になる。アミロイド蓄積が所見されることを前提にしてある程度の壁を設けるにしても、それ自体に時間と費用がかかることになる。
著者は、「では、ここからどうする?」としていくつもの提言を述べている。正直言って、医学界や基礎研究体制などの政治的裏事情はわからない。だから著者の主張はなかなかに読み取ることが難しい。要するに、「アミロイドカスケード」仮説一本やりはやめろということなんだろう。老人性認知症の研究は、時間をかけてじっくり取り組むべきだということ。
私たちは、老人性認知症に対して医学的医療だけに過度に頼ろうとせずに、社会全体で向き合うべきなんだと思う。
アルツハイマー病研究、失敗の構造
カール・ヘラップ (著)
梶山あゆみ (翻訳)
みすず書房
2023年8月初刊 2023年11月20日第3刷
果たしてそれは《認知症》の治療や予防に決定的なものなのか?
高齢社会では膨大な数の認知症の要介護者を抱えている。高額な薬価への保険適用は、医療保険の財政の破綻を招かないのか?。介護支援と医療保険とどう折り合いをつけるのか?そうした懸念や疑問、批判の声が各方面から上がっている。保険適用は、社会全体から見れば、決してめでたいことではない。
本書は、アルツハイマー病研究を失敗だと断じ、その裏の事情を暴露し痛烈に批判している。
そもそも「レカネマブ」は万能の特効薬ではない。そのためにこれまで膨大な人材と研究資源が消尽され、その開発のために莫大な資金がつぎ込まれてきた。――それはなぜか?
「アルツハイマー病」とは、そもそもどんな病気か?
皆さんは、「アルツハイマー」と聞いて、すぐに思い浮かべる病状はどんなものだろうか。おおよそ次の3つから選んでみて下さい。(別に正解を問うテストではないのでお気軽にお答えください)
1.時間をかけて徐々に記憶力の障害が進行し、知的能力が損なわれ人格さえ変わってしまう恐ろしい脳の奇病。
2.脳に異常な物質が徐々に蓄積していき、脳組織が破壊されていくことによって引き起こされる重度の進行性認知障害。
3.高齢化によって認知障害が進み、痴ほう化が現れ、生活や家族関係など各方面に深刻な支障を生ずる、重度の老人性痴呆症。
さて、皆さんの答えはいかがでしょうか?おそらくほとんどの方が3.だと思われているのではないでしょうか。実際、かつての「痴呆症」とか「老人ボケ」といった言葉を「アルツハイマー」と冗談半分にせよ言い換えてしまうことは今やごくごく日常的なことになっていると思う。
私の世代では、2.だと思い込んでいる人も多い。私が「アルツハイマー」のことを知ったのは90年代初めごろ。当時、それが盛んに話題となったのは原因不明のこの認知障害の病の原因が解明されたと報じられたから。《異常な物質》とは、タンパク質の一種で「アミロイド(β)」と呼ばれるもの。それがなぜ蓄積されるかについては諸説あって、まだまだ謎だった。
歴史的には、1.が正しい。病名は、この新しい疾患を発見したドイツ人医師の名前にちなむ。アルツハイマーは、精神科医だが脳の解剖学研究にも興味を持ち、ひとりの患者の脳組織を顕微鏡で観察しその特異な病巣を発見した。長年、あくまでも「奇病」であって、希にしか発生しない病状だと見なされていた。
「アルツハイマー病」研究が拡がるのは、むしろ戦後のこと。寿命が延び、高齢化社会が進展するにつれ、身体的には頑健であっても認知の点で問題のある老人が増えてきた。有吉佐和子の『恍惚の人』がベストセラーになったのは1972年のことだった。その老人性認知症の症状は、「アルツハイマー病」とほとんど同じだった。かくて「アルツハイマー病」はまれに見る悲惨な奇病からありふれた認知症へと変貌する。3.が、現在の一般的な受け止めだと言ってよい。
つまり、1.も2.も3.も全て正解ということになる。時とともに「奇病」は、希に見る病気から、遺伝性も疑われる多発性の病気となり、今や誰もが避けることのできない老齢化に伴う症状として世の人々の恐怖心を煽っている。
しかし、「奇病」のそもそもの特異性とされた脳細胞構造の病巣にみられた異物がやがて脳病理学の進展によって「アミロイドβ」と特定されたことは画期的であったし、それが画像診断の進化によって老人性認知症患者にも共通して見られることもわかってきた。やがてこれがあたかも全ての痴呆症の病因であるかのような前提が学会に蔓延する。すなわち「アミロイドの蓄積がアルツハイマー型認知症を発症させる」という、いわゆる「アミロイドカスケード」仮説である。
著者によれば、実際のところはアミロイドが溜まるから認知症になるかどうかはわからないという。蓄積しても認知症になっていない人はいくらでもいるし、蓄積は80歳を超えると3分の1か、それ以上の半分近くにもなる。つまり、蓄積は老化の結果であって、それは認知症の原因とは見なされない。認知症が老化の結果なら、そのメカニズムは複雑で何が根本的な原因なのかは不明なのだ。
しかし、医学界も大学などの公的研究機関も、やがて「アミロイドカスケード」仮説に邁進することになる。アミロイド以外に病理を求める基礎研究はことごとく排除され研究費がつかない。製薬会社は、アミロイドを抑制する抗アミロイド薬の開発に躍起になる。その裏付けを構築するために、化学者ばかりでなく統計学者も動員され、複雑で怪しげな統計学的・疫学的見解がまかり通ることになる。
抗アミロイド薬によってアミロイド蓄積が抑制されても、認知症が治るわけではない。期待できるのは、最大限、その進行が止まることである。しかも、「アミロイド」原因説が仮説である以上、進行がとまるかどうかもわからない。最低限、患者にアミロイド蓄積があると診断されない限りは、投与することさえ意味がない。
一方で、高齢化による介護ニーズは高まるばかり。患者自身ばかりだけでなく家族の不安も高まる一方だ。《期待の新薬》に殺到するのは医者だけではない。誰だって、何とかしたいとすがりつきたくなる。
その費用は人・年あたり3百万円を超えるという。不可逆的な進行性の病気だから投与は死ぬまで続く。製薬会社の株価は高騰するかもしれないが、保険財政は破綻するかもしれない。その前に介護費用の負担との取り合いも問題になる。アミロイド蓄積が所見されることを前提にしてある程度の壁を設けるにしても、それ自体に時間と費用がかかることになる。
著者は、「では、ここからどうする?」としていくつもの提言を述べている。正直言って、医学界や基礎研究体制などの政治的裏事情はわからない。だから著者の主張はなかなかに読み取ることが難しい。要するに、「アミロイドカスケード」仮説一本やりはやめろということなんだろう。老人性認知症の研究は、時間をかけてじっくり取り組むべきだということ。
私たちは、老人性認知症に対して医学的医療だけに過度に頼ろうとせずに、社会全体で向き合うべきなんだと思う。
アルツハイマー病研究、失敗の構造
カール・ヘラップ (著)
梶山あゆみ (翻訳)
みすず書房
2023年8月初刊 2023年11月20日第3刷
八王子のNさんを訪問しました [オーディオ]
八王子のNさんを訪問しました。
オールSOULENOTEのサウンドは初めて。
改めてNさんのスピーカーセッティングのお手伝い。なかなか自分のシステムとはいっても重量物でもあるし自分ひとりではなかなかセッティングを詰めるのはたいへん。
そこは、三人寄ればなんとやら、です。スピーカーの焦点合わせということでは、びっくりするほど手際よく進みます。やはり機器の潜在能力が高まるとやりやすい。最後はミリ単位の調整ですが、音の違いがはっきりと解るからです。
SOULENOTEのE-2は、光カートリッジも再生可能で、従来のMCカートリッジとの聴き較べもできます。
これが、とても刺激的。光カートリッジへの懐疑がますます確信的になりました。
いろいろととても刺激的なオフ会となりました。
オールSOULENOTEのサウンドは初めて。
改めてNさんのスピーカーセッティングのお手伝い。なかなか自分のシステムとはいっても重量物でもあるし自分ひとりではなかなかセッティングを詰めるのはたいへん。
そこは、三人寄ればなんとやら、です。スピーカーの焦点合わせということでは、びっくりするほど手際よく進みます。やはり機器の潜在能力が高まるとやりやすい。最後はミリ単位の調整ですが、音の違いがはっきりと解るからです。
SOULENOTEのE-2は、光カートリッジも再生可能で、従来のMCカートリッジとの聴き較べもできます。
これが、とても刺激的。光カートリッジへの懐疑がますます確信的になりました。
いろいろととても刺激的なオフ会となりました。