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ラトル最後の定期公演 (ドイツ音楽三昧 その5) [海外音楽旅行]

この夜は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の定期公演。

2002年、クラウディオ・アバドの後を受けて首席指揮者/芸術監督の座についてサイモン・ラトルは、この2017/2018年のシーズン末をもって退任する。この日は、その任期最後の定期公演。二日にわたる公演の最終日であり、文字通りラトルのラストコンサートというわけです。

さすがにそういう特別なコンサートということで人気が集中。ベルリン・フィルの公演チケットは、前もってネット経由で比較的入手しやすいのですが、今回はネットでの発売日当日に満席。その後の再発売でも早々に完売でネットがつながりません。最後の最後に、電話受け付けがあるということでしたが、奇跡的に国際電話がつながりチケットを入手できることができました。電話での会話に半信半疑であったのですが、確かにチケットが郵送されて手元に届いた時は思わず快哉を叫んでしまいました。

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前回は、12月でしたので8時の開演時間ですでに真っ暗でしたが、今回はようやく日が傾いたという程度で周囲はまだまだ明るい。DST(夏時間)ということもあって、日本の感覚からするとあまりコンサートの始まりという気がしません。すっかり馴れ親しんだ道筋をたどってフィルハーモニーに向かいました。

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ところが席を確認してびっくり。

入手できただけで天にも昇る心地だったのでろくに確認しておらず、左手ブロックの前のほう…程度にしか思っていなかったのですが、行ってみると2列目のど真ん中。番号は3列目(Reihe 3)となっていますが、センターブロックは2列目から始まっているので実際は2列目になります。しかも、、このホールはステージが低く1階客席であっても最前列からかなりの傾斜がついているので、私たちの席はほんとうに指揮台間近でまさにかぶりつきの席。

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あまり前過ぎると、音は頭上を抜けていってしまい、管楽器は視覚的にも聴感的にも弦楽器群の陰になってしまうので、音響のバランスがかえって悪くなります。小編成など、曲によっては前の方も面白いのですが、当日は、とびきりの大編成のマーラー。ステージ上は横幅いっぱいにぎっしりと椅子と譜面台が並んでいます。これはかなりかぶりつきの音響バランスになってしまうなぁと危惧が頭をよぎりました。

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しかし…

案に相違して、素晴らしい音響でした。繊細・精妙かつすさまじいダイナミックスのマーラーが展開する未体験のゾーンに達するような凄みのある演奏を体験しました。

プログラムは、マーラーの交響曲第6番。実は、ラトルはベルリン・フィルのシェフ就任の初めての演奏会でこの曲を取り上げていて、ベルリンでのキャリアを同じ曲で始め、そして同じ曲で閉じるということになります。約1時間半、休憩なしの1曲のみ。

実は、私は3年前にこの同じ6番をアムステルダム・コンセルトヘボウで聴いています。

この曲を世界の頂点にあるオーケストラを現地で聴くというのは格別な体験でした。その同じ曲をまたまた世界最高峰のオーケストラを同じようにその本拠地で聴くという体験を重ねることになってしまいました。

あの時には、柴田南雄氏の「マーラーはレコードで聴くのとナマを聴くのでは、どうしても大差がある」「どんな機械装置でも再現できるはずがない」(岩波新書「グスタフ・マーラー」)という言葉を引いて、まさにその通りだったと言い、さらには不遜にも『マーラーは、欧米の超一流オーケストラで聴かないと聴いたことにはならない』とまで付け加えてその音楽は強烈だったと言い放っています。

字句通りには、今回も同じように強烈なマーラーです。しかし、響きの豊かなコンセルトヘボウでのガッティの多弁で豊穣なマーラーと、音の明晰なベルリン・フィルハーモニーでのラトルの精緻で強靱なマーラーとは、どこまでも対照的でした。

ザッザッザッザッと刻むように行進曲風の音楽が始まり最初のffが鳴り響いたとたんに、これはただならぬマーラーが始まったと感じました。とても明るい色彩で、一切の感傷も思わせぶりもない明晰なマーラー。コンセルトヘボウでこの曲を聴いたときは、ちょうどアンネ・フランクの隠れ家を見学した直後で、ここにただならぬファシズムの残虐な歩みやユダヤ民族の運命を感じ取って背筋が凍りつくような感覚を持ったのですが、いまこのベルリン・フィルハーモニーではそういう文学的なものが一切排除された透徹した合理と天空の高みにまで突き抜けるような高揚があるのです。

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マーラーの精緻なスコアがどこまでも見通せるようにハープやチェレスタまでありとあらゆる楽器の音がクリアに聞こえ、かぶりつきにもかかわらず後方の管楽器や打楽器群の演奏者の表情がつぶさに見通せるのです。目の前の弦楽器も後方の管楽器と見事なまでのバランスで聞こえます。そして何よりもそのアンサンブルの見事なこと。目前のコンマスの音は一切聞こえません。それどころか誰一人の音も聞こえない。全員の一本だけの音しか聞こえない。完璧なユニゾン。

それが横幅いっぱいに長い音像としてクリアに定位する。右には同じように第二ヴァイオリンが幅いっぱいに定位する。とにかくありとあらゆる楽器の定位がものの見事にクリアでしかも視覚と一致します。唯一の例外は、カウベル。演奏者の姿が見えないのでどこから音が出ているのか確認のしようがありません。私の席からは右手上方のオルガンあたりから聞こえます。見上げるとオルガン横の入り口のドアが開いていますが、よくわかりません。コンセルトヘボウでのカウベルの音は、アルプスの山々にこだまするように広がっていましたが、このベルリン・フィルハーモニーではステージ上方に浮遊するように鳴ります。

反射がほとんど無くて、間接音が抑制されたこのホールならではのサウンドですが、この空間をここまで鳴らしきるのはベルリン・フィルだからこそなのだと改めて思いました。ラトルのマーラーは極限までにドライで、ベルリン・フィルの機能と動的性能をフルに引き出していてマーラーのシンフォニックな高揚が天空にまで伸びていく。「悲劇的」という下降沈潜するような重力は一切感じません。むしろ、マーラーの壮大な想像と瞑想に誘引されて自分まで舞い上がってしまうような上昇感覚や飛翔感覚があります。悲劇や運命だとかいった絶望とか挫折というものは皆無。むしろ壮絶なまでに一途な愛の宣告といったほうがふさわしい音楽。演奏された楽章の順番のせいもあるのか、今までのこの曲への私の固定観念を塗り替えるような極限的な演奏。

柴田南雄氏の「どんな機械装置でも再現できるはずがない」というのは間違っていた。いま目の前で鳴っているベルリン・フィルハーモニー管弦楽団こそ、マーラーを完璧に演奏できるマシンそのもの。しかも、この世に存在する唯一の完璧な機械なのだ…。終末の悲愴な和音の余韻のなかで噴き上がるような感動とともに、なんとも言えない虚脱感が襲ってきます。それはまるで完膚なきまでに打ちひしがれた敗北感だったと言ってもよいかもしれません。

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終演後の聴衆の興奮にはすさまじいものがありました。何度も何度も呼び返され、楽員からも花束を受け取るラトルの表情にも会心の笑みがあふれています。前任のアバドは、ベルリン・フィルの歴史上初の生前に退任した指揮者だったとのことですが、ラトルは、初めて“alive and well”の退任だとのこと。団員がステージから去ってからも空っぽのステージに現れて何度も聴衆の歓呼に応えていました。「ラトル、ありがとう」との横断幕も掲げられていました。

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早くもピークに達した感のある今回の音楽三昧旅行ですが、翌日はいったんベルリンを離れドレスデンに向かいます。

(続く)



ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会
2018年6月20日(水) 20:00
ベルリン ベルリン・フィルハーモニー
(ブロックA左 3列 17番)

サイモン・ラトル(指揮)

マーラー:交響曲第6番
 1. アレグロ・エネルジコ・マ・ノン・トロッポ
 2. アンダンテ・モデラート
 3. スケルツォ
 4. 終曲 アレグロ・モデラート

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