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「現代の建築家」(井上章一 著)読了 [読書]

日本の近現代建築を彩った、20人の有名建築家をずらりと並べて論ずる建築家列伝。

大部で読み応えはありますが、もともとは建築専門誌に連載されたものなので、丹下健三など知った名前を見つけて、興の向くまま拾い読みしてもよしで、意外にあっという間に読めてしまいます。

ありきたりの評伝とか代表作説明ではなくて、例によって井上流の「いけず」が随所に炸裂。これまでの建築界内の通説や、一般化したイメージを覆すような切り口に、目からウロコの建築家論。通史ではなく、ひとりひとりを取り上げての建築家論ですが、そこには、あの「つくられた桂離宮神話」以来の、一貫した著者のこだわりもあって、そういう「筋」を感じとっていくのも、これもまた井上の建築論議の魅力なのです。

例えば…

堀口捨己

堀口は、日本における分離派運動の提唱者で伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図ったといわれる建築家。数寄屋造りを称賛し庭園や茶室建築史については権威とされた。その堀口捨己の章は、あの和辻哲郎をこっぴどくこき下ろすことから始まります。

曰く「『古寺巡礼』や『風土』などは、一種のトンデモ本」だと。和辻の『桂離宮』は「書き流し」の「キワもの的著書」であり、「ノリとハサミで名を売るジャーナリスト」にほかならないとも。…もっとも後段は、ある庭園史家の言の引用ですが。私たちの世代にとっては教科書や受験読解問題でなじんだ名著だけに、これはもう大ショック。

数頁を経てようやく堀口本人が登場する。その和辻をかばい、こき下ろしたその庭園史家をたしなめたのが堀口だったというわけです。建築史・庭園史知り尽くしていたはずの堀口は、なぜ、しろうとの和辻をかばい立てしたのか?それは岩波書店とのつながりだというのです。岩波が、当時、教養書の世界で得ていた威信、そしてその常連執筆者の選民意識はいかなるものだったか。和辻はその岩波教養主義の看板執筆者であり、一方の堀口は分離派建築会を立ち上げ、その建築図面や思想を世に問うたのは岩波の出版書を通じてだったという。「和辻先生」を悪く言うな…とたしなめたのは、堀口が岩波家の邸宅の設計に取り組んでいた時期でもあったのだとか。

切っ先の鋭利さは、単なる「いけず」にとどまりません。目からウロコだったのは、戦時色深まる時期の建築家たちの立ち居振る舞いであり、戦後の歪んだ評価のこと。

そもそも建築界は戦時のことをあまり語りたがらない。

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*写真中央が九段会館、左は菊竹請訓設計の昭和館、右は新築された九段会館テラスビル(鹿島建設)

帝室博物館(現・東京国立博物館本館)を設計した渡辺仁は、ファッショにおもねった建築家とのレッテルが貼られた。確かに瓦屋根を冠したビルは今から見れば異形で、しかも軍人会館(現・九段会館)は直裁に軍国主義を想起させて、どこか不気味だ。しかし、「日本趣味」は大正期から起こっていて、むしろ、戦時の統制経済はこうした「日本趣味」を質素倹約に反すると逆に忌避さえしたと指摘している。当時の霞ヶ関は四角四面のバラック庁舎が建ち並んでいたそうで、むしろ、こちらのほうこそが日本の国家主義建築だと井上は皮肉る。

逆にファシズムと闘ったともてはやされた前川国男のモダニズムこそ、戦時統制経済が求めた建築だという。こういう「和風」とモダニズムとの対立から歪められ、着せられた濡れ衣や、それを着せた側が掠め取った戦後利得は、他にも丹下健三など例は少なくないというのです。

建築家と施主との主客関係もこれまた歪んでいる。

「住宅は芸術である」と宣した篠原一男は、「住宅はその施主のために設計してはならない」とも言った。挑戦的にそう言い放った篠原にはむしろ「先生にいいなりになる」施主たちが群がった。時代は、個人住宅であってもコンセプチュアルなものを求めた。「理想の批評家」を求めて、ついに篠原は「批評家を兼ねる」建築家になる。そういう篠原が重宝したのは写真の効用だという。もはや、建築への教養は岩波書店ではなく建築ジャーナリズムが支える時代になった。篠原は自分のデザイン優先の部屋を住人が無残に散らかしていようと文句を言わなかったのに、写真を撮る時だけは徹底的に片付けさせたという。

施主の最たるものが国や自治体などの公共団体と言えるでしょう。国家におもねるなと言った磯崎新に井上は辛辣にあたる。そうなら、あの筑波センターこそはまさにその実例だろうと批判する。どうも磯崎は井上の趣向には沿わないらしい。そういう本音のような好き嫌いが滲み出てくるところも読んでいてクスリと笑ってしまう。

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虚言を弄し、施主をいいなりにしたのは黒川紀章も同類。そういう若い頃の黒川の見栄や虚言に満ちた饒舌ぶりを散々にとっちめています。中銀カプセルタワーの安普請ふりを暴き、当時、黒川が標榜したメタボリズムと、後年になって若返り保存を訴えた未練の滑稽さを辛辣にあげつらう。竹中工務店の設計した福岡銀行本店の名義を乗っ取ったのもむしろ福銀側の意向だったと暴いている。ここにも「先生のいいなりになる」施主がいる。施主のほうも設計者の名声、ブランドが欲しいのだ。

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そういう黒川が世界的な寵児となって以後の建築を、井上は称賛しています。黒川の虚勢は、名声を得るための方便だったのではないかというわけです。私も、若い頃の黒川の饒舌が嫌いでしたが、アムステルダムのゴッホ美術館アネックスも六本木の国立新美術館もつくづくいい建築だと思っています。裏を返せば、才能ある建築家たちも、自分を認知させるために四苦八苦している。

対照的なのは安藤忠雄。

工業高校出身で独学で一級建築士を取得。建築中の現場で、安藤に直接自分の家も建てて欲しいと声をかける施主が殺到し、下町の建築家が、あれよあれよという間に世界のTadao Andoに上り詰める。隈研吾は、その作品を見てがっかりしたそうです。下町の長屋とは名ばかりで、実のところ住人は富裕層のシティボーイで、やっぱりデザイン優先。便所にも傘をさしていく現実にいささか鼻白んだとか。それを井上は、施主の覚悟だと持ち上げる。コンクリート打ちっ放しは住環境としては劣悪だが、安藤はその表面を美的に磨き上げることに執着する。そうしたことを列挙して建築家と施主の相思相愛の事例として持ち上げる。関西人同志で気が通じ合うというのか、ウマが合うというのか、そういう安藤へのえこひいきで、井上の好き嫌いがここでもじわりと滲み出ています。

逆に、あれだけ素晴らしい外観の名作建築の数々を残した丹下健三が、最後にあの醜悪な高層の新都庁舎を遺したことをいかにも残念だという口ぶり。井上によれば、ゴシック風な擬態に満ちた高層の新都庁舎は丹下の西洋主義回帰だというのです。若い頃に、日本様式、和風の論理にこだわり前川国男を突き上げた丹下でさえも、最晩年は壮大なイタリア的な重厚長大な古典的様式美に対する憧憬を内に隠し続けることができなかった。現代の土地効率性の要求は、イタリア的な横へ拡がる意匠をバベルタワー風の威容に置換せざるを得ず、イタリア的広場は建物内部に内包させざるを得ない。そんな無理を承知の上での西洋回帰というわけです。壮年期の作品が好きでも新都庁舎にはがっかりということにも、私は共感を覚えます。

日本の近代建築史は、音楽史とも響き合う気がします。ナショナリズムとモダニズムは同じパトスの裏表なのだという気がするからです。江戸時代以来の日本の伝統は、建築物で支配権力を誇示することをしなかった。そういう市民社会中心の建築観とそれが形造った都市空間に西洋建築を導入していくのが日本の近代建築の矛盾でもあったわけです。丹下らのパトスは父権的な古典主義へのアンビバレントな愛憎に由来している…。

こうした示唆に富んだ本書は、近代社会思想史や近代芸術史など、社会科学的な視点からも読まれて良いと思ます。とにかく面白い。


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井上章一 現代の建築家
井上 章一 (著)
エーディーエー・エディタ・トーキョー
(初出は同出版の建築定期誌『GA JAPAN』)
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