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「尊皇攘夷」(片山杜秀 著) [読書]

これは政治思想史の快作、会心の書。

選書としては厚手の大部で通読には多少の骨は必要。だが、著者は独特の語り口で読ませてしまう。江戸から幕末にかけてという時代の、ありとあらゆる史実の雑多な切片が逆巻き、浮遊し、ぶつかり合う激しい歴史の嵐の混沌。その真っ只中を駆け抜けたような爽快な読後感がある。

「尊皇攘夷」とは、現代の日本人誰もが知る歴史的常套句でありながら、実のところ、私たちは何もわかっていない。そこに秘められた狂信的で原理主義的なエネルギーは、明治維新を成し遂げたパトスとなった一方で、破滅的で暴発的な側面も同時に秘めていたからこそ怖れられ封印されたということだろう。だから、表だって公に教えられることがなかった。しかし、その精神構造は日本の近代国家の深層心理のマグマとしてしばしば政治の表舞台に噴出した。そのことをこれほど徹底して解き明かしたのは本書が初めてなのではないだろうか。

水戸学の通史は、実にどろどろと人間臭く、二重に血なまぐさい。二重の血の臭いとは、ひとつは血統であり、もうひとつは文字通り流血の臭いだ。

水戸学の起源は水戸光圀にある。光圀の動機は、自らの出自にあったという。光圀の出生は、正妻どころか妾の腹でもなかった。父の頼房が奥付きの老女の娘に手をつけて孕ませた子。家臣が、堕胎せよとの主命に背いてまでかくまって生ませた子。しかも、光圀には同じ運命の同腹の兄がいた。それが経緯不明のまま先に認知され世子となり、ついには実兄を差し置いて当主を継ぐことになる。それが光圀にとって負担となった。非行を重ねた後に、儒学的な原理主義に走らせることになる。万世一系の皇統に絶対的価値を見いだす「尊皇」思想は、ここから生まれる。

水戸学を、さらに狂信的な思想にまで純化させたのは斉昭だ。彼も、継嗣血統の正統に苦しむ。藩主を継いだ長兄・斉脩が子を成さぬまま病死、長く部屋住みで他家へ養子に行くことなく残っていた斉昭が、家中の大騒動の末に当主を継いだからだ。

「尊皇」に「攘夷」を結合させたのは、その斉昭の時代だった。万世一系の皇統をいただく日本は世界に希な国柄であり、その頃から近海に出没することになった外敵に侵犯されることから守り抜くことが尊皇そのものとなる。幕藩体制下の領主分国には、皇国日本を専守するという意識がない。「尊皇攘夷」は、外敵侵犯への危機感から、南北朝時代の天皇親政の再現を目指すことになる。いわば総力戦・国家総動員の発想と言える。その論理に鮮烈なまでに感化されたのが吉田松陰であり、やがて遠く長州藩が「尊皇攘夷」のセンターとなっていく。

本書のクライマックスは、後半の天狗党の興亡と、水戸家そのものの、文字通り血で血を洗う内部抗争と自壊の過程だ。

「攘夷」とは、斉昭にとってはすなわち軍備増強そのものだった。ただでさえ小藩の「持たざる藩」だったにもかかわらず副将軍の格式を支えてきた藩財政は常に困窮していた。そこに大砲鋳造やら外船建造などの軍備拡張に邁進する。国民皆兵的な身分を超えた登用も強行する。それがやがて天狗党の中核を成していく。そのことが藩内守旧派の憎悪を高めていく。

斉昭にも、自らの藩主継嗣に反対した守旧派家臣への遺恨があった。彼らを藩政から遠ざけたことも、斉昭派、すなわち、水戸学派との対立分断を深めた。安政の大獄など幕閣との対立と斉昭の死は、いよいよ水戸藩内部の抗争を統制不能の状態へと陥れていく。尊王攘夷も左派右派への分裂や過激派ともいうべき天狗党の蹶起など四分五裂の状態となり、終には水戸城下を実力で実効支配した守旧派(諸生党)の復讐が始まる。

諸生党鎮撫に向かった藩主慶篤の名代の宍戸藩主松平頼徳の軍と那珂湊で壮絶な砲撃戦を交わす。その頼徳は、奸計に遭って捉えられ何と幕命により切腹となる。江戸時代、切腹となった大名は赤穂・浅野内匠頭ほか五指で数えられるほど少ないが頼徳はその最後の大名となった。諸士が取り囲み見物するなかで介錯もなく悶え死んだというから、この争乱の血なまぐさ残虐性が見えてくる。この戦闘の虎口を脱した天狗党一派は、一路京都を目指すが、かつてスターと仰いだ一橋慶喜が自ら率いる掃討軍に直面し、絶望壊滅する。天狗党の斬首には、彦根藩士が志願し主君・直弼の恨みを晴らしたという。

水戸藩内紛の悲劇は、戊辰戦争以上のものがある。忠義大義の核心を失えば内戦は際限なく続く。幕末維新の内戦崩壊の危機を最後に止めたのも「尊皇攘夷」だ。国防という「攘夷」が暴走を始めれば内紛と亡国に至るが、それを最後の最後で鎮めるのも「尊皇」だということなのだろう。「尊皇攘夷」発祥の水戸ではそうならなかった。

錦の御旗を見て、一転して抵抗を止め恭順した慶喜はそのことを水戸の惨状を通じて見通していたのかもしれない。

戦争へ戦争へと日本を駆り立て、最後の最後まで本土決戦・徹底抗戦を叫んだ軍部が一夜にして自ら粛々と武装解除したのも、同じ精神構造だったように思えてくる。

徳川慶喜は、長寿だった。明治41年、明治天皇自ら慶喜に勲一等旭日大綬章を賜っている。大政奉還こそが明治維新を確立したとその功を顕彰するものだった。



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尊皇攘夷
水戸学の四百年
片山杜秀 著
新潮選書

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