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「古典派こそクラシック」 (芸劇ブランチコンサート) [コンサート]

ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンというウィーン古典派の3大スター。しかも、そのピアノと弦楽器の室内楽となると、まさに、これこそ「ザ・クラシック」。

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この日、スポットライトを浴びたのは、チェロの香月麗(かつき うらら)さん。全三曲に出ずっぱり。清水和音さん、N響首席のおじさん方に囲まれて、さぞや息苦しかろうと思いきや、実に爽やかで伸びやかなチェロを聴かせてくれました。

一曲目はピアノ三重奏。二曲目は弦楽器だけの三重奏。最後に、全員そろい踏みのピアノ四重奏という流れもよい。

ピアノ三重奏といえば、ロマン派になっても盛んに名曲が生まれ続けた演奏形態。同じくウィーン古典派が生んだ室内楽編成の弦楽四重奏にはちょっと厳めしさがつきまとうのに対して、ピアノ三重奏は、より自由な情感の展開を感じさせます。こういうところが「古典派こそクラシック」なんだと思います。ハイドンの時代のピアノはまだまだ発展途上だったはずですが、こうやって聴くと、ヴァイオリンとチェロの二人の従者を従えて堂々たるものです。

二曲目は、弦楽器だけの三重奏。野心満々のベートーヴェンがウィーンに乗り込み、ピアニストとしても作曲家としても破竹の快進撃を開始したころ。まさに、“ヤング・ベートーヴェン”の覇気がみなぎった音楽です。まだまだ貴族がパトロンであった時代ですが、そこに若い勢いのままに、自分の名刺代わりに得意の「ハ短調」を叩きつけたような楽想にちょっとびっくり。

三曲目のモーツァルトでは、もはやピアノも弦楽器も対等で、ちょうどハイドンのピアノ中心のアンサンブルの面白さと、弦楽器だけで充実したアンサンブルの活気とをいいとこ取りしたというような音楽。それぞれの楽器が、時にオペラのアリア、二重唱、三重唱というように縦横無尽に演じてみせる―その間、他の楽器がアンサンブルに回る、というように自在。対話的なアンサンブルがいかにもモーツァルト。

この顔合わせでは、清水さんのピアノが明らかにリーダーシップを握っています。伊藤さんは、さすがにN響のコンマスだけあってアンサンブルの高い精度をリードしていますが、エリート官僚的な回転のよさだけなところがあって、ちょっとだけ不満。ヴィオラの佐々木さんは、さすがのまとめ役。小編成になればなるほど味わいを感じさせるのがヴィオラ…。それは、音色や和声でも音楽の運びでも、あらゆるところに感じます。そんなところが清水さんのピアノが抜けた弦楽三重奏になると表に出てくるところがちょっと面白い。

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香月さんは、現在、スイスのローザンヌ高等音楽院シオン校に留学中だそうです。シオン校は、レマン湖の東端のモントゥルーから奥に入った静かな山間の町シオンにあります。もともとはハンガリー人ヴァイオリニスト、ティボール・ヴァルガが設立した国際音楽アカデミーが前身で弦楽器の独立した教育機関でしたが、いまはローザンヌ高等音楽院の分校となっています。清水さんも、同じレマン湖湖畔のジュネーヴ音楽院に留学していたので、トークでは、レマン湖談義で盛り上がっていました。香月さんのチェロは、雄渾さとか、雄弁さというのではなく、清澄な音色で優雅な伸びのよいフレージング、それでいて繊細で精緻。貴公子と小公女ということで、清水さんと香月さんはけっこう相性がよいのかもしれません。

こういう音楽を聴くと、ちょっと、心にゆとりみたいなものができたような気がしてきます。

ミクトモさんとのオープンカフェでの軽くお茶しながらのおしゃべりも、こんな状況だけに情報交換は濃密で楽しいものでした。





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芸劇ブランチコンサート
清水和音の名曲ラウンジ
第30回「古典派こそクラシック」
2021年6月23日(水) 11:00~
東京・池袋 東京芸術劇場コンサートホール
(1階M列26番)

ハイドン:ピアノ三重奏曲第25番ト長調「ジプシー・ロンド」
(Vn)伊藤亮太郎、(Vc)香月麗、(Pf)清水和音
ベートーヴェン:弦楽三重奏曲第4番ハ短調 op.9-3
(Vn)伊藤亮太郎、(Va)佐々木亮、(Vc)香月麗
モーツァルト:ピアノ四重奏曲第2番変ホ長調 K.493
(Vn)伊藤亮太郎、(Va)佐々木亮、(Vc)香月麗、(Pf)清水和音
タグ:清水和音
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バッハへの道 (福間洸太朗 ピアノ・リサイタル) [コンサート]

プログラムの曲、ひとつひとつが興味深く、そこが魅力。ところが聴き終わってみると、そのプログラムが巧みにくみ上げられていて一本筋が通っている。しかも、そのピアノそのものにも何とも言えぬ充足感がある。そんなピアノ・リサイタルでした。

テーマは、“バッハへの道”。

1曲目は、まさにそういうテーマで福間さんがイラン人作曲家に委嘱した新作で、これが世界初演。左手の低音が闇から湧き上がるように響いて、しだいに色彩を帯びて明るくなっていき、光芒を放ちながらどんどんと展開していく。そういうバッハ的宇宙。

プログラム中央にブラームスとリストのトランスクリプション2曲をすえて、その前と後にそれぞれの作品を配置するというシンメトリックな構造をしています。いわばバッハという中心を回る銀河系。それぞれの作品が奏されることで、ブラームス、リストのトランスクリプションに内在するバッハへと自己を結びつける絆のような思いも浮かび上がってきます。

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福間さんのピアノは、もちろん目にも止まらぬ指遣いの超絶技巧ですが、実に軽快、軽妙でふわっと鍵盤から浮いているような気さえします。それでいて、響きが光の帯のようで滑らかにつながっている。いかにもフレンチピアニズムという細かい音の連続なのですが、それは“真珠の珠粒を転がすよう”というのではなく、まるでドイツのオルガンのように響きが深く持続し続けるのです。

ブラームスの晩年の作品は、よく“枯淡の境地”などと決めつけられがちですが、聴いてみるととても情熱的でロマンチック。この作品118なんか、もっとも情熱的で、頭から恋人の名前を連呼しているかのようで、まさに“恋慕”そのもの。それでいて、それをしっとりと胸のうちに収めるようなところがあります。福間さんのブラームスは、発酵バターをたっぷり使った焼き菓子のよう。感情の起伏はむしろ抑制的ですが、恋慕の情感が、細やかに香ります。


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前半の圧巻は、やはり「左手のためのシャコンヌ」。

始まりこそ、やはり左手だけというのは身体のバランスの取りぬくさを感じさせましたが、すぐに感覚が左手の指先だけに絞られていきます。音楽の帯域範囲が絞られることで、一層の情感の浄化があって、それはやがて祈りへと昇華してゆく。バッハは、長旅で留守をしていた間に妻を亡くしますが、このシャコンヌはその直後に作曲されています。ブラームスの“恋慕”が、ここでは“思慕”や“哀悼”のようなものに純化されていました。

福間さんの音色はとても独特で、粒の細かく速いタッチでありながら、その響きが長くよく維持されていて絹布のように流麗に拡がるピアノの音色にどんどんと引き込まれてしまいます。それにしても楽器の仕上がりは素晴らしく、さすがサントリーホールと思いました。休憩時の調律も、調律、整音というよりはキーのウェイトを確認しただけという風ですぐに終わりました。

福間洸太朗さんは、映画「蜜蜂と遠雷」で、河村尚子さん、金子三勇士さん、藤田真央さんらとともにピアノ演奏を担った四人のピアニストのひとり。なかなかハンサムな方ですが、意外にも所作はどこか垢抜けないところがあって「ウチの職場の新人くん」みたいなところがあって、それがかえって母性本能をくすぐるのかも。前半のタキシードから後半はキラキラしたスーツにお召し替えして登場すると、女性の多い会場からは「おー」というかすかなどよめきが…。

後半の、バッハのオルガンのための前奏曲とフーガも素晴らしかった。ジグザグとノコギリの刃のように激しく跳躍する音楽は、確かにリストのオルガン曲の模範となったのだろうと納得させるような華麗な響き。地から湧き上がり、高い天井へと立ち上っていくきらめきのような壮麗さを感じます。

それが、そのまま最後の「パガニーニ大練習曲」へとなだれ込んでいく。

それはめくるめくような華麗なアルペジオの連続。これほどアクロバティックな超絶技巧が、くもりひとつなく清く美しく鳴らされるのは初めての体験。波紋状に拡がる細かい音の連続を軽やかに渡っていくさまは、まさに波の上を歩く奇跡のよう。「ラ・カンパネッラ」も、《鐘》というよりは、もっとずっと小さい《鉦》や《鈴》のように華麗。

アンコール1曲目は、「マタイ受難曲」からの有名なアリア。おや?この曲のトランスクリプションなんてあったかしら?と思ったら、福間さん自身の編曲でした。
(直後にサントリーホールのサイトでは、別の曲名が上がっていましたが、これはご愛敬。翌朝には訂正されていました。)

久々のサントリーホール。記憶の限りでは、ここでのピアノソロリサイタルは初めて。よい席にも恵まれて大満足のコンサートでした。



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福間洸太朗 ピアノ・リサイタル
~Road to Bach~

2021年6月19日(土) 19:00
東京・赤坂 サントリーホール 大ホール
(1階 14列16番)

ピアノ:福間洸太朗

ファルハド・プペル:“Road to Bach” 〔2021年委嘱作品・世界初演〕
ブラームス:6つの小品 Op. 118
J. S. バッハ/ブラームス編:左手のためのシャコンヌ ニ短調 BWV 1004

J. S. バッハ/リスト編:前奏曲とフーガ イ短調 BWV 543
リスト:パガニーニによる大練習曲 S. 141 (ラ・カンパネッラ付)

(アンコール)
J.S.バッハ/福間洸太朗編:アリア「憐れみ給え、わが神よ」~マタイ受難曲 BWV 244より
J.S.バッハ(サン=サーンス編曲):序曲(カンタータ BWV29より)
タグ:福間洸太朗
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「ヨーロッパ音楽の歴史」(金澤正剛著)読了 [読書]

『キリスト教と音楽』『古楽のすすめ』がとても面白かったので、これも読んでみました。

昨年の新刊ですので、すでに90歳近いご高齢の著者にとっての最新刊ということになります。

音楽史の俯瞰として最後に触れられているのは、1980年に作曲された武満徹の《遠い呼び声の彼方に!》となります。著者のあとがきによれば、それ以後については「歴史」とみなすには時期尚早ということ。

それだけ長大な時間を見渡すヨーロッパ音楽史ということになります。一般向けの音楽史としてはもっともまとまった通史と言えるのではないでしょうか。それだけに、もらさず網羅することが優先されているようなちょっと教科書的なところがあります。作曲者名と代表曲を羅列するだけの駆け足の記述にちょっと退屈させられます。大バッハなどであってもあっという間に通り過ぎてしまうあっけなさもあります。

時代区分など最新の研究成果も取り入れているところはありますが、前著の二冊とも内容的には重複します。そういう意味では、三冊とも読まなければならないということはあまり感じませんでした。どれか一冊を…と問われても、最新刊ということでの本書なのかどうかにちょっと迷いを感じてしまいます。

個人的には、著者の専門性が活かされた内容であり、他の西洋音楽史の類書からも独自の視点に教えられることが多くて面白かったということで、『キリスト教と音楽』を一冊として選びます。

本書は、音楽史の流れを追いながら、作曲家と代表曲の便利な字引として書棚に置いておくにはもってこいの本だと思います。


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ヨーロッパ音楽の歴史
金澤 正剛 (著)
音楽之友社

タグ:金澤 正剛
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「ウィーン楽友協会 二〇〇年の輝き」(オットー・ビーバ、イングリード・フックス共著)読了 [読書]

音楽の都ウィーン、なかでもクラシック音楽の殿堂とも言えるのがウィーン楽友協会。

創設されたのが1812年、今から200年前ということになる。

1812年といえばチャイコフスキーの序曲を思い浮かべる。その創設はまさに、対ナポレオン戦勝記念の音楽会場の確保と運営が起源となった。「会議は踊る」と揶揄されたウィーン会議(1814年)では、皇帝から会議のために演奏会を委託される。その歴史は、音楽の担い手が宮廷・貴族から、市民階級へと移行した歴史をそのまま反映している。当初は、宮廷というパトロンを失った公的な演奏家教育をも担ったという。現在の建物は二代目で、城壁を壊し環状道路を建設する大規模な都市開発にともなって建設された。

楽友協会は、ほとんどのクラシックファンにとっては、ほぼムジークフェラインスザールというコンサートホールと同義といってよいだろう。

ただし、そのホールから連想されるウィーン・フィルとは別物。

ウィーン・フィルは、宮廷歌劇場管弦楽団メンバーによる自主運営の楽団だということはよく知られている。協会が組織し運営したのはディレッタントと呼ばれるアマチュアの演奏家たちによる楽団。今の合唱団はその伝統を引き継ぐが、オーケストラの方はプロ集団となり、いわばレジデンツオーケストラというべきものが傘下に設立されたのは、今のウィーン交響楽団の前身だそうだ。

ウィーン・フィルは場所を借りているに過ぎない。だからウィーン・フィルのボックスオフィスは別の建物。楽友協会は、音楽祭などを主催するが、その特別演奏会に客演するのはウィーン・フィルに限らないというわけだ。

つまり、本書は、徹頭徹尾、ハコモノとしての楽友協会のお話し。

5章に分かれるが、圧巻で充実しているのは、最終章の資料館のお話し。

この建物に資料館なるものが存在することを知らなかった。よくあるゆかりの音楽家などの遺品を集めた展示室というような程度ではない。もちろん、ベートーヴェンの補聴器なども展示されるそうだが、その蒐集は音楽家の遺物や肖像画などにとどまらず現存する最初期のチェンバロなどの古楽器にも及ぶ。

ちょっとした博物館だが、その中心は貴重な自筆楽譜や遺稿、古楽の初版譜など。その蒐集は設立当初からの歴史があって、音楽を歴史的に記録するという視点から資料収集を行った最初の組織だという。市民革命により貴族や教会などが収蔵していたコレクションが散逸、消失するのを救ったのが楽友協会の資料館ということなのだそうだ。

ふたりの共著なので、各章をまたがって、じゃっかん記述が重複するのがちょっとわずらわしい。でも、ざっとした歴史の紹介で読みやすく、カラー写真の口絵や挿入の図版が豊富でビジュアルな楽しみもある。すでにウィーンに行かれた方には思い出を振り返るお土産がわり、これから行く機会をうかがっている方にはガイドブック代わりとしても楽しい。



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ウィーン楽友協会 二〇〇年の輝き
オットー・ビーバ (著), イングリード・フックス (著), 小宮 正安 (翻訳)
集英社新書

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BOSE サウンドウェーブ ― 修理はあっという間 [オーディオ]

BOSEのWave SoundTouch music system IV。

我が家のお茶の間のサブ・システムです。

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お茶の間にはメインシステムがあるのですが、同居人が「音が大きすぎてうるさい」「操作が難しすぎて触れない」ということで、6年前に購入しました。もちろん、もっぱらその同居人が聴いています。ネットラジオの流し聴きなど重宝しています。音量が小さければ、メインシステムのオーナーの私も、時々、ギョッとするほど音も良い。

それが壊れました。

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きっかけは、ブッフビンダーのベートーヴェン全集のボックス。

何しろ詰め込みCDですのでピックアップに負担がかかるようです。プツリと音が切れて進まなくなることが頻発。同居人から大クレーム。もともとCD再生で少しエラーがあったようです。

ボーズのHPでチェック。結局、サポートに電話しました。

シリアルナンバーなどの確認が終わると、症状についての質問です。

「リセットは試してみましたか?」
「トラブルはCD再生だけです。ネットラジオなどは問題ありません」

この先、こういうやりとりが続くのかと、うんざりしかけたら、あっさりと…

「修理代は一律料金です。着払いで送って下さい」

逆に、「え?それだけかよ」と思いましたが、考えてみれば電話であれこれやり取りして時間をかけて、お互いにイライラするよりずっといい。恐らく中味をモジュールとしてごっそり入れ換えるのでしょう。何が原因だろうとお構いなしに入れ換えた方が早い。そういう意味では「一律料金」というのも合理的。新品交換みたいなものだと思えば、料金も安いと感じます。

宅急便で送ってから、何とたったの3日で返送されてきました。

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もちろん、まったく問題なしの完動でした。

びっくり。
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「不寛容論」(森本あんり著)読了 [読書]

「寛容」とは、「不寛容」と逆接的で表裏をなす。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

そう言ったのはヴォルテール。恐らく本書の表題は、そのヴォルテールの「寛容論」をもじったものだろう。

私たちはともすれば「寛容」を一種の徳と受けとめがちだけれども、実のところは激しくぶつかり合う矛盾と葛藤に満ちた自己撞着を抱えている。もともと島国の単一民族で定住性の高い日本人にとっては、「寛容」と言われると「みんな仲良く」といった安易な理解に流れがち。むしろ「寛容」とは残虐な「不寛容」の歴史があってこそ成立しえたもの。

著者は、神学・宗教学者で、プリンストン大学に学び、特にアメリカ植民地時代からの宗教史に詳しい。

本書では、まず、中世から近世にかけての「寛容」の哲学史を振り返る。それは、異端、異教の歴史から、宗教革命をめぐる宗教と政治の対立の歴史である。西欧の近代国家の成立とは、すなわち、カトリックとプロテスタントの闘いから生まれた。プロテスタントは、カトリックの支配を絶つことで独立を果たし、カトリックは神権と王権を切り離す政教分離から、民主主義を勝ち取っていく。

しかし、イギリスは、大陸の国々と違って国教教会というカトリックとプロテスタントのいいとこ取りをしたからややこしい。それに反発したピューリタンは迫害の果てに、新大陸へと信仰の自由を求めて移住する。ところが、「厄介者の避難所」に逃れたそのピューリタンも、植民地統治の合意と秩序を維持するために、他のプロテスタント宗派を迫害し始めたからややこしくなる。

そして、ここに本書のヒーローであるロジャー・ウィリアムズが登場する。

ロジャー・ウィリアムズとは、アメリカに移住したピューリタンで、先住民(アメリカインディアン)とも親交し、ロードアイランド植民地の設立者ともなる。その新植民地設立に当たっては、徹底的な政教分離を貫いた。市民契約という住民合意による社会統治や信仰の自由の原則を打ち立て、まさにアメリカ型民主主義の元祖ともいうべき人。

アメリカインディアンの先住権を認め、一夫多妻のクェーカー徒や異教のユダヤ人(ユダヤ教徒)やトルコ人(イスラム教徒)との共存も許容するのだから、まさに「寛容」の人というべきだが、実際のところは既存のマサチューセッツ植民ではああれこれと衝突を繰り返すトラブルメーカー。『植民の土地は《空白の土地》ではなく、もともとはインディアンのものだから、土地所有権は、英国王の特許状に依拠すべきではない』『宣誓は宗教行為だから住民に強要すべきではない』などという異議申し立ては、とうてい政権の受け入れられることではなく、ついにウィリアムズは厳冬のなかを身ひとつで追放される。ウィリアムズは徹底した「不寛容」の人だったわけだ。

アメリカ合衆国というのは、主権在民で徹底している。その大前提が政教分離と信仰の自由。その市民契約の存立がそれぞれの植民地の成立であり、それらが独立にともない連邦政府を成す。それはイギリス本国のピューリタン革命やフランス革命に先行し、その考え方はアメリカの憲法のもととなった。

アメリカの民主主義というのは、わかっているようでいてなかなかわかりにくい。本書は、その成り立ちを、中世の宗教哲学やアメリカ植民時代に遡ってひもといているので、なるほどそういうことだったのかの連続。しかも、ロジャー・ウィリアムズという強烈な人格から生み出されるエピソードはまさに逆転人生の連続。

ウィリアムズを追放した植民地政権のウィンスロップとは、生涯にわたって親交があり、しばしば助言を求め合うような信頼関係にあったという。追放の際に、逮捕を逃れるように内通したのは、実は追放令発出の当の本人であるウィンスロップだったというから、これまたややこしい。

「寛容」は善、「不寛容」は不徳…というような対立感情の善悪論で考えがちの日本人は、こういう問題が一番苦手なのではなかろうか。日本の外交音痴もそういうところにあるのかもしれない。




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不寛容論: アメリカが生んだ「共存」の哲学
森本あんり著
新潮新書

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