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ポストクラシックの愛のかたち  (田部京子ピアノ・リサイタル) [コンサート]

田部京子さんが、浜離宮朝日ホールで続けているドイツ・ロマン派のリサイタルシリーズ。『シューベルト・プラス」の第7回。

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コロナ禍での中断で、このシリーズ、実に1年半ぶりのことになります。予定されていた回の振替として、昨年末に特別演奏会がありましたが、田部さんとしても今回の再開までにはいろいろな思いがあったのだと思います。そういう思いがすっと立ちのぼって昇華するような演奏でした。

1曲目のシューベルト。作曲者18歳の作品ですが、シューベルトの個性がはっきりと聞こえてくる珠玉のソナタ。その証拠に、中間楽章のテーマは最晩年のソナタD959で再び使用されています。だから聴き手にとっては、このソナタ全体が自分の青春を振り返るような懐かしい音楽にさえ聞こえてきます。

2曲目のショパン。ソナタですが、中間楽章に「送葬行進曲」を置き、終楽章は断章的な音型でごく短く一気に終結してしまう。若いシューベルトが形式を踏襲しつつも内から湧き上がる歌心を抑えきれずにいるところから、ここでのショパンはさらに意図的に一歩も二歩も踏み出していて、古典的形式にチャレンジしている。

田部さんのピアノは、とてもプライベートで、静かな独白ともいうべき音楽。隔離された孤独とも言えるのかもしれないけれど、どこか遠くへつながっている。

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そういうプライベートな感覚がみずみずしいまでによく現れていたのが、最後の「クライスレリアーナ」。

ここではもはやソナタという古典形式は隠滅されてしまい、キャラクターの明確な断章の連続。いわゆる性格的小曲集という新たな様式を打ち出しています。この曲は、シューマンのピアノ曲を代表する名曲とされてますが、意外に実演では聴く機会が少ない。それだけ聴き手にはとっつきにくく難しいし、ピアニストにとっても、その技術力・音楽力の実力や資質を剥き出しにしてしまうところがあるように思えます。ともすれば、複雑でぎくしゃくした技巧を表に出し過ぎたり、騒いだりはしゃいだり、途端に塞ぎ込んだり…というようなとりとめもない音楽になってしまいがち。

田部さんのシューマンは、むしろ寡黙で思いやりの深い、それでいて情熱を秘めた遠くへ羽ばたいてゆくような愛に満ちています。シューベルトから始まり、ショパン、シューマンと聴いていくと、この時代に何が起きていたのか、その中で市井の人々がどのように自分の人生を刻んでいたのか、そういうことに思いを馳せるような気がしてきます。

高揚感というよりは、そういうプライベートな内省的な愛。神話や英雄譚とは対極的な愛のかたち。それでいて精神的な距離はとても遠くへとつながっている。

アンコールの「トロイメライ」と「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」の静謐な調べには、そういうポストクラシックの新しい愛のかたちをひしひしと感じました。




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田部京子シューベルト・プラス第7回
田部京子ピアノ・リサイタル
2021年7月24日(土) 14:00
東京・築地 浜離宮朝日ホール
(1階 10列17番)


シューベルト:ピアノ・ソナタ第4番イ短調D.537 Op.164
ショパン:ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調「葬送」Op.35

シューマン:クライスレリアーナ Op.16

(アンコール)
シューマン:子供の情景 Op.15より「トロイメライ」
ショパン:ノクターン嬰ハ短調 「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」
タグ:田部京子
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日下紗矢子リーダーによる室内合奏団 (読響アンサンブル・シリーズ) [コンサート]

読響のアンサンブル・シリーズ。今回は、日下紗矢子さんがリーダーとなっての室内合奏団。

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日下紗矢子さんは、ベルリンのコンツェルトハウス管弦楽団のコンミスとして活躍されています。コンツェルトハウス管といっても、日本ではちょっとなじみがないかもしれません。実は、このオーケストラは、ベルリンの壁が崩壊する以前は、ベルリン交響楽団として東ベルリンを代表するオーケストラでした。それが東西統一後のベルリンのオーケストラの統廃合で何を考えたのか、その伝統あるブランドを捨ててしまいました。実は、西ベルリンにも、同じくベルリン交響楽団と名乗るオーケストラがあったからです。そちらはオペレッタなど軽音楽系のクラシックオーケストラ。名称の整理ということで、そちらにいとも簡単に伝統ある名跡を譲ってしまいます。

その本拠地は、もともとのベルリンの音楽の殿堂として、シャウシュピールハウス(=「王立演劇劇場」)を1984年にコンサートホールに改装したのが、いまのコンツェルトハウス。そういう本拠地のレジデンツオーケストラとして名称を変更するのに躊躇がなかったというわけですが、各段に知名度が落ちてしまいます。

日下紗矢子さんは、2008年にコンサートマスターに就任し、さらには、団員で編成された室内管弦楽団のリーダーとして来日もしていて、日本という大きなクラシック音楽市場でコンツェルトハウス管の認知度を上げることに大きな貢献を果たしたということでもあると思います。つまりは大変な実力者であり、また、室内オーケストラのリーダーとしても卓越した見識と実力を持つヴァイオリニスト。

そういう日下さんの面目躍如たるプログラム。

日下さんは、どちらかといえば口の重いタイプ。重いといっても口ぶりが遅いというわけではないのですが、あまり、滔々と語らないひと。この日のプレトークでも、あまり語らない。あくまでもクールさを保ちます。その分、ナビゲーターの鈴木美潮さん(読売新聞記者)が話しをリードします。

この日のプログラムは、まずは、ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」。

それと対置する形で、最初の曲は、ヴィヴァルディの「四季」から「春」。春で始まり、春で終わるという構成。その中間、二曲目にピアソラへのオマージュということで、ゴリホフの曲。三曲目は、タンゴという舞曲が本来持っている狂気の源流ともいうべきバロック時代にヨーロッパで流行した「ラ・フォリア」の名曲を置く。バロックと二十世紀音楽との対比、通底する舞曲的な執着狂気、弦楽器の持つある種の偏執的な情熱。そういうものの狂宴ともいうべきプログラム。

最初の、ヴィヴァルディの「四季」から、そういう妖気というのか尖った意匠、原色と強いアクセントが際立ちます。小鳥のさえずりも、とても華やか。日下さんはソリストとしての装飾を際立たせつつ、コンチェルティーノの技巧も存分に引き出して対峙していく。すべてはピアソラに向かっています。

二曲目のゴリホフの「ラスト・ラウンド」も、そういう二極対立。

題名は、ボクシングに由来するそうです。一対一の対決。オーケストラは中央の一台のコントラバスを中心に左右の二群の弦楽器群が対抗対立する。その丁々発止のやり取りは実にスリリング。一対の男女の対峙絡み合いというタンゴに通ずるのは、つまりは「ラスト・タンゴ」ということでもあるのでしょうか。

三曲目が、「ラ・フォリア」。これは、日下さんのソロという意味ではこの夜の白眉でした。日下さんは、クール・ビューティ。印象は、ある意味では強面の女性です。そういうヴァイオリンが激しい扇情的な変奏を繰り返す。その音色は、直線的な切っ先が鋭く、それでいて粘りのある下弦域の妖艶なことといったら…。

「ブエノスアイレスの四季」は、もともとバンドネオンのために作曲されました。作曲者自身は、それをピアノを入れた五重奏に編曲したりしていますが、ともかく様々な音楽家がいろいろに編曲をしています。この夜は、ピアノを入れたホセ・ブラガートの編曲版。

ここでも日下さんは自らのソロは、鮮明なまでに表に立って演奏し、あるいはメンバーのオブリガートやソロをも立ち替わるように、表に押しだし自分は後に控える。そういう前後のステップが、アンサンブル・リーダーとして見事。この曲では、特に遠藤真理さんの甘く飴色の音色で滔々と歌うソロが最高でした。

曲順もいろいろあって、デシャトニコフ編曲の弦楽合奏版に代表されるように春に始まり、穏やかな来たるべき季節への思いを残す冬で閉じるという曲順がポピュラーですが、日下さんは、作曲した順番に沿って夏に始まり春で閉じる。プレトークでは、水を向けられても、その曲順構成に秘めた思いを語ることはなかったのですが、ある意味で情熱の爆発で終結するフィナーレを聴けば、当然に納得。客席は、どこか鬱憤を晴らすかのようにどっと拍手で湧き上がりました。



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読響アンサンブル・シリーズ
第31回 《日下紗矢子リーダーによる室内合奏団》
2021年7月22日(木) 19:30~
よみうり大手町ホール
(16列 4番)

ヴァイオリン=日下紗矢子(特別客演コンサートマスター)
瀧村依里(首席)、岸本萌乃加(次席)、荒川以津美、小形響、川口尭史、杉本真弓、武田桃子、外園彩香(首席代行)、山田耕司
ヴィオラ=森口恭子、冨田大輔、三浦克之、渡邉千春
チェロ=遠藤真理(ソロ・チェロ)、林一公、室野良史
コントラバス=瀬泰幸、ジョナサン・ステファニアク
チェンバロ&ピアノ=大井駿

ヴィヴァルディ:「四季」から「春」
ゴリホフ:ラスト・ラウンド
ジェミニアーニ:合奏協奏曲第12番「ラ・フォリア」
ピアソラ(ホセ・ブラガート編):ブエノスアイレスの四季
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「ロッキード疑惑」(春名幹男 著) [読書]

田中角栄は「金脈」で失脚し、「ロッキード」で息の根を止められた。

田中は、最後まで無罪を主張し続けたが、脳梗塞で倒れ政界引退を余儀なくされ、その死去により上告審審理途中で公訴棄却となった。田中の元秘書・榎本敏夫の上告審では最高裁は田中の5億円授受を認定し確定している(丸紅ルート)。「首相の犯罪」を疑うものは、おそらく皆無だろう。それなら田中はなぜあのように最後まで無罪主張に執念を燃やし続けたのだろうか。

謎の多い「首相の犯罪」だけに、その真実は不明で諸説がある。不明にハエのように群がるのが「陰謀説」だ。

著者は徹底した調査取材で、その「陰謀説」を次々と丹念に潰していく。

その主要なものをあげると…

1.「誤配」
   …ロッキード社の文書がチャーチ委員会事務局に誤って配達され発覚した

2.「ニクソンの陰謀」
   …トライスター機の購入を勧めたニクソンが同意した田中を嵌めた

3.「三木の陰謀」
   …三木武夫首相が政敵・田中の事件を強引に追及した

4.「資源外交説」
   …資源供給をめぐる中東アラブ寄りの独自外交がアメリカの「虎の尾を踏んだ」

5.「キッシンジャーの陰謀」
   …田中を人格的に嫌悪したキッシンジャーが田中だけを選択的に陥れた

著者は、いずれの「陰謀」も否定する。

米国政府の情報公開などによる新資料も丹念に読み込みながら矛盾や誤謬を糺していく。1.の誤配説や、2.のニクソン陰謀論などは時系列的に矛盾する。3.の三木説は、そういう意図が三木にはあったが、米国当局は一蹴している。三木(あるいは日本)にはそんな力はなかった。

4.と5.は、密接に絡んでいる。とにかくニクソンとキッシンジャーは田中を嫌っていた。このふたりの田中への憎悪には日中国交回復も加わっている。米中関係正常化は、日本の頭越しだったが、田中の日中条約締結は、国際外交としても先んじるもので、米国の思惑への仕返しと取った。密約や密使外交が好みのキッシンジャーは、田中のトップ会談による率直でオープンな外交交渉をことさらに嫌った。日ロ平和条約交渉では、秘かにロシア側に通じて領土問題解決を妨害さえしていたという。この辺りはニクソンやキッシンジャーの政治体質や、《対等》とはほど遠い日米関係を活写していて興味深い。本書の真骨頂はここらあたりにあると思う。

しかし、ニクソンは自らのスキャンダルでそれどころではなかった。キッシンジャーは、確かに田中の名前だけを開示させるという権限を巧妙に自らの手に握っていた。そうであっても、キッシンジャーにはロッキード事件をあえて露見させ田中を陥れるだけの政略的な動機が見当たらないという。

著者の綿密かつ執拗な調査は、ある意味で日本のマスコミやジャーナリズムへの痛烈な批判へとつながる。特に田原総一郎の「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」という陰謀俗説などは木っ端みじんだ。

反面、陰謀論好きにとっては、何とも味気ない。

田中がなぜあれほどに無罪に執念を燃やし、継承者・田中真紀子が特定の自民党政治家や田中派の末裔たちを憎悪したのか?その問いかけもなく、その答えもまったく不明だ。いわゆる、「ほんとうの『巨悪』」の追求も何とも竜頭蛇尾に終わる。

著者には、「田中金脈」を上回る、ほんとうの戦後の日本保守政治の汚れた「金脈」を暴いて欲しかった。そこには戦後日本の内政の恥部と、卑屈な対米追従が隠されているはずだ。本書は大部なものだが、あくまでも従来の「陰謀説」の否定だけに終始していて物足りない。



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ロッキード疑獄
角栄ヲ葬リ巨悪ヲ逃ス
春名 幹男 著
KADOKAWA
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聴くバッハ、そして観るバッハ (大塚直哉レクチャー・コンサート) [コンサート]

古楽ファンにとっては、NHK-FM「古楽の楽しみ」案内役としてもおなじみの大塚直哉さんが、2018年以来続けているレクチャー・コンサート。「オルガンとチェンバロで聴き比べるバッハの“平均律”」と題して、バッハの“平均律”のプレリュードとフーガを1曲ずつ取り上げて、オルガンとチェンバロで弾き比べてみようというシリーズ。

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もともとは、ホール備え付けのポジティブオルガンを体験してみようという企画から始まったそうだ。オルガンは埼玉県の所有。聴いたり、実際に触ったりという体験プロジェクトから、それではチェンバロと聴き較べてみたらどうだろうということから、このシリーズは始まったそうだ。

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実際に聴いてみると、チェンバロとはずいぶんと印象が違う。減衰楽器のチェンバロは音の弾ける頭でリズミカルに折り重ねられていくステッチ刺繍だとすれば、オルガンは音が持続していてくっきりとしていて色鮮やかな面を織りなす染め物ということでしょうか。

この日は、ゲストに映像作家の大西景太さんを迎えて、バッハの音楽の視覚的な観点をめぐるお話し。実際に、大西さんの動画画像を紹介しながらの、とても興味深いお話しでした。最後には、大西さんと大塚さんとご一緒にその場で即興の画像を実演してみせてくれました。

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音楽(聴覚)と画像(視覚)とは、とても密接な関係があります。

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バッハの自筆楽譜は、目で見てもとても美しい。“平均律”の自筆楽譜の表紙は、バッハ自身による装飾的な文字が大きく描かれていて、これ自体が何か音律的な本質を視覚的に表現しているかのよう。

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イザベル・ファウストは、無伴奏ヴィオリンの演奏では自筆譜を譜面台に置いて演奏していましたが、それは譜面からその瞬間瞬間のインスピレーションを得るためだと語っていました。なるほど自筆譜を観ると、16分、32分の符尾(はた)の縞帯は大きくうねっていてフレージングの何かを示しているかのよう。音楽は、明らかに視覚的なイメージを持っているのです。

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クレーは、音楽が好きで、その作品には多くの音楽的イメージが描かれています。様々な形のモチーフが入れ替わり立ち替わり模倣されて追いかけていき折り重ねられていく。そういうイメージを見事に描いた作品もあります。

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エッシャーは独特の回帰パターンを描いていますが、確かにバッハの音楽は輪廻転生、回帰的な円環をイメージさせます。その円環は単にひとつではなく、ある共通の中心を持ったもので、大塚さんによれば、その同心円の中心がゆっくりと揺れている感覚があると言っていました。

大西さんの作品は、NHKの「名曲アルバム」でも紹介されています。

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その作品のいくつかが、ステージ後方のスクリーンに映し出されましたが、動画だけに音楽の基本構造や仕掛けがよくわかります。特に、譜面で観ただけではなかなか理解しにくい、反行や逆行のカノンも面白いほどにその技巧が直観的に理解できます。極めつきは、鏡写しのカノン。これにはあっと息を呑んだほど。下降していくコード進行に上声が彩りをつける対位法も音楽に合わせた動画で観ると、全身の律動を誘ってとても心地よい。

お二人のこんな対談を聞いた後の後半。3つのテーマが絡み合う嬰ヘ短調のフーガのロマンチックな側面がひときわ情緒的に伝わってくるし、動きの速いト長調もなおいっそう心が躍動することが不思議です。バッハには、楽譜を見ながら聴くと不思議なほど楽しさが増しますが、その延長上にアニメーションがあるようです。トリルの動きなんて思わず笑ってしまうほど。

最後にアンコールとして、ステージ上のワークステーションで大塚さんの演奏に合わせた即興動画まで披露されました。テーマやモチーフをあらかじめモジュールとして制作し登録しておき、譜面を見ながら演奏のタイミングに合わせて画面上に起動展開させていく。メーキングの現場のような面白さもあって、会場中が沸き返りました。



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大塚直哉レクチャー・コンサート
 オルガンとチェンバロで聴き比べるバッハの“平均律”
Vol.6 聴くバッハ、そして観るバッハ
2021年7月11日(日)14:00~
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール
(2階 SL列12番)

J. S. バッハ:《平均律クラヴィーア曲集第2巻》より
 第17番変イ長調BWV886
 第18番嬰ト短調BWV887
 第13番嬰ヘ長調BWV882
 
【対談】聴くバッハ、そして観るバッハ 大西景太&大塚直哉

 第14番嬰ヘ短調BWV883
 第15番ト長調BWV884
 第16番ト短調BWV885

【アンコール】
即興演奏(映像とポジティフ・オルガンによる)
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パワーアンプにもマイカコン [オーディオ]

プリアンプ用のLCMキャパシタ回路にSEコンデンサを使ってみたら大成功でした。

これに気をよくして、パワーアンプのバッテリー電源にもマイカコンデンサを導入してみました。

SEコンデンサは、生産中止となり、手元のものはプリに使ってしまいましたが、SPEC社が高品質マイカコンデンサの生産を復活させていることを知りました。
https://www.spec-corp.co.jp/audio/MC-DA/index.html

SEコンデンサと同じ、インドのルビーマイカを使用しています。

SPEC社のHPには、「大容量・高耐圧のマイカコンデンサーは、70~80年代にその優れた音質で一時脚光を浴びたもの、四半世紀もの間オーディオ部品市場から姿を消していた大変貴重なもので、その復活はオーディオファン特に真空管アンプファンにとってはまさに待望の出来事」とあります。

さっそく若松通商の通販で入手し、パワーアンプにも換装しました。

その効果は、もう、バンザイと叫ぶしかありません。

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アンプは、2ウェイマルチなのでステレオ2台。合計4基のコンデンサが必要となります。アンプ1台ずつ換えていったので一気に激変というわけではありませんでした。しかも、かなりエージングに時間がかかるようで、本領発揮を実感するまでにアンプそれぞれ2段階、2週間以上かかりました。

ですから、じわじわと歓喜がこみ上げてきたのは1ヶ月近く経ってから。


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高域の色気にはもうメロメロ。それが時としてとてつもない力強さにもなる。ブラスの輝かしい吹き上がりには陶然。フルオーケストラ全強奏でもあらゆる楽器が埋もれることなく聞こえる。まとわりついていたものが完璧に取り払われたということが全帯域に及び、低音楽器が各段にクリアになりました。ごくごく絞った小さな音量でも、音像はくっきりと浮かび上がります。特に、目を瞠るのはピアノの音色と響き。まるで目の間に楽器があるようなリアルな実在感で、楽器や演奏者の個性が鮮やか。

録音の良し悪しが聞こえ過ぎてしまうというところはありますが、60~70年代のアナログ録音の音の濃密さみたいなものがむしろ引き立ってくることは望外の喜び。やはり、いろいろなことに、パワーアンプの電源特性が最後のネックとなっていたと納得です。

思い切って投資してみてよかったと大満足です。
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